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異なる匠に迷う [匠]

何を書くつもりなのかは知っている

が、その何かがわからないものの

代表のような物なので、とんと

見当がつかない。


わびとかさびとかいう概念は

イメージで知っているもので、

その内容を実感しているかと言うと

まったくなにも浮かんでこないのに、

改めて気づいた。

なんとなくわかりきっているよう

にも思っていた、わびとかさびの

風情が「そういうものだ」という

あいまい、いい加減なイメージで

しかないのには、参る。

ものを透徹した時の感動がそれを

保証した気になっていたが、ここ

まで来ても、それが無内容なのに

気づかなかったので、ただ芸術と

素朴、100円の食器と手作りの

陶器に、予想していたつもりだった

違い・区別を見出せなかった。

過去の感動があるきりで、ものの

美は感情のものなのかという疑問

まで湧いて、混乱を来している。

数寄者というのは器を愛する者だ

ろう。まったく好き嫌いの感情の

世界に見える。理屈が見いだせない

のは承知しているし、構わないのだが、

ただの好き嫌いとの本質的な区別が

まるで見えない。ないに等しいので

はないか、と思えるくらいだ。

それは上品・下品とも違う、わかり

にくい異匠であるが、濱田(庄司・

人間国宝)の時はすぐにわかったの

に、もの全般を見ようとすると、霧

の中に入ってしまう。


焦点が違うのかもしれない。透徹を

意識するあまり、モノを見ないで

そこからの抽象やイメージを連想

しようとするので、当然、見ていな

いのだから、なんの感動もない。

そういうことなのか。そこにある

ものは、そのひとつのもので、全体

ではない。モノの全体はそのものを

見ることから現れるはずだ。だから、

透徹してやろうという意識から離れ、

自由にならなければ、現れるものも

現れないハズだ。



初心に還れとはよく言った。

過去に帰ることではないだろう。

リターンするのだ。知的な僕らは

探そうとしてしまう。第一印象は

よく当てるが、それですべてが

わかったのではない、そこから

先へ進まなくていいのだ。そういう

地点で見続けることで、先へ進む

のは僕らの考えが教えてくれるこ

とではない。その時に自然が教え

てくれる。またはそれが見えている

人がヒントを授けてくれる。

ものや人との出会いは自然の中に隠さ

れているだろう。素直さ素朴さだけで

ないのが、自然なのだろう。


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