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イエスでもノーでも、それは答えではない [イエス]

来る者は拒まず、依頼される仕事も拒まず、 

思うようになる、というのはまったく見事な矛盾じゃ 

ないか、と思う。自分の意志を行使しないで、 

自分の思い通りになんかできない。それが 

常識、とか良識、当たり前の論理だろう。 

僕はそのしのぎに遭っていた。仕事は 

できる限りは、無理なければ、多少無理か、 

と、が、やってみなくてはわからない、という 

その程度なら、仕事を引き受けた。 

とんでもなかった。家に辿り着けるかくらいに、 

背中と腰に来た。それでも引き受けた。

休日は4日取ってあったから、そこまで耐えれば 

どうにかなる、と思ったからだ。  

体も慣れてきて、昨日あたりから、ただ疲れて帰り道を、 

という感じに変わってきた。足を止めたらもう歩くのが 

嫌になるだろうから、帰れなくなる、という極度な疲労は 

峠を越えたらしく、それに懲りて、最近は自転車を駅に 

停めている。途中で買い物もしたくなかったのも、今では 

買い物をしてくるくらいに余裕だ。そして、目いっぱい 

入った最近の仕事が3日と2日で、5日間増えたのが、 

急遽、相手の気が変わってキャンセルになった。 

これなら数日の仕事が追加しても余裕だった。 

そして、また僕が直接になにもしなくても、流れが 

僕を休ませる。僕ができるなら、仕事が来る。 

できないなら、こうやってキャンセルされる。だから、 

自分からは動かなくていい。そんなバカな話は、と 

思うだろうが、運命の船に乗るとこれが当たり前に 

思える。なぜか、と問うことが愚かしくさえ思える。 

という不思議さなのだ。  

まったく山の教訓通りに生きるとは、そこまでバランス

力(りょく)があるとは想像もしていなかったが、様々な 

運命パターンの、それほどいいとは言えないパターンが 

今のものなのだ。思い通りになりながら、これがベスト 

ではない。凄いのは、そういうことが前もって、わかる 

ことだ。教訓はこういうことだ、逆らってもいいが、それは 

散々やってきた。損ばかりだった。この運命をうまく使う 

には、うまい従い方がある。向き合うことだ。あのマザー・ 

テレサのように現実の事実から目を離さないことだ。 

嘘の勇気や、体裁で、自分の恐れを隠そうとしないことだ。 

と言っても、それができれば、もう半分人生に勝利したも 

同じだ。人によってそれぞれ、何に勝ちたいかが違う。 

僕が勝ったものに縁がなければ、それに価値を見出さ 

ない人はいるだろう。

しかし、僕は大きなパターンを掴んでいる。雑多なもの 

ではない、人の生き方が集約された、ある一つの生き方、  

という。ここまでくると、悩みはもうすでにない。自分の 

バランスはほんとうにこれでいいのか、という迷いの 

選択が延々と続く限りだ。僕らは過去のパターンを 

辿ることはできない。だから、常に新しい事態を迎え、 

経験豊富でも迷わざるを得ない、そういう選択を迫られる。 

それは勝負や賭けの要素に雰囲気は似ている。が、 

いい加減な向き合い方さえしなければ、同じパターンに 

同流する。それがわかっているから、常にこれでいいか、と 

感覚的に尋ねるのだ。センスで決めるようなものだ。 

そして、常に合流して、古い自分は残り、新しく歩く、 

という感覚がある。それが実に深い喜びなのだ。 

なぜなら、そこに自分の人生という絵図ばかりでなく、 

自分が主人公であり、脇役であり、傍観者でもある、 

舞台の役者から、脚本から、演出までしているのが 

如実に感じる、わかるからだ。これほどに実人生を 

生きているという実感はない。人それぞれ違うだろうが、 

この実感は同じだろう。そういう体験は人を傲慢から  

解き放ち、しみじみと人間という不思議さを感じさせる。 

決して理解はさせない。そういう知的なものではなく、 

納得という心的な音楽、シンフォニーなのだ。そういう  

フィーリングでわかる(理解)のだ。

理屈では主観と客観が出会うとか、生と死は同じだとか、 

わかったように言えるが、やはり、違う。そういう小手先 

の知恵はいらない。 そういう不安は要らないのだ。 

不安がなければ、そういうことがわかる。ただただ眼の前 

のことに集中して生きていける。先のことを気にするのと、 

その仕事をするのにどんな準備が必要か、というのは

別々のことだ。5万もの選択肢が用意される未来に対して 

僕らは5万もの(実際には100万を超えるだろう)不確定 

なものに対応ができるはずがない。できる準備をする 

だけだ。 

その時に、夏の匂いを嗅ぐ。暑い草いきれという、野生 

の匂い。僕の血は騒ぎ、そこに進むべき何かが待っている、 

と自然に思う。それはすでに準備されていたように、それ 

こそが望んだものだと言わされてしまう、そういうものなのだ。 

僕の中から育ったものでありながら、僕の先を行く。だから、 

思わず、「君は」と言ってしまう、そういうものなのだ。区別が  

あって、区別できない、自分たちの個性。自由。  

皆が切れ切れなパターンを追いかけて、それが途中で  

千切れてしまう。自分の個性や自由を信じるのは、その 

通り、難しいことだ。まず、嫌いなことだからやらないという 

基本的な壁が立ちふさがる。すべてのことは、実際に 

やってみて決まる。人格や体を壊してしまうようなことは 

現実的な想像に任せる。それが働かせられる、最低限の 

経験をする。人殺しは問題外だが、しかし、その替わりに 

カエルを殺してみることはあるかもしれない。病気の 

人格でなければ、ふつうに悲しいはずだ。なんでもかんでも 

経験が絶対ではない。むしろ、ミケランジェロやダヴィンチの 

ように死体を解剖したほうが健康的だろう。 死はそうやって 

経験する必要がある。初めて解剖する医学生たちは 

非常に興奮する。それで冗談言いながら、笑って解剖して 

いる。奇妙な場面に見える。それが非常な緊張を示している。 

山でもそうだった。3000mくらいでも危険な岩場のルートを 

通って山を降りて松本まで来ると、皆興奮して、いろいろ 

しゃべりだした。僕にはその時、よくわからなかったが、一個の 

岩の両側は崖下100mとかという所で、鎖が一本渡してある 

だけだ。僕には庭だったが、彼らには大冒険だったのだ。死を 

今、感じていたのだろう、と。 僕まで心の秘密じみたことを話さ 

ないといけないのかな、とまでの彼らの興奮の話しぶり。 



なんか、 気分は  詩  なのだが、  

そこまでは  回復していない  

君が  ダンスに  誘って  

無理やり  リードするのは  

どうなんだろう、  

気持ちいい 半面、  うっとうしさも ある  

音楽に  似ている  

僕の  相性は   そういう感謝と  

リードされるのを  嫌う  

中途な 笑い顔に   あるようだ  

なんか  すっきりした主張を  したいと、  

そう 意固地に思ったのは   もう  

昔の ことに   なってしまった  

すべては  陶冶される  

僕らは  試され、  そこからでないと  

成長しない、  育たないように  

感じるのだ  

時には  思い切り  不機嫌になって  

それを  相手に  示すのだ  

面白いよ、  相手は  初めてで  

たぶん、  面食らう よ  

それで  離れる人は  放って  

おいて  かまわない  

やがて  戻るにしても、  

焦って  呼び戻さないほうが  いい
 

それは  自立の問題、だからだ  

なぜ   

僕らは  自立しなくては  いけないのか?  

イエス、か  ノー、というのは  

この 答えではない  

あなたが  問うようになるか

または

関心を  もたないか、  だからだ  

いずれ  選ぶだろう  





:::: 帰る場所は 空飛ぶ馬車の中 :::::


いいではないか  

この世は  ズルズル、だ  

心の  入れ替えが   必要だろうか?  

なにか  理解するとか、  めんどうだし  

この世は  からっぽ、 だ  

ひずみは  

辞書の たわみのように  

地層を 見えない力で  引っ張るだろう  

僕らの 弱さは  それを知っている  

知りながら   ひずみが 弾けるのを  

知らないふりで  

待っているから   

いいではないか  

この世は  あてにならない  

旅に出ても  

どこへ行っても  同じだ、 と  

思う  3ヵ月後の   馬車の中  

hizumi (2).jpg


リニアの次は  馬車に 

名前を  変えるらしい  

たぶん、

空も  飛べるのだろう  


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