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誤謬と誤解の思い違い メモ [思い違い]

誤謬は 間違いのこと。

誤解は 間違えた理解や解釈、または

思い違いすること。

この二つを並べて、厄介だと思うのは、

思い違いをするほうだ。なぜなら、そこ

には本人が正解だと思う心理が居座って

いるから。

誤解を解くのに、正解をもってすれば

いいだろう、と考えやすいが、本人が

これが正解だと思っているから、それ

を間違いだということになる。正しさ

というのは、人間の数だけあると

思えるぐらい多いから、ほとんど

間違いは指摘できない。だから、

本人が知らない基準を、まず教えて、

それに合っていないことを、本人が

認める方向でないと、正解という

答えだけを挙げて、それは違うと

言っても、本人はまず納得しない。

これは相手が何を見えて、なにが

見えていないか、という点と、そういう

視野がどれだけ開けているか、という

点をふまえておいて、次にそれらが

融通の利く考え方で、一度本人が

熟考した経験があるかによって、

ずいぶん、説得の仕方や教え方や

議論の進め方が変わってくる。

だから、これを井戸端会議の方式で

話題がどんどん飛んで行ってしまう

おしゃべりでやろうとするのは、不適応

も甚だしい。

北一輝と大川周明は革命家と思想家だが、

ふたりが出会って、語り明かしたのも、

一晩かかったそうだ。楽しく談義した時間

も含まれるのだろうが、頭脳優秀だからと

言って、会って話せばすぐ理解して、という

わけにはいかないのが、僕らの理屈事情

らしい。 



今日は、寝ていた。暑くて汗をかくのと、

病で汗をかくのでは、事情も違うし、

かく汗の気持ちよさ・悪さもちがう。

熱は37℃以下の微熱だったが、夕方

まで寝て、パジャマが湿るくらいには

汗をかいた。ひどい下痢には昨日なった

が、疲労が濃いとは思っていなかった。

着替えて、落ち着いて、また熱を測って

みると、36℃3分に落ち着いていた。

ただの風邪ですみそうだ。三日連続で

長い文やメールを書くと、やはり体力

が消耗するのだろう。



考え方の授業というものがないのを、

僕らは不思議に思ったことはない。

考え方がすぐにいろんなパターンと

いう知識の吸収でしかないのなら、

恐らくそういうことに思いが及ば

なかったのだろう。考えればいい

ことさ、ぐらいで済ませたのだろう。

実際、考え方を教えるとなると、

まず問題になるのは、どこから考える

のか、なにから考えるのか、どういう

風に考えるのか、ということについて、

それらを直接教えることはできない

ことだ。できはするが、適当ではない。

例えば、丸いケーキを切り分けるのに、

7等分はどうするかについて、算数で

360℃を7で割って、とやってもいいが、

実際にはそんな半端な数字の角度を

どうやってケーキの上で実現するか

は、難しい。

そういうベタなことはしないように

するのが、考え方を教える、という

ことだと思う。

そのケーキにしても、僕なら従来通り、

半分にして、それをまたそれぞれ

半分にして、と切りやすい8等分に

する。それを7人で分ければいい

ことであって、残りはそれなりに

食べるなら、小さい子にとか、

じゃんけんでとか。それでも喧嘩に

なるなら、ケーキのそのひと切れ

は捨ててしまって構わないのでは

ないか。そのほうが諦めがつく。

または、捨てると見せかけて、

それなら喧嘩しているふたりに、

それとも半分ずつにして、食べる?

と聞いてもいい。それでも嫌だと

いうのなら、そのケーキがなく

なってしまうという現実を経験

させるのがいいことなのだ。それが

なくなっても皆にとって大事なこと

は起こらない。子供には迷わせ、

考えさせ、自分の気持ちをコント

ロールするほうへ向けてやった方

がいい。子供のために。

そういう訓練を積んでいくと、

さまざまなケースにおいて、なに

が重要か、どう簡単に物事を運ぶ

のか、またはここは時間をかける

場面ですぐに結論を出さない方が

いい、というように応用して自分

で考える習慣がつく。

そういう風に、そこのベタなこと

を、そのまま答えを出すのでは

ない、正しいか否か、ではない、

僕らの生活や社会のバリエイション、

それぞれの物事と人の事情をふまえ

て、それに応じた考え方をさせる

ようにした方がいい、と思う。

今の処、それは常識なのだが、それ

について誰もが身についていると

いったようには見られない、些細な

トラブルをあちこちに散見、多見

するようなのは、僕の思い過ごし

だろうか。

デカルトはどうして人にはそれぞれ、

理性が備わっていると(方法序説の

最初に)言ったのだろうか。精神の

法則についても書いているが、それ

を原本や参考にして、考え方の

教科書が作られたという話は聞いて

いないから、なかなかそういう本を

書くのは困難が多いのかもしれない。


もう肩がだるくなっている。風邪薬のせい

だろう。それでもまだ書こうかと考えるから

こういうのを何欲というのだろう?

内側から出ようとするものを表現しようと

する意欲、これはお金を欲しがる喉から

手が出る、そういう蛇のような欲求と何ら

変わることがないようだ。僕はケーキの

残りを争うことはないだろうが、あと1冊

だけくらいの分量を書ける権利が、一つ

だけ残されていたなら、それを欲しがって

争うタイプだろう。現実を生きる以上、僕ら

が何らかの欲の奴隷になるのは、自然な

ことらしい、という気がするが、 ・・・ 。



ブッダは欲を捨てろ、とは言っていない。

ここも誤解されているかもしれない。欲を

少なくして、欲にかられたり、また飢えさせ

たりしてもいけない、ことを伝えている。

欲を活性化させ過ぎてはいけない、という

ことだろうが、それは主に感情のコントロール

のことを指している。感情の抑制は心に

いろいろなその条件を用意する必要が

ありそうだ。なんか感情の抑制と開放を

巡ると、堂々巡りに陥りそうだ。

風邪で、書けば書くほど、仏門説教じみた

文章から離れられないようでも。

元気を取り戻すのが先だ。

お元気で、という挨拶の言葉があるが、

全身かったるい時に言われても、なにが

元気だ、気やすく言うな、と反発する気持

が、ちょっと起こるのは僕が変だから、

今、体が普通じゃないからだろうか?(笑っ

てもいい?) (笑)
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