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自然の在り方 理法という空想、あるいは理法の在り方 自然との関係 [果ての話]

パソコンの画面を開いて、30分。

それ以上、・・・。

どの音にも心は沿わない。

待つこともなく、ただ白い画面が

そこにある。

もう、書かないのだろう。

一切が空に 飛び去って 

地球に 海も  山も 

すべて なくなって 

それでも マグマがあるのだとしたら 

マグマは どうして 

燃え続けることが  できたのだろう 


今 マグマの 君が 

ひとつになってしまった のなら

暗黒の闇の中 

太陽に照らされていれば 

まだ 明るいだろう 

が やがて  冷えてきて 

鉄の塊に なってしまうのか 


軽くなった君は 

太陽へと 引かれてゆき  

やがて 太陽と ひとつになって 

しまうのだろう  

もう地球の 軌道には 

なにも 残っていない 

なにも ない 


暗い空間に  なにかがあったと 

記録する なにものも 

そこには 見当たらない 

一粒の 塵さえ 

空へと  散った 地球の 

痕跡は どこへ行ったのだろう 


恐らく  その頃から 

何百億年か あとには  

宇宙の時間軸が  逆転するのだろう

太陽系が 孤立系のままなら

増大していた分子運動が  縮小を

始めて  分裂したものが 

個に 戻る 

過去は存在しないから 

それは過去に 戻ることではなく

老人が  赤ん坊になる 

そして  精子と 卵巣に 

退化するように 見えるのかもしれない 


それでも それはすべての消滅を 

意味しない 

それどころか  世界をつくる 

種子に すべてが  もどってゆく 

その様相を 広げているだろう 

どんなに なくなろうとしても  

なくなることはできない 

どんなに 消え去ろうとしても

消え去ることは  不可能なのだ 

僕らが  またいずれ 死後に

何らかの形で  人間になる時は   

自分は  跡形もなく 消え  

新しい 他人が生まれる 

自分とは 似ても似つかないが 

また 新しい生を  生きることに

なるように  

僕らの 宇宙は  また 

いつか 振り子のように 

時間を戻しはじめ また 

新たな種の  新しい世界の 

展開を  始めるのだろう 

そこには 幾分か 

かすかな 人間の記憶の 

破片も  含まれているに 違いない

その世界は  どう続くのか 

未知の  そのまた未知に 

なるだろう 

現在の世界を 構成している

同じ 物質というものは なくなって 

まったく異質な もので 構成される

そういう 想像の及ばない 

要素ばかりで  新世界は  展開

されるのかもしれない 

そうなれば  そこで生まれる 

生物たちは  形があるとは

言えないだろう  音もないかもしれない 

ないだろう 

僕らの  感覚する世界では ないのだ 

しかし  生物であるならば 

生命の 根源は同じだから 

そこに  愛によく似たものが 

流れるだろう 

光の 温かさというものが 

生物の  繁栄の源に なるだろう

あとは  語っても 

ただの 空想だろう 


生きるというのは  

そういうことだと  

僕は 感じた  

教えられたと いう 

気分でもある 

あの時も  あの時々も 

そして   今も 

生命の  因果を  

まるで 自分のように 

感じ続けることが 

反省して みれば 

すべてだ と  


それは あまりに わかり過ぎている 

あまりに わからないことだ 


きっかけが  なくなれば 

すべての  終わりも なくなる 

そう 言ってみたら 

すべてが  始まろうとしている 

その向こう側で  すべてを 

片づけようと している

僕らの  営み 

始まらないものだけが  

終わりもない 

始まってるものは なおさら 

終われない



僕は 終わらない  

それが  自然の 営みだから 

この 矛盾 

この 整合性の なさ 

それらが  すべてを  表している 

ものが  ある、

ということを 


精神も  心も  体も 

ある条件で  生かされた世界  

それが  僕らの 宇宙という 

ひとつの  無限な 遊び場でも 

ある 


僕らの 自分は  この先 

どんな未来においても 

くり返すことは ない 

だから  今を  生きている 


このことの意味は  

語れない 

それが  すべて 

だから 


僕は  すべて を 

知らない 

演繹という方法 ではなくて 

ものの あり方という 

ひとつのものを  感じて



すべて を  

知る 



僕らの それぞれの自分は 

空想だが 

架空だが 

僕らの それぞれの僕は 

それぞれの 体は 

それぞれの 心は 

それぞれの 精神は

それぞれの 自我は

エネルギーのような 

実態のように

ある 


それを 悠久と呼ぶのは 

ロマンが ある 

月は  悠久ではなく 

滅びるから 

ロマン なのだ 

だから  僕らは 

月を  悠久だと

思っているのだ 

滅びの悲しみ として 

悠久など 

知らなくても  いいから




:::

全体で全体を語ることは、本来

できない。時間逆行の仮説をもって

例え話を、自我と自分も分ける例

で書いたが、分けない例で書くこと

もある。そういうものを扱うから、

そこが矛盾しているとか言われたら、

答えようがない。

僕らはお湯を沸かす、と言うが、

正しくはお湯に(するために水を)

沸かす、という意味で使っている。

僕は<自我>は、ものでは精神を生み

だす一種のエネルギーとして、概念

では自分の内なる核として、使い、

また<自分>は主に社会的総体として

のその人にまつわる呼称(日本人とか

学歴とか性格とか、癖など)として、

他人と区別のための語で使っている。

自我はそもそも本質なので、自我の

本質という解釈はないと思っているし、

自分の本質は概念的な意味合いで

あっても、実質的にはあるものとして

扱えない、と思っている。

                              2022. 12 .28
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大きな得心も 小さな老化も 因果の不特定な表れに見える [因果]

(読んでみたら、23年の元旦に書いた

 らしい)



よくあるのは座椅子でうたた寝をして、

ともかく眠いと感じているので、布団

に入って寝てしまうことだ。そこまで

はいいが、寝返りをうちながら、おか

しいなと思い始める。どうやら寝ても

眠れそうにないからだ。

そうなってからは30分以内に起きだすの

だが、そのまま我慢して眠るまで待つ

こともたまにある。その時は数時間かか

るので、忍耐の時間になる。

起きる時には朝はとっくに終わっている。

昼か、昼に近づいているか、風邪や疲労が

ある時には、午後に起きることになる。

そうすると寝ているのが主な生活だと思う。

猫の14時間睡眠生活に迫っているな、と。


夕方がすぐに来るので、一日がすぐ終わる

感じだ。老人の怖さは、こういう生活にも

慣れていって、当たり前に感じるように

なって行ってしまうということなのかも

しれない。体の筋肉や関節の頼りなさから

痛みを避けるためになにもしないように

なり、億劫さが生活を占める。

そうやって体の痛みから逃れるのは、

もう習性になる。これまでも他の面で

体に対してもそういう社会生活を選ん

できたからだろう。これが一般的な

老化現象の経過というものだろう。

それが嫌なら、動くしかない。痛く

ても筋肉や関節に関わるものなら、

動くうちはまだ矯正できる。

正しい姿勢で歩いたり、を常に意識

して歩けば、足が片足が湾曲したり

はしない。

心も似ているが、どうだろう、苦しみ

を活性化させても若くなりたいだろうか、

若さを保つのは困難ではないが、それは

通常、心と体のギャップを広げてゆく

ので限界がそれぞれの個人差であり、

それなりの哀愁はあるだろう。心は

やがて老化に引きづられるが、それが

ギャップを縮めることにはつながら

ないと、諦めつつある、という感じが

つきまとう。

体と神経のバランスがよくて、筋力が

強いことは相当、老化に耐えるはずだ。

晩年まで頭も体もしっかりしている

基本の条件を備えているだろう。

しかし、そんな計画で生きてきた人は

いないだろうから、気がついたら、

こういう生活をせざるを得なかった

という人がほとんどなのだろう。


と書いてみるが、朝晩の不規則な生活

は学生時代に始まったことだった。

夏休みに夜と昼間が完全に逆転した

生活になってしまったことがあった。

その時に無に吸い込まれたかのような

記憶喪失の時間があったのを思い出す。

なにもかも変わってしまったと感じる

べきだったのだが、心の準備ができて

いなかった。それからそれを理解する

のに、&それを発見するために多くの

年を費やす。

山で’寝ないでも死なない’のを知った。

死ぬ前に人間の体は意識もなく、寝入

ってしまうから、寝不足は心配しなく

ていいのだ。それは寝なくてもいい

ことではない。睡眠が必要な時は自然

に寝入ってしまうから、それを規則的な

生活に照らし合わせて、よくないことだ

という悪感情を持たなくていいという

ことだ。心配は余計なことになる。

(不眠症は病気)

孔子は朝に道を聞かば、夕に死すも

可なり、と言った。これは天の理を

知ることができるなら、すぐに死ん

でも構わない、という激しい言葉だが、

それは彼の求道の情熱を言ったものだ。

その通りの人だったろう。ただし、

それは彼が道を知ったなら、その場で

死ぬだろうということを言ったもの

ではない。気持ちはそうだったろうが、

現実にはその天の理がどれほどのもの

かを孔子は必ず試すためにまだ生きた

だろう。


僕にはその天の理に値するものは因果

という仏教に出てくる理と同じものに

見える。因果は理という概念では

ないが、それに相応しい形をしていて、

そこから引き出してくると、それが

因果の法則になり、通俗化するとそれ

が因果応報の法則に見える。が、それ

は気持ちのことで、因果応報は人々の

気持ちを代弁したものだ。それは勧善

懲悪の別様である。

因果は悪に虐げられた人たちのために

あるわけではない。ところが、僕らの

そういう感情はすなわち、そういう結果

になるように部分の影響を及ぼす。その

部分がまったく因果の間違えた解釈だ

ということにはならないので、因果応報

の形に見える半分は正解だろうし、その

案件は不特定だが、散在してある。

わかりやすく話す方法は超能力のことに

して語ることだが、そうすると「その

こと」よりも能力の才能性に目が移っ

て、その才能があればすべてOKだと

いう短絡な答えから逃れられなくなる。

能力は便宜の方法として語っているの

で、嘘も方便ではないが、五本指が

六本指になればいいと思うことと

変わらなくなる。

普段から伝わって来るものがあるの

だが、それは長年の習慣から、僕ら

の目には死角になっていたり、耳に

は無視することになっている雑音の

ようなもので、見ない、聞かないよう

にしている。だから、その感覚を呼び

起こす必要があるのだが、それは常識

を覆して、さらの状態に五感を追い

やらないといけない。

それは修行にも似て、楽なことでは

ないので、誰もしないようなこと

なのだ。


正しいほうへ、とか、良いほうへ、

とか、役に立つ方へ、とか無駄になら

ないほうへ、とか、人が喜ぶほうへ、

とか、それが全部、常識の方向なの

だが、これを疑う人はある年齢以上

になると自分を信じているので、

疑おうともしない、そうする前に

そういう常識に反する非常識をすで

に捨てている。

いらないものだから、二度と拾うこと

もない。それが学ぶということだと。


まず初心に戻るというのは、判断力が

着く前に戻るを意味している。だから、

自分は自分の道(ルール・信条)が

あると思っているが、それが過去の人

の示した基準であって、それを自分で

おおまかに選んで来たので、自分のもの

と思っているが、それはこの3,4000年

の間に示されたいくつかの基準的な言行

であって、これまでに統合された形跡も、

統合されようとした形跡もないものだ。

その狭い範囲から自分が信じていい、

とか役に立った、なるほどと感心した

とかで(自分が)選んだ言葉なりの教訓

などの教養である。

それが今の常識をおおまかには年代別に

区切って受け入れられているだけで、

僕らはほぼそれを全体の観点からは

否定したことがない。

そもそもそんなに長い歴史に支えらえた

(ように思える)教示を否定できるか?

できる。



それには鏡を見ながら、それに写し出さ

れた虚像を見ながら、鏡の背面を想像

することにある。これは比喩だから、鏡の

裏側に回っても、そこにはなにもない。

しかし、見えるものがそのまま見えなく

なる地点がある。見続ければ、そこまで

見るのに困難はないが、それはやり方が

いろいろあり、その方法が重要なのでは

なく、それを透徹してしまうまで、見て、

聴くことが大事なのだ。

例えば、弓道で弓の師匠に手足を押さえ

てもらって練習すれば、上達するのかと

考えればわかることだ。いつまでも自転

車の補助輪をつけていれば、いつまでも

ふつうに自転車に乗れるようにはなら

ないだろう。

弓道でそれを覚えるのは、呼吸が無に

なっている時だ。自転車に乗っていて、

無になって体のバランスを乗り物に合わ

せようとしている時だ。僕らはこの時、

無意識に孤独になる。

この時には真の意味で孤独になる。孤独

は自分が人に頼りたい心情を映す鏡の

ような働きをする。寂しくて孤独になれ

ないのがそういう心の位置を示している。

自分にはそれを支える実体がなにもない。

自分自身が裏ではそれをよく知っている

から、なにがしかの頼りになると思う

自分以上の人・モノ・観念、なんでも

いいがそういうものを心に祭り上げ、

それをまるで初めからそうであったか

のように信じ(ようとす)るのだ。

その人は信じるのだが、それが見える

第三者なら、それは信じているのでは

なく、信じようとする状態だと見えて

しまう。

こうして僕らの常識は守られている。

世間はそういう常識がゆっくり廃れる

もの、早くに廃れるもの、廃れはしない

核をもつもので、時代ごとに中身が移り

変ってゆくが、それは僕らが亡くなると、

僕らの常識の一部が確実に廃れてきた

ことではっきりしている。それでも

その時代時代の人は自分の常識は疑わ

ないだろう。

それは現在でも、初めて海外へ出かけ、

生活してみると、日本社会や家庭・学校

で信じた常識の多くが通用しないことに

気づかざるを得ない。


こんなことがわからないのか!と怒る

ような場面に出くわしたら、(非常識・

常識はずれを見たら)一度それが自分

の常識に抵触するからではないか、と

自分に返って、自分の内面を検討して

みたほうがいい。

それが考えなのか、心情なのか、感覚

なのか、それぞれだから、いろいろと

面白いことがわかるかもしれない。


つまり、僕らが嫌がるのは自意識で感じ

てしまう孤独であって、それは僕らが

孤独に慣れない時間を多すぎるほど

生活に費やしてきた結果なのだが、

孤独はよくないという常識が、孤独の

理解を阻んでいる。

もちろん、通常で孤独・孤立は嫌な

ものだと感じる。僕らの中の自分は

虚像だが、そうは信じないようにする

のが、自分という本質概念の性質・性格

だからだ。

頭でわかる、ということと体でわかる

ということ、また物事のひとつひとつ、

それらを知るということが、それらを

自分の表現や言葉で書き直したり、描き

直したりする行為になって、いろいろ

異なった表現をすることができるから、

その結果を自分に見て、自分がその

「物事」を理解したということが知れる。



自分では自分を知ることができないとは

そういうことで、自分を知ったと、自分

の行為をあとで反省して(=知って)確信

できる。

自分で自分に確信は、直接はできない。

それでは自分で自分を知ることができる

となってしまう。

ここが理解しがたいことで、自らの行為

で得心するしかない。



―なんてことを、今年最後にまたくり

返してしまったことだ。これも気づけ

ない老化の一部かもしれない。また、

くり返さざるを得ない僕の業なのかも

しれない。

例えば、

年末も新年も僕らの心情でつくられて

いる。カレンダーはそれを図式化して

概念と知識でそれを伝える。生活の

一部だが、少しも万能ではない。

犬や猫はカレンダーを理解しないだろう。

それはそういうものだという習慣での

考えからだが、僕らの誰もそれを問題

しないし、動物をしつけしようとはし

ない。なぜだと問うのならば、その前に

“その”なにがわかっているのだろう、

それはなにがわかっていないこと

なのか?

動物にはそこまで関わらなくていい?

チンパンジーと人間の遺伝子はいろいろと

比較するにしてもその特質を考慮しなけ

ればならないが、単純に数だけにすれば

98,8%が同じで、2万1千くらいの人間

とは250個くらいしか人間の遺伝子と

異ならない。

98、8%ともなれば同じだと言いたい

くらいだが、見た目からして人間は裸

の猿だ。

ニャーと言えば、猫だと思うが、ニャー

は猫の人間に対して使う声で、猫同士

ではほぼ使うことはない。だから、猫

のニャーは動物界での猫語に分類され

るのだろう。

僕らの通常の会話の言葉ではないのだ。

というわけで、全般で僕らはほぼ動物

のことを知らない、と言える。

ところが、僕らの体の成分や機能は

ほぼ猿と同じなのだから、動物と異なっ

てしまうようにしてきた進化がある。

それは動物を知れば、僕らの90%以上

を知ることだと言っても過言ではない。

つまり、僕らの常識を動物の段階まで

持って行っても、根本的な知識を得ら

れる可能性は十分にある。

逆に人間のレベルで常識を云々しても

たかが知れてる、と言えないだろうか。

スルメになってしまった人間から、

その特徴から、元のイカを想像する

ほうが難しいのではないか。

動物の分野にまで及ぶことのほうが

僕らが常識だと思っていたことの疑義

が明らかになりそうだと、僕は思うの

である。

と、時刻は元旦になってしまった。

明けまして、・・とか。ニャー。





これは常識への刺激として。


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失い得るもの、失い得ないもの 2 [ためらい]

自由に書きたい、という時、難しい

のは自分だと気づいたことは

あるだろうか?

僕らは、いざ書く時に気負ったり

しないかもしれないが、やはり

誰かに書いている。特に不特定多数

という読者はいつでも心には隠れ

ていて、が、それを意識することは

なく、僕らは書き出す。

思い出してみればいい、小説でも

随筆でもまったく誰も読者を想定

しないで書いたことがあったか。

少なくとも、最終的には自分に

言い聞かす形でペンを執るなり、

キーボードに向かっているはずだ。

まったく自由に書くという時、

この無意識の設定を外す、とまで

考えたら、これは簡単なことでは

ないと思うだろう。

それだけで僕らは何の制約もなく

自由に書くとか、描くとかはして

いないことになる。

最も古い洞窟壁画は、6万4千年前

のヨーロッパのものらしいが、それ

がもっとも古いかは、いつも謎だ。

洞窟の壁は岩盤で湿度も一定だった

ろうから、それほど長い間残ったと

いうことで、もっと古いものでも

風化や日光に当たっている場所では

早くに消え去っていたはず。だから、

最も古いではなく、古い年代として

偶然発見されたもので、その長く

残された年代としては何万年前だ

ったという説明が必要だろう。


そのため

僕たちは最も古い年代のものを

もう発見することはできない。

それは歴史的な意味を持つもので

あって、歴史上の厳格な事実では

ない。いつの時代でも失われた

ものは二度と戻ってこないという

常識は、それなりに真理なのである。


それが僕らにとってどういう意味が

あるのか。

現代に、現在に有り余るほどのもの・

ことが失われる事実がある、という

こと。

だから、僕たちは常に新しい世界を

歩いて行かざるを得ない。

必要な懐古、必要な思い出とは別に

今を生きざるを得ない。


生き急ぐことは体も心もついていけ

ない状態ではなんの効果も、必要な

結果も生まれない。取り掛かるのは

今だが、まず自分に、ではなく子供

たちに伝える覚悟をしてどこまで

行けるかが、歩いてゆく道程という、

過程が目的の旅になるだろう。

そう思えるくらいの理解が必要で、

そこでは千年という月日が現実的な

月日で現実に感じられる時間として、

また現実に前提として考え始めよう

とする時間になるだろう。


夢ではないのだ。教育も人間の在り方

も目的ではないし、優生学でもない

のだ。

ここに人間の社会が人間らしくある、

という希望で建築であるという場所

なのだから。     22.12.25




「失い得るもの 得ないもの2.」を

書いて、投稿するのを忘れていた。

もう半月が経ってしまって、この先は

書かないだろう、と考えていたが、

やはり、書くのは無理なようだ。


自分を信頼するのは一方でこの上なく

気持ちいいことであるが、もう一方

ではこの上なく不安でもある。それ

は信頼に一歩を踏み切れていない時だ

からだ。どう踏み切ればいいのかと、

考えているうちは踏み切るつもりが

ないことを表しているのだが、考え

ている最中なので、気がつかないの

だろうか?それは見かけの話で、実際

は気持ちが決まらないので、その影響

で考えも決まらないだけなのだ。

決めるのは夢から現実にジャンプする

ことを意味するから、内容は現実に

目覚めたくないことを「決めない」

という行為で表している。

崖から海に飛び込んだり、大事な

告白をしたり、自分が未経験なこと

をする時に迷うのが、この行為なの

だ、決めるのを逡巡する、という。

だから、結果がわかるような行為

であっても、気持ちが同意しなけ

れば、いつまでも迷うことができる。

経験して、もう何でもないことに

思える人には、それは不思議な行為

に見える。

そのジャンプには必要な仕掛けが

含まれている。夢から現実への掛け

渡しにはただ思い切りが必要になる

ことで、この「思い切り」というの

はふつう考えてしまう、思いによっ

て「しない行為」を思い切ることで

はない。それはできないのだ。

崖からはただ飛び降りる行為がある

のみで、それを思いで打ち切ってか

らというのは、ただの逃避の行為

を延長することで、先延しだからだ。

そして、その行為そのものに移る時

には、誰しも必ず、無になる。

心を無にして、自分のその「しない

行為」を打ち切る=捨てるのだ。

一瞬で捨てて、あとは飛び降りる。

歌舞伎役者も舞台へ出る前はかなり

緊張するのだが、経験ですっと舞台

へ出るのだ、と言う。

もしも台詞が出てこなかったら、など

と考えたら、恐ろしくて、そのまま

楽屋に戻らずに、タクシーに乗って

家に帰ってしまうだろう。それは誰

も同じで、必要な場面では考えない

ことを心得ている。

しかし、日常では考えるべき場面で

面倒なので準備もなしで見切り発車を

することは多く、そのため全体を反省

する機会は減り続け、僕らの生活は

不完全さを積み重ね続け、世間の

言う方向に任せてしまうのである。

レールの上の人生はつまらない、など

と言うが、それには結婚・離婚の

ように大きなエネルギーと新しい

生活への強力な確信がなければ実行

は難しい。

その上でどういう人生がいいかなど

と言うのは、それがわかっていない

ことになる。エネルギーある人は

自然に自己抑制の社会的な禁制を

破りやすいし、弱い人はそれなりに

協力を求めたがり、平凡な常識に

縛られやすくなる。

そこにその人の生き方の云々を

評価するが、そんな評価が導き

出すものは他山の石であり、僕ら

ひとりひとりにはまず役に立た

ないものだ。

ここにはどう生きるかはルールに

ならないという因果の現実がある。

だからこそ、常識の戒めが必要に

なる。そう聞くと、僕らはその大事

を思うのだが、それはどういう人間

がどういう意図でその禁制を破った

かがわからないと、正しい答えは

得られない。そして、その答えが

道義との整合性があればあるほど、

逆に僕には信じられない。禁制を

破るほどの自然なものがそこに

あるかのほうが問題だからだ。

それは世間の風評と逆の場合で

あることが多い。

それはしみったれた現れ方は

しないはずだ。堂々と笑って破り、

なお人々がその人を慕う、という

処には人間・物事の矛盾や解決

できないものがその人の行為と

なって現れる。

すべての物事を測ることができる

(基本の基本という)基準がこの

世には存在できないことを示して

いる。だから、僕たちはある意味

自由なのだ。ただ自由なのでは

ない。ある意味で、だ。

そういう限定をつけるのであれば、

愛も平等も自由も存在するだろう。


少し、急いで飛躍してしまった処で

終りにしよう。
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失い得るもの、失い得ないもの 1 [必要苦]

いつもと違うのは、テーマがありそう

だが、それをどう書くのか、深い闇に

足を踏み入れる気分だということ。

気分もあるが、それは前途多難、

とか五里霧中、とか暗中模索といった

四字熟語が並ぶ光景でもある。


僕らは 気分を良くしてくれる

フレーズを 期待している 

笑わせてくれたり、ほろっと 

させてくれたり、時には

役に立つ 言葉を得たいと。

そこには公明正大な  皆が

望むもの という お墨付きが

1年保証ではないが それが

当然のことに なっている。


それが人間の本能とか 性質とか 

目的でさえあるだろうと 僕らは 

長い間  思って来た。 そして 

今も。

それはそれを失くして しまったら 

どうにも 困ってしまう、とか 

生きて行かれないほどの 重要な 

もの  なのだろうか。 

そうでは ないだろう

そうではないが 失くしてしまったら 

僕らの生活は  灯を失ったかのように

寂しいものに  なるのだろう 


そういうことではなく それが

あるかないか ではなく 

それを 求めることについて 

僕らは  どうして 与えられるのを

望むのだろう 

どうして 自分で  作り 

出しては いけないのだろう 

自分で 笑いだして 

自分で 泣き 沈みそうに 

自分で 伝説を  語って 

自分で  新発見を して 

それが  独り芝居だったら 

むなしい だろう 


自分だけでも というのも

他に頼って 期待ばかりで というのも 

それは 同じく  むなしい 

自分の 役割で  

うまく全体になる 

そういうことなら 僕らは

協力と 呼べるに違いない 

ひとりであるが ひとりではない 

他を必要とするが 頼るのではない

そういう 関係の中から 

生まれるのは  信頼というもの

だろうと 思うのだが。 


支えるにしても  支えられるにしても 

それぞれに 支え 支えられるなら

迷惑を かけることもあるだろうし  

迷惑を かけられることも  ある 

僕らは  どちらにも  なれる  

柔軟な 気持ちと  考えを

バランスよく  持っていれば

うまくいくのだろう    12.20



社会の 成り立ちには 

そういう 暗黙に 約束が 

理想として  あったのだろう 

前提として  

あったものが ただの 

常識に  堕落してしまって 

社会への 組織の責任への

期待として 

当然のようになって 

僕らは  弱くなった 


僕らは 犬に なっていないか 

ドッグフード という 粗悪な

食べ物で  生きる力を 

奪われてゆく 


なぜ ドッグフードは 安いのか 

どこまで 栄養と安全が 

管理されているのか 

国の 規制はない 

メーカーの 自主規制に 

任されているだけ 


アメリカでは 欧州でも

禁止された 化学肥料を 

使った 製品が 国内では 

さばけないので 

日本への 輸出用の

ジャガイモに  なっていると 


犬のドッグフードと 

似たような 具合になりそうな

噂が  立っている 

そういう仕組みが  今日で  

あるのなら 

僕らは  犬と さほど 

変わらない 

自己治癒力という  免疫をなくし 

ゆるやかに  絶滅の方向に

進むのだろう 


犬の 室内飼育が  増えて 

寿命は 延びるが 

免疫を 弱くして 

人と 同じ 成人病に 

罹るようになった  

本来 犬猫は  それほど 

病気にならない 

寿命延命と  免疫低下の

関係が  これまでしたことのない

羅患を  増やし続ける 


アメリカは  戦後も 

日本の子供たちの  ために 

脱脂粉乳という アメリカでは  

豚のエサを  くれたではないか 

落としたら どうなるか 

原子爆弾の  実験も 

したのだろう 


僕らは  近代から 

自分たちが 落ち着ける 

安全な 場所を 

探してきた 

産業革命の  爆発から 

生産は  分業するものになった 

ラーメン屋でも 

自分の 発案でも 材料は 

どこかで  加工されている 

肉を 買うために 

牛の屠殺の 啼き声を 

聞かないで すますことが できる

腸を 捌くこともない 

パッケージに 入っている 

肉塊 だから


僕らは  牛を見ないで 

牛を 食べていることを

もう  意識しては いない 

ウィルスや  細菌 

1万分の 1の  なんらかの 

データミスで  まるで 

計算結果が  狂ってしまう 

なにが 原因かも 

素人では  聴いても 見ても

わからない  だから  

無知で  許される 

そういう仕方ない 世界で

生きている  のではなく 

もう  生かされている  

僕らが  犬猫を 

飼うように 

見えない ウィルスのような 

後ろから  手を回している

国際資本の 脚本に 

寄り添いながら 

生かされ 続ける  



誰も 

生産の 初めから 

経済の 仕組みから 

所有の 歴史から 

お金の  あり方から

膨大な 全体を 変えるのは 

無理だと 

考える前に 

諦める だろう 


そういうのが 隷属状態だと 

認めることから  長い年月が  

経ってしまった  

経ってしまった ことだった 

僕らの  大脳辺縁系は  

どうして  辺縁系なのか 

脳の中心は  もう他の 

味噌で 占領されていたから 

その 仕組みを 根本からは 

崩さずに 

遠慮して  外側の周囲を

取り巻くように 

範囲を  広げたのだ 

何十万年前 だったのだろう、

次々と 部屋数を 広げる

ための 計画性のない

建て増し住宅  だったのだ 

そのための  不便は  

出てきても  我慢するしかなかった 

そう考えたとおりに 

僕らは  まるで 社会を 

作ったかのようだ 

脳は いいかげんに できているから 

社会も  いいかげんに 

作られたのだろうか? 

そういう部分が  どの辺りなのかは

わからないが   大震災・大災害で

見直されるのが  都市計画・災害対策、

未来など ないかのように 

今の時点だけから 見直しが 続けられる、

そう ありそうな話に  聴こえるほど 

僕らは  未完成で 

いい加減に できているようだ 



車は 凶器だと言われた 時代 

年に 3万人が  死亡していた 

対策をして 

半減した と 誰も 褒めたり

喜んではいなかった 

対策しても  死亡事故が

なくなったのでは ないから  

中国の ゼロコロナ 対策を

見ているよう 

対策を 理想的に 頭で 

しても  人々の生活を 

圧迫しただけで いつも 

感染者は  出た 

いつも  だった 

完全な 対策や対応は 

できなかった


日本の厚生省は  

ワクチンを 2・3度打った人 

よりも 

一度も打たない人 のほうが 

陽性者は 65歳以下では 

少なかったとの  統計を 発表した 

どの新聞も  それを 全然  

報道しなかったのだろう

僕らは  公然たる  新聞や 

マスコミを  信じて 

それが 理由あることだとは 

思わない 


その隷属した 意識は 

まだ 公然たるものではないから 

それが  すべてで  つながっているのに 

なかなか  気づくことは できない 

地域社会や  その小さな福祉などの

グループで 

全体を  ひとつ残らず  

変えてゆく  

その 戦いは 革命ではない 

ただ いい方向に  変える 

これでは いけないという 

自覚を  途切れさせない 

そういう輪を  常に 

広げてゆく  意識を持つ 

その 協力は  できるはずだ 


僕らの 国際社会・世界は 

資本主義という  その中身ではない

隠れ蓑の 見せかけを 盾に

利益のために 働き 

それぞれの 利益を  求めた 

そこから出た  さまざまな 

矛盾や 障害 故障、 トラブルは

ドクトリン・ショックになり

経済だけではない 社会問題を ー



元になる歪んだ 体質・組織を 

ひとつひとつ  是正して 

見えない協力化 によって 

それが  広がる気運を 育てる 

突然、大きくなる 懸案は 

利益を求める 人たちの 

巧妙な 罠かもしれない  

立ち止まって  検討する

そういう機関も  必要だろう 

大きな 軍拡や金融の団体の

または 諜報機関の出先の 有力企業

からの脅し・圧力が  かぶさって

来て  何度も  その気運を 

潰しに来るだろう 

または 子供の発言を 装って 

まだ 決定的でもない影響を 

決定的にと  企むだろう



僕らは この200年で 築いた 

文明文化を 

やはり  200年かけて  

修正するための  時間は 

考えておくべき だろう 

皆で  考える 

情報は  いくらでも  

ネットで  伝えられるなら

手段は  いくらでも 

あるだろう 


僕らは  後戻りは できない 

昔の生活は  できない  

それよりも  多少 

縮小はしても  基本は

変わらない 生活が  必要だ 

やることは  いくらでもある 

その準備のために 

考えることは  絶え間ないほどに 

やって来るだろう 

その過程に  踏み出す前の 

その準備  だけにでも 


僕らは  どう生きたいか   その時、

どう生きるべきかは ないかもしれない 

それぞれが  それぞれの 歴史を

変えられるわけでは ない 

生活習慣を 変えるには  

どこかで  皆が そう気づく 

そういう瞬間 が  あるだろう 

それぞれの 国で 

それぞれの 気質で 

変わらないものが あるだろう 

そこに 統一や  総合を 

期待するのは 誤った方向に 

導かれること だろう 


荒れる や 

世界は  荒れるだろう  

ハレルヤ 


僕らの ために 


僕らの  世界が 


それぞれに 築けるように 


僕ら自身を  祝福しよう 


僕らは  ここにいて  


人間は  ここに いる、と 

言うために



もう そういう時代が 

来ても 

いい頃だ 



皆 うすうす  わかっているはず 

200年も  このままでは 

いけない、と 

思って来たのだから 

そう聞けば 

思い当たる はず 

僕らには 清濁併せ吞むにしても 

不道徳の 許容にしても 

それぞれに 健全な  やり方が  

あるはず と



工夫次第で いつか 

矛盾を  乗り越えられる 

時が くる、と


それが できない  僕らでは 

ない、と 




:::

(あまりに説明不足・不用意で)

まったく不本意ではあったけれども

僕の残り時間で、今書いたものとして

時限的に、一時的であっても小局的に

意味があるだろう、

と幾十時間くらいは迷ったけれどもブログ

に載せることに。


 ● 少しだけ、  つづく
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脱力3 哀愁とネズミ [悲哀]

なんでもいいから、なんでもない

ことを書け、と言ってもいいし、

言われたこともあるかもしれない

し、と普通のことのように思える

が、僕にはそれが限りなく不可能

に近い要望だというのが、結論に

なる。

それは初めに、なんでもないでは

なく、何気ないことを書く、それ

を知らずに狙ってしまう。

何気ないユーモアやくす笑いを

書いて狙いも意識したのではない、

という処を書く。

どんなことにしても文章にする

場合、なんでもなにか狙いの文に

変身させることができるのが、

文章を書くことの醍醐味のひとつ

なので、例えなにも狙っていない

つもりでも、その無意味であるが

故の無意味な面白味があるので、

自然にそこにペンが動く。文章家

根性とでもいうのだろうか、ほぼ

習性だろう。


もう脱力を書くのはやめだ。その

心境をつくるだけで疲れてしまう。

ある程度、回復してくると、こんな

ものなのだろう。脱力のテーマが

続けられるか、というテーマに

変わってしまっていて、もう目的を

備えてしまっている。サッカーの

ようにゴールを目指すようでは、それ

では自然に脱力にならない。



レインカップとは なんだろう

雨を 満たすための ティカップ

だろうか 

滴が  ひとつ ひとつ 

カップを 満たすまで 

見つめて いるのだろうか 

ああ  もう  

料理の 後片づけは

嫌だよ ね 

ネズミに 字が読めるなら 

皿洗いや 食器の片付けの 

アルバイトに 

応募して  くるだろうか 

それとも  ネズミの 調教を

すれば  ネズミはそれを 

理解するだろうか  そして 

おしゃべりを 始めるだろう 

猫が 夜中に なにをやって

いるかとか 

オレは  どの皿の 銀の縁の

輝きが 好きだぜ 

とか   無駄な話に

働く気 なんか  ないのだ  

ないに 決まっている 

だって 相手は  ネズ公だぜ



たいていの  空想は 

役に立たない  快いだけの

一文も  銭にならない 

それは  まれで  逆の話で 

僕らは 娯楽でつぎ込むのは 

そういう僕らの 生活とは 

かけ離れた 嘘話なのだ

わかりやすい 嘘はいい 

安心して  騙されるのが 

それの  どこに 

価値があるんだろう?

誰も 映画を観て  

詐欺だ  とは 言わない 


僕らが 騙されたい時 

そこへ  なにしに 行くのだろう

安堵して 詐欺に引っかかるのが 

そんなに  快楽 なのだろうか

夢は おもしろい 

どう考えても 

この海も  この山も 

この地球は  人間のためには 

つくられては いない 



小さい耳は  小さい女だ 

どんなに 美人でも 

同情を 禁じえない 

小さなことで  ヤキモキしてばかり 

人生が  生活より  

小さく できている  



不幸は  連鎖で できている  

簡単だ  

わがままで  ひとりよがりで 

マイペースで がんこなら  

その一つでも  満たしていれば 

それは 避けられず  

不幸が  不幸を引き寄せ 

なぜ  私は 不幸なのかと

働かない  ネズ公のような 

ことを  考えている 

おしゃべり ばかりしながら 



そうだ  君を 

誤解していた 

僕を  好きなんだと 

それが ほんとでも  僕は

そう思うことに  したんだ 

なにに  うんざりしたのか 

僕は  風邪に 罹るように 

愛を  

まるで  蟻のように  

踏みつぶしたくなる 

だから 

これでいいんだ と 

いつも  思ってしまう  

この 狂おしい ジレンマ 

好きだけど  

好きで いたくない 

まだ そんな 

思春期を  抱えているんだよ 

そうだ 

僕を  誤解しないで くれ

君が  好きなんだ 



そうだ  叔父さんは 

世間体で  できている 

大人のつきあい というフレーズが 

好きで  ルールを気にしない 

僕を  許さない 

朝は 彼よりも早く 起きて

睡眠を  妨害しては

いけない  

それでも  人との間では

お笑い芸人の ように 

笑って 愛嬌を 振りまく 

役者になる 

いくつも マンションを買ったのだから

投資だった のだろう 

資産家に  なりたかったのかも 

自分のお金は 守りながら

相手のことを 考える  

それが 厳格な掟のように  

思っていただろう

もう  聴くことは できないが 



わからないことが わからないように 

いくつもの  機会が ありながら

それに気づく 年齢ではなかったり 

食い違いが  横行して 

多くの  わからないものに 

流され 

僕は  流されたことを

思うよ



あの日  

あの時 

あの ささいな  誤解 

くり返すように 

思うよ 

避けられない  僕らの

癖や  見栄や  口癖 

悪口が  あの人の 心を 

捉えられないんだ ね 

些細ではない ように  

僕らは  知らない 

誤解の海に  溺れてしまうよう 



還っておいで 

僕の  すなおな  心 

率直で  人を想う 

あたたかさの  波 

レインカップに  愛の一滴 

ひとつ  

ひとつ  

溜められるものなら 

あの日  

あの頃 

帰ってくるものなら 

あの人は 

彼や  彼女は 

あなたは 

僕は  私は  

どうして 

いるでしょう 

カサブランカ 

思い出の  喫茶 

レインカップの  曲 



古い 街並み 

過去だけで  できた街 

そこに  住みたかった 



還っておいで 

僕の  すなおな  心 

率直で  人を想う 

あたたかさの  波 

レインカップに  愛の一滴 

ひとつ  

ひとつ  

溜められるものなら 



あの日  

あの頃 

帰ってくるものなら 

あの人は 

彼や  彼女は 

あなたは 

僕は  私は  

どうして 

いるでしょう 



カサブランカ 

思い出の  喫茶 

レインカップの  曲 



古い 街並み 

過去だけで  できた街 



哀愁を 

霧のように 浴びて



そこに  住みたかった 



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脱力2 アニメチックな夢 [夢]

ストーリーとしては長い夢で、時間は

短いのかもしれないが、処々の印象で

記憶に残ったところを写し出してみる。


どこかに親戚かうちの姉か友達か、

彼らを送るのに、僕が駐車させて

おいた車を取りに歩いている。後ろ

からその女達の声がするのである。

高速道路か高架橋の下に行こうと

している。そこでは小娘たちが何か

コスプレで騒いではいないのだが、

その高い声で喋っている。ピンクの

家具が並んでいて、ソファで(一人

用)4、5個バラバラに置かれている

が、もう僕の車は眼中にない。

途中に置かれたピンクのソファに

僕は坐った。すると、急にソファが

動き出したようだ。真ん中のソファに

坐ったはずなのだが、最後部に配列さ

れていて、全部道路を走り出した。

先頭を見るとトラックバンがあり、

どうもその指示で連動しているらしい。

それにしても頭上は高速道路なので、

BPSは届いていない。革新の技術なの

だろう、(と驚くことはない、夢な

のだ)


電波?は強いらしく、ソファの間に

他の乗用車が入り込んでいたが、

それぞれつながって道路上を走る。

走ると言っても、ソファに車輪は

なく、空中を浮いてそれもけっこう

揺れながら、あっちこっちしながら

走ってゆくので、快適だった。

どうも小娘たちは芸能人グループ

らしかったな、と僕は考えている。


第1部分はここまで。切り替わった

のか、ストーリーをわすれたのか、

見当がつかない。

次の場面は追われていた。何者か、

または何かの組織にか追われる、と

いう夢は人はよく見るようだ。

追跡者は二人いた。黒いスーツに

身を包み、という映画・TVドラマ

の見過ぎで夢に出てくるのだろう。

僕は夢ではいつも空中滑空ができ

たので、空を飛んで逃げるのは十八

番(おはこ)だが、今回はその能力

を極力知られないほうがいいらしく、

初めは走って逃げていた。

そこで逃げ込むのが、低い丘にある

寺か神社へと入る森の入り口だった。

すでに夜だが、そこは祭りの縁日の

ように賑やかだった。

しかし、雰囲気は異様で化け物か

妖怪の宴、といった雰囲気だった。

それもそのはずで、そこは超能力や

神秘を謳った新興宗教の会場だった。

案内役の男か女の顔がなにか喋って

いたが、聞き取れない。右手の森の

暗がりにはゆらーりと揺れる提灯

だか火の玉だか、3個ほど挨拶を

しているようだ。

左手を少し先を行くと、そこには

電車の車両を改造して、食堂風に

したのだろう。車体も暗かったが、

黄色く塗られ、いくつもの窓から

中のこれも黄色い光がケバケバしく

漏れていた。酒を飲んでいるのか、

中から大人数の騒ぐ雄たけびが

響いた。乱痴気パーティだな、と

思った。

その横を通って登ってゆくと、前方に

不思議な光景があった。宇宙飛行士

のように無重力状態で7,8名が空中

浮遊しているのだ。幻想的といえる

光景で何色かのカラーでライトアップ

されて、その光の中を全身タイツの

人間が自由に泳ぎ回っている。こんな

こととができるんだ、と感心する。

右手に二段の丘があり、水が薄く

張った池があった。そこの水はきれい

だったが、コルト拳銃の45口径が

沈んで黒い握りが水面から出ていた。

他にS&Wのレボルバーもあったが、

握りが外枠だけで、透け透けだった。

壊されている。

その近くでうずくまっている青い男

がいた。いかにも邪悪な顔で、その

拳銃を池に捨てられた様子で、悔しく

文句を言いたそうな風だ。が、動けな

いらしい。この宗教団体が男に与えた

罰だとしたら、相当手強い強力な相手

だ、と思った。

その上の段の少し離れた処に山門が

あった。3段の石段を登った処だ。


青い男が業を煮やしたのか、立ち上が

って、とうとう我慢できずにしゃべり

始めた。何を言っているのか聞き取れ

ないが、演説が始まって、まもなく

銃声がして、男は倒れた。森のどこか

にスナイパーがいるらしい。(映画の

よくあるパターンで見過ぎ、笑)

そこで僕の出番だと気づいて、演説の

登場者にふさわしい山門に立つ。僕は

レインコートらしきコートの男だった

が、それを見ている自分がいる。男は

石段を歩いてくるが、演説をせずに、

そこにいた潜入のレーポート女性記者

にマイクを向けて、渡す。どうもこの

宗教団体の潜入捜査をしていた記者

らしい。

(まったく。ドラマの・・・・笑)

どんな演説か待ち構えていると、なぜか

記者の様子がおかしい。声が出ない。

どうも少し震えているようだ。青い男

が射殺されたせいか?いや、ここは

夢だ。(という必要のない説明)

ともかく女性記者は臆したようで、

僕だった、が今はそうではないレイン

コートの男が喋ベり始める。

神はいない、だから、こんなもの

(空中浮遊)はインチキだ、という

ようなことを言う。銃弾は飛んで

こなかった。一応、準主人公なの

だろう。

そして、男は池からコルト拳銃を

引き寄せて、手に持ってしまった。

これはサイコ・キネシスと言うの

だろう。

そして、人が浮遊する空間の下の

地面にその機械装置があるのだろう、

と指摘する。今からそれを撃ち抜く

が構わないか?と尋ねるが、返答は

させないつもりだったらしく、2秒で

その狙いで発砲してしまう。とたんに

そのきれいに舞い踊っていた人数が

地面に落ちてしまった。どっと森の

全体に驚きの空気が広がる。


ここまでが第2部。続きはたぶん、

記憶が抜けたのだろう。

また追われる場面から始まる。

ゴム手袋の親指を一軒家の大きさ

に拡大したようなオブジェは緑の

ややうすい色であった。その後ろ

にもっと大きい指がビルディング

並みに立っている。一瞬、飛んで

逃げようかと思うが、そうすると

能力がバレてしまう。また、飛んで

いる処を撃たれてしまうかもしれ

ない。

そこまで走って行って、ビルの

階段を昇る。このままでは追い

つかれると観念した僕は、なる

べく見えない位置で空から逃げ

ようと決心する。

5階だろうか、汚いビルで、ドアも

ベニヤ板の老朽化寸前のドアだった。

それを開けると、すぐ前に初老の

男が受け付けらしく、椅子に座っ

ていた。これこそあの脇役で有名?

なあの俳優だった。と思ったが、

そんなはずはと思うが早いか、男は

その俳優に似ているだけに変わって

しまった。その男の上にこれも

ベニヤを細長の羊羹状に切ったよ

うに暖簾のように張り並べられて

いた窓の暖簾?があった。

おっさん、僕はここから逃げるから、

と言ったが、おっさんは窓の下には

何もないので落ちるばかりと言いた

そうだった。僕はそのベニヤを持ち

上げて、体の半身を窓の外に出した。

もう追手が迫っているのがわかった。

そこで窓から滑り出ると、ビルの

5階の路地の上を飛んだ。脱出口

を眺めて、もう追っては来れない

だろう、と安堵した。


ここまで第3部。長い。

次は記憶が抜けているのがわかる

くらい、かすかな記憶がある。なん

だかわからないが。

急に山岳の尾根のような処にいる。

が、山のなかではない。少し先の

鋭峻な岩山があり、そこから下の

街が眺められそうだった。そこまで

行くと、街ではなく、大粒の宝石、

おはじきのガラス石の百倍くらいの

石が薄茶色で、いくつもあり、重な

りもあり、そういう広場に見えた。

その途端に、高度80m以上はあった

岩山は5mくらいの低さになってし

まった。崖の上から大滑空ができると

期待した僕はがっかり。

しかし、今度はそこが遊園地である

かのように2,3歳の女の子が喜びの

声を上げて、にぎやかな場所だった。

広場の周囲の平たい岩の場所から

どうもチップを重ねて投げるらしい。

チップはポーカーチップのギザギザで、

大きさは女の子の頭より大きい。それ

を5枚くらい重ねて、広場にある宝石に

ぶつけるのが競技らしい。

突然、明るい雰囲気に変わったので、

またこの頃から、背景や登場人物も

アニメの画でしかも3Dっぽい、

立体画に移行し始めていた。僕は

その画を夢の外から眺める観客に

なっていた。子供たちの笑う声が

その場を包んでいた。

チップが5枚重ねて投げられ、僕が

すかさず空中で受け取った。母親の

いる子もいたが、割り込んだ僕に

機嫌を損ねることもなく、なごやか

なままで、僕はチップを2枚と3枚

の二つに分け、それを他の岩場の子供

へと投げて配った。・・・


ここまでが第4部。このあとに全編

アニメになってしまう夢を見て、これ

はいける、と思ったのだが、その前

の3部を細かく思い出しているうちに、

書きたかったアニメの夢を忘れてし

まった。覚えていて、思い出せると

思ったのだが、・・・。

だが、アニメの夢は絵で見せなければ、

言葉では通じないので、これはこれで

いいか、みたいな。


::

脱力のために、昨日は何もしないで

いいと思い、散文を書いて、うまく

いったようで、昨日は今年最後の陶芸

教室でもあって、区切りもついて安堵

して、こんな夢を見たのだろう。なに

しろ、猫並みに14時間近く半日寝て、

朝に2回起きてトイレくらいで、体の

疲れを開放していた。緊張して、集中

して充実を感じるというタイプなので、

一定期間でどうしても煮詰まって

しまう。これまでは我慢ならないほど

煮詰まると、LCCの航空券を予約して

日本脱出をしていたのだが、もう

よほどのことでないと一人で海外へ

は行かないだろう。

体の危惧される病気に対して準備を

していくのは大変なので、サポーター

が必要だろう、理想を言えばだが、

しかし、現実問題ではある。

ともかく、脱力はその時に、その

時々ですべし、だろう。


次は夢の映像を記録できる装置が

完成したら(企画はあるらしいが、

まだまだ)、それでアニメチック

な夢の冒険を届けられるのだが。

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脱力1 感じるままにブギ [詩]

このところ、煮詰まっている。ひとりに

完全になるために海外へ遁走したい、

と思うのがその時だ。



< 感じるままに ブギ >

わかっていることはつまらない。

そして、わかりかけて、その最終だと

感じる、そこに参加することをして

来た、と思うのだが、・・。

それでも認識の匂いはつきまとってきた。

鼻に衝(つ)くから気に障る。

そんなことではない、と誰かが言った

かのように、 



Free な戸惑いや 彷徨(さまよ)い

というのを  求める時

僕は  なにも探していないのを 

知っている。  

それで片隅の  安心を見るように

心を 解放するように 

心を はみ出して 

心のない 世界に  踏み出したいのだ

ただ  終わらないだけでなく 

なにも 決まらない 

なにも 進まない 

停滞感 というもの 

ゆっくり とろけそうな  怠惰 

どこにでも ありそうな 

貝殻の 風鈴の  音 

風 

熱くはない  温暖な  砂漠

拡がる砂丘を  眺めながら 

そこへ 向かって  

歩いて 行って  みたい 

どこにも  辿り 

着けそうもない  だろう  

明日の言葉を  もう 

考えなくて いいのだ 


そうだ 

人生を 降りよう 

煙草を 吹かして  生きてゆこう 

靴底の 穴を感じて 

歩いて ゆこう 

そうだ 

もう   どこへも 

行かなくて いいのだ 

駅も  時刻表も  おさらばだ 

君は  なにを していると

優越に 満たされて 

うろついた 浮ついた 回想を

見つめながら

やがて  空腹に なっていけば 

いいのだ 



カラスの 信号は  わからない 

カラス語 なのだろうか 

それでも わからない に 

違いはない 

ヒューマン サウンズを 流せよ

ここは  そんなに  冷たい 

世界じゃ ないはず だぜ 

だらしない 美しさを 見つければ

もう  大丈夫  じゃない?

片づける  ゴミに  負けないように

スッキリした 部屋にしたら 

完全に 負けだろう 



許容量の 無駄物が そこを 

自分を主張 しないなら 

生きる意味 ばかりに  なっちまう 

焦げついた 匂いに  

ヤバさを  突いているのは  

金属の  耐え難さ だろう 

無理しない って 

さ 


そこに  そ 

片方の 筋肉痛と 

歩いてやれば  軽く 寝転ぶ 

衝動も 

楽になる  



それなりに  

考え  得て  見る  

考えて みる 

僕と 犬の  境遇を 

寂しさと  同居している 

悲しい眼が  いいね 

測れない 海図で 

海の 滴(しずく)を 探して

朝  靴を履いて  

玄関を  出てゆく 

交通ICカードを  ポケットから 

出そうとして  慌てる 

海草が 入っていないか 

確かめよう と している 

潮の 匂いが して 



黒い  ロング 

赤い  サング 

バーベキューの  トング 

サージェント  ロング  

トローリング  リング 

会って こようぜ  ビッグネーム

We  Need  ナウ ナウ ナウ

ソーシャル  ガブリエル 

納豆  タイム 

ユーキャン  Fry Away 

どんびろう  かむすてっど 

ラグジュアル  カバネル 

タイム アフター  タイネル 

喉が  辛い 

I Make ナウ ナウ ナウ

勝手丼 と  豚肉 

野郎 と 銀座 

すかさず  独楽を 回して 

帰って こようか  姉さん 

キューイ と うなる ギター弦 

コスモス荘

コスモス想 

コスモス草 

こす  藻草 

親切な ひまわり 

感敏な  便箋 

簡便な  栓 瓶 

せわしい セザール 

ちょっと 腰を振る  大道芸人 

だから もっと  うやうやしく 

ですから  お釣りを もらうために

あなたを  釣りゃ しませんて 

どうか このまま  

天国まで 見逃して  ください 

そこの 田舎のバス停 でも  

かまいませんて 



走る 逃亡 

帰れない  家出 門 

このまま  月まで と 

月を見上げ ながら  言う 

台詞じゃない 

この 鼓動が聞けたなら 

道中 聴きながら 歩けたなら 

そんなに  寂しくは ないのに 

それだけでも  

私の 心臓を  取らないで 

おお  ミックス  マリア 

ミッキー マウスの 妹 

スリッパを 履いた  猫たち 

子供の むずる 声

ピアノよ  泣き やんで 



鐘は  やがて 

遠く なった 



遠く  

遠く 

聴こえるままに  騒いで 

踊れる 片足を  持ち上げて 

遠く  

遠く 

がんばって みたという 記憶を 

もてあそぶ 

フラメンコは スペイン 



遠く  

遠く 

私は  遠くなった 

戻る道に  遭難している 

フリージャー  閑古鳥 

今に  遠く 

また  遠く  

なった 

鋭く マタニティ並みに 

風が  孕んで 



帰り道を  

失った



帰る 国を 

失った 



帰りたい 場所が 

見つからない 



遠く  

遠く  



それは ・・・


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精神の或る領域は進化の鍵? [心の進化]

::精神編::


何もしていないでひとりいる時、

やはり不安があり、孤独である。

これは自然状態なのだろうと

思う時、今、書き始めている時

にはこの行為上の僕はまったく

孤独を感じなくなる。不安もない。

むしろ、充実さえ感じる。

<この応用は昔からあり、身内の不幸

で悲しい時は仕事に打ち込んで、

時間を忘れる、などがそう。この

ことから、自分を想起して自意識が

立ち上がること、そしてその自分を

打ち消すためには時間(自意識下で

ないと思い出さない、時間の存在は

自意識が必要)を忘れるために没頭

する、というのがわかる。>


精神は自己である限り、その拠り

処を求める。拠り処がありさえす

れば、精神は安定感をもっている。

では、精神と呼ばれる体の神経など

様々な複合の関係を持ちながら、

在るものとしての“それ”は、依拠

し続けるものが必要であった筈で、

精神という自己が固まるまで、何を

材料・エサ・食料・構成物にして

自己を形成したのだろうか?

たぶん、僕らは答えを持っている。

しかし、それをはっきり意識でき

ない。

僕は見つめている。つもりだが、

できているかはわからない。

精神という概念ではなく、その

全体が意識の或る工夫でそれこそ

「或る・存在としてのもの」として

感覚できるだろうか。

その精神に依拠しない僕という僕は

存在するのだろうか。考えでは

矛盾するのはわかっている。話して

いるのはそういうことではなく、

人間に自己基準は確として存在して

いるように僕らには思えるが、動物

にはそういう概念基準はないだろう。

彼らは自己概念ではない生きる基準

がある。そうでなければ、生まれて

すぐに食料を得たり、捕食する方法

がわからずに滅びていただろう。

では人間は動物ではないのか?その

自己という一点で動物とは異なって

いる。だが、人間になる前は動物で

あるという進化があったのなら、

まだ動物に退化する可能性は捨て

られていないはずだ。

だから、自己の機能を残して、その

枠を残したまま動物の精神に還る

という変化は残っているだろう。

例えば、それが葉っぱであるなら、

自己は葉緑素のようなもので、

精神が葉っぱ全体であるなら、

自己を捨てた葉っぱは透明な葉っぱ

になるのだろう。葉の形はそのまま

残しながら。

形は自己の形を残しながら、全体では

精神のままである、という。

枠が残る限り、自己は常に生成される。

毎日その清掃・整理作業があるだろう。

まるで水槽を汚す緑苔を、目立ってきた

なら清掃するようなものだ。

透明の状態が、自分の主観を排し、

客観を呼び込むことになるから。

そういう動物の意識と人間の意識と

を分離ではなく、統一で感じる状態は、

日常でもよく起こっている瞬時である

とも考えられるのだが、これはもう

少し先に別な処で意見を述べよう。

そういう状態で動く感情や感覚・思考

というものを一種の精神(状態)と

言っていいのならば、彼は自己に

かかる抑圧はうすく最小限なので、

恐怖は抑えられるだろう。それは

不安にならないので、孤独感も感じ

ないようになるだろう。

自己を盾にして、防御一点張りに

ならないので、自然の秩序は彼に

馴染むだろう。そこから彼の地球

との一体感が生まれてもおかしい

とか、不可解なことではない。

彼はひとりだが、ひとりという孤独

を感じない。

それは人間関係との間での安定感

ではないが、同じ生命体としての

命の一体感を持つものだろう。

「一にして多」というような仏教的、

あるいは哲学的命題ではないにして

も、そういう感覚が支配する精神の

体感になるだろう。


どうして瞬間は永遠だという命題を


僕らは受け入れてきたのかが、不思議

だが、それは僕らの昨日から今日へ、

今日から明日へという継続概念で

ある“時間”の概念を捨てなければ、

受け入れてしまうのは矛盾して

しまうはず、だからだ。

ユークリッドの幾何の点の概念は、

部分を持たないもので、長さも幅

もないとするが、そんなものは

空想の概念以外では存在しえない、

と考えられる。すでに大昔にその

矛盾を定義して、受け入れざるを

得ないようにしている。

そういう点の中にこそ、瞬間も永遠

も存在すると誰かが言いそうだ。

間違いとは決まらないが、実質的

に捉えれば、それらは異なるもので

ある可能性がある。


ひらがな・漢字を僕らが日常で触れ

る生活を指すのなら、精神はカタ

カナの世界だろう。僕らの心にある

精神という抽象は幾何的な形で、

直観的でないので見てもすぐに

わからず、ひらがな・漢字に変換

しないとピンと来ない。

世の中がカタカナ(精神構造を基本

にして)ばかりになっても、変化は

少しずつなのでその体勢、やがて体制

が進んでも気づきにくい。

その増えた体制の中で情報やシス

テムの統合や簡略化を進めている

わけだが、それはいつまで尻ぬぐい

が続くだろう、とも見えてしまう。

世界を変える、と言った意味は

これまでもこれからもそこら辺り

でうろついているのだと見える。


僕らが世界を変えたと呼ぶものは、

実はほぼ人間社会に影響を及ぼした

ものを指していて自然や気象・海流

といった生活の根源を変えることは

ない。改良して便利にしたことを言う

だけだ。スマホもそう。

僕らは相変わらず、四角い家に住ん

でいるし、車の中も四角、あるい

は台形のままで、外側のボディが

少しチェンジされたのを格好いい

と見ている。ただ四角を組み合わ

せただけなのだが。(ただし、ここ

まで体感が慣らされると、曲線の家

ではめまいに襲われそうだ)



不完全な人間が考える生活が不完全

の中で、いつまでも修理ばかりを

続ける宿命に悩まされているだけ

なのだろうか、と僕が思うくらい

だから、脱出口もその方法も豊富に

“見えていない”日常にあふれている

に違いないのだが、・・。

この方面に目を向ける必要があるの

だが、社会資本が提供する流行が期待

される商品ばかりに目が行って、ます

ます購買意欲ばかりが刺激される方向

なので、ちっとも外に目が向かない。

それは僕らがお金ばかりに気を遣う、

そういう生活をプロパガンダで刷り

込まれているからだが、そういう環境

を提供され続けてきたので、その理由

を考える余裕もなくしている。見つけ

ても時遅くと感じるのだろう、内部

批判だからよほど緊急に改善が必要

だとわかる案件や事件以外は、批判が

続けられない。そして、根本の因まで

たどり着かずに、また置いてかれ、

忘れられてしまうのだ。こういう

習慣で今までやってきたので、僕らは

実生活の不安・不便さには立ち上がるが、

世界全体の偏った方向や歪んだ体制には

眼が向かないように親から祖先からの

遺伝子を受け継いでいる。



::体験編::


それが確実にわかったのは、僕は還暦

から無意識生活に入り、10年もして

からだ。それは顕著な変化があった

からわかった。

戦後GHQは共産思想を日本人の精神

構造に叩き込むために、7000冊もの

日本の歴史の神道や忠義の人物などを

教科書から消してしまった。

僕らは例えば、和気清麻呂や楠木正成

のことを知ることがなくなった。古事記

も日本書記もその成立期が記される

だけで、その精神はまったく教えら

れることはない。当時の共産党員が

教育組織の中心に入れられて、反日の

教育が始まったからだ。

これは日教組のいじめに対しての無関心

から対策がほぼされてこなかったため、

いじめの件数が上がり放しなのを見ても

確認できる。交通事故でも10年前、もっと?

から対策して死者数が半減したのだから、

頭打ちならともかく、右肩上がりは異常

である。


ここで端折るが、僕は天皇は友達の

ようなものだと、10代か20代の頃、

その位置をどこに置くのか迷って、

(天皇は象徴であるという中途な

位置、今の上皇も象徴の立場に迷っ

ておられたという発言をしている)

そうしたが、すでに天皇の権威を

軽く扱うように洗脳されていたが、

それが洗脳ではなく、自分が考え

自分が決めたことだと思っていた。

アメリカなどの欧米文化にアメリカ

ナイズされた影響だとは知らず。

或る日、そうではないことがわか

った。しみじみと天皇への畏敬の

念が湧いてきた。驚いたのは僕で、

僕は自由を謳歌して、そのように

歩いてきたと思っていたし、そうし

て来たので、疑いはなかった。

が、この畏敬の念は厳密には僕の

ものではなくて、僕の祖先のもの

だった。これまでに天皇に関心を

持ってその歴史を調べたり、その

関係神社などを参拝に訪れたこと

も、実に一度もない。

だから、突然湧いたこの念は不可

思議なものだった。

僕の中からのものだから僕のものの

はずだったが、僕にはその痕跡の

記憶もなかった、にもかかわらず

実感だった。だからといって僕が

いきなり天皇崇拝者になったわけでは

ない。今も検討中だ、日本精神と併せ

て。

僕は恐る恐る、この畏敬の念をすぐ

には受け入れず、どうしてそれが起こ

ったのか探ろうとした。

それは2,3日して不思議な感覚に慣れ

始めてからのことである。

呼応したのは、やはり戦後のこと、

大東亜戦争=太平洋戦争=第2次世界

大戦のことを最初はわずかにから調べ

始めて、畏敬の念は2年前?で、なお

しばらくしてからの時期だった。

それは僕の中で今まで接点がなかった

ことで、戦争のことを、つまり自分が

“嫌なことを調べる気持ちになれるまで

になって”、つまり自分に向き合える

ようになってからのことだった。

アメリカ文化という、音楽や映画が

自由主義を文化として日本に半ば意図

的に輸入された。それが幻の民主主義

も定着させたのだが、選挙に行くも

行かないも自由だと考える、そこには

民主主義はない。すくなくとも民主主義

という歴史を知らない。

僕が民主主義を知ったのはインドで、

避暑地であり、またヒンズー教徒と

イスラム教徒とが折半に近く、それで

対立が鮮明になったカシュミールの地

でのことだった。紛争が起きやすかっ

たので、軍隊が駐留していた。そこで

ぶらぶら観光気分で街中を歩いて

いた僕はある住宅地の路地で、二人

の兵士に呼び止められた。二人は

ライフルか機銃を肩に下げていた。

それで一気に緊張が走った。どこか

へ連れて行かれて尋問を受けるの

だろうか、と不安になった瞬間に

その機銃の鉄の匂いがした。

これも面白い現象で、僕らは緊張す

ると、特に死を前にするような時の

緊張には、五感が全開放されて周囲

の環境を5mだか10mで嗅ぎ分ける

能力を持っているらしい。死を脳が

感じることが必要である。強烈な、

あの血の、鉄の味がした。

それは簡単に、これ以上入るな、と

いう警告だけで済んだが、帰国して

しばらくしてどこかの国で軍隊が

邪魔をして、投票所に行けないと

いうニュースを観てわかった。民主

主義は安心して投票所に行けること

なのだと。

それはインドのカシュミールでの

鉄の味の体験があるから、そう感じ

ることができた。TVを観ながら、

すぐに思い出したのが鉄の匂いだっ

たから。


僕らの民主主義は単なる教科書の

政治体制のひとつに過ぎない。古い

ものが好きな人は、封建主義に戻って

もいいじゃないと言っているのを

聞いた。それは自由に関わる。西欧

ではその自由を勝ち取るために戦い

が必要で、戦争というその残忍な

革命の歴史があった。

僕ら日本人に『自由を守るために

民主主義のために戦う』という議論

は無縁だ。なんのことかと思われ

てしまう。それは一部の知識人が

暇な議論で言質で戦っているだけ

のことだ。


これまでの意識の無知の現状を説明

するためにブログとしては長く書き

過ぎたかもしれない。短絡してしま

えば、僕らの精神はそれから発生した

僕らの文明文化であり、そこまでに

変遷した彩である僕らの歴史である、

そこから敢えて批判的な側面を挙げた

ということ。人類の文明文化の賛美・

優秀さは改めて言うまでもないだろう。


ヒントは言葉では民主主義でも歴史

ではそれは重い感情だ、ということ

である。

::

僕は投票所の前で自衛隊がバリケード

を張って、投票させないように銃を

構えている日本のニュースは見たくない。


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屈人織辺の日記 10 (2)益子・笠間陶芸旅行 [陶磁器]

なぜか、笑ってしまいます。(多分に

陽秋的)

いよいよ益子の本骨頂について語る

ことができるからです。益子メッセには

益子美術館と益子国際工芸交流館(小さい)

とがあり、そこに濱田庄司の旧宅もあり

ます。前回はその旧宅を紹介しました。

やはり迂闊なのは僕でした。美術館も

工芸交流館もまったく素通りしていま

した。まっすぐに濱田さんの旧宅に

伺っていました。

観光地図を見ると、そのメッセから2km

ほど離れた陶器市通りからも外れた処

に濱田庄司の参考館がありました。

参考だから期待するほどのものではない

でしょう。陶器市を歩いて回り、益子駅

にも出て明日の移動の確認をして、

陶器のお土産も買って、その参考館まで

足を延ばしました。

陶器市のはずれから街道があり、そこ

の脇にすぐの処にありました。

益子参考館1.JPG

益子参考館 門前

門の横側がチケット売り場と売店に

なっていて、そこから中の土蔵が二棟

見えました。入口が開放になっている

ので、展示場と見て取れました。

参考館2-1.JPG

徳利です。龍門司とあるので、龍門司

焼きでしょう。薩摩・鹿児島の窯で

見つけて購入したものと思われます。

首が長い、掛けた釉の線模様が何気なく

て濱田さんも気に入った、という処。

参考館3-1.JPG

左が馬の目皿、瀬戸とあるので瀬戸もので

しょう。馬の目に似てなくもない。

右が赤絵皿、沖縄壺屋とあり、沖縄の観光

名所のやちむん通りの壺屋焼の陶器通りで

見たものでしょう。

民芸運動に携わった濱田さんとしては、

こういう日常品の器には眼がなかったで

しょう。その基準を示すような角のない

作品を選んでいるようです。

参考館4-1.JPG

これは柳宗悦に民芸にも招かれた、英国

の陶芸家バーナード・リーチの鯉のぼり

赤絵皿です。リーチは絵皿の真ん中には

よく動物のイラストを素朴なタッチで

描きました。陶芸家はほぼ絵を描いて

いたり、練習していたりした時期が

あり、リーチも当時では、芸術の一つ

下に見られていた陶芸を英国伝統の陶器

とするべく、目標にしていました。

参考館5-1.JPG

猫が二匹。長閑な作陶風景です。濱田

さんと奥さん。六角の壺に下絵を施して

いる。

参考館6-1.JPG

琉球窯赤絵花瓶、濱田庄司作。

敷いてある布は台湾のもの。にぎやかで

落ち着いていて、いい壺です。

参考館7-1.JPG

ぼやけた画になってしまいました。濱田

庄司作の湯呑。写実ではない、が、竹の

葉、濱田さんらしい作風。どこかで見た

ものをそのまま自分のものにして地味な

新作にしている、といった感じ。

参考館8-1.JPG

中国風味が強いが、日本の土瓶。

濱田さんはこのようなアーチ型の把手

を好んだ。使い勝手はどうだかではあり

ますが、風格のある立派な土瓶。重そう。

参考館9-1.JPG

この土蔵に展示されている。

まだ外国から集めた作品があります

が、今回はここまでで。

                   つづく


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