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人間の直観と犬猫のロマン [直観]

直観と直感との違いについて、私見だが

気がついた処を書いておこうと思う。

これも心の状態なので、直観そのもの

という実態も、また直感も単体で存在し

たり、発露したりすることはないだろう。

必ず、半直感的・半直観的とが複合して

現れるものだと思う。

しかし、僕らの知性の役目は現実では

なく、頭の中を図式化・概念化するの

が仕事だから、区別するのである。

その伝でいくと、直感は主に勘のいい

とか勘の鈍いとかいう、「勘」に近い

ものをいうようだ。ピンとくるのが

直感。

そして、直観には構図があって、その

物事についての経験・知識がふつうより

も多過ぎて、いちいち覚えていられない

ぐらいだが、或る集中した瞬間や緊張した

瞬間にその情報の欲しい部分がピンポイ

ントで得られる力が直観に類すること

だろう。これは将棋のプロを見れば、

わかりやすい。彼らは長考するが、その

最初の一手は僕らが考える一手よりも

相当先の一手であり、彼らにはもう

考える必要がないのだ。もう何万手も

そういう場面を指して来ているので、

考えなくても、その経過は百手近く

省略することができる。

よく引き合いに出すのは過去の大山

名人が帰る時にコートを取りに来た

座敷で若手が対局していたが、その

盤面をちらっと見て、コートを取り

帰ろうとする時に(例えば、)「それ

三5角で詰みだ」と言ったいうエピ

ソードだ。

若手だって巷の将棋の天才として

棋院にやって来て試験に合格して

いるから、並ではない。その彼らが

発見していない詰み手をほんの数秒

で見つけてしまう。これが直観という

積み上げた知識が無意識のバックに

あるという例だと思う。

なので、この直観はかなりあてになるが、

直感はその裏付けが十分ではない場合も

あるので、当たるも八卦、当たらぬも

八卦となってしまい、勘に頼って失敗

した例は多い。経験と知識がモノ言う

世界だ。

純粋な直感も、純粋な直観もないだろう、

というのはそういうことをいう。なんの

知識もなくて直感を働かせるというのは

現実にあり得ない。

直観がずばり当てるのは不思議だが、

大抵はそれを発揮した自分も驚いている。

僕らは無意識を意識できないからだろう。


そうすると、昔から言われる「一を聞いて

十を知る」ということは、直観のことを

指して言っているのだろう、と想像がつく。

現実でそれを厳密には区別できないから、

一を聞いて、五を知ったのか百を知った

のかは、わからない。教訓の話は例えの

話であることが多い。

しかし、動物的な直感もあるから、人間の

知識の幅を越えてしまうと、世界が広がり

過ぎて、わけのわからない範囲にまで及ん

で、話はまとまらなくなる。


ここからロマン主義についてどのくらい

だろうか、10分?20分?その間くらいか。

考えはまとまったが、「いやらしくて」

書く気が失せた。

18世紀の「赤と黒」を書いた知事のスタン

ダール。牢内のマルキ・ド・サド。マルキ

は侯爵をいうものだと。フランス革命を

経て、フランスは愛・自由・平等を旗印

に掲げた。愛も自由も平等も多くの矛盾

を孕んでいる。

しかし、ロマンには永遠の隠し味が含まれ

るので、美しい花が咲くという錯覚に包ま

れたまま今日につながった。

一休さんも晩年まで盲の尼僧との愛欲生活

を綴り、妄執と無欲の(むしろ狂気じみた)

バランスを取ろうとした、という。

一人一人の生活においてはロマンは未だに

解決できない体の主軸を保っているらしい。


オスの犬は生涯にメスと出会えることは

ほぼない。メス猫は1年目に近く去勢手術

を受ける。人間に飼われる家畜にはロマン

は絶望的になさそうだ。子犬・子猫は

商売人の優良?ブリーダーによって生産

されている。

人間バンザイ!という漫画を鉄腕アトムの

手塚治虫も描いていたニャー。ワン(うん)。
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