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ものの形:陶土の感触に沈む [陶土]

子供の頃は、粘土細工などの物つくり

は時間を忘れて取り組んだので、これ

は天職だろう、と考えた。

しかし、性癖はこれに逆らった。これ

で成功してしまうのは平凡すぎる、と

傲慢にも思った。できると思うことで

成功するのはプライドが許さなかった。

できるかどうかわからないギリギリの

スリルがあって、それを突破して掴み

取りたかった。

それはすべて、子供の幻想だった。



今、僕がしていることが、到達点に

達することが新しい目標を、さらに

遠くに見いだせてしまうことを思うと、

それは無限に外へ外へと積み重なる

ループに思えた。永遠を見出したと

思えたが、一息をつく頃、それは

さらなる拡がりを見せて、新しく世界

を広げて見せた。

小さな試作の壺を造って、眺めると、

見ても見ても、飽きないのではなくて、

わからなかった。疑問はない。ただの

粘土の塊だった。

見ていると、まだなにかが足りないと

いう気ばかりがして、その足りないと

思う自分がおかしいとの気がした。

だが、壺は目の前にあった。

厳然として、ものが目の前にあり、

僕はなにか自分を納得させるものが

そこにあるはずだと、考えていたよう

だった。それで、考えた。

また、見ているうちに考えもなく、

見つめ始めた。形が少し歪なのが

いけないのか、艶が足りないのか、

全体の雰囲気とかまだ未開拓の

分野のことか。まったくわからなく、

ただ作品を見ていた。

そこに陶芸はなかった。僕は粘土と

わけのわからない勝負をしていた。

お前は粘土か、どうなんだ?答える

筈もないのは知っているが、それが

答えであってみれば、それを見るより

他になかった。ただ見ていただけだが、

その見えない葛藤を表現すれば、そう

いうことだったろうか。

満足もないし、不満もない。粘土が

化けるのではないか、と思って見ていた

というのが、一番正確かもしれない。

僕を満足させる壺に化けてみろ、という

わけだ。

ともかく、形にするだけで、大変な作業だ

と思った。1日に5個も作ってやろうと

勇んで思ったのが、どれほどの作業か

知らなかった。



ただ粘土がある。形にする。

芸術の色合いとか、艶出しとかの変化

とかどうでもよくなった。まず、こいつを

形にする。

そこからだった。先生は粒子を詰める

ように延ばす、と指導するが、それが

手に馴染まないのがわかる。粘土なんか

自在に操るのは造作もないことだ、少し

時間をかければできることだ、と。

考え方は理屈だ。それは僕の頭でどう

にでもなる。だが、粘土がどうにか

なったか、ならなかったか、粘土に

聴いても応えがない。それは当然なこと

なのだが、それで納得する僕では

なかった。

しゃべらず、無言になった僕に先生が、

「疲れて、嫌になりますか?」と聞いて

きた。僕はなんとなく、時間が経って

いたのだな、とうつろな返事をした。

眼は小壺から話さず、その表面を

撫でながら、見続けていた。


僕は新しく始めた陶芸にしても、こう

して戦うという姿勢で始めてしまった

らしい。人生は勝ちに行くものだ、という

姿勢が変わらない。それがゴールが

ないと見極めると、勝負は消えて、

それからそれとの関係を築き始める。

そうして粘土と生きることを覚え始める

のだろう。人とものとの関係は、似た

場所から始まる。



先生から塗る釉(うわぐすり)の色を

聞かれ、白と答えた。湯呑の時にも

聞かれて、白と答えた。形も定まらない

のに、色の工夫とかあるはずもない、

というのが自分の(たぶん、悔しい)

気持ちだった。

そうか、僕は形に何かを求めている

らしい。答えはどこにもないだろうから、

目の前の粘土作品を見続けるより

ないのだろう。



ともかく、僕は初めから、職人の癖が

あるらしい。職人は考えない。考えて

できることは、すでにすべて習得して

いる。そこから始まるのが職人の世界

だろう。僕は今まで、そういうことを

考え続けてきた。ものにぶち当たる

のは、時々の慰みで、趣味程度に

したいと思って。

そして、それで収まる自分でないことも

十分に知っていた。遠くから、遠くから

それを見ていた。

鎌倉の大仏を見ていた時に、思い出に

惹かれないのをいぶかしく思ったが、

それは僕の無意識が鎌倉の大仏は

どうやって造ったものだろう?と考え

ていたからではないか、と想像する

のであった。もう、陶芸が内側で開始

されていたのだ、そんな気がする。



そんな未来と過去とが小さく反発

した、そんな空想が出来上がった。

僕は天職の階段を登り始めたの

かもしれない、という子供の頃の

夢と、 ・・・・・。



壺は目の前にあった。 だが、

どうしても壺は目の前にあった。



見れば見るほど、凡百の壺だった。

いつかこれが吹っ切れた時に、僕

は具象ではないけれど、形と呼びたい、

見えない形を発見するのかもしれない、

そう期待まじりに思った。



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