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第4章 結論はまだ見取り図だけ [見取り図]

第4章 

(1) 前置きから

<自分の細かい概念について考える処

があった。自分ではない自分、という

フレーズが出てきたからだ。思考なので

そこに引っかかると、それまでの流れ

は失った。覚えていない。

そこからの流れは、初めの自分は我

というもので、次の自分は他人を差さ

ない、他でもない自分という、区別で

あり、方向だ。

他人の意見ではなく、自分の意見です、

という場合は自分は我を示さない。

だから、自我(エゴ的な)ではない他人

ではないもの、とはエゴ的な主観を

離れた客観的な主観を示す。平たく

言えば、第3者的な観点を持つ他人

を示す。他人の中のある特定な個人

ではなくて、人から見るとそれはこう

見えるということ、その全般のことだ。

自分という言葉は、エゴとか自我とか

という本質的な内容の意味と、ただ

他人と区別することで自分と表現する

二つの意味を持つ、それと同じことを

言っている。

それを踏まえたうえで、自分ではない

自分を考えてみた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・>



(2) 再びの前置き (それまでの過去)

中断したら、元に戻れない。なのに

中断する意味は?と思うのだが、

その理由を尋ねたことはない。

この不確かさ。その混沌。そういう

なかにある、確かめられない、或る

なにかがある。

自分とは何か。(そこから?)と、よく

問われてきた。僕らがいつでも不確か

なのに、直感的にわかると思う「自分」

というもの。分析すれば、バラバラに

分離して分散して、見かけばかり複雑

になってゆく変わりゆく姿。僕らの

幼少からこれまでに成長する間に

変化しているのに、なぜか変わらない

自分があると、しっかり感じている

僕ら。その矛盾に批判を当てようと

しない僕らは、なぜそうも自分を擁護

するのだろうか。それもその擁護に

しても半無意識で、あいまいなままで

放っておける。その放っておけること

に意味があるのかないのかにも

無関心であることに、意味はないの

だろうか。

ここに一つの意識の深さへの挑戦

がある。それほど深くはないが、それ

は蓋を開けるくらいの意識の転換や

勇気を必要とする。蓋は開けないように

指示されているので、それに反抗する

には、それなりの気力・精神力がなけ

ればならない。

内面の気力・精神力は、対社会の

現実に対応するためのものではない

ようだ。人を動かす力は、社会の

関係性に対してのものと心の内面性

に対してのものでは、ベースが違う。

それでそのシチュエイションもパフォー

マンスも異なってくる。

カントは正確な時刻に自宅の村を

散歩するので有名だ。カントがどこ

を歩いているかで、村人は今何時か

わかったとさえ言われているくらい。

カントは無駄を嫌い、思索に生活を

費やしたが、社会生活がなく、孤独で

あったわけではない。結婚もエネルギー

の無駄だと思い、しなかったくらいだから、

独身貴族で思索一本の生活だったと

思われがちだが、確かに彼は社会

への野心はなかった。しかし、社交

生活はあった。カントはあちらこちらの

会場に誘われて、そこでは話し好きで

話もうまく、人気があったという。社交

を楽しんでいた。その思考生活との

区別が厳格で、また上手だったのだろう。

思考生活のためにすべてを犠牲にする

ような狭量な精神の持ち主ではなかった。

そういう矛盾が天才たちには顕著なのが

面白い。典型的ななにか人間の特徴を

見る思いがする。

精神障害者(天才はその一部だが、

社会対応ができる者とされている)は

僕らが知と自我によって守られている

壁を遺伝的に、あるいは事故や事件の

ショックなどで精神が破られて、その

異常性が発生したのではないか、と

いう症状にも見える。

僕はその障害者でもあるし、軽症で

あった。今は微症で自分でもわから

ないくらい、また天才ではないが、

文章を一部分無意識から持って来る

異常な特徴を備えている。

つまり、精神や神経の異常な症状は

何を人間に起こすのかという、体験を

してきて、その異常性の周辺を実感

するという非日常の経験に恵まれて

いる。(初めの頃の期間が大変だった

が)

第二の自己への自己交換は最近その

内容がわかり始めた。それが19歳以来

30年?も経ってからの自己喪失の再体験

だとは思えなかった。

19の最初の時は自分の存在を感じる核

の喪失だった。その感じが膨大な感覚の

漏洩・消失であり、精神の気絶だった。

次に来たのは社会という全体、この世の

喪失だった。頭脳であり、自我であり、

言葉で造られた現実概念のすべてが

感覚的に喪失したのでそれをわかっても、

説明できなかった。言葉で構築された

世界が意味を失くしたのだから、それを

説明することはできない。

だから、この世のなにも指針にならない

ことが自己に伝えられ、教えられた。

初めは、事態の不安定さをわかり始め

ても、それがどういう具体的なことを

示しているのか、わからなかった。この世

に当てになるものは何もない、ということ

でさえ、初めはただの考えに過ぎない。

その日、それがほんとうに「真」たること

だとはまったく気づくことはなかった。

しかし、感覚は与えられたので、ノーベル

物理学賞の湯川秀樹博士の文庫本を

読んで、物理学の教科書でさえ、物理

の教科書がつじつまの合わない箇所は

省かれて、飽くまでも合理的に説明できる

部分だけをつなげて編集されている、という

湯川の批判的な言いようを見て、気づか

された。先生用に物理でさえ編集されて

公理じみたものが、正しいものとされて

いることに、驚きと義憤を覚えた。

それはほころびのようなもので、ユークリッド

の基本な幾何学でもそういう処理のもとに

整合性があるように編集されていると

知った。また、戦後の米国の日本人洗脳

のやり方などを後年知ったが、それが

現在も続いていて、反日が外国人では

なくて、日本人によって行われていると

知るに至っては、なにかこの世であて

になるものはあるのか、と自虐気味に

までなった一時期があった。数日か。


そこで今は自己の投影に埋もれている人

はこの世が見えない、ということ、自分が

見えないということを、僕が自覚させられて

しまうことだった。まず、その事実があって、

僕の意見なんかがそう思わせるのでは

なかった。

(19の時には、すべての記憶は一時、失わ

れたが、意識が回復して、記憶も戻った。

記憶は概念で主に構成されている。)


そのために二度目でそれが破壊された

のだった。それが非常・非情な不安を

もたらしたのだ。

不思議な光景がある。目の前の世界は

まったく変わってしまったという意識感覚

はあるのに、眼の前の景色はまったく

同じで何も変わらない。

この不安感は大きかった。十年近くも経ち、

還暦を迎えた頃には、なにか指針の必要

を感じたのだろう。それは僕を自己喪失

させた、それ以外にもう(この世の権威を

外すのなら、)なにもなかった。が、その

無意識世界は当然ながら、なんの保証も

ない。それに指針を求めるなら、自分の

精神が壊れてしまう危険も感じられた。

これは自分の意志でする賭けに似ていた。

何の保証もない。だが、他に拠るべき候補

もない。めちゃくちゃな勇気だけあった。

それだけだったのかもしれない。賭けは

なされ、僕は人生最後のというほどの勇気

を奮って突入した闇から戻ることができた。

それでともかくも生きる理由ができた、と

いうのだけはわかった。


(3)  結論

自分ではない自分に、のテーマに戻る。

‘自我’ではない‘他人ではないもの’は、

直訳だが、自我ではないから他人なのに、

その区別は自分を差すというのは、

文章と同じく矛盾している。

内容をちゃんと訳すと、自我をなくした

自分というものは、僕らが自分だと認識

しているものを失って、空洞になった

自分を意味している。そこで僕は自分は

枠のようなものだと想像した。枠としての

自分枠は存在しているが、僕らがその

意味する処の自分の雑多な概念は

そっくり消えてしまっているという。

自己が恐れるのはこのことだ。僕らは

(むしろ密かに)恐れるのは自分が

特別ではなくて、入れ替え可能なもの

であるのを、自分に対して知られて

しまうことだ。体は傷ついて、出血し、

敗血症になるのを自然に恐れる、

死んでしまうからだ。この仕組みを

自己も兄弟である知性を通して、心

に防御させる。

自己は潜在的に自分は何でもない、

という前提になる不安を抱えている。

これはそのままでは生きてゆくのが

困難になるので、むしろ楽観的である

前提を備える。そして、それを確固たる

ものにするために知性という鏡の性質

の比較判断を置く。鏡が自分を映し出す

役目をして、その裏になにもないことを

隠す。僕らは鏡に映った自分を見て、

確かにその存在を確かめ、安心する

仕組みだ。デカルトはこの仕組みを

コギトで「われ思うゆえに~」と表現した。

鏡に映った’我’に、当然、論理的矛盾

はない。

僕らは体の死を恐れて、無意識に防御

するように、心の死に対しても即、アドレ

ナリンが発散するかのように、自分の

信念などの秩序が崩れる時に、それを

即座に避けようとする。それは知性の

概念自己を守るための自己防御である。

それで米国ではエクソシストの映画で

失神してしまう人が現れるのだが、神が

ユダヤ教の長い歴史という、生活には

根付いていない日本では、失神した人

は出なかったようだ。歴史的伝統に拠った

場合の心の、自己防御の強弱を示した

例である。


僕らの精神の自己が死んでも、僕らは

死なない。だが、急激なショックを与え

られてしまう篤信な人には危険かもしれ

ない、ほんとうを知らせるのは。癌の

告知に似ているかもしれない。それを

知らずにいる方がいい、という人も

多いだろう。

だから、僕らは当たり前に、自分を

知ろうとしない姿勢に、すぐスィッチが

はいるようになっている。心に組み

込まれたそれをそのままにして、

むしろそれを悪用して、働かせるだけ

働かせて、その上前、税金とかで

撥ねて、支配するという構造が金融を

通して継続しているのが現代である。

裏の歴史事実は今はいい。

自分が枠であるのは、それは額縁の

ように平面な枠ではないだろう。もっと

柔軟な枠で、容量の大小もあるはずだ。

知性の仮称である自分という言い方

もできる。知性はその枠を知るのは

気づきによるが、その気づきは何に

よってもたらされるのだろう?

まず、本当を知りたいという強い感情

が芽生えなければ、なにも始まらない

だろう。心の準備というよりも、強い

動機を必要とするだろう。

そして、心の自己防御のシステムが

生きている理由はここにある。始め

から理由や動機がある人はいない。

不思議だが、死んで生きて生還すると

人間が変わってしまう。性格とか気質の

表面的なことではなく、内面が一変する。

それは知や自己が触れたくない、生の

芯に触れるからだろう。ただその自覚が

ないことが多い。後でそのことがわかる。

死はうすい膜なのかもしれない。その中

にあるのは消えることのない生の記憶

と想念である、という気が、僕はしている。

生の芯ということを言っても、その接触に

よって、その感覚を経験しない人には

高層マンションに住んでいる、本だけで

一度も犬に触れたことも、見たこともない

(実在した)小学生に似ている。その

犬の息遣いや体の躍動感は想像でき

ない。

初めから試しに死ぬことは無理である。

そして、死んでも死なないで生還する

となると、矛盾している。

生還を期待しながら精神的に死ぬと

いうのは疑似的にしかできない。

それが瞑想だろうと思うが、僕は

正しい瞑想を勧めるべきかどうか、

気持ちは定まらない。

もしも、僕のように19の無の体験が

訪れたら、と思うと申し訳ないと思う。

真理だと思うものを発見し、本人は

満足するだろうが、同時になんらかの

厳しい道を選択しなくてはならないこと

を思う。

だから、僕は経験を示すだけである。

自己責任ではないが、瞑想でおかしく

なったら、騒ぐのはその周囲の第三者

だろうと思う。途中でおかしくなることも

あるかもしれない。僕は経験しなかった

が、その想像はつくぐらいに苦難は

あったから。


昔は林間学校や臨海学校をPTAやらが

子供には危ないとかで止めてしまうよう

では、危険から学ぶことはできない。

僕も子供の頃に緑青が本当に毒なのか

試しに舐めたことがある。腹をこわした

だけで済んだが、無謀や冒険好きで

いつ事故で死んでもおかしくない自分

だったから、ここまで生きたのは

まったく計算外だし、意外だ。

自分は少数な人間の一人だと思って

いる。僕のような変人というのは、

最初から天才という人種に親近感を

もっている。似た匂いがする、生き

ざまのパターンだろうと思う。

天才ではない、天才タイプ・変人

タイプはいつでもいるが、それが体

のアレルギー症やウツ症になって

現れる人は増え続けている気がする。


少し、進めよう。

僕らは死に直面すると、余裕があれば

まともにそこから引き返す。が、心中

しようという事情ともなると、そうはいか

ない。なかには美しい話がある。いざ

死のうとして海に臨む崖に向かって

歩きながら、その男女は世界の美しさ

に幸せな気分に満たされたという。が、

想像だろう。誰が見て、誰がその感想

を聞いたのだろう。本人たちはもう亡く

なっているはずだから。これは生還した

人が、自分の感想を心中した人に

なぞらえて、作った創作だと思う。

だが、言っていることは、初めて色を

見た色弱の人々の感動の動画にも

あるように、本当だと思う。

僕らが社会概念の幕に囚われていて

それが取り払われて、そのありのままの

世界を見た、という話だ。

そして、それは期待のあまり、脳が創作

してしまう、妖精を見たという話にも結び

つく。信用ならないという、世間の常識も

そこでは生きている。僕らは自分で確認

しなければ、いつまで経っても、あいまい

な自己概念の創った世界から抜けられ

ない。

為替の円安や円高でも、数字が上がると

円安で、下がると円高という概念は、

値段の上下で買い物をし慣れている

僕らには受け入れがたく、未だに

110円が115円に、おっ円高だと

間違えそうになる。この世のその国や

地方の生活習慣や伝統で固められて

きた僕らの生活は十分に体に浸透

して、それをぶち破るには、相当の

エネルギーが必要になる。





:: 

思ったよりも進まなかったので、

ここらにしよう。必死にやってきて、

自分で確認したから、これが真だ、と

言えると思ってきた時期があるが、

現実はそううまくいかない。正解は

相変わらず、この概念世界の向こう

にあり、それを知っているだけでは

なにもならない。自分の満足と

幸福には役に立つが、他人のために

なるかどうかは、あいまいなままだ。

だから、僕は自分から講座を開く気

になれない。そういう機会が外から

もたらされるのなら、考えようかと

いうぐらいに乗り気がない。

確かに、20人か30人かで世界は

変えられるだろうが、僕は消極的だ。

例えば、北ベトナムの英雄のように

見なされているホーチ・ミンは尊敬

すべき人だが、戦争はしなかった。

軍隊の実権は持たせてもらえず、ただ

彼はマイクに向かって、ベトナム人民を

鼓舞する放送を続けたのである。

彼は戦争を指揮していたのではなく、

人民の心の支えになっていたのだ。

理想の精神と現実の戦争、それぞれ

の役割がうまく嵌らないと物事はうまく

回らない。僕らは社会に生きている。

それが矛盾の始まりであってみれば、

稲作辺りから自分が自己所有に結び

ついたのも、当然な話だ。

しかし、この話はそこから変えなければ、

という気の長い改革の話なのだ、中身は。

自分は年齢とともに変わらなければなら

ないというのは、本来的なことなのだが、

自己の考える社会概念で自分の成長

もそこに合わせるというのが、僕らの

態度であり、姿勢だ。なんとかその現在

の生活にしがみつこうとするが、自然

がそれを妨げる。フィールド・平野に

住む僕らはそれが社会の力によって

できると考えたいし、そう望むが現状

はいつもそうならない、そう思ってきた。

外側の改革である革命によって人は

残虐さを現しただけで、制度が変わった

だけに終わった。

時代の流れは無常である、ということ

も昔から言われてきたが、僕らは

それでなにかを解決することはでき

なかったように思う。歴史はくり返し、

小さく変わり続け、少しずつ女性化

してゆく過程にあるようだ。それは

大きな揺れの一場面な気がする。

それを見ると、僕はどうしても傍観者

の気分になってしまう。小局の場面

ではいくらでも希望はあるのだが、

大局は変わらないのではないか。

僕らは悟ってはいけないようにさえ思う

時がある。これは悲観論になってしまい、

自己の知性の鏡に魅入られてしまうこと

でもあるが、永遠のループと振り子の

ような循環からは逃れようがない、と

いう結論に達してしまう。

あとは頭がいい人に任せたいと思う

時もある。この考えがある限り、この

考えが続く。つまり、知性自体の結論

に行き着くということは、僕らが常に

悲観論に落ちてしまうことを意味する。

そして、また僕は気を取り直して、

新しい道を探すことをしようとする。

それが循環であろうとなかろうと、僕ら

は悲観に対比した楽観ではなくて、

希望の光を求めるのも人の役目

ではないかと思う。

真の希望は、絶望を連れてくる知に

よる考え事ではない筈である。


その内容には立ち入っていないが、

これが僕のこれまでの概念的な案内図

で、大まかな指針である。つまり、僕の

精神の全貌という内面の見取り図と

いうわけだ。

何かしら知の罠に嵌って悲観している

人には、多少の参考になってくれれば、

と思う。


                 6.16-17
<それから>



自己の容量と強弱についての説明が



ないが、これはこの記事を書いた後に



新しい要素として想起したもので、これ



を書いた当時(2週間前)には明確には



なっていなかった。過去と未来について



はまだ未知である。



全貌を書いた気がしたが、また進み



始めたので、この第4章も少し前の



標識になっただけだ。ということで、



酷暑もあってか、笑う気も起きない。



                6.30
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