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聴くことで考えてもらう [聴くこと]

ユークリッド幾何学の定義だったと思うが、

点は広さも形ももたず、最小のもので

そこにあるものと言うけれど、面積もない

ものがそこに存在するはずもなく、

幾何学が初めから抽象の分野にある

学問だということしか証明しない。 

バッハはどうだろう? 

音楽は鳴れば、聴いて存在が確かめ

られるから、抽象でないのは確かだが、

その感覚はむなしく、楽器が音を止め

れば、瞬時に消えてしまい、あとは

記憶が頭の中で鳴るのみだ。それに

確かそうな楽曲も、デタラメに演奏すれば

音楽でさえなくなってしまう。数学のように

黒板や紙と鉛筆があればいいという、

簡単な道具では間に合わない。演奏も

それなりに技術が必要とされる。

楽譜にしたってからが、指揮者によって

演奏者によって、音楽は随分変わって

しまう。名演奏はあるが、これが定番の

これがあればいいという演奏の記録・

録音はない。  

絵画もいつも思うのだが、世界一有名な

ダ・ヴィンチの「モナリザの微笑み」にして

からが、初めに見た時は、暗い印象で

どうしてこんな暗い絵が有名なのか、

その芸術的価値がわからなかったが、

当時の色を再現して綺麗に瀟洒になった

絵を見て、なるほどこれなら、と思ったが、

そういう具合に原画が修正されるわけで

なく、原画の、古くなって暗いままだ。それ

は歴史的なものだから、暗さも歴史的

価値に含まれるということなのだろう、

無理に納得するしかないのだろう。

数学でさえも、また芸術でもそのありの

ままは残らない。

それを止めようという過去からの要請が

あるから、そのことがむなしい、と表現

されるが、止めることなく、流れ去るもの

だと諦めているなら、そのむなしさは

無くなって然るべきなのだが、虚しさは

尾を引く。よく見れば、それは未練という

尻尾なのだろうが、諦められない本体

もありそうだ。  

そう言ってそうだとわかるのは、僕らの

何かと言うのはた易い。未練もむなしさも

無くなる時間があるからだ。それは眠って

いる時だろうし、仕事が超多忙で他の

ことを考えられない時、あとこれはあまり

ないだろうが、気絶したり、記憶を喪失

したりした時だ。この時に失うのは

決まって、自意識だ。あまりに驚愕する

事実や事件で茫然自失した時もそうだろう。

僕らは自分を失った時に自意識という、

それが認識する自分というものを失う。

母は病と夫と別れたくて、不幸な晩年を

過ごしていたが、口癖は「寝るのが一番」

だった。何も考えずに済むし、楽だった

からだろう。自覚しなければ、行動が

危ういし、不幸が続くと、自覚するのが

そもそもつらい。楽しいのが最も良い、

と思うだろうが、僕らは楽しさには

我を失う、それほどのめり込めるから

楽しいのだろう。そして、完全に我を

忘れるわけではない。それでは正しく

は、楽しめるほどには、我を忘れたい、

という程度であろうか。ともかく、この

自分を失くすという感覚がなければ、

楽しめるや楽しめたとは言えない、そう

いうことらしい。

ところが、それでは自意識が最も活発

に働いていたら、最も苦しく、むなしい

のか、と尋ねると、どうなのか、どうも

単純ではないようだ。

初期にはそれはむなしさが端的に心

を支配して、きつく、つらい、せつない。

見つめれば見つめるだけ、そういう

自分と正面から対峙するのは透明な

氷の刃に刺される気がする。だから、

人はそれに耐えきれず、そこから目を

反らし、心から背を向けて、別の自分

に帰ってくる。

別の自分?これが自分というシステム

の自己防衛機能の支配下のもう一人の

隷属化された社会的自分なのだろうか?

すべてではないにせよ、ほぼそういう人

が多勢を占めるのであろう。

「玉ねぎの皮をむくように」いくらでも創造

される支配下の自分である。ここから

逆らっても、虚しさの地獄しか待って

いないのなら、どんな妥協でもして、それ

を記憶から消しているだろう。そうやって

プライドはその習慣から固執化してゆくの

だが、運が良ければ、それを気がつかせ

てくれる人や情報、事象に出会う。

今、二つに一つみたいな選択で話して

いるが、どちらかが正解の人生とか生活

であるなら、僕らはこれほど複雑な事件に

対処を迫られる現実に出会うことはない。

どうして、相談することも人も相手も、その

問題さえあいまいなのだろう? どうして

回答者や心理療法士などは経験が豊か

であることが必要なのだろうか。

そして、僕は客観的な意味で、占いとか

ではなく、科学的または統計的にもその

’相性’が治療や相談に向いたものとして、

必要だと思えるものに加えたい。

相談を受けるものの第一の重要特性は

相手に話させて、それを徹底して聞き

取れる、むしろ聞きっぱなしでいられる

耐性だと思う。聴くことが最初で、また

最重要でこれを踏まえない相談を受ける

者、または医療従事者はすでに失敗して

いるし、ひどい者は失敗に気づかないし、

うまくいかないことに平気である。

面倒で厄介なのは、成功していると

思われた例でも、そうではなく、また

(再び)相談に訪れてくるということは、

なにも解決していないことに、深く、

真摯に気づくべきである。

悩みの表層的なことはヤブ医者でも

成功して、見かけはそれで済んだように

見えたりする。一般にはそういうことは

多く、それはまあ成功でいいだろう、と

いうことで収まる。が、神経でも精神でも

病気となると、根が心とは別の場所に

ある、ありそうだ。

ケースバイケース(個別対応)なので

この話は先に進まないが、これは

世界有数の知恵者ブッダが、同じように

相手に応じて話したということでもわかる。

対機説法とかいう名前をつけられているが、

人それぞれの千差万別に対応するという、

ごく自然なことなのだが、名前はそれに

特別な手法があるように見える、虚妄が

働く。固有で、特に効く手法といったもの

ではないのだ。

この自然な対応が相手の自我を正面に

向かい、迎えることで、相手から来る「気」

を最初に受けるのだ。「気」を受けるとは、

気づくという意味だ。話はそれからの

「聞く」になる。



さて、では「聞く」ことでなにがそれほど

重要なことなのか、というその効果の

意味について話そうと思う。僕らは

トラブルを訴える相手の話を聞いて、

そこに問題を緩和したり、適当な妥協

であったり、うまくすれば解決を得られる、

という適当なアドバイスをしてあげれば

最高だと思うが、それは間違えている

という話なのだ。

そのことに気が行くのは、これから自分が

いい忠告を与えるというパフォーマンスに

気を取られるということだ。それでは相手

の話は耳に入らない。それでは相手の

話を「聞いてやっている」という態度なのだ。

ブッダは当然ながら、修行中に”無”と対峙

しただろうから、それに自分がどう抗(あらが)

ったか、従ったか、どう感じたか、その反応

を知っていただろう。

話を聞く者は相手の誤りに対して、そこで

中断して、それは違う、とは言わない。

明らかな勘違いについては、相手が

気がついていなければ、そこでそれを

質問する。否定的で相手を刺激する

質問ではない、気づかせるための丁寧

で間接的な質問が適当だろう。

大事なのは、相手に話させることで

それはつまり、相手に考えさせることだ。

よく考えられれば、それだけ問題を自分

で整理することになる。すると、問題が

うまく整理されれば、そこで問題の半分

が解決したことになる。

今までもやもやしたことが、話すことで

明瞭な形になるから。形を見ることが

できれば、僕らはそこから新しい考えを

さらに導くことができる。また誰かに

聞いてもらったことで、気持ちに安心感

も生まれる。



僕は今まで、いい本だと紹介されたことは

いくつかあるが、その本を購入して、読んで、

読み切ったことはまれだ。まず、ない。

それは自分に合わない、興味がないことや

時もあるが、自分の得意とする分野では、

最初の10数頁で中身の形も結論・結末

なども読めてしまった気がするからだ。そして、

一応は確認しておこうと、1年後くらいに

速読みをしてみると、変わらず思った通り

の内容で、結末も想像通りで、自分で

驚いたことがある。

それで僕はこの何十年だろう、自分が

いいと思った本を誰かに紹介したりする

ことはしていない。それほど人と人とは

きっかけや出会いが異なっている。

あと1年早かったら、あと1年遅かったら、

出会いが素敵なものになっていただろう、

ということがあるから。その人が自然に

出会うのがいい、と思える。 



自分はその時の自分にいつでも出会い

たいと思っている生き物なのかもしれ

ない。よく昔聴いた楽曲で、感激したり

するが、それはきっかけに過ぎず、楽曲

ではなく、それを聴いていた頃や、その

感激した頃の「自分」を思い出すからだ。

その頃の自分に突然、憑依してなりきる

自分になれるからだ。それをなつかしさ、

という。

平板な結論が出てきたところで、カバー

する考えもなさそうなので、ここらが終点

か。



::

僕らが真とか、本物に出会うのは、それが

真であるから、本物であるからであるの

だろうか?むしろ、僕らの自分の部分が

よく似た自分に感動するからではないか。

これは一種の欺瞞でもあるが、議論では

そうであっても、感情では避けられない

ことだろう。昔の自分を見限るのは、人間

のすることじゃない、と思っているから。

自分とは、またの名を家族(父母兄弟姉妹)

とか友人とかといって、仲間主義とも言って

格別に大事にする。僕は心情ではまったく

正しくても、論理のような知的機構に

照らし合わせると、破綻していると思う。

ではどちらが良いのだ、という議論は

成り立たない。水と油が混ざらないから

といって、水か油だけ使うことにしろ、と

言われるようなものだ。心は抽象だから、

それがありそうだが、実際はない。

この二つ、もしくはもっとの事項に

満足な解決策はない。秩序が崩れる

関係は常にある。それを嫌っても、

それは自分の内なる秩序(例えば、

善とか、真実とか、神とか)が崩壊

するのを止めたいという、個人的意見

であって、それは真理でも何でもない。

僕らの住む世界はそういう世界なのだ。

生活に選択の余地はない。僕らの知が

活きるのはお互いに必要な妥協策を

見出すことだ。まず、そこまで行く。

つぎにそこからまた、新しい策を見出す。

自然な秩序のもとに生きる生活という

ありのままな世界にもともと完全はないし、

知的秩序も限定的で、無いし、だから、

自然の秩序体系が崩れることもなく、

存在し続ける。

例え地球が死の星になったと思っても、

僕らの思い・決めつけだけがあるだけで、

地球は何億年かけてもまた別な地球に

なる。僕らが仕切ろうとしてきた3000年

から1万年は遺物になっている。

僕らが決めたそれぞれの範囲で、例えば

学校とか、道路、行儀作法、その秩序は

ある。それは人間の社会が自然の中に

相変わらず棲みついて在る、というのと

同じベース(地盤・基礎)であって、だから

といって豪雨やハリケーン、大地震、津波

の自然から無事ではない。秩序は僕らが

人間の自分たちのために守っていくもので、

それは当たり前にあったものではない。

だからこそ、僕らは問題に立ち向かわねば

ならないのだ。それは言いたくない(それが

無常だから)が、自分に立ち向かうことが

最終問題になり、またそこが新しい問題の

始まりになる。僕にはそれが楽しい。



<そこでは限界というものが、僕らにとって

は新しい挑戦でもあり、脱出口でもあるのは

そこから考える扉の、 ・・・・・・・・・。 >




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日本、十分な自分自身 [日本]

すべての足場が外された世界はどうなって 

いるだろうか。それだけではない。それが

どういうことか、僕らはわからないだろう。 

しかし、そこに足を踏み入れた時の記憶

があるのなら、それは脳による記憶では 

ないために、なぜかわからずにその記憶 

に覚えがあり、しかもそこに戻らずには 

いられない焦燥を抱えることになる。 

そして、それは簡単にその望みは果たせ

ない。足場のない足場、人間を受け付けない

世界というものだからだろう。

ダーウィンは若い時の一度の航海で南アメリカ

の荒涼たる沙漠を眺めて、その何もないさまに

感動したと言う。なにもない荒れた地の空漠たる

情景になぜか惹かれたらしい。それを読んだ時

に僕も強い共感を覚えた。 

人は美しいからだけではなく、荒涼たる光景

にも心を寄せる。その空漠は僕らのなにが

虚しいのによって、対比せられるのか、また

相対して僕らの何を映そうとするのか。

この虚しさは単純ではない、と今なら言える。 

以前はただただ虚空の井戸に落ち続けるような

掴むもののない、終わらない落下のような気が

していたが、この頃はそれを思い出すのさえ

難しくなった。なつかしささえ感じるのに、それを

うまく思い出すことができない。その中空の点に

ちょんと軽く立つことさえできたら、すべてが

明瞭になるとわかっているのだが、またその 

ために轟く豪風の虚しさの嵐に見舞われ続ける 

のも承知しているのだが、生きるにはそれが

不幸だとわかりながら、かつて知ったるその

不幸がなつかしく、また恋しくもあり、その凄まじい

嵐を前に一心不乱になりたいのはどうしてか、

その戦いの緊張を取り戻したいのはどうしてか、

もしかすると、その時こそが今までで最も充実

して自分自身であった時だったからではないか、

それが忘れられない。 ・・と考えてしまう。


非日常の最も不幸だった半世紀が、今の日常

のしあわせの時に思うと、不幸どころか、幸せにも

思えるのは、皮肉なことではあるが、同じように

なればまた非常な緊迫感で、今しあわせだとか

言える余裕すらなくなるだろう。余裕もないばかりか、

十分な判断もままならない、あの時は。  

今は? どうだろう? またそれを求めるだろうか?


無くなろうとする 意欲 

自分を捨てるのは  死への 方向で 

僕らの 生きる前提になる  意欲とは  

反対の方向 になる  

はじめは  つらいとか  寂しいとか 

やるせない  取り返しがつかない 

もうこれまで と  孤独  絶望に 

それを 心で  試練していると  

心は  突破される  

心 無い 状態を  味わう  

それは  通常の状態  

それが 日常にさえ なる 

年数を 重ね  慣れるとさえ 感じる  

夜は 淵まで   知った街 

淵から先の  闇は  知らない街 

人とは  無関係に  感じられる 

それは 生死を 超えている 

それは  名前という 概念に

できない  恐ろしい  感覚野 ・ 意識野

それから  比べれば 

独りでいることの  なんと 

暖かいことか  

孤独でいることと  朝が来ることの 

なんと  同じことか  

そして  人生の  失敗であることか 

内面の 成功であることよ 

言葉は  このような真に おいてさえ 

矛盾を  避けえない  弱き道具よ 

真に近く  迫ったことさえが 

世の中に  混乱を  ひとつ増やす 

迫れば  混乱 困難 

迫れなければ  駄作  平凡 

いずれ  究極を離れ  あいまいな 

スープの 香辛料程度の   刺激に 

どちらかが そこに 辿り着くのでもなければ 

全体を 俯瞰することが  それを定着 

させるのでもない  



僕を ひとりに  せよ  

僕を 見守る  周囲のすべてに  

それを  せよ  

させよ  

それでは  くり返しだ と  

言うのだろう 

一本の 木を示せ  

一枚の  葉を 地図にせよ 

見えないうちに  巻き込まれ  

僕の  望むように    せよ  

まだ隠された 未知の ・・・・

それは ・・・・ 


そうか、 

そういうことかもしれない  

それを 十分な結果の 後に  

示せ 

だから  道しるべは  なくて 

いいのだろう  

なにかに  拠らなくて    いい  

頼るべきを  外せ  

足場を  備えず   外せ  

僕に  無 という街を  

与えよ  

なにも なくても  

僕は  行けるから  

                  3.12 


本がいくらあっても、知識がいくつ

積み重なっても、100kmごとに

いくつ新しい国がうまれようが、仮想

空間の街や亜地球が何千とあろうと、

この世や、人間に近い宇宙人の暮らす

多重な世の中が宇宙にひしめき合おう

と、心の隙間を埋めることはできない。

そう思っている残滓がこの1か月前まで

あった。(らしい。忘れていたから)

また独りの自分が去るらしいが、去る

のは常に新しい自分が生まれる時だ。

固定した自分など居やしない。

しかし、今度去るのは、大きな一部だった

僕(自分)らしい。それは表舞台を去る、

という意味なのだろう。ボーリングブーム

で日本全国ボーリング場だらけだった

一時期があったが、今では限られて

見なくなったように、なくなってしまった

わけではない。ブームが去ったように

彼の役割を終えたのだろう。

新しい舞台の幕を上げることができるのだ、

と想像すると心も春めくが、まだその予感

だけでなにが変わったのでもない。だから

こそ、まるで登山計画を建てている時の

ように最も楽しい時を感じるのだろう。



ドストエフスキーの「作家の日記」を探して

いて、偶然、昔プリントしたブログを見つ

けた。「富士山遭難記」、2010年のものだ。

これは最初の富士山登頂で失敗した時

のことだ。八合目まで六合目あたりからの

膝の痛みを押して、登っていたが、もう夜

になっていた。あと1時間だったが、9月

だったので、これから相当冷え込むはずだ。

途中の山小屋は営業していなかったので、

安全暖かに夜を越すことができない。足が

故障するとは思っていなかったので、テント

も寝袋もない。

やむ無く、痛み止めを飲んで、真っ暗な下り

の道をほぼ駆け下ることになった。膝は

足をまっすぐにすることで、痛みが出なかった

ので、それで砂走という小さな礫の、砂場の

ような坂道をザックン、ザックン、跳び下りる

ように駆け下ったのだ。あやうく遭難になる

処だったという記事だ。

最後に句が、歌が締めくくっている。



「・ 富士の背に 日帰りはないだろうと  

 ほざく夜かな   


・下弦の月  カットすいかに よく似たり


・自衛隊  夜演(習)は火の玉  幽霊弾

  ( 演習で照明弾が撃たれ、それが
     ふよふよと 幽霊に見えた )


・天の川  ふりさけ見れば   全天の 

 黒い空にぎわう 星   そして 

 わが 天の川
               」


まさに 心意気。日本、喜ばしからざるや。



                    
                                         4 .19
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自分たち、野郎ども、集まれ [本]

ずいぶんと前だ。10年近くになるだろう、

自分の本の整理で、興味が何に集中

しているのか、そういう分野がどれほど

あるのだろう、と書き出したことがあった。

確か、94種類に上って、その分野に

それぞれ3冊から7冊くらいか、含まれる

ので、総計は400~500冊くらいだった。

小説や娯楽に類する分野は含まれて

いない。

全部は読めないと、知っているつもり

だった。その時でさえ厳選してそれ

くらいだったが、蔵書の総数では四千冊

を越えていたからだ。

最近、五百冊を処分した。しかし、それ

から50冊は買い込んだだろう。なので

減っても、また増えていきそうだ。

今では五千冊は下らない。が、作家や

評論家の蔵書と比べたら、10分の1

ほどでもないだろうが、7分の1ほど

には少ない方だと思っている。

この本には、それぞれ著者という厄介

な棲み着いた者がいて、それぞれの

概念世界を展開している。書く者は

おおむね知識人や文化人が職業と

して書くのであるから、飯のタネだ。

ニーチェも当時は自費出版だったが、

今では市販本で数社の出版社から

邦訳されている。

彼らはそれぞれが自分であり、自我

である。それがないと意見らしいこと

は言えないから当然だが、著者が

死しても、本は死なない。どうも

冥途から未だになにかを語ろうと

している。それが厄介なのだが、

どこまでが真理の影で、どこからが

自我の投影なのかが、グラデーション

になっているので、あいまいでわかり

にくい。必ず自分というフィルターから

投影されるから、知とプライドが何らか

の影響を及ぼしてくる。

これは僕の被害妄想に違いない(笑)

のだが、彼らは僕を襲ってくるものも

いるのだ。(冗談だから、笑)

が、冗談ではない。楽な本はセラピー

(心理)関連で一般向けのコーチング的

に書かれているものだろう。読む箇所が

少ない。

字面を追うだけで何が書かれているか、

わかるから、どんどん行を飛ばして

斜め読みできる。普段から資料読み

では、味わい抜きで内容把握だけで

ぶっ跳んでいるから眼球の動きが気味

悪いほど速い。

今日も人に勧めて、自分では読んで

いないので、会った時の予習にその本

を読んだら、10分で半分近く進んで

しまった。(80頁。他の分野では、相応

に時間がかかり、こうはいかない)

それがどうもいつもより読書への扉を

変化球だったが、開いてしまったらしい。

余分な隙間から、他の本の内容概念が

悪鬼のように押し寄せてきたのだ。

しかし、とても入り切れるような隙間では

ないので(そりゃそうだ)、ぎゅうぎゅうに

押し合って、その圧迫感だけ僕に押し

付けてくる。とうとう読書どころではなく、

このことを書いてしまおう、となった。

つまらんね、こんなことのために時間を

使うなんて。だが、これが心には鎮静剤

になるのは心得ているので、僕の対処

療法として、もう生活の上で確立している。



気が落ち着いたら、僕はやがて黙考に

入るはずだ。そして、坐っているだけで、

なにもしない、茫然状態だ。それって

もしかすると、その押し寄せた自分たち

(本の著者たちの自我)に集まってもらって

話を聞いてやっているのかもしれない。

そんな冗談ともつかない考えがなんとは

なく、想起されるのだ。それがすべてとは

思えないが、呆我の状態とはそういう

ガーデニングで植物が枯れないように

水をやるようなのも一部だったの?

自分たち、野郎ども、集まれ。    ・・と。



本の数だけでは、部屋の惨状は想像して

もらえないだろう。そこで僕の寝床の書物

を公開すれば、何が起こっているのか、

少しは気づいてくれるかもしれない。::

部屋1.1.JPG

布団は折り畳んであるので、ここはその足元

に小机を置いている。図書館で借りる予定の本

をメモ整理したりしている。

部屋2.1.JPG

すぐ隣に石油ファンヒーターがあるが、数冊

本を上に置いたら、どんどん重なってしまった。

部屋3.1.JPG

その横へと視線をずらせると、同じように本が

散乱し始める。ずらっと眺め渡してみよう。

部屋4.1.JPG

次はブログでも紹介した手作りの本棚。

斜めの棚板が気に入っている。上の段。
部屋5.1.JPG

下の段。
部屋6.1.JPG

部屋7.1.JPG
↑ここに折り畳んだ布団が見える。枕もとの

あたりだ。


部屋8.1.JPG
床も本だらけ。

部屋9.1.JPG
床も本だらけ、2。まともに歩けない。本をまたぐ

ようにして部屋を横切る。

部屋10.1.JPG

部屋11.1.JPG
床の3。

部屋12.1.JPG
部屋13.1.JPG
部屋14.1.JPG
床の4。一部前のとダブり。

考えたことはないが、この部屋の散乱に

いる自分をどう思うか、それはどこか不安

ながら、どこか安心する自分がいる。それは

この混乱状態は、僕の頭とか、無意識の

世界に相対している自分の混乱と釣り合って

いる気がするからだろう。わからない世界

ではあるといっても、秩序の保たれた状態

であるはずがない。整然とした無意識、

それは想像もできない。

まだ、本は残っている。

部屋15.1.JPG
部屋16.1.JPG
部屋17.1.JPG
部屋18.1.JPG

これでこの一部屋の本の映像の全部

なのだ。他の二部屋のほうがまだ本棚に

整理されているが、まだ大学生の頃にも

夏休みに昼夜が逆転して、昼寝て、夜は

起きている生活をしたが、同じように

寝床の周りは本とゴミで埋め尽くされて

いた。外で働かないで自由な身分に

なると、同じことをするものだ。

しかし、南方熊楠には負ける。彼は

英国に渡って、英国図書館に雇われたが、

家は牛だか、馬だかの小屋の二階を

借りたが、夏だったのだろう、イギリスの

学者が彼を尋ねていくと、南方は褌(ふん

どし)一丁で坐っていて、いつ食べたかの

どんぶりやごみが散乱していて、本は

何冊も積み上げられたものが埋め尽くし

ていて、坐る場所もないのに、大層驚いた

という逸話がある。それはそうだろう、

日本に帰国して妻を娶ってからも、その妻

が初夜を明けて、体がかゆいので布団を

見たら、シラミだかがびっしり。驚いて

天日干しをしたら、熊楠に叱られた。

その理由がふるってる。シラミは飼って

いたものだから、殺すな、ということだ。

馬小屋で寝泊まりしていたくらいだから、

シラミの布団などなんということは

なかったのだろう。

しかし、次第に女房も熊楠のペースを

覚えて、逆にリードして叱るようになるから、

夫婦は面白い。

僕の子供も妻も、本が多すぎるのを

嫌うが、一度馬小屋の二階で生活

させておけばよかった、と思う。(笑)



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夜を歩くのも優雅になった [夜]

今では、夜を歩くのは懐古趣味に分類

される。目的は明文化していなくて、人

のいない街を、そして暗い通りを選んで

歩いたのは、誘われていたからだった。

その当時、特に小学生の頃は、その

動機はわかりづらかったので、ただ

歩きたい衝動にかられた、ということが

はっきりわかっていたことだ。

ただじっとしていられない強い動機が

内側からあった。それは生理的な欲求

ほどに我慢のできない、避けがたい

一種の暴力だった。夜の暗さの怖さ

よりも強かったから、8歳の子供が

夜な夜な出歩いたのだとわかる。

わからないのは、何に誘われたのか

ということで、それは今でもわからない。

しかし、成人してからは考える習慣が

ついて、夜の散歩は静かで、人の気も

なく落ち着いて、歩くという自然な呼吸で

考えることができたので、誘われるという

衝動は大分少なくなった。

その経過は今までは気にかからなかった

ので、特に考えてみる、ということは

なかった。

しかし、今夜から明日へ休日に入る

ので、外を歩いてみたくなった。久しぶり

に夜の街のなかに自分の姿を浸して

みたいと思ったのだ。ところが、期待した

散歩のなにかが欠けていた。自覚は

しなかったが、帰ってきて考えることに

なった。それでこうして書いている。

一度か二度は短い時間、それを考え

ていたのを思い出した。むなしさだった。

僕は気づく頃には、むなしさに責められ

て、じっとしていられなかったのだ。

心がきつい。空白を埋められないのは

苦しいことだ。それが僕を暗い夜の街に

強引に連れ出していた。

そこから思えば、まだ自我が生まれない

子供の頃からなのだろう。ただ子供だった

ので、むなしさというものがわからず、

なんとなく反応したのが、最初だったの

だろう。わからずに歩きだしていたのだ。

わからないから、ただ歩いてみたのだ。

それを自覚したのがいつだったか、特に

19歳より前だったのか、後だったのかと

考えると、少し前だった気がする。

19歳には自己喪失の体験をしている。

それを自己喪失だと定めるまでには、

紆余曲折があった。

「THE EXPERIENCE OF NO-SELF」、

邦訳「自己喪失の体験」という本があって、

それを読んで、同じ無意識空間の匂いを

感じて、ゾッとして同じ体験の性質だと

直截な感覚で認識した。

それとは決定的な違いがあった。経験した

のはバーナデッド・ロバーツというキリスト

教者の女性で、彼女は無自己の状態、

つまり自意識の喪失の状態でも、魂が

旅をするように時間の喪失や記憶の喪失

といった事象、また見たり聞いたりする

夢遊の、謂わば臨死に似た魂の分離浮遊

体験をしている。僕はと言えば、無に陥る

瞬間に自分の背中を見ている自分がいて、

共に闇に吸収されるがごとくに、すべて

意識も一瞬でまったく消え去ってしまうので、

見聞きの経験がない。 

ここではバーナデットの体験についての

検討ではないので、短く話す。

彼女はキリスト者らしく、神を求めている。

そして、その喪失体験のなかで神を見い

出すことは叶わなかった。::

「ある時このように喜びを求めて内部を

見つめたところ、突如この空虚が急速に

拡がり始め今にも爆発しそうになりました。

そのとき私はエレベーターで百階も落ち

続けるような気分を胸元に感じ、生きて

いる感覚がなくなってしまいました。落下

して底に着いたときにはっきりと分った

のは、人格的な自己がないときは人格的

な神もなく、この二つは互いに相伴うもの

だということでした。その二つがどこに

行ってしまったのかはついに分りません

でした。」 

彼女はそれで人格神はない、と悟るのだが、

別に神がいらっしゃるはずだ、とその後も

神を感じることがなくても、追い求める生活

を続ける。2冊目の本はそれに終始している

らしい。

僕の処方では神は見つからない筈だ。神は

彼女が生まれてからの環境であるキリスト教

の知識と神への憧れという、内面の欲求から

の投影でしかないからだ。これも詳しくは、今

語れない。

彼女の素晴らしさは、この体験が見開かれた

認識を自然に与えるということだ。これは重要

な認識になるので少し、長い。::

「「究極への通路」に入る前には、例の

立体鏡のおかげで、相対と非相対との間

を行ったり来たりして、「一なること」を

見たり個々のものを見たりすることが

できたのです。しかし通路を通り過ぎて

からは、どちらも見ることができず、「それ」

を見るだけなのです。「それ」は相対面を

超え、したがって一と多を超えています。

純粋に非相対的な面では、「それ」は

自分自身だけを見る「目」なのです。

   *      *

 もうひとつ説明を要する点は、虚無を

見ることは世界を幻想と見ることでは

ないということです。私は実は今まで

一度も幻想を見たと思ったことはない

ので、幻想とは何かがよく分りませんが、

幻想と虚無は無関係で、単なる知覚の

誤りであると思います。自己を失ってから

分ったことですが、この誤りは自己が

世界に何か別の色どりを与えることから

来ているのです。非相対的な面から

見れば、人間の思想はすべて幻想である

と言えるのですが、ほんとうに見ることが

できるまではそれを知るすべはなく、自己

が無くなってはじめて分るのです。私は

世界とその中の個々の事物は実在する

と思っています。ただ、それは独立した

ものではなく、不安定で変りやすく、その

源の「一なること」の中にすぐに溶解して

しまうのです。もっとも、幻想としての世界

という考えがどうして生まれたかは、私

にも分らないわけではありません。」 



神への信仰は根強い。

実在と幻想との違いをこれだけの説明

ができるのは悟りの段階に相当すると

僕には思えるのだが、なにしろ同じ意見

なので驚く。彼女は子供の頃から何が

起こってもこれは神によるものだと、

確信して過ごしていたので、強い観念と

なって心に根を下ろしている。彼女は

この体験も神に近づく段階だろう、と

近づくための段階という不可思議な

観念の下にある。そういう進歩主義な

考え方は、当人も否定する知の概念

なのであるにもかかわらず、である。

環境の影響と伝統の生活からの

精神的な脱皮は、彼女のような

仏教的には一段階目の重要な悟り

体験でも脱皮できないものらしい。

僕も日本でなければ、彼女のように

考えたかもしれない。実際に、19歳

の体験時の直後には、神を認める

しかないだろう、というほど混乱した。

文章で日記に残っているので、人は

そういう時にそういう風にありもしない

ものを生活の知識から引っ張り出して

きて当て嵌めるものなのだ。

「体験」だけでも世界の認識は透徹でき

ない、部分的になってしまうということを

僕は彼女から学んだ。



もう夜を歩いても、あの心突き刺す虚無

は訪れてこないのだ。否応なく、外に出ると、

3分の2くらいは、満月前後のまん丸の

月が出ていた。神経の敏感な人には、

満月が影響することを、自分で経験して

いた。あの虚しさが半世紀も続いたとは、

遠くなってからまだ1,2年しか経たない

が、あの頃はむなしさとの闘争をする

精神生活の緊張があるだけで、夜も昼

もなかった。

よく過ごしていた、と感慨する。

もう懐古趣味にしかならないとは、

信じ難いのは、50年という長さ

が短くはないとその事実を確信して

いるのに、精神生活の記憶が早くも

うすれてゆくからだ。

こんなに早く忘れていい記憶ではない

筈なのだが、懐古という言葉が釣り

合うほど、それは遠くなりつつある。

今は(変な例えだが)、パリは燃えて

いるか、という第二次世界大戦下で

フランスのレジスタンスが首都パリ

をアメリカ軍と共に解放するまでの

映画の題名だが、そういう活気が

みなぎる世界を未来か、街の向こう

に感じている生活がある。懐古に

なって当然なのかもしれない。


::

このブログはロシア黒海艦隊旗艦のスラヴァ級

ミサイル巡洋艦1番艦「モスクワ」がウクライナ

側のミサイルで沈没した、翌日の晩に書かれた。
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玉ねぎの皮をむきながら メモ [自己知]

「玉ねぎの皮をむきながら」ギュンター・

グラス著)は今朝、届いた。代表作「ブリキ

の太鼓(1959)」は未読だ。図書館にある。

早速、読んでみる。これは半ば恒例で

すぐ、しかし、ちょこっと読んでみるのだ。

小説なら数十ページになるが、他の分野の

本のほうが多いので、読んでも6頁から

10頁程度で、また先送りされる。それで

1年、5年と読む機会が回ってこない本が

多く、通例になっている。例外ではない。 


ギュンター・グラスはノーベル文学賞者で、

「ブリキの太鼓(1959)」は本人曰く、どれだけ

の国語で訳されたかわからないほどで、

世界を席巻した、という風に語られている

が、その通りで知る人ぞ知る、という処か、

名前だけでも聞いたことがある。僕もその口

だが、書評では映画化されても気味悪いから

観ない、というのがあって、面白いと思った。

ファンタスチックで、グロテスクさもあるらしい。

そういうのは怖いもの見たさで、僕が好きな

作品であることも多い。(映画化はされている)


読むと、グラスの気質の一部が僕と同じらしく、

すぐに内奥についての同じ心理経験が出て

きた。::

「想起というやつは子供のよくやるかくれんぼ

が大好きだ。それはすぐに姿をくらます。苦も

なくすぐお世辞を言い、飾り立てることを好む。

想起は記憶と矛盾する衒学者であり、強引に

その言い方を通す」            4.13

グラスは「想起」と呼んでいるが、これは僕の

中では、「自分」というシステムだ。今まで書いて

きたのは、自分(というシステム)は自分本人

のために、本人を自己防衛のためにうまく

ごまかす手法を心得ている、といったことだ。

死を極度に恐れるのは、その代表でもあるが、

すぐにその合理的に見える理由を自分に

納得させている。それが事実や現実を歪曲

させることも厭わないのだ。

続きがある。::

「執拗に質問していると、想起は玉ねぎに似て

くる。その皮をむいて一文字一文字、明らか

にすることを求める玉ねぎだ。だが、単純

明快であることは稀で、しばしば左右が逆に

なる鏡文字で書かれていたり、あるいは

どこか謎めいていたりもする。

 まだ乾いていて、パリパリと音のする皮

の下にはさらに別の皮があり、それもむか

れると、みずみずしい第三の皮が出てくる。

またその下には第四、第五の皮が待って

いて、何やらつぶやいている。そして、それ

ぞれがあまりにも長く避けられていた言葉

や、飾り文字を汗のように噴き出す。まるで

玉ねぎがまだ芽を出したばかりの若いとき

に、秘密好きの人がその皮に暗号で書こう

としたかのようだ。」 

グラスの比喩を借りて、こちらも比喩的に

合わせて書いてみると、自己防衛の強い

要請があるこのシステムでは、本人の

中心の気持ちがまず後ろ向きになる。

もう本人の問いには答えないので、背中

を見せているだけだ。自分本人に気づかれ

てはいけないので(これは知性自身の対応

でもある)、後ろ向きの答えは必ず、次に

後ろ向きの答えが用意されている。または、

本人のプライドを傷つけず、満足させる形 

での答えが用意される。これではいつまで

質問してもその真実の解には到達しない。

それがこの続きに語られている。::

「そこで野心が目覚める。殴り書きした

ものの意味を解読しよう、暗号を解いて

やろう、という野心だ。今世間で真実で

あるとされていることの誤りが見つかる。

というのも、ときに嘘、あるいはその妹分

であるごまかしが、想起のなかでもいち

ばん幅をきかせているからだ。書き出し

てみるともっともらしく響くし、写真で

撮ったような正確な細部をもった部分

のみを伝えるからだ。私たちのアパート

の中庭にある納屋の、七月の暑さのもと

できらきら(あとは文学表現になる)・・」

自分のなかにある、いくつもの自分、

それはそれを収める統括の本体も

自分と呼ばれている。数ページ後には

そのうちの一つの自分を書いたことが

書かれている。::

「「クレッカーブルク」というのが、六〇年代

の半ば、つまり、三人の息子とひとりの娘

を持つ四十歳の父親であった私が、安定

した市民生活を送れるようになったかと

思えた時代に書いた長詩の題名である。

最初の小説の主人公同様、作者自身も

すでに自分のふたり目の自我を本のなか

に封じ込め、なんとか宥めて本の形にして

市場に送り出し、名声を得ていたのである。」


というように、自分の二番目の自我という

ことを意識していた。彼は作家である。心理

分析家ではないから、ここから先は自叙伝

になっていく。周囲の事情や世界の環境の

変移やまた、執筆時の様子などが書かれて

いるそうだ。次は読むのがいつになるのか

わからないので、これ以上の詮索はできない。

ここで終了。



>>>>>>>>>>>>>>>>>

3月1日の記事「恐怖の克服は知らぬ間に」に

後記を追加したので、参考にそれも加える。:::

                   

:::
これは先月、3月1日に書かれた。

今、4月13日。書かれた2週間前後の後

には、旧約の神が人間を痛めつけた動機に

ついては気がついていた。人間の考えが

わからないからかもしれないし、またわかって

いたとしても、同じように試練として人間を

痛めつけただろう。

それはたぶん、人間から愛を生むためだと

想像するが、その検証はまだできていない。

するまでにはまだ時間が必要なので、先走り

してその考えがあったことだけをメモして

置きたかったので、ここに書いた。

愛というのは西洋的なもので、その重要さが

わかりながら、使うとなにか違和感を感じて

いるものだった。僕が日本人で、仏教や儒教の

影響を受けているためだろう。仏教も儒教も

正しく受け継がれた事例は局部的で、むしろ

中国にも朝鮮半島にも肌合いが悪かったようだ。

景教として日本に入ってきたキリスト教は、

宣教師も日本人の奴隷を確保するのが目当て

だった節もある。

それでも神を日ノ本の太陽神になぞらえて

(謂わば聖書を脚色して)愛の布教には成功

し始めていたのだから、(あの秀吉に天下を

取らせた稀代の軍師黒田官兵衛もキリスト

教徒だった)それは僕らの心の中心を捉える

ものを備えていた。なんにせよ、多くの

歴史は紐解かれていない。     
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おしゃべりと、もの書くこと [右脳左脳]

何ということはないと、自分では思っている

ことで、おしゃべりとものを書くことがある。

新しいことでもないし、特別でもないので

誰でも心当たりがあることを書いてみようと

・・・・・、なんだろう、やはり、思ったのかな。

それは僕の中では知性の左脳側と右脳側

とに分かれた時の違いのようだと考えて

いる。

左脳は一般に言語機能や論理の機能を

司る。右脳はイメージで物事を整理する

機能を司る、と言われている。アメリカの

実験でその右脳左脳をつないでいる脳梁

という通路を手術で切って実験したところ、

左目に車の絵を見せても、その名前を言え

なかったそうだ。左目は右脳に通じていて、

車のイメージをキャッチして脳梁を通して

左脳に送る。左脳がそれを言葉にしている

とわかったらしい。

左脳はそれで、書く時に機能を発揮して言葉

を計算・論理化して伝わるように構成するの

だが、これを積み木を積み上げるようにする

だけではとても労力がかかる。その時、右脳

の機能で前もって整理しておけばスムーズに

言葉を出して構成できるのだろう。それで書く

時にはどうしても筋が通るように書かねばなら

ないから、労力が左脳にかかる。

しかし、しゃべるというのはほぼイメージを

活用して、多少の言葉遣いや言い方の間違い

には拘泥しないで、ポンポンとしゃべるから、

まとまりには欠けるが、正確に細かく考える

よりスピードの点では速い。そして、その時

の話題でしゃべり、話題が突然変わっても、

拘泥しないからその話題に乗っていこうと

する。かくして、おしゃべりは自由に進み、

留まることを知らない。 

この二つの性質は知において、今も変わって

いない。ただしゃべるように書くのは困難で、

また書くようにしゃべるのも困難なのだが、

それを可能にする人もまたいる、ということだ。

美空ひばりは歌手だが、日本人で歌手で

外国の切手のモデルになった人は、まだ美空

ひばりだけかもしれない。

彼女はその昔から世界で人気があったが、

ともかく書くように歌った。音程にしろ、なんに

しろ、歌い方を間違えない人だった。歌詞を

間違えたこともなく、いつでも完璧に歌いこなす、

歌においては天才的だった。

また、太宰治も書くようにしゃべることができた

人で、或る時、口述筆記が必要になって

奥さんが太宰の言うことを、書き写したこと

があるのだが、それがもう完成文の形で語ら

れて、淀みなく文章になっているので、書き写し

ながら気味悪くさえ思ったそうだ。こういうのを

正確さに貢献した才能と言うのだろう。神経が

しっかりしていて、常人を越えているのだ。

僕はその中間を行く、無意識を利用した常人

で、その点では常人を越えたように見えるが、

実際は努力した後のことだ。先天的な才能

ではない。

僕は書きだすとほぼ、淀みなく書き直しも

しないで最後まで書き切ってしまうが、それには

訳がある。 

過去の日々に考えたことをどんどん忘れながら、

無意識の脳空間(?)にその考えを文章のまま

留めるという離れ業ができるから。=と自分

では推測している。他にそういう例が明確には

ないので、比較して分析・確認できない。


(ここまでもほぼ一気に書いたので、時間が

それほどかかったとは感じられない。実際は

測っていれば、自分の感じた時間よりも倍

くらいの時間で書いているようだ。この確認例

も少ないが、過去にした実験での計算から

比較して、確かだろう)

連載をいくつか持っている大衆小説家も驚く

ほど書く量が多いので、普段から一人で書斎

で黙ったまま、頭のなかでしゃべり続けている

のだろう、と自分の例から想像している。

それでよくしゃべる人でも手紙を書くのは

苦手だという人が多いし、学者がよく論文

を書くが、寡黙であまりしゃべりたがらない

人が多い、というのが世間で一般になって

いるのだろう。

言わずもがな、だが、書くよりもしゃべる

ほうが楽しい。考えながら、まとめながら、

推敲しながら書くのは疲れるが、しゃべる

のは楽だ。

それで僕の日常は茫然として、黙考して

いる時が長い。

今でも過去でも考える職業の人のほうが、

作家とか評論家とか、知識人という人で

有名人分野で自殺する人は目立っている

という大雑把な推量に、反対しない気持ち

が強い。

直接に人間と渡り合う有名政治家や

実業家で事業や事件で失敗に関わら

ない限りはよもや自殺などはないだろう、

とは考えられ得る彼らの選挙・国会・

CMなどでの行動や発言である。

政治家は気ままに力関係と交際分量・

分別を考えるだけで、また実業家は

世界の経済推移と事業の資金繰り・

継続を考えるだけで、あとは楽しい

ことを日々ではしゃべっているのだろう。

彼らの潤滑油は社交なのだ。すべて

をうまく回していくには、実弾・お金だけ

ではなく、潤滑油が不可欠だからだ。


世界の著名な人でも意外にわかって

いないことはある。むしろ、力があれば

それだけわかっているつもりだけ、と

いうのも見逃せないほど荒野が広かった

りする。実際に、そのふりをするのは

慣れたものだが、ほんとうに気にはして

いないから気楽なものだ。 

それの楽しさのゲームは僕らもその点

では共通しているだろう。僕はウクライナ

を知らない。同時にプーチンも知らない、

その歴史も過去も。あそこまで現実的に

考えられる人間がどういうものか、それは

想像の範囲でしかない。だから、僕も

わかったつもりと知りながら、日本に今の

インフレ以上に影響が及んで来るまでは

今の民主主義が変わろうか、戦争が

変容するか、という状況に答えられない

だろう、そういう気楽さがある。僕らは

わざわざ苦しみを求めるという、ブッダ

のような、因果の現実に対応しようとする

奇妙な特性には欠けていて、求めよう

などとは露ほどにも思わない。それは

日常の生活への自然な要求である健全性

なのだが、限度内で収まってほしいと僕も

願っている。

おしゃべりのほうが、楽でいい。



考えないのは、次のようなことだ::

一、大震災の時のように、インフラが

止まったら、(停電、水が出ない、・・・)

二、戦争で北朝鮮とロシアが北海道に

侵攻し始めたら、・・・

三、その機会を伺っていた中国が台湾

進攻、そのまま以前から言っていた

沖縄独立を理由に沖縄にまで侵攻した

ら、・・・・・。

四、これは先かもしれないが、南海

トラフで大地震が起きたら、そして、

自衛隊の機能もマヒしたら、災害だけ

ならこれまでのように援助・救助の手

が差し伸べられるだろうが、その前に

日本攻撃計画が準備されていたら、

もう敵の軍隊が動いていたら、これまで

も減らされてきたアメリカ兵は本国に

帰るのだろうか。日本人だけで戦って、

と武器を置いていきながら、・・・・。


そういう想像は勝手だが、今のマスコミ

ですぐにそれだけの生な情報を伝える

だけの器量があるだろうか。僕らが知る

頃にはそれはすでに始まっているのでは

ないだろうか。デマでネットはあふれ

かえって、混乱の極みというのが初期

状態になるのではないか。それからは

降参とか、降服とか、将棋のように

下手の考え休むに似たり、で考えるだけ

無駄だ。

どういうわけだか、こういう時こそ、

長年の望みだった粘土の工作で試作品

を作ったり、美術館や博物館をへ巡り、

コーヒーを飲んだり、水墨画の地味な

練習をしたり、聴き逃しているクラシック

を探し集めて聴いたり、河原の小石を

彩色・ニス塗りして観賞したり、それ

こそ老人の準備をしてみようと思うの

だから、不幸がきっかけになることが

多いのは、死の光が生の闇を照らすから

だろう、とも思うのだった。

もう手をつけているのもある、然り、

または恐ろしや。


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縁側でアルバムを開いては僕に何ができる?

次第に自分の特技にしても逆らいたく

なるのが、自分らしいと思うのだが、そう

すると書くきっかけさえ失ってしまうので、

どうすればいいか。妥協はしたくないが、

どんな妥協が必要なのかも見当がつか

ないので、考えるだけ時間の無駄なの

かもしれない。素直にこの流れに乗るか、

反るか、流れに乗ればもう予想はしなく

ていい。乗らないのならば、このまま考え

続けるのか、それもアンニュイ(ミステリアス

を含むフランス語)なのがわかるから、始末

に負えない。 


ダヴィンチ1..jpg
レオナルド・だ・ヴィンチ  人体図 

:(センペンバンカ  世界の名画より)



ラフマニノフ 交響曲2番だが、上質な古典

文学の頁をめくるような匂いをさせる曲の

展開で、時にこんなに俗っぽいのだ、とも

思わせる情緒へのこだわりを見せる。 


長い長い布団があるとして、それが海を

渡り、韓国まで続くのなら、僕らの人手と

しては、永遠に続くように見えるだろう。

まして、それを折りたたみながら進むと

なったら、いつまでこの労働は続くの

だろうか、と嘆きたくなる。現実には海に

達する前に、布団は折りたためなくなるまで

大きいロールケーキになっているだろう。

それほど大きいのならば、食べ甲斐も

あることだろう。

そう思うほうが、子供っぽく、健気で学校の

時間割を思い出すように、楽しかるべし、

と古い韻を踏みたくなる。 


ラフマニノフも最後の章になると、ベートーベン

になってきた。それともクラシックのパターン

というやつなのだろうか。和音と展開の重ね方

が同じに聴こえるのだ。

Hey, Jude  You’ll do  

が、聴こえてきたので思い出した。これは昨晩

のことなのだが、Beatles の ”Hey Jude”を

カバーで歌っている女の子が驚かせてくれた。

技巧のない歌い方で、朴訥といってもいい。

器用ではないのだが、ストレートに曲のよさが

伝わってくる。なにが驚いたかって、その精神

に僕はその当時”Hey Jude”を聴いていた、

僕自身の感じていた感覚を思い出させたのだ。

新鮮なリバプール魂を思い出させたような、

原点を聴く気がしたのだ。これは素直な音楽

精神の子だ、と思った。 ポールの歌い方を

真似る必要はない。感じたままでいいのだ、

そんなことを思わせるその子の歌だった。

あの時に聴いていた”Hey Jude”がそこに

あるのだ。決してうまくないのに。聴ける。


what can i do

僕に なにが  できる  

これは 可能性のこと だ 

なにを しようか、  という  

考えちゃ ダメだ  

その  なにかを  感じるんだ  

それだけを  深く  清く  

掴めるように  感じるんだ  

それと  それの 間に  

引っ張りあうものが  あるだろ  

Stop !  そして  Drive!  


ああ  今夜は  理屈に悩ませられ なくて 

すみそうだ ぞ  

ピーナッツッ、  ピピッ ピッ、

いつものように  怒ってみても 

いいかも?  はは  

いつものように  笑い飛ばしても 

クールに ?  

全部、 これ  西洋文化じゃん  

下駄  下駄  Getter 

ゲタ ゲタ ゲタって  笑い? 

回る  回る  回るよ 

ハフ  ハフ  ハフ  



’もう 行かないで  そばにいて  

雪のような  星が 降るわ ’
         (Wの悲劇から) 


時の ドアを  開けたのなら  

そこから  見えるもの すべて 

納得いく  はずよ 

彼女のように  あなたのように  

望むものを  望もう  

捨てるつもりで  手に入らないつもりで 

それが  やり方  

誰にも  聞いてはいけない  

誰のためでもなく  

納得いく  方法よ  

それで  心が  痛んでも  

それで  心が  灰色になっても  

願いは  願いだから  



お前は  それを する、  するぞ! 

とか  

ぶっこいてる 

どんな  奇妙な  ハローワーク か 

おー、  お前は  するぞ!

とか  

朝になっても  

ぶっこいてる  

昼になっても  

午後の 陽が 落ちても

おー、  お前は  するぞ!

と 

ぶっこいてる 

ん ~  上品だね  

鳥の 糞が  落ちてきて  

朝が  壊れるような  ことが

あっても  

ぶっこいてな  よ  (拍手!)


オー  ライッ、

オー  ライッ、

オー ライ !  (また、拍手!)


ドラクロワ1..jpg

ドラクロワ  墓場の少女  :(センペンバンカ

                  世界の名画より)


::

この夜のどこにおしゃべりの停留所の

終点があるのか、知らないが、どこにでも

悠久を渡ろうとするむなしい憂愁があると、

見えるのは僕の、僕だけの眼のせいなの

だろうか。


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ヒントは量子力学all by my inner [量子力学]

量子力学を一般読者向けに解説した本を

読んでから、1日経って黙考していたら、

「わからないもの」と呼んだことへの答えが

導き出されて、納得した気になった。 

今までそれは考えてもわからないものだった

から、そう呼んでいたのだが、前々から

量子力学の常識に従わない、理解不能さに

似ているとは、思っていたが、量子学の

A粒子とB粒子が例え何億キロと離れていて

も、片方の粒子に何かが起こると、それが

瞬時にもう片方の粒子にも影響して、変化

する、というものだ。そんなことは日常世界

では常識でありえない。

だが、量子力学では「ほとんどの物は正確

に見たり感じたりはできず、確率と偶然に

包まれたあいまいな形でしか予測できない。」

「不思議な量子の世界では、粒子は波で、波

は粒子である。」

「粒子の正確な位置は予測できず、粒子が

最も存在しそうな場所しか予測できない

のだ。また、粒子の位置と運動量の両方を

高い精度で求めることもできない。(中略)

このあいまいさは決して取り除くことができ

ない。量子論の限界を超えて物事を正確

に知るための「隠れた変数」は、現実には

存在しない。」

「さらに不可解なのは、複数の量子系の

状態が「重なり合う」という現象である。

電子(負の電荷を持つ素粒子)や光子(光

の量子)は、二つ以上の状態が重なり

合った形になりうる。したがって、「ここに

あるか、あるいはそこにある」と言う代わり 

に、「ここにあり、かつそこにある」と言う

ことになる。二つの穴の開いた壁に光を

当てると、光子はどちらかの穴を通るの

ではなく、両方の穴を同時に通り抜ける。

原子核の周りを回る電子は、同時に

たくさんの位置に存在できる。」

「量子論はわれわれの持つ科学という

概念に疑問を投げかける。というのも、

われわれが微小の世界の奇妙な振る

舞いを真に「理解」するのは、不可能だ

からだ。そしてまた量子論は、現実とは 

何かという問いを突きつけてくる。遠く

離れていても協調して振舞うような、

「絡み合った」実体の存在する世界で、

「現実」という言葉はどういう意味を持つ

のか?」

「ヒルベルト空間、抽象代数、確率論が、

量子現象を取り扱うための数学的道具

である。これらの道具を使って、われわれ

は、実験結果を驚くほど正確に「予測」

できる。しかし、そこに隠された過程を

「理解」することはできない。」 

―、以上が量子力学からの骨子であるが、

もう一昔前の本の説明である。基本は

変わっていない筈だ。 

量子力学が物事の真実に近づいている

という感想は、もう数十年も前に持ったが、

「量子の絡み合い」というシンクロに似た

現象を起こすのは知らなかった。それに

似た、重力は宇宙の彼方までも届き、

かつ影響するということだが、それは

相対論からの重力理論からだ。

僕は無意識と自意識とを量子論に結び

つけて考えようとは思わなかった。心と

科学では反りが合わないと考えたから

だが、この考え方は僕の無意識への

感覚には都合がよく、「わからないもの」

を考える手段を提供してくれる。

僕が心の「二重構造の重なり」を書いて

きたのは、外界の現実との調整を行う

内面と、内面の乱れを調整する心の

二重で二層のバランスを意識してきた

からだ。

まず、無意識から説明しないと、誤解した

ままではこれからの話の理解に及ばない。

ユングも言ったように「無意識はない」。

それは意識が「無い」ことではない、「無意識」

という隠れた世界は実在している、という

意味だ。無意識も意識の実存の部分であり、

僕らにはほとんどだろう。無意識は通常、

僕らの自意識では感覚できないので、それ

は自意識にとっては、無いも同じなのだ。

無意識は自意識とつながった一体の物 

だろう。が、自意識にはそれを感覚する

第六感以上のものがないか、隠れていて

働いていないので、五感の世界を離れて

は考えを及ぼすことができない。

僕は微小な感覚で、無意識と交流した。

しながらも、そのあいまいさから、これは

単に自分が発明した錯覚のような感覚で

はないか、という疑念がいつも些細ながら

あった。

ところが、量子のシンクロ現象を知ってから

黙考して、気がつくとそれが「わからないもの」

の感覚に合致していた。僕の中ではそれが

証明になって、自意識と無意識との心での

バランスを取るそれぞれの同時進行であり

ながら、片方しか感覚できないので、それを

自覚できなかった、ということに思い当たった。

まさに、量子論のように”量子の振る舞いの

過程は理解できない”のだった。

無意識が存在するのは間違いないようだ。

今までは微小な感覚から推測することで、

それを信じようとしたが、これで内面だけで

なく、自分でもかなり信じられる。

著者のアミール・D・アクゼルはわれわれ

がこの微小の世界の振る舞いを理解する

のは不可能だ、と「量子のからみあう宇宙」

で書いているが、自意識には無理だろうが、

無意識への理解が進めば、可能だろう。

いずれその時が来れば、別な方向から

新しい相対論なり、新しい量子論というもの

である新物理理論が発見されるだろう。

そういう原理は常に追い越される。もし、

無限という事象が真実ならば、原理も変化

し続ける現実世界を追い続けることになる。

それが過去しか追えない知の宿命だから。



以上、 僕の中の証明は終わる。::


4. 1



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錯綜するのは時間と罪 [罪]

時間は ないのに   

僕らは 時間の 中にいる 

Whiter Shade of pale 、そう 蒼い影 

Procol Harum 、彼らが  歌っている


灰になってしまった  僕の 人生が 

妻は  無口になった  

話し相手が  いなくなってしまったから  

心の 基底に ぴったり 寄り添う 

君が  歩いてくる、 ゆっくりと  



間違えていた、 と 急に

ハッと する  

なにもなかった かのように  

過ごしたと 思ったわけ ではなかった 

でも  君の 僕を見つめる 眼は  

悲しげで  さし迫るよ   胸が 



叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも  



悲しみから  逃れられない 

ああ  罪を感じる  人たちよ 

黒い 自分という   影 

僕らは  なぜ  それを  そう

見るのか  

コーヒーカップが  音を立てる ほどに 

心は  震える  



僕は  スキップして  今を  

未来へと  飛び越そう としたよ  

新しい 道程が  光 差し  

導いてくれる と  

甘かった   腹を たてて  

悲しみを  捨てれば  

別な 扉が   開いた  

口惜しさと  嫉妬しかない  

微妙に  妖しく 明るい  扉だった 



どうすれば よかったのか  

僕は  間違ってはいない  

だから  

君を  嫉妬して  悔しい思いは  

すぐに  

憎しみに  変わった  

歪んでいても  力は  力だ  

悲しみから  立ち上がる(?)には

これしか なかった  



ジャンプして  罪を 逃れ 

未来への道を  開いた気に なっていた  

でも  増えたのは 憎しみの時間 だった 

僕が間違ってなければ  

相手が  間違えてるのじゃないの? 

だから  相手を  憎んで  

なにが   悪いの?  

許すまじ、 叩き潰そうという

力が  ふつふつ  湧いてきた 

・・人が また そういう穴へ  落ちた 

  

悲しみよ  僕は  泣いてきました 

いくら泣いても  どこを  さ迷っても  

底知れず  悲しい  

君よ    悲しい! 

どうすれば  う う  いいんだ  



幾 千年と 続く  そのメロディ  

僕は  その時間のなかに  

二年と 少し   入っていたらしい

どうして  逃げなかったのか 

わからない  

なにも  感じようとしなかった かのように  

続いた、 無為な 日々     枯れ葉を

握ると  粉々になる ように 

空気が  カラカラと  固まっていた

あの 日々  

  

ジャンゴォー! 

泣くなんて  なんの役にも 立たない  

沙漠の 心に  流す 涙も  

なかった  

二年と、  なにも 覚えていない!  

「 もういい、  君が  生きていれば  

この同じ地上に  いれば!  

それだけで! 」 

そんな 慰めも  役に立たず  

むなしく  心は  枯れ続けた  

続けた!  

続けた!

続けた 。 。  



気がつかなかったが  

僕は  時間と  闘っていた  

幾千年とを  相手に  

取り戻せない という  時間を  

呪わずに  

その 理不尽を  認めは しなかった  

なにか  なにか   この悲しみを  

抑えて  元に戻すことが  

できる筈だ、と  



人を 愛すことは  悪いことではないはず 

それで  この悲しみは  なんなのか  

愛したい  

人を   君を  

愛したい   

君に  (ああ) 逢いたい  

ぁ ぃ た ぃ  

もう  叫びの 衝動もなく  

僕は  銅のかたまりの ように  

歩いている  



思い返せば、  遠くに

叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも  



悲しみから  逃れられない 

ああ  罪を感じる  人たちよ 

黒い 自分という   影 

僕らは  なぜ  それを  そう

見るのか  

コーヒーカップが  音を立てる ほどに 

心は  震える  



罪は ないのに   

僕らは 罪の錯覚という  

影の 中にいる 

Whiter Shade of Pale 、そう 蒼い影 

Procol Harum 、彼らが  歌っている





:: 解題風に  

「蒼い影」はいい曲だ。<10代の中ごろに

出会ったが、71歳になる今年、まだ聴いて

いる、>という感想が Youtube にあったが、 

50年以上か、すごいな。

なるほど僕と同じ感想だな、と頷く。 

善と悪というテーマで書くつもりのものが

あったが、その一部をここで載せるのが

相応しいので、書こうと思う。 

善と悪は感情の問題で、対立した概念を

問題としたのではないのだが、それは

置いておいて、今、年に数回だけ訪れる

音楽の日々に突入したらしい。

その日々になると、音楽の虜になって

一日中でも音楽を聴いて過ごすことが 

できる。普段は音楽は気分次第で、

気分が乗るのは1日くらいで、あとは

気にならないくらい、聴こうとしない。

今は、昨日聴いた日本ポップスが頭に

残り、ことある毎に演奏をするのだから、

たまらない。考えることより、聴いている

ほうに傾いてしまっているのだから、本物

だ。 

時間と罪だが、罪に関してその感情問題

を取り上げよう。

愛の対立概念は憎悪だというのが、

通説だろうが、僕は異なる見解だ。

愛には愛の対立する様相があり、憎悪

にはその対立の様相がある。それが

対立の概念枠に概念として置かれている

だけで、例えば、クジラは魚に見えるが、

動物だというのが科学的見解だ、という

に似ている。

愛と悲しみは本来、同じものである。水

と氷のように。僕らの知は不条理な現実、

理不尽な環境・事件を前にして、深い

絶望に襲われる。それはこれからどう

対応していいかわからないことから、不安に、

そこから適応できないと思い込んで(考え)、

壁を前にしたように悲しむ。それは自分

という知で解決できないというのが答えだと

思うからで、知は知によって’知ではないもの’

を解決できない。自分は悲しむ自分を「悲し

まなければいい」という正しい答えで解決

できないのと同じ。この時に時間が自意識

と共に現れるので、僕らは自覚と共に自分

を意識できるので、時間も自分と共に存在

していると感じる。 

実際は自分と共にでないと、時間はない。

我を忘れて楽しかったり、気絶したりすると、

我(自分)を失うので、時間の経過がなく

なったり、短く感じる(途切れ途切れに我に

返っている)。

この不適応の問題は自分の不手際とか失敗、

となって僕らは自分に責任を負わせる。 

責任を果たせない、間違えたので、それが

感情的に罪の意識を形成する。それは

自覚しないが、内面では顕著なので、感情が

悲しみとして反応するのだ。心で泣いてしまう。 

そのままだと、多くの人が自分自身の「体(てい)

たらく」(ネガティブ)な姿を見たくないので、

その悲しみを忘れようとして、愛から憎しみの

側に心を移す。憎しみは相手に罪を着せよう

とする行為がプライドを盾に発生させる感情

行動である。また、虐待などで痛みを経験した

ことが、憎しみを無意識に反応・反映させる。


憎悪の対立感情は始め嫉妬になる。これも

お互いに水と氷のように同根・同質である。

悲しみはまだ乾ききらないと、相手を許す

働きが憎しみに一気に突っ走るのを防いで

いる。しかし、それは長く続かないので、

やがて明るい・浅い憎しみ=嫉妬から、

暗い・深い憎しみ=憎悪に代わる。


僕は正しい道筋で悲しみを消化するまで、

死人のようになりながら、その時を待った。

と言っても何が起こるのか知らなかったし、

それはいつも起こるとは言えないだろう。

僕が信じてはいても。(それが二年と少し

の月日だった)それでもそれは姿を現した

のかもしれないが、愛の片鱗・序章に過ぎ

なかった。 

憎しみは相手が存在している間は、力が

湧くが、その憎しみの理由や相手が消えて

しまうと、その間の緊張の負担が体をすぐに

蝕みはじめる。

ストーカーは相手につきまとう自分の心理を

愛だと誤解する。それは相手を自分が死んでも

支配したいという、自分のものにしたいという

自己所有を拒否された反発で、憎しみの結果

の行動である。愛は初めから相手のしあわせ 

しか見えないので、自分から離れていくことが

多い、たとえお互いに好きだとしても。

リベンジはスポーツだと、負けた次の、来年とか、

試合に強い力を発揮して優勝したりと、役に

たつが、一般にリベンジや復讐は結果を見て

しまうと、心身を蝕む作用があるので、注意

はもとより、気持ちに流されるだけではない、

その覚悟が第一だ。 

ユーモアで余裕をもってかかってほしいのが

お勧めだが、気持ち的に矛盾するので、

無理だろう。 


悲しみは自分に向かって前を向き続けるから、

つらいのだ。誠実や努力は、目標や正しさを

目指すという姿勢、それだけでは解決策には

なり得ない。

僕らは絶望した自分を見て、なにを信じれば

いいのか。この時の信じることは宗教入信

とかを意味しない。

信じるものがないから、真に自分ではないもの

を信じることができる、と言ったら驚くかもしれ

ない。ここからは信仰や神を設定する僕らの

心という問題、そこから絶望は自らが生む

ものだという過程を通して、僕らがいかに

誤解や錯覚を生みださざるを得ない境遇

に話が進むが、今は余白としておく。

まとめとしては「愛と悲しみのグループと、

嫉妬と憎しみのグループは別のもので、

その本質同士は無関係だ。」ということで。


・・・・・・・・・・、


でも  君の 僕を見つめる 眼は  

悲しげで  さし迫るよ   胸が 


叫びたい 衝動が 

空へ 向けて  今にも 




3.. 25 、 4. 1 ・・ 2days
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