SSブログ

中国古典音楽 古琴 [音楽]

前にも書いたが、中国の音楽の古琴は

一度心に捕らえられてから、ふとした

時に聴きたくなるようだ。

その楽器の所為だろう。哀愁を帯びて

いることが多く、二胡になると、その

琴線的な音色に、今ではしびれてしまう。

派手で盛り上がる演奏・音楽もあるが、

郷愁・哀愁の悲しみを帯びたものが好き

なのは、子供の頃にどこかで聴いた記憶

がある所為だろうかと、頭の中で遠くを

眺めるようだ。

単調な中に空気をつんざいて、哀しみが

夜を渡ってゆく風情がある。

聴きながら、今誰も聴いていないの

だろうな、と思うと勿体ない気もするが、

これは好き好きなので聴いて楽しめる

には時期もあれば、きっかけもあるのだ

ろう、と思ってしまう。

中世の木造のわび住まいで聴いたら、

たまらないだろう、と勝手な想像を

逞(たくま)しくする。

水墨笑う仙人2-1.jpg

これは雪舟の同時代の画家が描いた

ものだと思うが、にやけて風に吹か

れた衣の風情も珍しくて面白い。

それで思い出したが、印象派の第一人者、

どの画家も影響を受けたというセザンヌ

は髑髏のデッサンをしていた。それで

僕も人間ではなく、猿の髑髏なら手に入れ

られるのではないかと、思ったが、上野

動物園にはまだ電話を入れていない。

それからは猿の骸骨を欲しくなり、

最近気がついたのは、陶芸をしている

のだから、粘土で作ればいいのだ、と

気づいた。

猿頭蓋2-1.jpg

これは牙が生えているから、大昔の

猿ではないか。

猿頭蓋7-1.jpg

これも猿だが、笑っているように

見える。「笑う猿」を作ってみたい

と思うようになった。

猿は眼窩が大きくて、脳の部分が

小さいようだ。人間の脳の増大と

いう進化は環境の動機は何で、どの

ように齎したのだろうか、と疑問が

湧いた。
nice!(14)  コメント(0) 

ベートーヴェン、風邪と音の可能性 [音楽]

風邪をひく。 なにかいいことが起こったような

無感動だが、認めてやってもいいような、他人事に

思える感覚。

あるブログからベートーヴェンの交響曲第4番の

名演を聴かされて、すごくよくわかる名演!?

だったので、今も聴きながら書いている。 

風邪をひいても、翌日に熱が出なければ、コロナ

ではないだろう、と一応思えるので安心する。 

それなりの倦怠感はあるが、仕事に強く影響を

及ぼす、怠惰感ではない。

きびきびして、それでいてしなやかな演奏。 

音の広がりとまとまりが流れに沿って、筋肉のように

ゆるみ、絞られる、それがなにか内在する力によって 

指揮されている、という、・・・・まあ、そんな感じ。 

カルロスクライバーが指揮だが、これまで知らない

名前だった。 

風邪で軽い脱力感がある時には、ベートーヴェンは

僕に合っているようで、新鮮な刺激になる。 



今日は力がない気がする。何かが生まれる、というと

言い過ぎかもしれないが、そういう内奥の力を感じない。

そういう日もある、というそんな日だ、晩だ。  

薬は筋力を開放して、眠りを誘うように作用するから、

これは薬(市販:基準は一回3錠だが、2錠で、1日3回も

ほぼ2回しか飲まない)の影響であるのだろう。 

しかし、夕方に仮眠したので、いつも寝ているという

わけにもいかない。  そういえば、この音楽鑑賞に

集中すればいいのであるが、長年、感覚と過剰な思考

とを拡散させるために、二つのことを一緒にする習慣が

出来上がっていた。単一の思考や瞑想ができる時は

むしろ、心身のバランスがいい時なのだろう、と思って

いる。  

しかし、この第4番は聞いた当初から聞いた記憶があった。

これが4番だったのか、というのが最初の導入部の感想

だった。 頭の中では、モーツアルトとベートーヴェンの音楽

の違いに入って、天才の作曲の違いにまで話は進むのだが、

そこまで集中しようという気になれない。さすが、体調不良で

ある。 

ものを書くのは、やはり筋肉なのだ。頭だけでは書けない。

冗長な話に終わる、という流れや傾向になるのだろう。  

コリオラン序曲もいいね。

これは普段の音楽評よりもよく感じているかもしれない。 

批判する力がないほど、の軽いだるさがあるのだから、それ

は却って、音楽を受け入れるには好都合なのだろう。 

ただ、やはり感覚での受け止めに流される傾向で、その音楽

の芯に踏み込んだ全体での感動には至らない、そんな感じ

を受ける。

(もっとも、)と言う本人が薬で揺れているのだから、どこまで

信じていいやら・・・・。  

次はモーツアルトの交響曲33番。 

なにか書きたいのを感じるが、他の指揮者での比較を

しないと、どうもそれが掴めないようだ。例えば、モーツアルト

の同じレクイエムでも、好きな演奏は決まってしまって、他の

指揮者ではピタッと来ないのだ。それくらい、指揮によって

違いがある。そして、同じ曲だというのもわかっている。

同じ音符に聴こえている。でも、違うのだ。 

そうなのだから、そうだとしか言いようがない。人の感性は

僕らが思うよりも多くの微妙な音を拾っていて、それは

説明できるような多少の数ではない。聴こえない音域も 

もちろん、拾っている。それを聞き分けられているのは、

人で実験してわかっている。

大事なのは、聞こえないから、聴いていないことではない。

僕らには機械が判断するよりも音質というものを理解する

機能が備わっていることだ。 それはまだその全体が完全に

証明される段階ではないが、それを覚えておいて、人の感性

を判断しないと、また僕らは常識内での、という誤解に見舞わ

れてしまうことだ。 

想定外を感覚するためには、自分がその中心に自由を

置かないと、あらゆる可能性を想定できない。軽く、そんな

ことは起きないだろう、と決めてしまうのは、経済効率に

囚われることや想像の欠如というよりも、想定外に現実的に

密着する心がない所為だ。 それはつまるところ、想定外に

一度も生きてみたことがないからだ。20代、30代では自分を

破る生き方が必要になる、と僕は経験則から思う。

ここからはあまりに、いろいろなことが言える。 

迷うより、言わないほうが良い。 

ベートーヴェンのように耳が悪く、現実の演奏の音は聴こえ

ないかもしれないが、内奥でそれ以上の音響・音域が

広がっているはずだ。その考えの流れが通り過ぎるのに

まかせよう。僕は書きながら、何かを言うが、逆になにかを

特に言いたいがために書いているのではない、ということだ。  

クラシック音楽の、僕にとっての凄さは、僕の思考の邪魔を

しないことだ。それで、音楽はその処々しか聴こえないし、

聴いていない、

のだが、

またそれが気持ちよい。僕らには、自分の人生で見たものの

全場面を記憶して、音も匂いも記録しているが、それをほんの

数%しか引き出せない、という自然がある。それは人間という

楽器が不完全で、一人でオーケストラの演奏はできるだろうが、

夢と現実、内部と外社会、部分と全体の統一した総合を、全感覚

を通して演じたり、演じ分けたりはできない、やれば壊れてしまう、

と。そういうことなのだ。

だから、今の可能性は恐れず、最大限トライすべきだ。

僕は、それを制限して楽しむ。そういう年代にはいった。 

それも自然だ。



あれ、これ「田園」だ。 小澤征爾のベートーヴェンヴァイオリン

協奏曲ニ長調、の第2楽章で聴いた覚えのある旋律、・・・

これが「田園」のもとになったのかもしれない、 と暇に思った。


nice!(14)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。