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春雷とか、ロマンとか [ロマン]

(自分という共通項の世間から離れる境遇?姿態?)

近代に現れたロマンという概念は 

滅び去ったはずだ、という過去の 

いきさつがあったのだが、恋愛 

という遺伝子が思春期にそれを 

思い出させるので、生まれてくる人 

ごとにその知識から認識を改める 

ための経験を必要とするので、 

簡単に滅び去ったとは言えなくなって、 

今もロマンは人に夢を与えている。 

僕らはそういう遺物とともに日常を 

暮らし、送っている。それは知れば 

納得するシステムなので、教育で 

どうこうするとか、数的論理や政策 

などの施行で解決すべき問題でない 

のはわかっているが、にきびの跡ぐらい 

のことで終わってくれればいいのだが、 

愛にかかわっているので、不倫や 

ストーカーという端末の問題になって 

いる。そして、その動機・経過に気が 

つかないから、複雑な気持ちの問題に 

見ている。そういう古さが竹の子か、

つくしのようにニョキニョキ生えている 

畑で僕らはいつのまにか、息苦しさを 

覚えるのだろうか。  

それが正しい認識が必要なことだと思う 

のだが、それらが長いあいだ文化や伝統 

という人民の歴史の主人公になっている 

のを観れば、納得もするし、諦めもつく。

ただそういうような考えに行きつくことは 

あまりないらしく、ロマンを批判して、それ 

からその人がロマンをどう扱うか、どう対処 

するようになったかを、書かれたもの、表現 

した映像はあまりに少ない。

僕らは古さには相変わらず流され続け、

思考文化である、ITや物質文明の管理機構 

の進化のスピードに追いつけず、少なくとも 

半分の人口はそのギャップに悩まされる。 

悩まない人もそのギャップにいずれ失って 

しまうものに気づかないで数字の中を彷徨う。 

彷徨うという意識もないだろう。  

僕の問題提起はゆるやかなものだ。どうしても 

そこに解決を求めるものではないし、批判的な 

ものも一面で語っても通じないほど感性の 

異なるものがあるので、一概にこれはこうだ、

これが正しいではどこにも行き着かない。 

 僕はロマンが好きだ。それは一昔前は 

ロマンの理想的な虚構の匂いに、背徳の 

方向に嫌悪を覚えたけれども、それが自分 

からロマンを消すことにはならなかったこと 

を思うと、僕にとっての必要を見直すように 

なった。運命とか個性とかの要素は、一概に 

正しさは持たない。区切ってなんぼのもの 

ではないからだ。区切らないことに意義がある、

意味がある、ということに気がつく。そうして 

正しいと誤りという一面でのものごとの判定  

をする間違いから逃れられる。

だからベタで雑味のあるロマンを見ると 

少し、吐き気をもよおす。別に上品を 

気取るんじゃなくてロマンの健全な面を 

活かす演出に気を使ってほしいと思う。 

それがほんものなのかどうかという 

のは、また一面の判定の問題に戻って 

しまう。 それを経験の篩(ふるい)に掛けた 

ものは、ある程度洗練されるし、間違いなく 

その人にとってはほんものなのだ。それは 

現実のことではなく、その完成形を目指して 

いる進行形のようなものかもしれないが、 

一般的にも本物に近づいているはずだから。 


この街のどんなもの、どんなことにもそれ 

自体の今の古さから、新しさからどう脱皮 

するか、どう閉じてしまうのか、どう進化 

するかという震えが感じられる。それが 

どうその方向性を伸ばすかは、それをどう 

引き継ぐかにまかされる。それは自然な  

責任で、実は僕らは人間の未来をその意味 

ではその責任を担う、無意識的な義務を 

負っている。それが自分に合っている、また 

は自分の運命だと動機に感じる人は、そこ 

に使命感を感じて一気にのめり込むのかも 

しれない。 

だから、どんな過去の遺物に見えるものでも 

絶対批判のようなことをしては、なにかを 

見過ごしてしまうことになるだろう。 

同じように一冊の本や論・論法・理論や 

誰か他人の指摘に意を同じくして、それに 

賛同してしまっても、同じように隠れた真理 

の多様性というものを見逃すミスを犯して 

しまうことになるのだ。真実はひとつ、は 

法廷劇だけにして、ほんとうを見つめるなら、 

例えば、事実はその場面を見る人の数だけある、 

というのも真実の一つと認めざるを得ない。 

僕らは嫌いなものは初めから、瞬間的に 

拒否して見ない、という芸当を思春期前後から 

くり返してきている。それが習慣になるから 

数十年もして老化という頑固さを抱えなければ 

ならなくなる。それも自然な人間の衰退・成長の 

過程のひとつだ。 



ロマンには愛を腐らせる部分と愛を輝かせる

部分、そういう二つの面が愛のいくつもの面の

中にある。僕にはそれを活かす要素のような

特徴が備わっているだろうか、自分に尋ねる。

という、暇なことをしている。どうだっていい 

じゃないか、というのは知っているのだが、

そう尋ねる自分を意識するのは楽しいこと 

なのだ。  

思考の意識が断片として、いくつも流れる。 

時間を忘れてしまう ・・・・・  ・・。 

こんなことを考える、 ・・  

人間は形容動詞として見たらどうなるだろう? 

動き続けるが、形容の形しか取れないから、 

なにかであろうという判定や表現をするが、 

それで行動できないし、できないから目的も 

持てない。何事もなさない。なにも残せない。

爪痕さえなく、呼吸もしないかもしれない。

そう思ってみたとしたら。 ? 

そう、真剣に思いを致したら、なにか心がざわ 

つかないだろうか?「それではなにもならない、 

無価値ではないか」と嘆きの感情をちょっと 

でも感じはしなかっただろうか。 

ドストエフスキーも言っていたな。―僕らは 

ヘアピンみたいにつまらないものじゃない 

んです、人間なんです、価値のある人間 

なんです。―

猫に小判、という諺もある。 

価値は絶対だろうか?思い出の品は 

その人にとって価値はあるだろうが、他人 

にはただのゴミかもしれない。子供の頃の 

ぬいぐるみを大人になってもボロボロの 

縫い直しをしながら、まだ持っている人も 

いる。誰もそれを欲しがらない。

ならば価値は絶対のものではない。 

僕らの自分・プライドはどうして絶対を求め 

たがるのか。 

自分は、この形容動詞に似ている。自己 

実現とかをして、それをくり返すのだ、それが 

人生なら自己実現が夢なのだろう。夢を 

果たそうとする人生があるなら、夢を現(うつつ)

に見る人生があってもいいのだろう。夢に 

拘泥しないで処世ではなく、現実に従う人生も

あるのだろう。なにが何を支えて、それが 

人生の何を成り立たしているのか、僕らは 

知っているのだろうか。僕らはほぼ体の 

無意識な遺伝子やらの欲求やなんやらで 

動かされている。0,00数ミリグラムで 

致死量になる毒もこの世には存在する。 

たった一言で、そこにたどり着こうとして 

いる人には目の前が開かれることになり、

喜びの涙が眼に、ということもある。 

 


浅い夢を見ながら、朝を迎えることがある。 

夢うつつで1時間は経ったらしい、という感覚 

が何度もあるが、いつそう思ったのかも、 

記憶のない時が流れている。朝起きること 

が、苦しみでさえあった日々はあったのに、 

この頃は起きるのは体の世話をしなくては 

ならない、という軽い労働があるだけだ。

窓の外には詩的感情が漂い、広がっている 

はずだ。それに期待はしないだろう。生活の 

手順をいつも考えている。同じことをしている 

のに、体調は毎日変わる。足の調子、胃の 

調子、老眼の遠近の調子、外に出ると、 

近隣の散歩というのに出る。最近、決めた 

コースだが、その1回目で2000歩になる。 

なにか感情を入れないと、生活は平坦で 

素っ気なく感じられるのは、冬の季節の 

影響でもあるのだろうか。季節を探す人 

は見かけない。駅へ行く人はいる。バスに 

乗る人はいる。駅もバス停もただ通過する 

だけの名前や町だったら、僕らはそこに 

なにかを見ようとするだろうか。車窓や

窓から知っている人を探してみようとする 

だろうか。

床を見ると、世界の歴史の本が置いてあり、 

ぽっかりと闇への口を開いているのが、僕 

の空想をよぎった。これは通常の感覚じゃ 

ない、という状態・状況を外から観察する 

ような半意識をやっと捉えることができた。 

ここにはいないという状態の自分を、ピサの 

斜塔を見る不安な感覚で、心の不安定に

達するようだ。 

僕は    自分    じゃない。 

空想に酔っているという、芝居を演じる 

そういう劇場感覚にあるさま。  

君は僕だ。なぜ、こんなことを言うのかね。 

君は伸びる。伸び止まないゴムの横断面。 

法則とは何か。信号機が一時、休憩をする 

公園のベンチだ。伸びやかに自転車の 

ペダルを漕いで、夢遊病者のように 

海底を渡ってゆくようだ。

理性は強い気持ちの防波堤にはなれない。

でも、暴走を食い止めているじゃないか、と 

振り返りながら、君が言う。 

それは島の景色を背景にして、突然、現れた。 

港から流れ込む川の一筋が、目の前にあった。 

かすかに音がした。それは空から。 

緑の追い風。 草のなびき。 葉先の光の 

反射。  絵の具のような影の家々。 

潮の匂う川面。  また、 音が。

それは 空から。


春雷だった。 

ここまで 来い。 


いい響きだ。 


ここまで 来い、 

春雷

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