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自然の営みも僕らの営みも [自然]

YOUTUBEで自然の画像を検索した。

安曇野での清冽な水が流れる、水車

が三基下流50m先に回っている、

森の木々に囲まれた幅4mほどの川

の映像があった。美しい水、小鳥の

鳴き声も時々。

ここは訪れてみたい場所だ。

そう思い光景に惹かれ、眺めていると、

気がついてしまった。川の流れに

水面から顔を出す水草が、時々

流れに負けて潜り、しばし姿を見せ

ない。これはよくある現象なので

不思議ではない。が、4分も見て

いると、別な違和感を覚えた。これ

が自然をよく知る者の反応だろう、

と思う。

これは反復画像ではないか、と思い

始めた。ある程度の時間を撮りっ放し

にしておいて、後はそれをくり返す。

同じ水の流れに見えるので、バレる

ことはあまりない。

しかし、この違和感は僕の興を削ぐ

ものなので、検証した。これは自分

の何気げない反応が正しいものなのか、

といういつもの日頃の検証と同じもの。

そして、見つけた。

小さな白っぽい羽虫が画面手前から、

出て、下のほうを左へ移動して、左側

からはみ出て行って消えてしまう。

ずっと見ていると、それが2,3分で

またくり返す。同じ虫の種で、同じ

軌跡で飛んで、同じ場所から消える。

それでもう見るのを止めてしまった。

興が乗らないのである。


僕の知っている山の自然は自然を裏切ら

ない。それは当然のことなのだが、何が

違うかというと、自然は長い時間同じ

表情を続けることが出来ないのだ。

どこかしらかが少しずつ、あるいはそれ

まであった表情から急に別の表情に

変わる。雲の流れが少しずつ変形し

ながら流れるように、なにかが変わら

ない自然というものは自然ではない。



僕は山の生活でそれを学んだのかもしれ

ない。上高地の梓川の流れを見つめて、

飽くことがなかった、1時間くらいなら。

いつもそれ以下で切り上げていたが、

それは他に山の楽しみがあったからだ。

水流の流れに同じ変化がいつまで経って

も(近似はあっても)二度と起こらない

のに、感心したのもその頃の発見だ。

だから、同じ映像には自然と死のように

動かない何かを感じて、急に気づく。

なにかそういう疑いを前提に考えて

眺めているのではないから、これは

自然に身についたものだ。



前にも書いたが、CDの音楽は生の

演奏を編集してしまって、人間の耳

に聴こえない周波数は取り除いてし

まっている。僕らは生から少し違った

ものを聴いているのだが、それを

意識はできないと思いがちだが、最近

レコードの人気が上がって来て、中古

の書店チェーンでも、中古のレコード

の販売をするようになった。

レコードはほぼ生の音を拾い上げる。

聞こえてはいないハズなのだが、人

はレコードのほうが音が柔らかい、

とかやさしい、と言う。これは聴こえ

ない音を、聴こえてはいないが、なに

か感じ取っているということの証明

だろう。人の感性はさまざまなので、

聞こえない音を耳でなく、感じ取る

人もいるのだ。それもそんなに少数

ではない。

つまり、世界の自然は見えないもの、

聞こえない音、肌に感じるなにかで

満ちているが、それは見えず、聴こ

えず、肌に直接反応しないために、

記録されなかった。が、この世に

確かにある(存在)ものなのだ。

それを感じるには喧騒から離れる

必要があるだろうし、僕らは無意識

にそれを求めて、野や山に海に、

渋滞を覚悟して出かけるのかもしれ

ない。

そういう雰囲気だけでしかわからな

いものは、僕らが人間関係で敏感に

相手がどんな感情化を察知するように、

それと同じくらいに気づかず(自覚せず)

に察知していてもおかしくはない。

それはこれからも僕らを豊かにして

くれるなにかであるし、なにかで

あり続けるはずだ。

こうやって、気がつきにくいくり返し

の映像に気づくたびに、こういうこと

を見つけるたびに、山への感慨を

深めるのだ。そこには僕らの想像を

はるかに超越するなにかの塊がある、

と。

近くのそれなりに広く深い林のある

谷戸山公園に行っても、あの北アル

プスのはるかな雰囲気に出会えない、

という感慨はそういうことなのだ、

と。

IMGP0083 (1024x524).jpg

これは南アルプスで、たぶん、11年前。


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ひとり・少数ならあっても、全体は思い通りに平等にならない [平等]

ある時、急に突然、運がよくなって

いる、と気がつく時だあるものだ。

目の前が、それで開けるという空気

の感覚が広がる。

信じられない、昨日までの陰鬱な

どうにもならない閉塞が破れたのだ。

と言っても、窓の外は曇り空の重さ

でシン、としているが、・・。

これはいつだったかの近い過去の

自分が用意したものだと信じられる

だろうか。僕があいまいな未来感覚に

頼らずに、考えてみると、そうなる。

考えてそうなるは、「想像上のこと」

だと、だから事実は違うと人は思う

だろう。それが違うのだ。

それは人は自分が考える、それは同じ

だが、自己の意思がまったく働かない

で思考する時には、自然を捉えること

が出来る。なぜなら、そこにはこう

なりたいとか、こうありたいという、

思考の方向が歪んで左右してしまう

伝統的で習慣化した過去の要素がない

からだ。ただありのままを自分(精神)

に投影するから。

それが目の前を見る、というほんとう

の意味だが、僕らから自己という先入

見の眼のベールを取り払うのは難しい

らしい。自分からの方向から考えると

いう教育・習慣・世間で暮らし生きて

きて、それは僕らも無意識な掟にも

なっているからだろう。



自己を失うのは、厳密には不可能だが、

ブッダはそれに挑んだ。彼の死の数百

年後に仏教は体系化されて、ブッダの

成果はその陰に隠されてしまったが、

正しく見て、正しく考える、といった

言葉だけになってしまったものは、

それを示している。

ブッダの考えを古仏典に求めると、

死の思想に集約される。それは僕ら

の生の状態・状況を見るとはそれを

客観化するということで、生ではなく

死の側に立って、それを眺めること

を意味している。生のしがらみ・

こだわりを超えて眺めるのだから、

あらゆる先入見なしに観ることに

なるので、ほぼ僕らに可能な真実

に近い姿が捉えられることになる。



その意味では成功に値するのだが、

その過程では死の側に慣れるまでは

精神的に危険な状態に陥るのは常識

・常態だろうと思う。瞑想でも、初め

はそのしがらみ(過去)が自分を苦し

めることはあるので、それは瞑想での

最初の難関門として構えているだろう。



死の側に坐るというのは、徹底的に

孤独に留まるを意味するから、よほど

の事情が個人的に発生しない限り、

死の仏教には惹かれないはずだ。

首吊りをしようとして縄が切れて、

それを二度も失敗して、死に損なった

上田三四二は空海にも同じようなこ

とがあったと思い(これは調べて

みたが、不詳)、僧職の人に頼み

込んで、特別に仏教徒の修行をさせ

てもらい、のちに学者になった。



修行者は当然、(自分の)死をなん

とも思わなくなるから、断食死も

怖いということはない。死にたく

なったり、消極的にも死んでもいい

と思うのは当たり前になる。

それが過剰になると、大した理由

でなくても死を受け入れてしまう

だろう。これが世間で仏教の洗礼

や瞑想を避けたいと思う自然な生

の感情からなのだと思う。

この場合は例えば、ギリシヤの

パルテノン神殿の柱は数ミリの

ふくらみ(エンタシス)がある

と学校で習ったが、それは人間

の眼は垂直線の柱は少し真ん中

が凹むように見えるという錯覚

を矯正するために技術的に膨らみ

を持たせた、ということだが、

ただ子供のように見る眼を持てば、

それが錯覚の知識なしに見ること

になる。

ありのままというのはそういうこ

とだが、これは見るについてであり、

(それができる)一部の画家の目

を持つことでもあり、目の訓練で

も適えられる。



自分で自分の人生を築き、構成する

という絵空事のようなことを本当に

実行するということが信じられる

ようになるのは、その先にある。

それは現実の壁を許容範囲に入れる

のはもちろんだが、それは普段の

日常では恐れる究極である死を受け

入れている状態では難しいことで

はないのだ。

だから、例え、あばら家でも気にし

ないのだ。僕らの文明・文化の生活

水準は必ずしも必要不可欠なもので

はないだろう。見えるもの・感じる

ものが違うので、そもそもからそこ

から導かれる考え方は僕らと相当

異なるだろう。

それは僕らが共同地域や社会内で

いろいろな知識と考え方が人次第

で違うのと同じくらいに自然だ。

その点からは、僕らが平等を求める

と言っても、それが経済格差のこと

という一部に限っても、その実現は

お互いの感情や感覚・考え方によっ

て矯正されるという人権の尊厳を脅か

す問題だから、人間の平等というのは

そもそもが矛盾した命題・問題なの

だろう。


それは全体を平等にという考えが、

つまりは自由や平和にとってそれを

それぞれに脅かす、自由の制限や

平和を崩壊させる危険をもたらす

考え方(方向)だということだ。

もっと言えば、よくよく論を凝らす

と、自由と平和と平等というフランス

革命の命題は、それぞれ良いとこ取り

で、それぞれの犠牲がそれなりになけ

れば成り立たないものなのだ。

表向きの概念だけ善いものとして喧伝・

教育しても内容は詳しくは矛盾し合っ

ているという欠点がらみのもの同士な

のだ。

だから、欧州の憲法は自由・平等・平和

が目的ならひとつに決まり、それを維持

すればよさそうなものだが、実際には

何度も憲法改正するほどに変更が必要

だった。

三角の積み木で正球を組むようなもので、

あちこち妥協しなければならないのだ。

僕らはこうして、初めから解決できない

命題を標榜して、アインシュタインの

特殊相対性理論の数式のようにE=mc²

という美しい式を目指しても、それは

自然に絶えず変更を迫られている。

アインシュタインも量子力学を虚妄

だと考えたので、晩年は統一理論を

追及して考えたが、できなかった。



自然という全体はひとつだが、その

内容はそれぞれが矛盾してしまう

もので出来上がっている。細かい

部分での単一式はあるが、それも

時限的でいつかは崩れる。

僕らの空気圧も水も地球の成分

構成も時間をおいて変遷する。

その時代時代での自然に対応する

数式を必要とする。

恐竜時代の地球は現在とはかなり

異なっていたはずだ。



僕らの社会の憲法が変遷するなどは

常識として教えられなければならな

いだろう。僕らは全体の平等ではなく、

徹底して不平等の実態を探り、目に

見える化すべきだろう。そういう

大図面の、改革できない不平等構図

から出発して、それを眺めることで、

僕らが人によって(程度があるが)

求めるべきと、求めてはいけない

ものとの区別の認識が、まず必要だ。

その上で憲法にしろ、法律にしろ、

生活にしろ、政治と経済との按配も

し、安心安全の公私にわたっての

工夫も考えだすべきだろう。

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文学的と呼ばれるもの [文学的]

文学の匂いというものを時に

感じることがある。大正時代の

夜の街灯のような雰囲気とその

懐かしい古さを文学的と呼んで

いいものなら、そう呼びたい。

これは細い一本の筋だとわかる。

まだ理想とか、夢とかの墓場の

跡だとしても、それがひとりの

あこがれの時代を背負うように、

任侠映画を観るような興奮が

密かに眠っている。

だから、それらは間違いなく過去

を扱った世界なのだ。僕らの理想

とかあこがれというものには、その

タイプ・型があってそれに当て

嵌まった感覚を求めているもの

なのだ。知っているものとはすべて

過去であり、そうでなければ安心

できない。それで簡単に自分以上

とか優れたものを求めて、誰かの

理想を自分のとして、それが繋がっ

て善とか正しさの思想を形成する。

そこで僕らは前を進もうとする時に

奇妙なことをする。

その過去の跡に頼りながら、未知の

事柄に挑もうとするのだ。そうして

結果は過去が役には立たないにしても

その前向きの感情的な役割は果たして、

未来のそこに、その過去が崩れる処に

新しいルールを見つけ出してゆくので

実際の後ろ支えとなるのである。

感情は前向きな思想にはならないが、

行動にはその支えにどうしても気持ち

を必要とする、となる。

その意味で僕らは文学、あるいは文学

的雰囲気を必要とするのではないか。

水墨用6-2.jpg

何気ない写真を撮ったつもりでも、

モノクロ風にすると、すぐ時代がかって

しまう。今の光景だが、30年後に感じる

すでに過去の光景でもある。
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弱さは他人への強さに、強さは孤立しひとりになる [心理]

地球は回り続けるのだろう。僕らの

寿命などは気にせずに、地表に光を

照らして、それが朝だとか、日没だ

とか、夜だとかは区別していない

だろう。

僕らは理想を持って生きてゆく。

それが理想だとは知らずに、ただ

生きる指標とか、経験から信じた

金箇条・信念かも知れないが、それ

を抱く。

気持ちを、特に愛とか、それが僕ら

にできる最高の善なのだと思う人

も多い。天草四郎の島原の乱は幕府

の将軍は家光だったが、最後に原城

へ籠城したが、この時の戦いに宮本

武蔵も参加していた。そして、中に

は自ら抵抗せずに切り殺されてゆく

信者を見て感動している。

キリスト教の許しの教えは有名だが、

世界の教会でそれが国とともに機能

しているとは言えない。

親や兄弟、恋人などが殺されて、その

犯人を許さずに責任を取らせるのが、

法治国家だからであるが、感情が

自己に結びついているのが僕らの

生の一般の状態なので、愛する人を

亡き者にされてそれを許すのは

自然な感情ではできない。



克服できないものを克服してしまう

のは、強制的な心だろう。それは

強さを超えて無謀になってしまう。

それでも後悔しようとしないだろう。

克服への恐怖は人を臆病にするか、

少しでも立ち向かおうとして、弱さ

を発揮して説得に向かうだろう。

信頼の輪を築こうとするのは、そう

いうタイプの人間だろう。突き進み

過ぎないでお互いの間で策を導こう

とする。

それは相手を真に理解しているか

どうかよりも、お互いの関係性を

大事にするので人の輪が広がり

やすい。

あまりに強い人も自分のエネルギー

が相手を押さえつけて、好きで自由

な意見を言わせなくしている。

そして、友人でもその中にいるので

気まずさや不愉快を受けるのを覚悟

して、意見を言う人は少ない。

コミュニケーションに失敗が多いと、

その強過ぎる人は臆病になりながら

もそのプライドは決して譲らないの

で、相手の意見など無視してしまう

のだ。彼は小さな輪を作るかもしれ

ないが、自分を理解することから

ますます遠くなるのだ。

そういう人でも相手を理解しないに

しても、気まずさを避けるためには

一般的・常識的なことを事務的に

述べることはできる。ただそれは

平板な意見なので、そのくり返し

が多いと聞いてる者は退屈するか、

耳を貸さないようになる。

そういう時に彼が関係を結ぶこと

が出来るのは、異性で、女性だろう。

男と女のそれぞれの違いが無理解と

なっている場合が多いせいか、その

壁が逆にお互いが小さな喧嘩を

くり返しても、お互いの足りない

部分をお互いに支える形ができ

上がるようだと、妙にしっくりくる。

理解できないことがお互いにはっきり

しているほうが、返って安心できる

利点が男と女にはあるようだ。

特に女性は子供を産む期間があるから、

その視点で男を考える・選ぶ伝統が

ある。

男と女のそういう関係について書こう

とすると、とても一人の経験が何人

あろうと、それ以上に別人の経験が

重要・必要になるから、恋愛から結婚

論まで書き終えることはできない

だろう。


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学徒と邪ニーズ問題 [一方的理解]

GACKTとジャニーズ問題が正式の

題目になるのかな。

この問題に直接な興味はない、が、

いつものように誤解とスレ違いは

起こっている、と気にはなって

いた。

日曜日のアッコにおまかせで、私

たちタレントは何も言えない、と

言っていた。

事務所と企業スンサーはいずれも

タレントにとっては雇用主なので

そうなるかな、といったところだが、

先日、ガクトがタレント擁護のため

にタレント起用を続けてくれる企業

に感謝する、というメッセージを

出した。エンタメ的演出だが、これ

もこれで納得できる。

タレントの被雇用者の弱い立場を

言ったものだからだ。

元々タレントは人気商売なので、

一度評判を落として信頼をなくす

と、それを回復させるのは無理っぽ

い話だ。

警視庁と日本ラグビー協会以外では

まだジャニーズのタレント起用継続

に及び腰だが、性加害のジャニー氏

(ビジネスのアメリカ知人から呼ば

れた愛称を使っている、日本人)は

もう亡くなっているので、今の

タレントは無関係でしょ、という

短絡した意見もわかる。

ではなにが問題なのかが出てきて

いないので、それについての私見::


企業側もタレントなみに世間の、

特に今回は世界の評判をも気に

している。なにしろ、企業側は

工場で生産したもので1個でも

不良品が入ったとわかったら、

その時期の工程の製品全部を回収

しなければならない責任がある。

だから、ちょっとした疵瑕(しか)

=キズ・失敗でも1000万円単位で

損害が出てしまう、世間を騒がす

問題には敏感・神経質にならざる

を得ない。

もうひとつ企業側の注目する点は

経営の問題だ。それは藤島ジュリー

恵子前社長が社長を辞任したとは

いえ、100%の事務所の株主で

まだ代表取締役で全権力を保持

していることだ。どんな改革案・

修正事項も彼女の意向ひとつに

かかっているので、社長が誰に

なっても同じだ。

経営者としては、これで会社内部

の体質が変わるのか、ということ

には相当疑念を感じるだろう。

社長になったのが4年近く前、

100%株主になったのが2年前、

それまでジャニー氏とは疎遠だっ

たので、ジャニー事務所には通っ

ていなかったというが、その疎遠

の原因がジャニー氏の性加害の噂

であったのなら、彼女は問題をすで

に知っていたことになる。とすれば、

この3年間なにもしなかった、と

なるので彼女が実権を伴って取締役

にいることは企業側には懸念の材料

になる。将来、別の問題が起きても、

厳然とした態度で対処できるのか、と。


手っ取り早い解決としては、ジュリー

恵子氏が持ち株を分散してしまう

ことだろう。そして、取締役からも

筆頭株主からも降りてしまうことだ。

誰か経営立て直しの人をその時期が

来るまで、入れてもいいし、風通し

がよくなるのが外からはっきりわか

れば、タレント起用の見直しも進む

だろう。

タレントは人気商売だが、経営者は

堅実さが基本になる。より慎重さも

こういう時に必要だ。

ジュリー恵子氏は努力型のひとだが、

情意が強く、またトップ意識が強く

お山の大将を好む性格なので、株を

手放すのは難しいだろう。すべてを

無にするにしても気持ちの面から

抵抗があり、相当時間がかかるの

ではないか。以上のことから、苦難

の道は続くだろう。


といった処が所見である。




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土曜日の、因果で陰鬱な晩 [黄昏]

土曜日の晩だった。

黄昏(たそがれ)は僕が捕まえ

ようとして逃げられた空気袋

だった。

なにも入っていないかのように

膨らんだ姿は、それでも古い

古語の辞書のように意味が詰まっ

ているかのようだった。

それを確かめるチェックがいつも

自分を確保する一つの方法である

と思っていた、いや、そう思い込も

うとしていたのかもしれない。

そうして逃げられたのだが、それで

もそれなりに気持ちのいい晩だった。

どうも感情を動かされることを人は

密かに求めているのかもしれぬ、と

思い始めたようだ。

黄昏とか郷愁という言葉はそういう

雰囲気を保証する言葉だと、額縁に

飾られた絵画を見るように、立って

眺めていたようだ。


自分で自分を見ることはない。でき

ないこともあるが、それを人から

反射されないからだ。それがその晩

は人から自分の孤独を反射された。

それだけなら大した意味も感情も

ない。

ところが、彼の感情は僕の感情だっ

た。それで結果、僕は僕を通して

僕の孤独をみてしまうという、意外

なことになってしまった。

君は孤独になるな。君の悲しみには

なぜか耐えられないようで、耐えた

くない、それは不思議な感情だった。

それは自分のことでもあったからだ。


僕の気持ちも、その悲しみも未知の

もので未来のものであるような気が

するにも関わらず、現実の壁を触っ

ているというリアルなことがあった。

そういう時に僕は君への気持ちが

ありありとわかる。これが人を

しあわせにするから、そのために

失う悲しみの予感は激しいものに

なる、と。

愛というより、愛情だとわかる。


それだけだ。それがわかるだけで

それがなんだ、ということでは

ないし、なにか衒学な意味があると

いうのでもない。深く切り裂かれた

崖のようなクレパスに手を突っ込ん

で、とても耐えられない冷気を感じ

ているのだ。

君に会いたいのでもあるし、会いた

くもないほどにこの悲しみが定着す

るのを恐れているようでもある。

若い君にはこれは未来の物語に属す

るはずだ。なにもこのことには思い

出すこともないのだろう。

そうであれば、これは僕の内心の

独り芝居になるのだが、その方が

僕には安心できる。

僕が誰かにあこがれを持つという

ことは、僕が否定してきた自己の

アイデンティティというものを、

それ与えるということなのだろう。

それは僕が概念に拘束されること

を意味するから、その意味での自由

を取られることになる。満足を求め

て、自在感を捨てることになるのだ

ろう。

これが奪おうとすることで与えられ

てしまうことであり、与えられてし

まうことで惨めになる、という循環

なのだろう。それがそのまま自分を

実現させようとしてプライドを発揚

させようとする、心のシステムなの

だろう。


さて、僕はどうするのだろう?それが

わかった処で、そのことが直接、僕に

進む途を照らすのでもないし、重要な

人生の指針になるのでもない。

のだから:- 

ふつうはここで落ち込んでゆくのだ

ろう、と予測するが、僕にはできな

いし、またこの状況を自分から他人

から、自分のために他人のために

判断するのに時間がかかるのだろう。

アイデンティティ、僕が?

笑ってしまいそうだが、そうはさせ

ない真剣な悲しみがある。


::

日曜の晩になっている。

歴史に時計という、残りとか増加する

という刻みは存在していない。

僕らはすべては無意味だというニヒル

な思想と、いやそれは考え過ぎだと

いう理性の常識の、どちらも平板と

いう思考に陥っている。その概念の

遊びが真剣な状況になった時は、僕ら

はほんとうに「ひとり」とか「孤独」

というものの激烈な焼ける鏝(コテ)

を感じるのだろう。それがどんな

ものか、僕も知らないにしても。



(無意識下の自分が感じているだ

ろうことを予測しても、形も影も

ないので、それを知っているという

ことはあり得ない。だから、知って

いるとは言えない):ーというやや

こしい状況が、要するに僕を取り

巻いているということだと思って

いる。

常々(日常)のことだが、・・・。


:::

例えばだが、上皇さん夫妻は天皇

時代から皇居の散歩で少し歩いたら、

少し軽いランニングに切り替えて、

300mくらいでまた歩く、をくり返し

ているとニュースの解説で聴いた。

足の筋肉に刺激を与えるのが、筋肉

が衰えないようにする目的なので、

これはよい方法だろう。

それと似て、哀愁ならまだしも、

自分を落ち込ませるためにその

陰鬱な原因と底を求める(書く)

のも生きる刺激を回復させる

(反動の)方法でもある、と予測

するのだが、

・・・どうだろう。

習慣化したかもしれない:::


もう少し言うと、しあわせは死ぬ

ほど気持ちいい。そして、死ぬほど

の孤独と思われている「人の孤独」

を、僕は闇から自分を守る砦くら

いにしか感じない。

砦に帰りたくなるのは、帰巣本能

と変わらないのではないか。

アゲハ羽1.jpg

散歩に出ようとして駐車場の入り口

当たりで立ち留まってて、ふと下を

見ると下草にアゲハ蝶が止まっている。

珍しいな、こんな近くで、とすぐに

動かないので死んだ蝶だと。

拾ってみると、やはりそうだった。

羽を広げようとすると、折れて半羽が

落ちてしまった。画像だけ残した。
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自閉症(カッコウ・加工)という巣の上で [自閉症]

考え事をしない、そして考えない

ようにしているだろう。瞑想に似た

時間ではぼんやりと考えているの

だが、その内容・意匠は自覚して

はいない。と言っても、半自覚的

だから目覚まし時計を時間に合わ

せるための思考は必要で、それで

時間を合わせる動作はする、といっ

たもので、ただし、そういう動作

をする自分を反省しない。意識し

ない。考えの内容だけに集中する

のだろう、すると考えだけが制約

なしに進む。

これを普通の集中した考えと区別

したことはなかったが、僕は自然に

そうした工程で無意識との感覚を

探っていたらしい。これがいつの

間にか、目を開けての、または

瞑目を必要としない瞑想になった

らしい。


思い出せば、これは昔から、少ない

ながらも白昼夢のような形で時々

起きていた。わずかな意識に上がって

きた一瞬の映像を、自分で考えた

わけではないので驚いた記憶がある。

この日常の集中には精神的に欠陥の

特徴があるらしい。   5. 11

自閉症は変わった病気だ。そういう

傾向を呼ぶかのように、40歳でも

引きこもりをしているかと思えば、

米津玄師のようにあるきっかけから

復調して音楽の才能を発揮したり

する。

その陰鬱から出世との隔絶と過程と

いう見え方の間にはいくつもの

パターンがあって、自閉症の定義を

難しくしている。

アメリカでも自閉症は肯定的な考え

方が多く研究されているようで、

その繊細な感性から騒音や予定外の

行動に舵が取れず、マイペースで

ないと、ひどい場合はパニック症状

を起こす、という。

「アストリッドとラファエル文書係」

というフランスのドラマを観ていたが、

次回シリーズ放送でまた見始めると

あの頃とはまったく違う感想を

抱くようになった。

あの頃はシャーロックホームズばり

の推理が面白くて、アストリッドの

自閉症になにか惹かれるのを感じ

ながら、それほど深くは感興しな

かった。

しかし、今回は推理が二番で、自閉症

の性格や行動という主役の女優の演技

が最も共感を覚えた。惹かれたのは、

共感していたからだった。一種の

共感覚だ。

コミュ症で空気が読めず、話し方も

ふつうには愛想のない理屈っぽい

言い方になり、他人はそれしか聴け

ないので、いじめにも会うらしい。

これは僕の対社会への感覚にとても

共通したものがあって、僕はコミュ症

でもないし、それでいじめに遭った

ことはないと思っていたが、よく思い

出すと、小学生の頃はうまく喋ること

ができなくて、どもり(吃音症)だっ

た。

その昭和の頃は発達障害とかの知識

は世間にも先生にもなにもなくて、

医者にかかるか、精神論で直すのが

主流だった。その頃にはもう無意識

だが、僕は対社会にうまく適応でき

ない状態を心では自覚していたらしい。

その原因が自分の繊細な感性にある

のを知らなかっただけだ。

アメリカでの研究はその繊細な感性

を守る行為が自分を守ろうとして、

いじめから登校拒否になったりする

そうだ。

僕に小学生の頃に遭った障害は記憶

だったろうと思う。ある日、学校に

行くと黒板に僕の姓が書かれ、今日

(僕)を怒ると、担任の先生の字で

あったが、まったく身に覚えがなかっ

たので平気だった。何かの間違いだろ

うと思っていたら、鉛筆の削りカスが

誰かの机の下に入っていて、それは

僕がしたということだった。

まず、僕は先生の受けがよくなかった。

それは誰かが宿題を忘れた時にそう

先生に報告したら、許してもらえた

ので、そうか、正直に忘れたと言えば

宿題をしなくて済むのだ、と思った。

それで毎回、宿題をしていかなかった。

そういう誤解が可能だったのは、自閉

症の部分症状気味だったのだろう。

それで僕がしていないと言ったので、

先生は明らかに不愉快になり、僕が

図々しい性格で噓つきだと決めつけ

てしまった。誰か女の生徒が僕を

とぼけている、と言ったので、そちら

を信用したのだろう。

これは僕が症状で忘れてしまった

ことなのか、誰かのいたずらに

嵌ってしまったのか、今でもわから

ない。そういう偶然のことで僕に

不利な状況が生まれるのは子供の

頃の経験で茶飯事だったので、僕

は日常は空想をして過ごす少年だっ

た。

僕は自閉症の本を読んでみると、他

の精神障害と特徴が異なるのが明確

であるかのような印象を受ける書き

方をしているが、体の?中身はどうも

ちょっとした神経のかけ違いで区別

されているだけのような気がして

いる。

ウツ症状というのは日常の理不尽な

こと、不安定なことに気を取られる

と起きることだし、それこそ医者に

診てもらうべき症状まで段階もいろ

いろあり、どの神経症の症例にも

みられる、神経には恒常に見られる

症状だと思うのだが、原因は不明な

ので、医者は厚生省で認可された

アメリカの薬を自分の体験の見当で

量や日数を患者に渡している。

そこには恐るべき抗精神薬の無秩序

があるのだが、医者は信用に拘わる

から、わからないとは正直に言えない。

今は対症療法しかないので、それで

医者が一方的に悪いとはならない。


自分を失くすというのがどういう

ことなのか、初めはよく知らないし、

それは欲を抑圧する=コントロール

するという古い仏教的な方法だった

のだと思うが、そういう伝統に

自覚せずに従ったものだと思う。

だから、それは可能であると思っ

ていたが、実際できたが、厳密には

消えてなくなるわけではなかった。

一時的に見失うことがあったが、

あとは第二、第三とかできても

あまり気にしなくなる。自己は

考える瞬間にその無意識な立場を

確保する必要が必然なので、その時

は必ず発生する。

夜眠ると、大部を失うが、やや夢

などを構成するのに動くが、自意識

下のように自覚したものではない

のは誰でも経験で知っている。

気絶しても同じことだろう、体の

都合で体の?頭脳の?奥に引っ込ん

でしまって自覚して働きはしないが、

自分を覚醒させる機能は失ってい

ない。

僕のこの自己を滅する実験はいろいろ

と段階を経ながらだが、1年前だろうか、

その頃には善悪や上下とか民主と独裁

とか、保守と自由の思想などの対立

概念を見分けがつかないくらいに整理

してしまうと、それらが区別できない

ものとして認識するくらいに否定して

しまうことが出来るのを発見してしま

った。その時の、今でも慣れないが、

不安定な心のバランスの不具合は酷い

ものである。心を縛るものは日常では

それなりに必要なものであるが故だが、

そういう状態での感興というのもまた

貴重なものだった。その空気の中で

暮らした経験でなければ味わえない

意見・感想・感興というものがある

からだ。半世紀が速いのか、たぶん、

遅いのだろうが、そこまで来ると、

気づくのはキリがないということだ。

自分という人間の要素で構成できる

世界が可能で、それは現実の社会・

世間と当然重なったダブりの面と

異なった個人的な面がはみ出る、

そういう一つの世界が出来上がるし、

出来たのだという成果?だった。

それがどういう風に役立つのか、

何に役立つのか、という話はまだ

詳しくできない。

しかし、それに一定の評価は与える

べきだという意見を僕は持った。

ちょうど、自閉症者が引きこもりに

なるのは、それなりに正当な自己防衛

の態度だと認めるべきなのだ、という

意見と一緒で似ていると思う。


例えれば、ユークリッドの幾何学は

平面幾何で机やノートの図面で必要

だが、「非」ユークリッド幾何は曲面

の地球の上を飛ぶ飛行路などに役立つ

ように、定義を変更するだけでそれ

なりに幾何学ができてしまうように、

またマクロという宇宙の物理は相対性

理論で計算し、ミクロという量子世界

は量子力学でないと確率だが、うまく

説明できないようにすべての意見とい

う思想・思索はその人の個人的な頭脳

からそれなりの世界・哲学を引き出せ

ることが出来るのが、この無常の世界

なのだ。現実の要素に対応して、様々

な計算法があり、それなりの理論が

あるというのがどうも、知の世界の

自然だというのが、僕の感想だ。


それは僕が茫然と・呆然と考え、暮ら

している生活態度に多大なる影響を

及ぼしているように、窓の外へ幽体

離脱するように夜の闇に漂って帰って

来ない自分の意識を見るようだ。


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例えば、無責任な睡眠 例えば、人間見取り図 [自己判断]

なんかもう書くのやめちゃおうかなぁ~

とか言う軽いノリで気分を浮かそうと

する、窓の外の雨の降り放ちだ。

うっとうしいから、その反発が出る

のか、軽いノリではなかったが、いつも

心の奥底からのぞかせている獅子舞

のような敏感・避雷針のような神経は

その発信をして内部のあまのじゃくに

知らせるのだ、出番だぞって。

そうすると、面倒ぐさがり屋の天邪鬼

がごそごそ起き上がって、冗談じゃ

ない、まだ引退には早いんだ、と

つぶやくのだが、引退するわけじゃ

ない。

こんな夢想に相応しい曇り空の夕べだ。


自分の過去のブログは2,3か月前のは

他*に掲載するために見るが、それ以前の

ブログはほぼ見たことがない。かなり、

そのうちに書くと言うような宿題のこと

を書いてきたので、それが見つかるの

が少し怖いのだろう。無責任の中途の

形だ。

それを見たら書くだろうと考えるので、

見なければ気がついていないので、書か

なくて済むという、よくある先送りに

する逃げだ。

5月5日まで休養だったで休むために

(遊びと休むのが苦手)かなり我慢を

強いられて本来やらないゲームを大部

の時間でしていた。おかげで変に疲れ

てしまったらしい。5日6日7日の朝は

起きられず、夜も遅くまで起きていて、

12,3時間は布団の中で朦朧として寝な

がら、やや起きていた意識があった。

こうなると昔々の学生時代の夏休みを

思い出す。昼は寝て、夜に起きだすと、

なんやかや活動していた、不規則な

生活をしていた頃だ。

体というのは不眠症という病でない限り、

必ず必要な睡眠を摂る。これ以上は眠ら

ないと死んでしまう、という時、死んで

しまうことはない。無意識のうちに

眠ってしまうのだ。バタンキューとい

うやつである。人間は死ぬ前に眠ってし

まう、そういう人間の体の本能?を山の

生活で知ったので、眠らないことを恐れ

ることはなくなった。いつでもどこでも

寝られる処でちょっとでも眠ってしまえ

ばいいのである。

それからは一時期は数年か、昼夜、朝夕

に構わず寝るので、いつ寝ていますかと

いう質問には答えられないし、睡眠時間

などはまったく気にしていないので、

自分がどれくらい寝ているのか知らな

かった。



そんな出来事だったのかよ、と思うこと

がある。五島列島・離島の家を手放し

たのはもう1年前にもなるのか、・・と。

夜中に堤防の上をまっすぐ歩けるか、と

瞑目してたった20か30歩で堤防から

5m下の黒い海に落ちてしまったのも、

いい思い出だった。

夜の海は驚くことがあり、小石を

投げると、その撥ねる水面の波紋に

海ボタルが反応して、緑のイルミネ

イションのような光を飛び散らす。

これが美しくて、港には少ない小石

を探しては、海に投げるのだ。

晴れた夜空は星が2万も見えるので、

いつまでも眺めている。

だが、離島は不便で、車が必要で

その車もフェリーでないと行き来

できない。その運賃も神奈川から

通うとなると、コスト的にネック

だった。

諦めがついたのは岩場から落ちて、

九死に一生を得たからだ。と言って

も入院はせずに、その日のうちに

病院から帰って来たが。救急車も

初めて乗ったが、特に感想もない。

島の病院の医者は長崎大学から

来るインターン生もいるようで、

診断はかなり怪しかった。島の

住民は長崎の病院まで海を渡って

入院するらしい(笑)。なにしろ

ここの医者では殺されてしまう

という噂も聞いた。

僕の膝のけがを見た、他の患者で遅れ

て来た医者はすぐに骨に異常はない

からと、レントゲン検査の予約を中止

した優れた医者だった。専門分野が

違うのだろう、それまで若いインターン

生らしいのが男女二人いて、僕の膝を

見てこれはやられている、と骨折を

断言していた。こいつらがヤバい

らしい。担当医がしっかりしていて

助かった。


この島に初めてきた時には、民宿に

泊まった。素泊まりだけで、食事が

ない。島である、午後5時ともなれば

店は薬局スーパーを除いてほぼ閉めて

しまう。外食レストランもマクドナルド

も一軒もない。車はなかったから、買い

には行けない。前もって計画的に朝・晩

を買い置きしておかなくては、・・・。

その民宿で考えたので、まだその部屋

の情景を覚えている。ぼんやりと見て

いただけだが、そのほうが記憶に残る

のだろう。

人間一人一人の違いはそれほど多くは

ないと思えるのに、実際は考え方の

違いや、感情への重きを置き方の違い

や、特に個人個人のセンスの差という

ものはれっきとしてあり、それは

はっきりしている。なぜか、同じ服で

ダブるのを嫌うことも。

その違いがあり、もうひとつ気づき

にくいことで年齢の積み重ねがある。

それは単純に子供から年寄りになっ

てゆく過程で間違いないのだが、なぜ

か僕らはそれを当たり前に親や家族、

親戚など世間を見て、知っていると

思っていることだ。

僕には思春期にホルモンバランスが

崩れて、人間の発情期が来るという

ことを教わった記憶はない。

高校生になると、やたらヌードの

載っている雑誌などを買い漁り始め

るのも多い特徴だ。

これは初めての体験になるのだが、

そういうことは時間が経てばわかる

というような自然の成り行き任せの、

親も、教育方針だった気がする。

ところが、初体験はここに終わらない。

卒業して就職するのは社会生活、つまり

は職業人生活の始まりで、それに慣れる

と結婚や事業や人生を修正したくなっ

たりして、人生の方向が分かれるし、

それぞれの中年時代もそれぞれになる。

様々なそこでの家購入とか子供の学資

とか経営の運転資金や知識吸収や専門

家への依頼など責任が問われる。

それらはまったく予想してこなかった

もので、相談できる通常案件である

場合も、また相談できない特殊な新規

の事情や案件である場合もある。

それらがうまく行く時もあれば、最悪

になる場合は人生は落ち込んでしまう

場合もある。それは予定に入ってい

ないだろう。

それがふつうの程度で乗りこえられて

も、還暦には退職後の生活が待つ。

そこで終わりにはならず、70になれ

ば、思いも寄らない体の急変や怠惰・

退化が還暦よりも持病に近く襲って

来て、生活を改めなければならない

事態にもなる。

つまり、僕らは年を重ねても、どう

しても新しい事態に対処しなくては

ならない状況がこの人生のそれぞれ

の過程でどうしても生じるものだ。

この新しい事態の連続に終わりはない。


皆、同じ経験をするのだ、と思って

いるが、確かに似てはいるが、それ

ぞれの経験であって、まったく同じ

ものはないだろう。

常に僕らがそういう経験をせざるを

得ないという状況は、僕らが知り得

ない事情が常に付きまとうという

ことで、知り得ないのだから、それ

はある程度保険をかけておくという

習慣・制度ができているが、それは

それで安心十分というものではなく、

ともかくその程度は用意しておきたい

くらいの予防体制・対策だろう。

年寄りってなってみると、初めての

経験だとわかる。ように、どの時代

でも生活の雑用に手がふさがれて余裕

がない状態なので、僕らは外部や自身

の内省問題に追われてしまう。

そこで自分に目を向けると、自分に

ついてそういうわからない部分が常に

10から20%はあるだろう。それは眼に

見えない変化というものだ。

そこで自分について知り得る部分は一般

に、平面だけで考えると、80から90%

になる、と。それをその範囲だけで考え

るとそうなるが、例えば、自分は他人

と違う、異なっていると思っている。

それを疑う者はいないだろう。生活で

見聞きして、大いに経験してきたから

だ。すると、他人との違いがあると

いうのは、僕らは比較でしか認知しえ

ないので、自分にない性質については

わからない、ということになる。

なぜそう考えるのか、なぜそういう

気持ちになるのか、なぜそう感じる

のか、そういうことが理解し得ない、

と。僕らはひとりで人間の全考え方、

全部の気持ちの傾向、感覚のすべてを

備えていないことを知る。

それらがお互いに矛盾した複雑な考え方

や気持ち、感覚であることを知っている。

それはそこに理解しえないものがあるの

だから、僕らはそれらの部分部分をお互い

に配分されたかのように、分けて備わっ

ているということだ。

それをどう決めていいかは、まったく

わからないから、見当で僕らはひとり

一人が人間の備え得る考え方や感情、

感覚を70%備えている、と見積もって

みる。そうすると、僕らの知り得る

自分というのはすでに10%は不可能

なのだから、残りの80から90%の内の

70%ということなので、それは56%

から63%ということになり、僕らが

知り得る自分への答えは、ほんとうの

ことの60%程度がふつうで、頑張って

70-80%というのが知覚で可能な

自分というものへの認識だなのだ。

ならば、飛躍して僕らが戦争を止めら

れないのも無理からぬことと思えない

こともない。それでいいわけないが、

自分のことも十分に知らないのに、

自分が正しいという判断で毎日毎日決断

していかなくてはならない責任ある人

たちは重大な決断をできないという前提

にも関わらず、それを決断してしまう

ことにマヒして自分を慣れさせてゆく。

責任への罪の意識や誤った判断への

感情から自分で自己への弁護もしない

わけにはいかなくなるのだろう。

しかし、他国の生命線や他人の命に

直接にも間接にも関わる事項について

は僕らは重大な決断をする資格は持っ

ていないのではないか。それは国民

投票や全会社投票や個人なら家族の

意見や知人友人の意見が実はどうして

も必要な案件なのではないだろうか。

::他国の生命線や他人の命に直接

にも間接にも関わる事項についての

ことである。::


国やその歴史などの経過の事情を自己

の内省判断前提にさらに加えると、僕ら

の自己への可能認知度はもっと小さな

ものになってしまう。

この’予想範囲’だけという基準を以ての

極論をもって、だから僕らは無知なの

だというのは言い過ぎだろうが、僕ら

がお互いを知らなさすぎるというのは、

どうやら事実に類するだろう。自分は

正しいと思う人ほど病気に近く、危ない

だろう。

問題は誰でも、年と経験を重ねても正し

すぎてはならず、誤りを恐れ過ぎても

いけないことだ。その決断を経験と

失敗を積み重ねることで培い、育て

続けることだろう。若い時の成功経験

の金箇条を持ってはいけない。それは

過去や歴史に学ぶべきではないのだ。

もうその時の状況は終わっている。

自分の年代の案件を次々と潰してゆく

前提が控えているから。

世界は自分の一時代と重なった時間を

踏み越えて、広がり続けている。





* 他:それがこのブログ。

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君がはるかな春にどう想うか [日本]

君は どう思うか 

そう思いながら 誰に

いったい  誰に向かって 

言っているのか と 

思う 

自分という 居場所を 

放置してしまう 

皆の メロディ・トークを 

聴くと 

皆が 皆  

そう言っている  ように 

聴こえてしまう 



こう思う  という想いは 

言葉にすると  ひとりでは 

立っていられない らしい  

城下町を  尋ねて 

お堀を 歩いていると 

日本に帰化した あの人の家の 

前に来た 

日本を 愛する  奇特な人 

だったのか 

日本の娘と  結婚して 

世界の 遍歴は 終わった 

らしい 

庭の カエルが 食べられてしまうと 

蛇の穴の 前に  鶏肉を

置いておくような  人だった 

ラフカディオ ハーン ・

日本名 小泉八雲

ハーンは 実名の読みでは 

なかった  ヘルン

誰かが 間違えたのだが 

本人は 気に入って 

ハーンを 名乗り続けた 


東京大学で 英語を 

教えてもいたが 人気も

あったのに  諸事情で

退いた 

そのあと 講師になったのが 

夏目漱石 

彼は 厳しく こだわった 

教え方だったので  学生の 

評判は  よくなかった 

なにかのことで  そのひとりは 

自殺している  

それでなのか  知らないが 

漱石は  先生は辞めて  

小説家に  なりたかった 



遠き 春を  想う 

島で拾った猫と  偶然 訪れた 

松山市は  漱石の先生時代の

坊ちゃんの 舞台だった 

遠き 夏を  想う 

親友 柿食えば 鐘が鳴るなり の

正岡子規 の記念館があった 

そこで 彼ら二人の 学生時代の

等身大のパネルが あった  

これに 出会うために  

猫も 泊まれる宿が  松山市 

なのだと  想ったことだよ



はるかなり  昔の  日本

遠くなり ました  

いよいよ  遠く  

なりましたね 

僕の 影が 薄くなりゆくように 

代わりに  

明治が  終わらないようだ 



はるかなり 今日の  日本 

遠く  春霞に  けぶるよう 


君は どう 想うか 

ああ 



君が  春に  けぶるように  

ダブって  見えるよ 



はるかなり 今日の  日本 

遠く  春霞に  けぶるよう 

僕は  まだ  遠回りを

しているように  



春を  霞み  見るのだ 

見えないものを  そのまま  

見ようとして 

急いでいる つもりもない

でも なぜか  急(せ)かされる 

この気持ちは  

せつなさ  だろうか



この街を  

点々と 足跡を  つけるように 

歩いている 

その人の  姿を 

君は  どう 想うか 

花に  霞む 

いなくなってしまう ような

ピンクの 花びら の姿が 

消えてしまい そうな

その 姿では ないだろうか 
              5.5

::

東大での夏目漱石の講義は、始め

こそラフカディオ・ハーンの復帰

運動こそ学生から起きたが、やがて

教室が満杯になるほど人気になる。

また、ハーンは退職後に確か、数か

月で亡くなってしまう。
            9.6
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ジャスミンの彼女(日本)を育てる [日本]

人間、と言うとその全体の様相は

わかっている気がする。その内容

を知識に彩られた概念で探そうと

すると、あまりに多くの情報に

出会い、とても吸収できるような

ものでなく、膨大な情報量に圧倒

されてしまう。

なぜかそれを全部読んだり、視聴

したりしなければ、意見が言えない

ような気にさせられる。

そういう錯覚がこの世にはいろいろ

な分野にあふれている。ほとんどが

百科事典的な事務的な情報なら、それ

は放っておいてもさしたる害はない。

知り尽くす必要もないのは、その基本

だけでも吸収してしまえば、あとは

新しい情報だけなので、その部分だけ

をピックアップすれば、どの情報も

短時間で読み終え、視聴し終えること

ができる。つまり、重複した情報に

あふれている、ということで、大事な

ことは自分に関わったことが、ほぼ

大部だとはっきり言える。

僕らの経済環境は循環を増やすことが

必要で、しかも最新の情報は世間的

には専門家向きで、一般には向かない

ことが多く、そのため民間の企業は

世間にへつらい利益を求めなければ

ならないので、くり返しを少し形や

色合いを変えるだけで内容は同じ

ことの亜流や変形であるものを出し

てくる。

古典の類は内容が固定概念化されて

いて、その解説で読まされている

ようなもので、自分の見解とぶつかる

ようでないと、新発見は望めない。

また、古典を手に取るだけでも少数の

人で、名前は通っていても、実際は

読まれない古典のほうが多い。



僕が読書をどちらかと言えば、好ま

ないのは、10頁も読む間に、疑問が

多く浮かんで、そのために別の著者

の本を探し出して、確認したい誘惑に

かられるからだ。そして、その著者

の本でも同じようなことが起きて、

また別の著者の本を読まねば、となる

のでキリがない。

1冊読むのに、数十冊を借りたり、

購入したりと雑用に追われる。読む

時間よりも探したり、借りに行った

りの時間と手間のほうが長かったり

する。効率は考えないようにして

いるが、本は溜まる一方で、1冊を

読み切った経験は、非常に少ない。

数千冊の蔵書を眺めると、遠くに

気が持って行かれるようでもある。

それでなにか不便は感じない。

それよりも偶然が運んでくれる

情報を訪ねていったほうが実りが

多く、楽しい気がしている。

本というのは、畢竟、過去のことし

か教えてくれないし、学べない。

広く長い海岸線をもしかしたら、

いやたぶん1個くらいはダイヤ

モンドの指輪が落ちているかもしれ

ない、と拾い探すようなものだ。

と言っても、好奇心の多感な考える

人ならダイヤの指輪は見つから

ないだろうが、いつかは新しい発見

それは物か、考えかわからないが、

発見をすることになるはずだ。

明治の科学者・寺田虎彦も言うよう

に「科学者は馬鹿でないといけない」

ということだが、頭の馬鹿ではなく、

利口な人がそこは終わっていると

いうように考えず、実直に他の

研究者が辿った跡を丹念にもう一度

探ってみるのだ、ということ。

それは理屈に合わなそうだが、因果

に照らせば、この世は無常なのだから、

同じ状況・環境は続かない。その

研究者が辿った時と同じ状況に今も

なっているとは信じがたい。必ず

変化している部分があるはずで、

幸運ならば、その変化がもっと

大きな変異を呼んで、今でなければ

できない発見をすることができる

からだ。それには馬鹿にもなるほど

実直に物事に取り組まねばならない、

とそういうことを言っている。



だから、よく本を読む人は目の前の

日常生活の細かな観察を怠らなけ

れば、本で取り入れる情報より確かな

知識が収穫できる、はずなのだ。

それをアウトプット(外へ発露)でき

れば、それは知識の内容からの把握を

証明する確かな人生の糧にもなる。

動植物や昆虫は子供の頃のための

ものではない。ジャスミンが他の家の

生垣で匂っていたら、その花の歴史

を調べるだけで、ジャスミンと親しく

なれる、はず。

シャーロックホームズの晩年を知っ

ているだろうか。彼は養蜂家になっ

たのだ。蜂を育て、蜜を採取したの

だろう。イギリスらしい、田園の

生活を伝統的に敷衍(押し広げ)した

のだろう。

日本人としてなにも敷衍するような

ことはなにも考えていないが、以前、

無人島で生活する夢を見て、離島の

家をもらい受けたが、コロナで手放

した。それも無人島での生活は、実際

に野崎島という実質無人島に出かけて

思うより厳しそうで、晩年の生活では

ないのだ。まさか、動物園では弱そう

に見える野生の鹿に威嚇されるとは

思わなかった。

その時、なにを生意気な、オレは人間

(様)だぞ、と人間(自分)のプライド

が一瞬出てきたのは面白かった。無意識

では動物を見下す面があったのだ。それ

をその時に知った。これも隠された自分

発見の体験的知識だ。

そのおかげで動物への親しみをより増や

して、意識することができた。



今、日本はどこにあるのだろう?と

空を見ている。それを知りたい。もう

少し生きて、それを各地に確かめて

みたい。

父はたぶん戦地で戦ったので、死者を

相当数見たはずだ。亡霊も見たのだろ

う、帰国後は自分の先祖の墓参りばかり

でなく、他人の知人の墓参りもしてい

たから、そういう経験をしたのだと思う。

だが、それは死者の死後短期間のこと

であってそれが死者の魂だと見るのは

錯誤だと思う。ので、僕は先祖のも

親のも三周忌からは今まで一度も

墓参りをしたことがない。墓には

それらしき誰をも感じたことは

なかった。

いずれにしても、

日本各地の過去を訪ねることは、

その歴史的な墓参りになるだろう。

そこに墓があるとは限らないが、・・。
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