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ひとり・少数ならあっても、全体は思い通りに平等にならない [平等]

ある時、急に突然、運がよくなって

いる、と気がつく時だあるものだ。

目の前が、それで開けるという空気

の感覚が広がる。

信じられない、昨日までの陰鬱な

どうにもならない閉塞が破れたのだ。

と言っても、窓の外は曇り空の重さ

でシン、としているが、・・。

これはいつだったかの近い過去の

自分が用意したものだと信じられる

だろうか。僕があいまいな未来感覚に

頼らずに、考えてみると、そうなる。

考えてそうなるは、「想像上のこと」

だと、だから事実は違うと人は思う

だろう。それが違うのだ。

それは人は自分が考える、それは同じ

だが、自己の意思がまったく働かない

で思考する時には、自然を捉えること

が出来る。なぜなら、そこにはこう

なりたいとか、こうありたいという、

思考の方向が歪んで左右してしまう

伝統的で習慣化した過去の要素がない

からだ。ただありのままを自分(精神)

に投影するから。

それが目の前を見る、というほんとう

の意味だが、僕らから自己という先入

見の眼のベールを取り払うのは難しい

らしい。自分からの方向から考えると

いう教育・習慣・世間で暮らし生きて

きて、それは僕らも無意識な掟にも

なっているからだろう。



自己を失うのは、厳密には不可能だが、

ブッダはそれに挑んだ。彼の死の数百

年後に仏教は体系化されて、ブッダの

成果はその陰に隠されてしまったが、

正しく見て、正しく考える、といった

言葉だけになってしまったものは、

それを示している。

ブッダの考えを古仏典に求めると、

死の思想に集約される。それは僕ら

の生の状態・状況を見るとはそれを

客観化するということで、生ではなく

死の側に立って、それを眺めること

を意味している。生のしがらみ・

こだわりを超えて眺めるのだから、

あらゆる先入見なしに観ることに

なるので、ほぼ僕らに可能な真実

に近い姿が捉えられることになる。



その意味では成功に値するのだが、

その過程では死の側に慣れるまでは

精神的に危険な状態に陥るのは常識

・常態だろうと思う。瞑想でも、初め

はそのしがらみ(過去)が自分を苦し

めることはあるので、それは瞑想での

最初の難関門として構えているだろう。



死の側に坐るというのは、徹底的に

孤独に留まるを意味するから、よほど

の事情が個人的に発生しない限り、

死の仏教には惹かれないはずだ。

首吊りをしようとして縄が切れて、

それを二度も失敗して、死に損なった

上田三四二は空海にも同じようなこ

とがあったと思い(これは調べて

みたが、不詳)、僧職の人に頼み

込んで、特別に仏教徒の修行をさせ

てもらい、のちに学者になった。



修行者は当然、(自分の)死をなん

とも思わなくなるから、断食死も

怖いということはない。死にたく

なったり、消極的にも死んでもいい

と思うのは当たり前になる。

それが過剰になると、大した理由

でなくても死を受け入れてしまう

だろう。これが世間で仏教の洗礼

や瞑想を避けたいと思う自然な生

の感情からなのだと思う。

この場合は例えば、ギリシヤの

パルテノン神殿の柱は数ミリの

ふくらみ(エンタシス)がある

と学校で習ったが、それは人間

の眼は垂直線の柱は少し真ん中

が凹むように見えるという錯覚

を矯正するために技術的に膨らみ

を持たせた、ということだが、

ただ子供のように見る眼を持てば、

それが錯覚の知識なしに見ること

になる。

ありのままというのはそういうこ

とだが、これは見るについてであり、

(それができる)一部の画家の目

を持つことでもあり、目の訓練で

も適えられる。



自分で自分の人生を築き、構成する

という絵空事のようなことを本当に

実行するということが信じられる

ようになるのは、その先にある。

それは現実の壁を許容範囲に入れる

のはもちろんだが、それは普段の

日常では恐れる究極である死を受け

入れている状態では難しいことで

はないのだ。

だから、例え、あばら家でも気にし

ないのだ。僕らの文明・文化の生活

水準は必ずしも必要不可欠なもので

はないだろう。見えるもの・感じる

ものが違うので、そもそもからそこ

から導かれる考え方は僕らと相当

異なるだろう。

それは僕らが共同地域や社会内で

いろいろな知識と考え方が人次第

で違うのと同じくらいに自然だ。

その点からは、僕らが平等を求める

と言っても、それが経済格差のこと

という一部に限っても、その実現は

お互いの感情や感覚・考え方によっ

て矯正されるという人権の尊厳を脅か

す問題だから、人間の平等というのは

そもそもが矛盾した命題・問題なの

だろう。


それは全体を平等にという考えが、

つまりは自由や平和にとってそれを

それぞれに脅かす、自由の制限や

平和を崩壊させる危険をもたらす

考え方(方向)だということだ。

もっと言えば、よくよく論を凝らす

と、自由と平和と平等というフランス

革命の命題は、それぞれ良いとこ取り

で、それぞれの犠牲がそれなりになけ

れば成り立たないものなのだ。

表向きの概念だけ善いものとして喧伝・

教育しても内容は詳しくは矛盾し合っ

ているという欠点がらみのもの同士な

のだ。

だから、欧州の憲法は自由・平等・平和

が目的ならひとつに決まり、それを維持

すればよさそうなものだが、実際には

何度も憲法改正するほどに変更が必要

だった。

三角の積み木で正球を組むようなもので、

あちこち妥協しなければならないのだ。

僕らはこうして、初めから解決できない

命題を標榜して、アインシュタインの

特殊相対性理論の数式のようにE=mc²

という美しい式を目指しても、それは

自然に絶えず変更を迫られている。

アインシュタインも量子力学を虚妄

だと考えたので、晩年は統一理論を

追及して考えたが、できなかった。



自然という全体はひとつだが、その

内容はそれぞれが矛盾してしまう

もので出来上がっている。細かい

部分での単一式はあるが、それも

時限的でいつかは崩れる。

僕らの空気圧も水も地球の成分

構成も時間をおいて変遷する。

その時代時代での自然に対応する

数式を必要とする。

恐竜時代の地球は現在とはかなり

異なっていたはずだ。



僕らの社会の憲法が変遷するなどは

常識として教えられなければならな

いだろう。僕らは全体の平等ではなく、

徹底して不平等の実態を探り、目に

見える化すべきだろう。そういう

大図面の、改革できない不平等構図

から出発して、それを眺めることで、

僕らが人によって(程度があるが)

求めるべきと、求めてはいけない

ものとの区別の認識が、まず必要だ。

その上で憲法にしろ、法律にしろ、

生活にしろ、政治と経済との按配も

し、安心安全の公私にわたっての

工夫も考えだすべきだろう。

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