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心の掃除と楽しみ [掃除]

深夜はとくに冷えるようだ。

徒然なるままにの心境がますます

深まるように冷えゆく気がする。

雪が降ったかのように、空気が

シンとしている。

その中には孤独ということが

よく当て嵌まっている気がするが、

残念なことに一般の孤独にはなれ

ない。人との隔絶感、社会との疎遠、

家族との断絶、友人・恋人との些細

なトラブルの遮蔽感、そんなつらさ

をいうのだろうが、それは自分との

不適応によって起こっている。自分

が外の世界に対して起こしている

もので、本人は自分が責められて

いる気がしているが、村八分にし

ても本人が村の掟を破った罰だろ

うに。

僕らは常にお互いに理解し合って

いるが、期待と効果、またその需要

(要望)と供給(褒美)は釣り合っ

ているのではない。期待の割に効果

が得られないのは、期待が強いほど

には的を得ていない営業や誘いである

のだろう。強さも大きさもそれぞれ

の知識や価値観・そのものへの基準が

異なっていて、うまく嚙み合ってい

ない。理解しやすいのは、その点に

ついてのお互いの気持ちの表れであ

って、さすればさらに交渉なり検討

なりが必要になる。

気持ちだけではダメというのは、

気持ちが必要だが、十分ではないと

言っている。細かく言うと、大きな

カテゴリーで何を理解していないか

はお互いに分かるものだ。

そうではなく、その中でなにをどの

程度理解しているか、どの部分の理解

が足りているか足りていないか、それ

を自分と相手との差で見分けること

が必要になる。

そういうことだから、その場の人間

関係というのは半無限大にそれぞれ

の人ごとに異なっている。そこで

お互いに理解不足なのが出発点だ

から、はじめからこれはわかっている

だろうと相手に期待するのは、実は

無理なことに入る。

そこで礼儀を弁えて余計な摩擦を

起こさずに、話し始めるのが第一段階

ということになる。

いつもいい加減な会話で済ませること

ができるから、大切なことを伝えたり、

理解が必要だったりすると、そこも

いい加減に済まそうという癖が出る。

言ったじゃない(私の意味で)、言っ

てることが違うじゃない(あなたの

意味では)というすれ違いも起きる。

そうそう大切なことはないので、

普段通りの習慣でいい加減なお喋り

流に話してしまうのが、誤解の基に

なっている。

だから、大抵の人は手紙を書くのは

嫌がるものだ。時間がかかる。字に

すると意味が決定されやすいから、

いい加減に書けない。メールでも

挨拶や連絡ぐらいで、大切な内容は

手紙と同じで伝えにくいだろう。


僕らには「話せばわかる」という

言葉があるが、それはまず相手が

聞く耳を持っているかが重要だ。

そういういろいろな事情で、お互い

というものは誤解しやすいのが、

現実の現状というものだ。そこで

当たり前に常識での理解を前提に

して相手に期待することが、まず

期待できないことを知ることだろう。

ここで言うと、僕らの常識はあなた

たちの常識ではないし、微妙にも

大きくも食い違っているかもしれない。

私の言葉はあなたの理解している

言葉ではないのが、まず前提に検討

を加えて考えねばならないことだと

思える。


だから、僕にとって人はいつもそこ

にいる。いても理解には程遠い。

挨拶して、差し障りのない会話で

笑えばそれでいい。理解し合えない

ことで、寂しさを感じる必要はない

のだ。テーマが複雑で重要になった

時に慎重さが要るだろう。

その気持ちの分け方ができていれば、

あとは理解の不足をどう埋めるか

だけで、じっと状況を見て、考えず、

何が起きていたかを見て取るだけで

いいだろう。

もう解決の方向に進んでいるのだから、

孤独にはなりようがない。


しかし、孤独感がないにせよ、まだ

嫌なことは残っている。退屈という

やつだ。楽しいことを探すのは、スト

レスからだろう。そのストレスを見つ

けるまでは楽しさに惹かれる。落ち

着かない。食べたり、飲んだり、

トイレに行かなくていいか、などと

余分な用事を作り出そうとする。

いい加減な処で妥協することも多い

が、それは先延ばしにしただけな

ので、いずれ片づけなければならな

い。これは何をしているのか。どん

な意味があるのか。


心の掃除である。そういう小さなごみ

を心に残して増やしても、見えないが

確実にものごとは見えにくくなる、と

僕はそう見ている。フロントガラスを

磨くようなものだ。視界が悪ければ

事故も起きる。理解力も鈍る。

見たくないものもよく見て見切って、

そこを見ないように塞ぐこともない。

車ならわかりやすいが、心は見えない

から掃除は怠りやすい。

自分の内に腐ったもの、臭いものを

見切らないうちは、他人や社会を非難

するのはた易い。それらはわかれば、

自分への非難に変わって、自己嫌悪に

なって戻って来る。

自己嫌悪するほど自分を見切って、

それを正しく認めれば、やがて自分

をも人を好きになるように好きになる。

これはわがままな自分を甘やかして

好きだというのではない。

だから、自分を理解した分だけ、人を

理解できるのだということも、あな

がち間違いではない気がする。



こうして夜長に書いていると、あっ

という間に1時間も2時間も過ぎて

いる。退屈させないために書いて

いるのかもしれないな。

ともかく書いていて、途中で何を

書いてこうなったのかが、わから

なくなる時がある。

ともかく書いてしまって、あとで

読み返してなにを書いたのか、

半ば反芻してみよう。


で、

― また楽しからずや。


室町時代であっても、夜の空気に

「室町時代何年目」とか書いては

いなかっただろう。今夜は、しかし、

そんな室町の夜と同じなのかもしれ

ない。たまには室町の空気を嗅いだ

ほうがいいのではないか。


で、

― また楽しからずや。







         1.30 少し 2.4
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