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ジャスミンの彼女(日本)を育てる [日本]

人間、と言うとその全体の様相は

わかっている気がする。その内容

を知識に彩られた概念で探そうと

すると、あまりに多くの情報に

出会い、とても吸収できるような

ものでなく、膨大な情報量に圧倒

されてしまう。

なぜかそれを全部読んだり、視聴

したりしなければ、意見が言えない

ような気にさせられる。

そういう錯覚がこの世にはいろいろ

な分野にあふれている。ほとんどが

百科事典的な事務的な情報なら、それ

は放っておいてもさしたる害はない。

知り尽くす必要もないのは、その基本

だけでも吸収してしまえば、あとは

新しい情報だけなので、その部分だけ

をピックアップすれば、どの情報も

短時間で読み終え、視聴し終えること

ができる。つまり、重複した情報に

あふれている、ということで、大事な

ことは自分に関わったことが、ほぼ

大部だとはっきり言える。

僕らの経済環境は循環を増やすことが

必要で、しかも最新の情報は世間的

には専門家向きで、一般には向かない

ことが多く、そのため民間の企業は

世間にへつらい利益を求めなければ

ならないので、くり返しを少し形や

色合いを変えるだけで内容は同じ

ことの亜流や変形であるものを出し

てくる。

古典の類は内容が固定概念化されて

いて、その解説で読まされている

ようなもので、自分の見解とぶつかる

ようでないと、新発見は望めない。

また、古典を手に取るだけでも少数の

人で、名前は通っていても、実際は

読まれない古典のほうが多い。



僕が読書をどちらかと言えば、好ま

ないのは、10頁も読む間に、疑問が

多く浮かんで、そのために別の著者

の本を探し出して、確認したい誘惑に

かられるからだ。そして、その著者

の本でも同じようなことが起きて、

また別の著者の本を読まねば、となる

のでキリがない。

1冊読むのに、数十冊を借りたり、

購入したりと雑用に追われる。読む

時間よりも探したり、借りに行った

りの時間と手間のほうが長かったり

する。効率は考えないようにして

いるが、本は溜まる一方で、1冊を

読み切った経験は、非常に少ない。

数千冊の蔵書を眺めると、遠くに

気が持って行かれるようでもある。

それでなにか不便は感じない。

それよりも偶然が運んでくれる

情報を訪ねていったほうが実りが

多く、楽しい気がしている。

本というのは、畢竟、過去のことし

か教えてくれないし、学べない。

広く長い海岸線をもしかしたら、

いやたぶん1個くらいはダイヤ

モンドの指輪が落ちているかもしれ

ない、と拾い探すようなものだ。

と言っても、好奇心の多感な考える

人ならダイヤの指輪は見つから

ないだろうが、いつかは新しい発見

それは物か、考えかわからないが、

発見をすることになるはずだ。

明治の科学者・寺田虎彦も言うよう

に「科学者は馬鹿でないといけない」

ということだが、頭の馬鹿ではなく、

利口な人がそこは終わっていると

いうように考えず、実直に他の

研究者が辿った跡を丹念にもう一度

探ってみるのだ、ということ。

それは理屈に合わなそうだが、因果

に照らせば、この世は無常なのだから、

同じ状況・環境は続かない。その

研究者が辿った時と同じ状況に今も

なっているとは信じがたい。必ず

変化している部分があるはずで、

幸運ならば、その変化がもっと

大きな変異を呼んで、今でなければ

できない発見をすることができる

からだ。それには馬鹿にもなるほど

実直に物事に取り組まねばならない、

とそういうことを言っている。



だから、よく本を読む人は目の前の

日常生活の細かな観察を怠らなけ

れば、本で取り入れる情報より確かな

知識が収穫できる、はずなのだ。

それをアウトプット(外へ発露)でき

れば、それは知識の内容からの把握を

証明する確かな人生の糧にもなる。

動植物や昆虫は子供の頃のための

ものではない。ジャスミンが他の家の

生垣で匂っていたら、その花の歴史

を調べるだけで、ジャスミンと親しく

なれる、はず。

シャーロックホームズの晩年を知っ

ているだろうか。彼は養蜂家になっ

たのだ。蜂を育て、蜜を採取したの

だろう。イギリスらしい、田園の

生活を伝統的に敷衍(押し広げ)した

のだろう。

日本人としてなにも敷衍するような

ことはなにも考えていないが、以前、

無人島で生活する夢を見て、離島の

家をもらい受けたが、コロナで手放

した。それも無人島での生活は、実際

に野崎島という実質無人島に出かけて

思うより厳しそうで、晩年の生活では

ないのだ。まさか、動物園では弱そう

に見える野生の鹿に威嚇されるとは

思わなかった。

その時、なにを生意気な、オレは人間

(様)だぞ、と人間(自分)のプライド

が一瞬出てきたのは面白かった。無意識

では動物を見下す面があったのだ。それ

をその時に知った。これも隠された自分

発見の体験的知識だ。

そのおかげで動物への親しみをより増や

して、意識することができた。



今、日本はどこにあるのだろう?と

空を見ている。それを知りたい。もう

少し生きて、それを各地に確かめて

みたい。

父はたぶん戦地で戦ったので、死者を

相当数見たはずだ。亡霊も見たのだろ

う、帰国後は自分の先祖の墓参りばかり

でなく、他人の知人の墓参りもしてい

たから、そういう経験をしたのだと思う。

だが、それは死者の死後短期間のこと

であってそれが死者の魂だと見るのは

錯誤だと思う。ので、僕は先祖のも

親のも三周忌からは今まで一度も

墓参りをしたことがない。墓には

それらしき誰をも感じたことは

なかった。

いずれにしても、

日本各地の過去を訪ねることは、

その歴史的な墓参りになるだろう。

そこに墓があるとは限らないが、・・。
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