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かっぱ橋道具街通りに行く [買物]

忘れていたのは、かっぱ(合羽)橋道具街

だった。昔から、行ってじっくり見て選び

たいと思っていた問屋街だ。

骨董市・見本市よりもふつうに道具として

の陶器を探すのが王道になるだろう。陶器

専門店が並んでいると聞いていたので、

湯呑を決めるために出かけた。8.23

9月に焼成が決まったので、現在完成

している湯呑陶器制作の第1号はまだ

なので、自分の湯呑は探すことにした。

ネットで候補を見ると、田原町駅で降りて

歩いて数分くらいにうまく並んでいた。

浅草本願寺の石碑での看板?が出てきた

が、地図では東本願寺。墓があるらしい。

浅草寺から少し離れる。

和の器「田窯」が初めに来た。

西浅草1-1.JPG

それらしい店構え。

西浅草2-1.JPG

西浅草3-1.JPG

当たり前にきれいな皿が並べられ、積まれて

いる。どれもよくできている。値段も手ごろ。

白い湯呑を見つけ、第1候補が決まった。

次に陶庵やぶきたに行く。

西浅草4-1.JPG

見た目からしてセンスがある店前。

ここでもこれかなというのはあったが、色はなん

だったか、希望したのではない。

もう一軒の陶器専門店で、白くて手ごろなのが

あった。田窯に戻って、2階に昇ると、ちょっと

値段高めの湯呑があった。いいが、コストが

かかる。


そして、今度は世界の食器を並べている店へ

寄ったが、なかった。客は飲食店関係なのか、

なかなか人がにぎわう。

そこで最後に、歩きながら目をつけていた

漆器の専門店に寄ってみた。来年は漆工芸

にも手を出してみるつもりだからだ。あとで

知ったが、縄文時代にも漆は生育に手間が

かかるのに栽培されていて、土器と漆器では

日本が最古らしい。自然に漆に行ったのは、

TVで海外から女性が漆器の留学?に来て

いたことがあり、帰国してから地元でその

魅力を語っていたことからだった。

すべては過去にある。そういうことだ。


その漆器店は交差点の向かいにあり、

「竹むら」といった。

少し早いが、ついでだ。鑑賞だけして

おこうと入ったのだが、ぐい飲みらしき

もあり、品数はないが、雑多に取り扱って

もいるようだ。2階は手打ちそばの道具

があるとか、ついでのついでだ、上がって

みる。狭い店なので、二階も狭い。誰も

いない。誰もいない海、違うか。

トワエモア、(古っ)もっと違う。

奥まで覗き見ると、広い重箱のようなのに、

三段重なって、押しやられているのを

見つけた。売れないものを片付けたのか、

とも思われた。一番上のを引き出そう

として、かなり重い。カチャカチャ音も

する。まま、ええや、と引き出す。雑多な

ものが入っていて、白い茶碗が見えた。

すっと奥に手を伸ばして、それを取って

みると、重さがピッタリくる。手に馴染む

のだ。

そして、眼の前に持ってきて、やや凸凹

の白磁の湯呑で大きさもいい。それで

決まってしまった。気に入れば、他に

考える必要もない。1個だけだが、階下

に持っていき、買うと、なんと290円

だった。田窯で選んだのは最低でも

1190円だったので、なんか市販品

だな、と思ったが、100円ショップで

は買えない白磁のよさがあった。

漆器の老舗なので、陶器には眼が

行かないのだろう。ひょんなことで

(しつこくもあるが)掘り出し物を掴んだ

ようだ。

お茶だけでなく、今はノン・アルでビール

を飲んでいる。

ノンアルと湯呑-1.JPG

ビールの泡で、まるで牛乳だ。


これでまたまた思ったが、先に選んだ湯呑

には小細工並みの芸術性があった。ちょっと

洒落てみたのだろう。しかし、選んだ湯呑は

そういう器用さがなく、どちらといえば素朴。

これでまたまた思ったのだったが、芸術に

価値はないな、と前々から思っていたことを

ほじくり返していた。芸術に値段はない、と

言うとわかりやすいだろう。しかし、それ

を深く紐解くと、価値がないという場所に

行き着く。

理屈が長くなるので、端折るが、価値という

ものの’ほんとう’は無価値なのだ。宇宙に

行くのに空気は価値があり、買って準備する

だろうが、地上にいて空気は買わない。

無価値だからだ。それと同じ理屈になる。

いや、私は芸術に惹かれ、価値を感じる、

お金を出してもいいと思っている、それは

そうだろう。

ここで問題にしているのは、そのことではない。

芸術というものの本質についてのことだ。

例えば、美というものを掴まえて、縛って

逃げないようにして、これが美の価値です、と

いうことができれば別だが、人によって美の

価値は異なる。千人千様の好みがある。ラメ

のキラキラが好きな人も、嫌いな人もいる。

美は現れた時、場合(人)によるという条件

がある。しかも、それは絶対ではない。

絶対でもなく、これという条件も確実では

ない。そんなあいまいであやふやなものに

なる、そんなものに価値はない、常識だ。

絵や美術品を買うのは、その機能以外の

目的では、あなたがそこに価値をつける

ことだ。価値は無から生まれる。だから、

無にあれば、当然無価値なのだ。

時間もお金も僕らが社会生活に必要で

なくなれば、それはそのものでなんでもな

くなり、ただの過去の歴史的遺物になる。

納期や〆切や時間制限のない生活は

今も世界のどこかの部族や地域で営まれ

ている。その時代の人が信用している

必要があり、それが法的にも機能している

から、その時代で価値がある。それだけ。


::
(違う観点から、やはり、価値について書いて

しまった)


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