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黒いヒントである混沌の鏡 [寓意]

<表があって、裏がない物質はないだろう。 

裏があって、観念に隠れてしまう心はない  

だろうか。あれば、それが黒いヒントを醸し  

出すのだろう>



トンネルを抜け出ると、雪国だったというのは  

寓意だ。トンネル内は真っ暗で、外は見えない  

というはっきりした事象は見せないだろう。  

(これは記事ではなく、全部が寓意として書かれた)

逆だろう、というのが僕の今の着地(着知)だ。 


トンネル内で雪国を見させられたが、それは

苦痛と悲哀のオンパレードが半分以上。 

それでも夢に似せて、甘いカバーが白く  

硬化してかけられていた。しかし、それを  

見続けることが僕の防御にも武器にもなった、  

と思う。

トンネルを出ると、何も見えなくなったからだ。 

そこは内側からは外だが、うちを外だと思って  

いたから、外に出て何も見渡せなくなるのは  

想像外だったのだ。  山でも自分が歓迎されて  

いないと思うことはある。すぐに下山すればいい  

のだが、なかなか最初はそれが信じられなくて  

登ってみようとするものだ。  

僕は回復しようとしていた。そして、それはその  

まま謎になることだった。相手にも謎を与える  

義務が生じると、自分がほんものの謎になるという  

必要が生じたわけだ。こういう言い方が卑怯だと  

僕は感じていながら、承知して言っている。

これは何を言っているのだろう?謎を解いたら、  

謎は謎でなくなり、秘密があったとしたら、それ  

も白日の下になり、秘密ではなくなる、そんな  

謎は謎ではない。謎はコントロールできないが、 

知としてではなく、謎として謎のままコントロール  

することはできる。頭が混乱するだろうが、精神  

は地平にあるはずだ。それを目指してもらいたい。  

今は少しの光だが、何の希望でもない。増幅して  

はいけない光、パンドラの箱もあるように、また逆  

にパンドラを消滅させて、それによってなにが  

現れるかわからない、という反面の鏡でもある。  

僕はわかりやすく言いたいほうだ。難しく、  

持って回って言うには向いていない性格だ。 

だから、僕が語らなかったことに注目して  

もらいたい、というのがこのことなのだ。それ  

が勿体ぶって終わってしまう、このことなのだ。  


わからないことは、わかっていることで済む  

ように見せかけたり、解決したように装うという    

間違えた方法で、間違えた答えと知りながら  

冤罪やなすりつけや偽証でまとめてしまおう  

とするのが、僕らの恐怖のいつもの総括という  

やつだ。恐怖に見舞われていると知っている  

者は少ないし、あとは群集心理のお手本に  

なるばかりだ。誰が恐怖と渡り合うだろう。 



自分がわかっていることと思うすべてを信じ  

ないということが、可能だろうか。自分には  

これが人生で間違いのない真実・信条・ 

信念というものがある、とそして、そんなもの  

はないと言えるだろうか。ここだ。ここまでの  

僕の言い方をなにか逆説を隠していると  

指摘するべきだろうか。ゲームはルールに  

基づいて僕らの趣向に従って方向が決まって  

いる。途中までしか勝てないゲームだとか、  

初めから最後まで勝ち続けるゲームという  

のはこれからも作られることはない。それは  

どうしてか。  

ルールのないゲームにルールを持ち込んだ  

のは僕らだが、それではこの世にルールが  

ないことになる。ないと知りながら、ルールを  

作るのは矛盾だから、ルールがこの世を  

知ることになると思ったに違いない。  

そして、ルールがそれを守ると同時にそれ  

だけでは不足になり、その症状がまた生活  

と社会が変わるたびにルールは追いつか  

ないのを見ている。 

そして、いつもルールがあるほうが縛られて  

いるように感じ、神経を使うことにもなる。  

ルールは生きていないから、それ自身では  

変われない。   

僕らは生きていて、それを包括して、生きた  

人間ルールに変更したり、統括したりできない。  

成文とか、スィッチとか、形を変えるか、削除  

したり、追加したりして、ルールと共に長年、  

知識が過剰に増大する。  

つまり、ボタンはかけ違いしているが、その  

是正する方法は、今までまったく見当がつい  

ていない。  

トンネルは恐ろしい生産力で造られ続け、どこ  

までもあるはずのない雪国の夢のカモフラージュ 

を、いつまでも見させている。 

僕は列車の車窓から、自分が止めるのも聞かず  

顔を出して、どうも首から上を失くしてしまった  

ようだ。体は首から上の記憶や感覚が残っていて  

車内に体を戻しても、真っ暗で何も見えなくなった  

だけ、そして、雪国が存在していないことが  

なんとなく感じられるのだ。  

それが混沌であるなら、それが言葉ではなんと  

でも好きなことが言える、というのは過去から  

しか物事を組み立てられない、ということだ。  

まるで、宇宙船からスパナを落として、宇宙(謎) 

の底に落ちた時の跳ね返った金属音を聴こうと、  

耳を傾けているようだ。  

どうやってスパナを落とすか、それが問題だ、と 

考え続けている。それは永遠に剥きつづけること  

ができるラッキョウの皮だと思うんだが、 ・・・・。

今は別なことが必要だと、考えている。 

(0:00)

答えは出ている。それを素直に認めることが  

できれば、何をすればいいのか、自然に解(わ)

かる。

今。23:35だ。この23時間で何があったのか? 

答えは出ている。なぜ?

なぜ、わかったのか?  

それは僕らが想像するような、単に混沌ではない  

のだろう。     それは    

存在している     から。


ならば、存在は混沌としている、混沌だと結論する  

ことは、何の意味もないし、何も位置づけない。もう、 

答えはそこにあるのだから。向日葵が眼の前にある 

なら、ヒマワリが存在すると言って済まさない。よく  

見ようとするはずだ。すべての答えだけでは肝心の  

僕らを解決しないから。

(翌0:00) ちょうど、24時間。
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