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日々の喜びの印象 [喜び]

これは感慨だと思うのだが、ふつうに感傷

なのかもしれない。

今、確かに自分はここにいて、坐って、自分

を感じている。僕がここにいること、それが

不思議なことだと、今夜ほど感じるのは

なぜだろうか、と。それで書きたいことの

すべては終わってしまう。

ここから書き出すのは、僕が自分から外の

なにかに抜け出すからだ。それと関わると、

書くことが一気に増える。

ところが、僕が僕にこうして満足していると、

いつものようになにも書くことがない、と

わかる。

そして深読みができるのは、僕がこの心境

はまだ誰にも伝わっていないのではないか、

と思っていることだろう。だから、その小さな

不安のような確信がそのことを僕に言わせる

のだ。

僕の周りには、説明できない’気’が満ちて 

いる。それは僕が’気’を満たしているの

かもしれない。この’気’を最も説明して

近いな、と感じるのは僕らが感じる’愛’なの

だと思う。今夜はほんとに何も書かない気が

するし、そうなるだろうと思う。

僕にはこうした文字が流れる時間という、

それを空間に感じることが快い。

僕らの’愛’にはそれぞれの人の歴史が、

つまりは感情が積み重ねられて、それは

愛の透明感を損ない、汚れて見える。

僕の趣味は愛の理想形なのではないか

と思う。彼女はその人に応じた形を取る

のが普通だから、僕らには僕らに応じた

様々な愛のパターンが存在していると 

感じる。

だから僕にはそういうものからは離れ 

たいので、適当な不純物があっても、濁り

にはならない愛の透明感が好きだ。

情熱の愛には僕の体は自然に遠ざかる。

それは今は忘れよう。

この満たしている、そして満たされている

感覚はそのまま自分の体や心のなんとも

言えない存在のように感じる。

詩はここで、いらない。

その言葉に捕まると、次から次へとどこか

へ流されてしまうから。その感興が楽しくて。

今はここに居続けてみようと思っている。


僕らが意味や理由とか、目的への労働

や義務といった心の束縛から離れると、

こんなにも精神的に満たされた気持ちに

なるものか、と思う。内面では感嘆して

いる。

それだけを今書き続けているのだが、

いくらでも書いていられると思うのは、

やはり、この状態が不思議なもので、

説明とか表現とかというものとまったく

別なところにある、そうでしかない液体

のしあわせというものにどっぷり浸かって

しまっているからだと(黙)。

伝えるためには、僕らの多大な誤解の

海に漂っている言葉の常識やよく皆が

知っている名前やレッテルを拾って、

それらの無限にも感じる関係性を紡いで

行かなければならない。

因果が現れた時はまだ、ずいぶん遠くへ

来たもんだという達成感があった。それ

からまたずいぶん歩いたつもりだったが、

そういう僕が見えなくなってしまった。

そして、目の前にすべてがあるのが感じ 

られるようになった。

僕がどういう境遇で、どういう環境で、まだ

心身にそれほどの不自由を感じない

どころか、それがどうしてか実はわかって

いる、という感興・状態にあるのが、僕が

究極に求められるすべてという、広がる、

そして広がりすぎるその感興・状態その

ものでもあるのだ。

一歩踏み出せば、世界は迫り来て、僕は

世界を支配してしまう予感に震える。動物 

も電気も植物の種子の数千年もの閉鎖性

と開花性があふれ出す。その予感だけで、

人は生きていける。

生命は僕らのものであり、僕らだけではない

生命体の・・・・、と知らないことまで言い出し

そうになる。(笑)

人間の動物としての基本というものが、

ともかく、秘密という形態でしか知られない、

という僕ら自身の’因’自体から発生している

ので、この矛盾はいつまでも続くし、いつ

まで続くのか、まだわからない。



少し、歩き出してみよう

君の声が  聴きたい  

だみ声でも 息吹を 寄こしても

いい  

小さくて 可愛らしい

幼児のような  無知な 愛嬌 

空の 高い、も

池の  青さも 

同じような  距離感に おもえる  

上は  下、だったり するよ 

探すのは  君には

愛が 飛び回る様子を

眺めようと  背伸びを  するよ  

人の  壊れた心に  反応して

泣いたりする  けれど  

それは 君の  心を

壊さない 

もう  笑っている  



そういう世界からの見方はもちろん、 

ある。そこから語ることは可能だろうか。

共感覚というのは、音が聞こえると色が

見えるのと、文字を見るとそこに色が

現れる、というのが代表らしい。他に

多くの例があって甘いが三角を感じる

とか、異常なのだが、少なくとも380万人

から3800万人、近年では3億3000万人 

いるという信じられない報告もある。

共感覚の持ち主は皆と違うことに幼少に

気づくと、それを隠そうとして、学習して

しまう。そういう人たちにはどこまで

常識的な感覚の学習が可能なの

だろうか。僕らがどれだけ人を理解する 

のに絶望的とも言える状況にあるのに、

それに気づかなくてもいい、と考える

神経の存在に敬意を表したいくらいだ。

つまり、社会のいい加減さにはそうした

(不安を隠すという)有益な理由があり 

そうだ。真面目過ぎるほどに取り上げ

てはいられない、という生活態度が

必要なのかもしれないし、気づかなけ 

れば、そういう生活の姿勢になるだろう。

うまくいっているわけだ。

だから、社会的無知を人は気にしすぎる

傾向があるが、人間への無知には気に

しないようだ。それが皆、同じ自分に

囚われている様相だというのは、実に

この世はよくできている、と感じざるを

得ない。 

それは昔はきつい皮肉であったが、今

それは皮肉でも皮相でもないから、

そんな風には見えない。それが様々に

絡み合っているのが見えて、簡単には

解きほぐれないのがわかるから、僕は

傍観的な立場を取れるし、時にそれに

能動的な行動も取って、疲れていたりする。


それは結果に関わりなく、どこまでやって

どこまでで止めるか、僕に任されている。

それらがしっかり整理されてわかるから、

僕にコントロールの感覚が生まれ、それ

が満足に満たされるのかもしれない。

できることはなにか、それは僕にとって

なにであるのか、欲しているのか、

いないのか、どれからするか、どこまで

する、そういうたて糸・よこ糸を縫い付ける

技術に通じれば、正しいとか、間違えて

いるとか、気持ちに沿っているとか、沿って

いないとかは、二の次なので気にしなくて 

いいとわかる。 

僕のすることには、始めても終わりが

なかったり、中途から中途までしか、

しなかったりする。だから、自分の仕事を

するのみだ。誰もそれを管理できない。

もちろん、僕自身も。


僕はどこにいるか、という感興がある。

と同時に、僕はここにいる、という愛情が

ある。

ここにいる、というのは愛情だったんだ、

と気づく、今。

自分(という役目)も少しは役に立つものだ。



午後の5時、 目が覚める


午後でもなければ  5時でもなかった 



眼が  覚めた  
















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例えば、一般に4つの見方という設定もできる [見方]

言葉の平面ではユークリッド幾何学で

面積が計算されるように、地上を歩いて

いる人間にはわかりやすく見える、一見。

学校で習うのは平行に引かれたに直線は

交わることがないという定理だが、非ユークリッド

ではその平行線は交わるという定理がある。

子供の常識ではおかしく思えるが、僕らの

地球上で書かれた平行線は必ず、北極や

南極で一点に集まると後に教わる。それは

欺瞞的でつまり、地球の一点を接点と考えて

空中になるがそこに引かれた想像の直線は

地球という楕円だが、接線となってやはり

永劫に交わることはない。地球という球を

回るからそれは一点で交わるのであって、

扱っているのは曲線だ。非ユークリッドは

曲線・曲面を扱う数学なのだろう。まるで

地球を考えたら、ユークリッドは間違いだ

みたいな説明は先生の固定した頭か、

勉強不足の産物だろう。 

しかし、僕らの頭脳は一面でこの誤りに

陥っている。ユークリッドが現実ではなく、

空想で直線を描かなくてはいけないように、

言葉を概念で扱うことに慣れてしまったので

平面だけで物事を扱ってしまっていることに

気づけない。それが不明な内容のすべて

ではないから、ことは微妙に複雑に見える。

が、それほどでもない。主に抽象的なものが

具体的なものとの直接の比較ができない

ので、そう見えるが、それ以外で具体的な

物質などで比較できるものは現実に即して

考えている。

概念は実体・実態がないのであいまいである

が、言葉の意味が指示方向を意味している 

だけなので、魔法のようにその言葉を唱えれば

それが現実に現れるわけではない。なので、

逆に言葉にいろいろな意味があるように、

人や民族によってその重要性も内容も異なる

ために汎用されている言葉ほど自在に使えて、

意味も範囲が広がる。そういう便利さのために

言葉が一面の平らな世界を獲得したのは、

まるで僕らの暗黙の申し合わせになって

しまったのかもしれない。

具体的にその一部の言葉を挙げれば、この

抽象論議も理解しやすいに違いない、それは

僕らが二者択一の論議では物事の精確な姿

に達しにくいと否定的であるにも関わらず、

僕らは黒と白とを平面に並べて、比較する。

善と悪を、神と悪魔とを、右派と左派とを、

民主主義と独裁主義を、と二者を並べる 

ことでそれは選択肢が二つしかないことを

前提にしてしまう。その影響は僕らの意識

にそういう具合に考える志向・方式を印象

づけてしまう。そして、僕らは物事が深まら

ないと、それが非ユークリッドの曲線の 

ように直線だと思っていた線が、上から 

見ると極点へ向かって行き、交わってしまい、

(すべての例で、ではないが)結果が矛盾

してしまう。

地球に存在しない直線を使って、曲線や

曲面の計算結果は導けないように、僕ら

の議論は初めから現実から乖離している。

それが僕らの抽象の言葉の理解への困難

である。

二層になったものをそれぞれの面で二者

択一で考えるのも、同じ一面で考えること

になってしまうのだが、今は混乱を避ける

ために、その一面の思考法でその抽象な

システムを素描してみようと思う。 

たぶん、三通りくらいで説明するのが適当

なのだと思うが、僕の気まぐれな、興味が

持続しない性質から、一つを説明したら、

あとは捨てるだろう。



ここまで書いて、図書館へ出かけた。近くの

県立谷戸山公園に入る。30ヘクタールで

森林や林のあいだを全部歩いて回ると

小1時間かかるだろう。

公園事務所近くの小さな池には、先日まで

見られなかったヒキガエルの大きいのが

何匹も泳いでいて、突然の変化に驚いた。

そうして帰ってきたら、書いている途中の

構想をすっかり失っていた。僕はそれを 

取り戻すべく、思い出すことはまずしない 

ので、新しく続けるということになる。



二層といっても、様々なものがあり、二つ

に分けられるからといって、すべてを同じ 

二つに区別できるのではないので、個別な

話になってしまう。例えば、夢と現実を取っても、

’リアルな生活の現実と寝て見る夢’との

二層もあれば、現実は同じでも’将来に叶え

たい願望としての夢と現実’いう二層もある。

(2時間半後、やっとそれらしい説明ができる

例を見つけた、夕食の時間プラス)

夢には夢的な夢と、現実的な夢とがある。

それは幻想や神秘といったものとリアルな

想像をして現実に転換もできる夢という

二択である。また現実にもリアルな現実と、

夢的な現実とがある。

それは便宜で分けたもので、同じ量・質で

その4つの区分ができるということではない。

境界にしてもあいまいだが、越えられない

壁は歴然としてあり、そこにあいまいな部分 

があってもそれは壁として吸収される。

夢的夢が現実に、またはリアル現実が夢に

入り込むことはない。一部で交換するもの

が、現実的夢がリアルな現実において、

動機から実行までのすべてではなくても

その目的の重要部分でなにかを解決

したり、完成したりすることであり、夢的な

現実が日常の生活をコントロールする

ことで、これはよく起こっている。

いつもの例を使うが、鳥のように空を飛び

たい夢は、鳥のようにはいかないが、空

を飛ぶことは完成している。模擬的な翼を

飛行機の翼に変えた時に、その着想が

夢から現実的な夢へと転換したのだろう。

現実的な夢が、リアルになった例だ。

僕の経験で内面が圧迫されて緊迫した時

に線路の踏切を渡ると、そこから夢の世界 

が展開された。眼に直接見ている映像で 

ないのはわかったが、金網は光り輝き、

それはあたたかさで満たされ、極上の

幸福な気分に満たされた。内面が現実を

圧倒して、その日の同じ時間を毎日、その

間だけ支配した。それが神秘だとわかっても

それがどこまでか、どこから現実なのか、

見分けもつかないのは、あまりにはっきり

していた。だから、それは僕の見る事実という、

現実であり、幻想だった。それは僕の事実 

として自分に大きな影響を与えた。これが

リアルな夢が現実をコントロールする例だ。 

そして、厄介なことにこの四方面から物事

を見ることができることだ。それはいつも

正しいわけではないのはもちろんで、その

時の問題によって環境や条件・場合によって

適応した方面を選択しなければならないが、

言葉では本人が錯覚や誤解を起こせば、

いつでもその誤った方面からの見方・考え

を採用することになる。本人が気づか

なければ、二つの方向から説明すべきを

一つにしてしまうとか、方向を見誤って、

誤った方向からの見解を採ってしまうかも

しれない。

このことはその人の人生経験や特異体験

などの深い理解や整理の仕方で、自然に

身につくもので、多くは直感として、途中の

論理的経緯はすっぽかされて、結論に結び

つけられる。体験だけの対応の優れた点も

欠点も、その経過のない処に集約される。

だが、人生には即応しなければならない 

場面は多く、役に立つ。役に立ちすぎて、

本質が見逃されている点を除けば・・・。

この4つの場面だけでも複雑に感じる 

だろうが、実際には3つくらいに翻訳できる

と見抜けるのも、この直感が働いている。

これは歴史的な傾向が続いている時は

役に立つが時代が変わるようになにかが

変革されて、世の中が変わる時に当たって

は古びて、ボロを出し始める。

将棋の話だが、藤井四冠?だったか、彼は

コンピュータ将棋との対戦の棋譜から新しさ

を読み取って、いわゆる悪手とか、定石という

ものに疑問を抱いたのだろう。それを役に

立てることができたのは、彼の読みの深さに 

よるものだろう。この話も長いので、今はよす。 

物事を4つの面に分けることにしても、それは

その本質を見ることができていれば、その 

どの方向からが有効な結果をだすだろうか、

ということは物事に対して十分に眺め得た

時にはわかる。法則としての4つの見方に

こだわらずに、その方向の考えや見方を

選ぶことができる。

魚の鮮度を見分けるのが、魚の眼をみれば 

わかることだったら、目利きはそこだけを見て

決めるだろう。それと同じで方法の方式だけを

暗記しているのでは、自分が混乱する。

孔子の論語が有名だが、言葉が短いので

いろいろと解釈できる。われ、十有五にして

学を志すから、七十にして心の欲するところ 

に従って、・・云々とあるが、順番がおかしい 

という面白い意見もあるが、僕は「六十にして

耳従う」にここでは注目する。意味は60歳

にもなると、人の意見が素直に耳に入る、とか

他人の意見に反発を感じないで聴くことができる、

とかでいいと思う。そして、深読みできるので

そうすると、それは「他人の意見というものが

その人が言いたいと思っている内容で聴くことが

できて、その人が意味していると思うその意味

を正確に捉えて理解し、聴くことができるよう

になった」と言っているように思える。

それには上掲の4つの見方のような考えを

当然に理解しているから、そうできるのだと

読めるのだが、どうだろうか。

それは論理的な理解の仕方ではないだろうが、

中身を理解するのは、心ばかりか、体の

知識も手伝うからその人の本当の理解の

仕方というものは、厳密にはわからない

だろうが、話し合ってみれば、自分がこう

しているところは、別な仕方でしている、と

納得するだろう。体全体で話さなければ、

言葉という文章だけでは、人は自分の

弱さ・格好悪さ・欠点というものは話さない

ものだ。人はなにかを書く時にはすでに

自分のうちに出来上がった、善いことや

役に立つこと、気分を良くすること、正しい 

こと、などプラスを意識する。人とのつき合い

にはそれが影響するのは常識だから。

娯楽小説や大衆文学ならいざ知らず、

まともな意見を言う場所でも、また自分を

さらけ出す文学・私小説でも、やはりきれい

に書かれる。それが作家の力量を示しても

いるから。 

人間は文章ではわからない、というのが僕

の所見だ。外と内との顔を、人は持つと 

言われる。それは人の裏表ではなく、内面

と外交の違いで、性格(外)と気質(内)の 

ようなもので、家族の前で気質はまず隠せ

ないが、外交的ではない気質や反社会的癖

などはまず社会や会社で開けっぴろげに

振舞えるはずがなく、社会に出る前に親や

親戚、友達の反応から矯正されている。



自分の人生を自分で考えて歩く、という言い

方は的確にはどういうことか。それには

自分で自分を知っていなくては、比較する

主体になる自分という思考が何を意味するか、

それが心の中心なのか、否か、その趣向や

性癖、感覚はどういう特徴があるのか、といった

整理がなければ、或る正当に見える意見や

論述に対して、好き嫌いでしか対応しない

ことになる。それでは人生では人間の多様性

という楽しみしか享受しないし、人生はコントロール

できないと言っているようなものだと僕は

思えるのだが、 ・・・・。



目の前になにがあるのか、考えずにそのもの

が心に向かって来るまで、見つめることだ。

ヒントも答えも出ているのだが、一度掴まえて

みないと、こう言っていることの納得はいかない

だろう。と言っても、行動するのは少数だ、

人の「耳は従わない」ものだから。
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分別の見分けをどうするか? [分別]

目の前に起きていることを未来的に捉える。

少し崩して、ズラしながら捉えると、それを

未知のこととして捉える・見る・聞く・感じる

ということらしい。 

言葉では、それを先入観なくして、白紙の

状態(心)で捉える、と言うんだろうけれど、

言葉は知っていても、その状態をどうも

想像できないし、定義さえできそうもない。

初心を忘れず、という新鮮な気持ちを

示すのも同じことだろうが、まっさらな

心が赤ちゃんのような心だったら、僕らは

そこに戻れないし、戻ったら痛い、腹減った、

うんこ、眠い、という4つの行為しかない

無知な動物・赤ん坊に戻ることになる。 

そこは意を察して、大人のまま赤ん坊の

ような無垢な初心を再現しよう、という

ことなのだろう。 

それにしても、改めてそれを考えてしまうと

とても難しい、としか思えない。だが、考え

なければ、なんだかわからない。だから、

考えない方がいいのだ。 

実に単とした答えが出てきたのだが、その

通りだと思う。

人は考えて認識する人生を過ごしてきた

から、考えないと言っても、あまりピンと来ない。

けれども、実は大事な場面では往々にして

人は考えない。訳も分からずかもしれないが、

無私になって問題に集中している。

「無私」という言葉も誰が言ったか知らないが、

よくできた言葉で、私(わたくし)を失くして、

無にしたことを言うのだから、私がなくなれば、

それはふつう、自分を失くすことをいう。

わたくしが無くなれば考えることもできない

から。

しかし、その集中状態も自分という思考が

まったく無くなるわけではない。無意識状態

で脳の裏側のようなところで蠢(うごめ)いて

いるのだ。 

その説明をしたいと思う。 



物事に対して、僕らは前向きになれ、と言う。

正面からぶつかれ、とも言う。これはなにも、

体をただ前に向けることでもないし、なんでも

正面から体当たりしろ、という実際の行動を

指示したものではない。心の態度を比喩で

言ったものだ。ところが、言う側も考えて、

聴く側も考えて、それを言うし、それを受け 

止めるので、それが「無私」とどういう関係 

なのかが、今いちわからないのだ。 

考えを止める習慣を一般に、僕らは持た

ない。学校の授業で、そんなこと言っても

わからないし、それでは馬鹿になれ、と言う

のか、と誤解される。

無理もない。僕がそういう状態を手探りで

実行している時にも、それがどういうこと

なのかは、この数十年もよく知らなかった。

ここまで自分を遠ざける状態を実体験して、

気がつくことができたという、ふつうの自意識

下では鏡や他人の目を反射・反省せずに

自分の眼を自分で見ろ(確かめろ)、という

ようなものだ。さんざん考えてわからず、ふと

眼を閉じると視界がなくなる。あ、見えるため 

の機能・器が顔にあるんだ、と。

やっと見るを知るには見てはだめなんだ、

と悟るようなものだ。

物事に相対するには、先に自分をぶつけて 

はいけない、ということ。それは自分の考え・

信念・信条や羨望・気持ち、嗜好という感覚も

自分だということ。 

自分が寒いからといって、相手は高血圧の人

かもしれない。ストーブをつけると、その人は

暑いと言って、ストーブを消したがるだろう。

感覚の違いは体感だけでなく、デザインなど

センスの違いにも現れる。野暮ったいと思って

いた服装が今年になったら、急に流行りだした、

ということもある。

これらの「自分」というものを物事に対面する

時に参加させないことだ。そこでは必ず、

自分と物事の対決という化学変化が起こって、

自分を中心とした偏向した判断、すなわち

先入観が生まれる。 しかも、初っ端なので

自分本人がそれに気づけない。 

あとは相手との関係次第で、自分から妥協

するか、悔しければ衝突するかという方向性

しか残されない。これは僕らが結果を求める 

にあたって、選択肢を二つに分けてしまう

大きな要因になっていると思われる。キルケ

ゴール(19世紀デンマークの思想家)のいう

「あれか、これか」というのはこのことを指し

ているのではないか。

考えなしで物事を見つめるのだから、僕らは 

それを全くわからないものとして眺める。

わからないから、これは何だ?という態度だ。

そうすると気づいたが、これは子供がものを

まだ知識としていない状態で見る態度だ。

子供は興味を持ってしまう。何だこれ?と。

知識は好奇心を殺すものだ。知ってしまえば

終わり、みたいなところがある。

この無私の態度で物事に真っ先に臨むという

ことが、まずものを考える前提の正しい態度

ということになろうか。

実はこの態度は、瞑想で自然に養われる。 

瞑想は、つまり、無念無想のことだ。まるで

剣や武術の奥義みたいだが、その通りで、

物事を知る奥義の、第一は無念無想なの

だ、と考える。 

そこに、ともかくもわけのわからないものが 

あるから、言ってみれば不思議のかたまりだ。

その水の流れのように形定まらず、グラデー

ションのように色は変化(へんげ)し、なにが

なんだか、という風に見えなければ話は

始まらない。

その物事(問題やトラブルの場合が多い

だろう)に応じて、僕らはすぐ気持ちを対応

させ、二者択一の考えを反映させて、常に

判断を迷わせ、決めかね、悩むのだ。それ

は堂々巡りをする方法なのだが、知る由も 

ない。

わからないモヤモヤを見ているのは、慣れ 

ないとすぐにこんなことをしていてもしようが 

ない、という短気な反応に押されて、すぐに

前を向かなくなってしまう。

目の前の事態は常に新しい事柄なのだから、

ある程度の必要な忍耐があるはずだ。僕も

ビートルズ世代だったので、新しいアルバム

を買うと、聴いていたのだが、彼らは当時

から革新派だったので、出すアルバムの

たびにレベルも違えば、音楽性も変化させた。

なので、1回聴いても、何だこりゃ、が多い。

2,3回聴いて、やっと好きな曲が1,2曲

わかったりする。

これと同じことで、新しい物事だから判断に

苦しむのだから、まずその内容を受けいれ 

られなくても、どういうものなのかを心に

留め置く必要がある。それは最小限度でも

それなりの小さな忍耐は要るだろう。 

そんなことをするより、思ったまま行動した 

方がいい、という短気な人には向かない 

だろうから、困難を増やす覚悟で歩んで

行ってほしい。直感的な人は、部分的に

解決する能力に恵まれているだろう。

ただ、誤差がどれだけあるかに拠る。

経験値が大きければ、経験に頼りがち

になるだろう。気持ちに揺さぶられ 

やすい人は、近所でも評判の人になる

だろう。それはそれで面白い人を演出

するが、困った人を演出することも多い

だろう。それはそれだ。いいじゃん。ネジ

が一本外れていると思って、そのつもりで、

できる範囲で支えていけば、いいじゃん。 


さて、考えることを選択した人は、物事を 

ありのまま眺めることが終わり、それなりの

その物事の雰囲気・感じが全体で掴めたら、

(なにが掴めた感じかは、慣れる)次の段階 

は考えずに考える段階だ。 

全体の感じは目の前にある。ならば、それを

そのままに置いて、その感じから離れずに、

イメージするに任せる。それはただぼんやりと

何も無理せずにそれを脳から漏れ出てくる

イメージになんとなく、照らし合わせる。これだ

と初めから決めつけず、流れるイメージに

重ねて、次々に流してゆくだけ。 

もう、これで潜在意識で同時に考えている。 

この時の注意も、自分の意向で考えを

物事に押し付けないことだ。いろいろな

考えがイメージとして流れるのに、逆らわない。

そのうちにまとまる時にまとまる。なので、

自分から考えて解決に向かわない。 

たぶん、(個人差があるが)数か月~3年

もすれば最終段階がわかるようになる。

そうすると、心を白紙にして向き合う、という

意味合いがそのまま納得する。

いつから無意識が働くのか、それは意識下

の思考とどう違うのか、ということはわから 

ない。僕はいつも結果に驚いているだけ

なのだから。

例えば、美は生まれるものだ。初めはなにも

ない。何でもない日常の見慣れたものを、見て、

見て、見続けることで、ある時急にその美を

発見する。一度発見するから、美は広がる。 

この最初に一度発見するのが、やろうとすると、

手間なのだ。それでも人生から比べれば、

数時間や数日の忍耐のことに過ぎないのだが。

しない人はしない。最初から時間の無駄だと

感じるからだ。

紋黄蝶がひらひら飛んでも、法隆寺の鐘が

鳴って柿が落ちても、季節が変わったわけ 

ではない。ああ、季節だなぁと考える僕らが

その、そういう風に考えている時間だけ、

季節があり、時間が存在する。

お年寄りはもう考えることにはうんざりして

いる。だから、もう考えないことに幸せを

見出しているし、見出せる時代になった、

自分が失われるように。

元気な僕らはそれでは物足りない。まだ

冒険や挑戦をしたいだろう。それは苦しみ

や悲しみを求めることに等しいが、それに

自然に誘(いざな)われ、愛や楽しみが

生まれだす。社会の秩序や調和を考え

出そうとする。

そのために君らは生きるのだ。

ロシアとウクライナとの間、いや、世界中 

での無理解が日本のインフレに影響を

及ぼすように、テレビもネットもまず、自分 

の情緒・思想・志向をぶつけてくる。

アーメン、いや、あにはからんや。

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接点としての無意識は卵を産むだろうか? [深層]

何がどうなっているのか、わからないという

のなら、そうなっているのだろうから、いいの

だが、自分を離れることに慣れてしまうと、

意外にバランスもどうでもよくなってくる、と

気づく。 

すでに目覚めからどこか知らない草原の

草枕から起き上がる自分の体を知るの 

だった。もうそれについて、どうのこうのの 

感想をつぶやくのをやめようと思う。

思想的な立場、社会的な立場、そして

自己を喪失している時の違和感さえ

失くしてみると、今はこれが僕の状態・

状況と言えるのだろう。固定された人 

たちから見ると、また感じるのは彷徨

という、さすらいものだろう。そして、そう 

なってみると僕はなにもさすらっていない 

のを知る。

彷徨(当てもなくさ迷う)するのが憧れだった

頃は、むしろ見えない世界に不安から

さ迷う感があった。その日々から比べ、

言葉にはしにくいが、透明な落ち着きと

いったものが生活を透過している気がする。

だから、「何も言えない」と沈黙する様が

よく似合っている。似合っているから、それに

近いが、そのままではない。それは姿かたち

ではなく、心情でもない、心全体を包むことが

できるなら、そういう裏返しにめくれる感覚的な

ものだろう。なので、自分でも何を言っている

のかわからない。わかるのは、そういう「わから

ないもの」があるということだ。

この感覚の傾向の色は同じだが、内容を想像

するとなると、同じとは思えない。いつも変わる

ものだろう。だからと言って、それからなにか

この世に通じる思惟や表現が直接に紡ぎ

だせるものではないようだ。

それについて僕は説明を拒まれているので、

ほぼなにもできない。

今日想うのは、それは時間感覚が失われて

いる、ということ。しかし、不思議に未来を語る 

気がする。その未来が瞬間瞬間、過去のこと 

であるという「感覚」に化けるということ。そう 

いうことが感じられる。

戻ろう、この「未来を語る気がする」と書く時に

それはその意味ではなく、僕が未来を語る 

ように或る強制が為される、ということだ。 

それを意識するので、考えてしまう。僕が

そう書こうとした時に、そう背中を押すもの、

または何かがある、という、それは何だろう。

この背後感、これが微細な隙間の感覚なの 

だが、もう一人の僕、という感覚なのだ。

無意識の自分、という。

しかし、だからと言って、僕は正気を失って

いるのではないし、殊更、わからないことを

演出しようとして(恰好をつけて)いるのでも

ない。

わかるのは、その難しさだ。これを知るために

これを尋ねてはいけないことだ。それは尋ね

たら、尋ねた疑問の形で答えを返してくる。

だから、それは常に「自分」という答え(という

投影)の姿をまとっている。それでは悠久に

堂々巡りに自分の周囲を回っているのと

変わりない。 

こういう追及の形を何と言っていいか、わから 

ないが、これも一種の戦いなのだとしたら、

僕はそういう戦いをしているのかもしれない。

また、そうでも言わないと、まさに恰好が

つかない。彷徨の触れることもできない暖簾

を探して、手を前に出しながら当てもなく 

なってしまうだろう。せめて無駄ではあっても、

暖簾を手押しするくらいの返礼はあっても

いいだろう、と思うのみだ。


ほんの少しだが、また進めたようだ。同じく、

それがわかるのも、内面のことだけに僕だけ

なのだ。それがむなしい終わりにならないのは

心の隙間がなくなったからだろう、そういう心

の転換になっているだけでも、進展があった

というものだ。   

これは思いつきだが、こういう状態は最も

小説など、物語を書くのに向いていない状態

だと考えるが、そうすると僕の偏屈な虫が

騒いで、それこそ小説を書いて、どんなもの

ができるか、試してみる絶好の機会では

ないか、と誘ってくるのだ。ストーリーとして

まとまらないだろう、そういう行き着く場も、

意味もない荒唐無稽な物語を。


::
日常生活でも、細かいことだが、いろいろと

変わろうとしている、変わってきている。数年

使い慣れた湯飲みを割ってしまうなどの、 

小さなことでも何かが変わろうとしている、

不穏さを感じる。

単純さも歴史においては感じる。西郷で

なければ明治維新はならなかっただろうが、

西郷は自身の考え(または人間さ)とは

別に、戦(いくさ)から自分を切り離すこと

ができなかった。政府を辞す前においても

征韓論を唱えていた。大久保は西南戦争

で西郷が亡き後、8ヵ月後に暗殺されて

明治政府は崩壊状態、救ったのは

渋沢栄一だった。

渋沢は西郷と同じく、私欲なく日本のために

事業を驚異的に数限りなく起こし、三菱

の岩崎とも争い、日本経済の礎を築いた。 

若い時は討幕派で、それから一橋に拾われ、

フランスへ行き、大政奉還後は幕府側

から明治政府の財政を担う。外側の私欲

のなさから反動するかのように家庭では

多くの子を産んだが、夭折が多い。

最初の妻の千代から生まれた次男は

繊細派で事業を継続できないとみて、

廃嫡とし、後妻の生んだ長男に任せた

ようだ。ブッダと同じように家督争いを

避けるために廃嫡したのだろう。

ブッダは春夏秋冬と、(多分、4人の)美女

の世話を受けたが子を設けず、正統の

妻が男を生んですぐに出家した。なので

後継者争いは起きなかった。

渋沢はまた情けをかけて妾にした

大内くににも、4人子ができて、男は

銀行など継いでいる。 

明らかに後継者を意識している。外

では私欲なく公益事業に邁進し、家庭

では情けのままに子を多く生み、もうけ 

ている。時代もまたそういう時代だった

ろう。

僕らの外と内は二重構造になっている 

かのように別々の行動・指針を取ること

が多い。それは社会生活と家庭生活 

のように明確に分かれて現れる場合も 

あれば、自意識と無意識とのように

見えない形で日常生活の上で矛盾した

行動になって現れる場合もある。

まだその理由の解明は夜明けのように、

うっすらと東の空に現れはじめた光明

に過ぎないが、 ・・・・・ 。
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動物はやたらと人を襲わない [動物]

自分を証明しようとするのは、つまり

アイデンティティを語るということなのだろう。

その難しさは走るように速い、雲の姿を

表現しようとするようなものだろう。語ろう

とする側から、雲は姿を成長させ、変えて

しまうから。全体で、雲は雲なのだが、

そのふわふわした個性は変わらずとも、

全体はずいぶん、姿かたちを変えて

しまうものだ。 


僕は待っている、ということに突然気がつく。

そして、こうしてキーボードを打つのだ。 

これから感動するのを待っている。この

わからなかった衝動が、今は未来に感動が

来るから、それを書き留めるために、待って

いるのだ。何かが胸に迫り、それを期待

しているというのが、こういうことなのだと

初めて自覚した。感動を待つ、そういうことは

予想できない。そう思っていたから、気づかな

かった。

ただの書きたい衝動というのはこういう未来 

への架け橋を希望することなのだ、と今晩、

そう思った。  

少し、わかった。

犬や猫など人間の気持ちを察するほどの敏感な

動物たちは、未来を想う片鱗を示す。それが

どういうことか、少し、わかった。  



近所に少し行ったところの角に、高橋さんの

家があるが、小型犬を飼っている。小型犬は

弱いので、強いと感じると相手に吠える。その

小型犬とは会ったことがない。見たこともない 

ので犬種も知らない。しかし、そいつは僕が

わかるらしく、家の近くを通ると、3回に1回、

2回かもしれない、家のなかから吠えるのだ。

僕は「気」を強く出すほうらしい。

小型犬には吠えられるが、気の強い犬や

大型犬には吠えられたことはない。彼らは

自分の強さを知っているから、僕など無視 

するのだろう。

ところが、最近まったく鳴かなくなった。吠え

ないのだ。それで思うのは、そこの高橋さん 

が少し前から、僕の家を訪ねてきたことだ。 

うちのが財布を編み物のように作っている 

ので、それを知って教えてもらいに来たそうだ。

それから玄関前で何度かうちのと話している

のを見かけたが、小型犬が鳴かなくなった

のはこの後のことだった。 

これは普通に考えて、高橋さんが僕の家の気?

あるいは人間の気?を運んだからではないか。

それで僕らは高橋さんと親しい人に、犬の認識

が変わった。それで親しい人には吠えなくなった、

というのがその考えだが、その犬がいるのだったら、

もう数か月も吠えられていないから、犬の認識が

変わったとしか思えない。 

犬は100m離れていても、風下だと見えない場所 

でも見えるかのように人や物を認識するので、

鼻が利くとされるが、実際には風がなくても遠く

からの主人の帰りを家のなかで察知してしまう。

これは鼻では説明がつかない。何か別の感覚が

あるか、嗅覚に重なっているかしなければ、

察知できるはずがないのだ。

猫は人間の光背のようなオーラが見えるようだし、

犬もなんらかの波長を感じているようだ。 

そして、僕は飛躍したのだが、彼らはそれ以上に

僕らを感覚しているのではないか、と。

僕が、もしも彼らのように感覚のかけらでも備えた

のであるなら、犬が人間の癌を察知できるように

コロナウィルスさえ察知できるように、未来に 

関して、ある程度人間を察知していないだろうか?

僕は大まじめにこのテーマを語りたい。

それは僕の最近に強く思う未来感覚の獲得という

経験認識の感覚だからだ。

僕が未来感覚するように、彼ら動物たちも

そういう能力を持っているのではないか? 

そうすると、僕は強く胸を差し迫られ、喜び

の感情が湧きおこるのだ。そもそもわから

なかった、彼らからの挨拶の一因を掴んだ

ような気がするからだ。

そうするとインドの聖者が野生の動物たち

を引き連れて山になかで生活をしていた、

というバカげた話がある信憑性をもって、

僕に伝えてくるのだ、あり得る、と。

あり得る、と。

彼らは僕らを知っているのだ。僕らが感覚 

し得ない未知野の感覚で僕らの運命の

いくばくかを知っている。だから、こう言える、

彼らは僕ら人間が同じ人間について知っている

ことでは永久に知り得ない、そういう感覚で

人間の運命を見ている。

・・・・・・・、こうやって僕は僕の未来感動を

語ることができる、いや、できた。これは歴と

した事実だ。だから、この動物観感覚の仮説も

かなり可能性があるのでは、と思う次第だ。 

未来とはいっても、それは自意識の問題で、

無意識では過去の事実だ。もう出来上がった

仮説だからだ、だからこそ、前もってそれが

出されて書かれる前に感動するのだ。 


だから、提案したい。これは動物を解剖して

発見できる問題ではない。もっと動物と

寝食を共にして愛情で彼らを観察できたときに

あらためて発見できる何ものかであるに違い 

ない。僕らと動物がもっと有機的に交際

できて、有効な環境で親密さでお互いの

情報を交換できるのではないか、実験室

や実験器具で試すのではなく、と。

功利的に考えるのなら、医学では精神病の

原因究明に、身体障碍者では意思疎通など

の器具の発明など、その他にも多々ある

だろう。

それは時の余白からも、もう僕の仕事では 

ないだろう。


君に任せた。  よろしく。
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恐怖の克服は知らぬ間に [克服]

どこかに誰かがいるとして、それは失った 

人なのか、否定しようとした神なのか、 

見知らぬ自分という無意識なのか、僕は 

今晩、反省を迫られた。それは謎として

そのままだろうけれど、僕らが無限の 

可能性を秘めていて、その一部が開花 

して特殊な能力を示すのならば、そして、

それが今も人生の指針として健気に 

働いているのならば、僕らはその反作用 

という実力以上の影響を被らなければ  

ならないし、そういうようにできているだろう。 

僕はその力を行使してきた。そういう状況 

証拠はいくらでもあるし、自分でしか証明 

出来ないから、それは小出しにならざるを 

得ない。個人の感想を越える言い方もできる 

し、してきたが、くり返せば、やはり、信憑性 

に欠けてくるからだ。

自分で信じるものを信じきれないと感じる 

この頃であってみれば猶更だろう。 そういう

ものを信じるのは決して自分で捨てはしない 

だろう、が、それの具体的な正体や構造と 

いうものは明らかではない。だからといって

それがない、とはまず言えない、そう感じ、 

そう思っているからだ。

パスカルは神を信じないよりは、信じたほうが

得が断然多い、だから、神を信じるに賭けない

ことは自ら損することだと、確率の数理論を

提唱した天才らしい発想をしていて、僕は 

それを軽薄な精神として無視していた。 

しかし、自分以上の存在、人間以上の存在は

ちょうど自分が人間だとインプットされた

コンピュータが、(コンピュータを作り、その

中心の基準を“人間”と記録した)人間に

ついて考えるようなものだろう。自分が人間

だと思っているコンピュータを僕らは軽視

するだろう。彼らに人間がわかりっこない、

と。

神は人間以上と規定される。だから、僕ら

がそれを脳や心で考える以上、僕らを軽視

できる存在と定義するはずだ。そうしないと

神についての話は始まらない。すると、僕ら

は神を規定できないという矛盾にぶつかる。 

コンピュータが人間を理解しえないと僕らが

思う以上、僕ら人間は神を理解しえないと

いう命題になってしまうのは必然だ。 

僕ら人間は理屈で無限の可能性から、

思ったことを実現できる可能性を秘めて

いるとは言え、またそれを実行してきている

とはいえ、存在している神を想定した時点 

でもうそれについての思考はすべて無駄に 

終わるのが宿命だと、僕は昔考えて、僕は

神を想定したいろいろな場合についての

「誤解された神」について否定しようとして 

きた。

しかし、旧約聖書の神についてその存在に 

ついて考え始めて、その彼のなかに実際の

想定を超えた神の性格をそのまま一部に 

しても継承してしまったようだ。それで矛盾 

が生じてしまった。僕の考えることを神は

前もって知っているはずだ、という命題を

克服できなかったことだ。この細かいが、

誤解をしたままではいつまで経っても、神 

の全知全能の亡霊に悩まされ続けること 

になる。それに、今晩、遅ればせながら

気づいた、というわけだ。 

僕らの知と心が想定する人間以上のもの

を想定することは、必ず、人間には理解 

できないに違いない、という答えを導く。 

そこには現実的な僕らのための答えは 

まったく期待できないし、感覚的に実感する 

ことが不可能だから、たとえ十分な正解を

見ても聞いても、僕らはそれがなんなのか、

さっぱりわからない。 

僕はそれをいかにして克服するか、という 

まともではない無駄な努力をしていた。 

知の考えだした神は怖くない。理解できる 

からだ、理解できない力をもつ概念存在 

として。ところがそれを旧約の神にも認めて

いたら、特に人の思考を読むということを

認めていたら、僕らは身動きができない。

それを考えようとしたのは、僕は無意識を 

利用できるのでは、と僕の環境からそう 

思ったのだ。無意識に考えさせれば、僕の

自意識にはわからず、考えを進められる、 

と、そうすれば僕の本心は彼にも読めない

だろう、と考えたのだ。よしんば?無意識に

交流があっただけに陥った、自分自身に

よる自分への精神的な罠だった。

そこには自分の意思が曲げられてしまうと

いう恐怖が底にある。それは恐れる必要の 

ない無駄な工作・工夫というものだったろう。

旧約の彼が人間の心が読めないのは、 

まさに旧約聖書に書いてあることだった。 

だから、人間にこれでもかの試練を与えた 

のではなかったか。なぜこんな簡単なこと 

に気づかなかったのか。(まともに向き合わ 

ないと、簡単な目の前のことが気づけない)

それでこれまでは僕が恐れるとおりに、僕を

阻止するためにいろいろな制限・制止条項を

僕に与えるだろう、という自分の考えのとおり 

に僕は自分で自分を制止してきたらしい。 

島では命の危険に及ぶ事故をする隙さえ

与えてしまった。



さて、これを取っ払おう。  



どうもこれまで旧約聖書の神という存在が

僕の恐怖の対象だったらしい。らしい、という

のは自分では気づかないようにするのが、

自分の恐怖への僕らの対応だからだ。 

僕らの自分はそれをうまく隠すから。 

自己という防衛の本能から、これも自然の

摂理でもある。  

心は広い。それを出たり入ったりしていても、 

小局に囚われがちになると、大局はなかなか

見届けられないようだ。 

どうして気づけたか、というと、そう考えたのは

今なのだけれど、たぶん、ウクライナ侵攻の

ことで情勢を呼び込んでいたからだと思う。 

戦争地のなかにいると、恐怖は中和されるから。

今、自分がしあわせでいるだけでは不十分 

なのだ、という理由のわからない気分に満た 

される。何が壊され、なにを失うか、それが

現実に行われている、そして、それから心

を離す。無視さえする。彼らが泣こうが 

わめこうが、知ったことではない、と冷たい 

気持ちを呼び込む。そうすると、涙が心に

あふれる。洪水だ。濡れネズミになった

荒廃した激戦地で僕は泣いている。 

恐れていてはいけない。その悲しみが一日 

を満たす。なにができるというわけではない。

それでいいのだ。そうして自分を切り離す。 

そこまで行ったら、できることは限られる。

それを世界に伝える。 

それが昨日だった。冷静に戦況・会談の 

行方は見えていた。でも、それは僕を変え

たらしい。自分の今までの気づかなかった

究極の恐怖を観たからだ。僕らは自分で

考えて、恐怖を克服なんて、できない。 

自分に囚われている限り、僕らはなにも 

できないと考えるが、そうではない。 

具体的にどうすれば、を教えろとか、具体策

がないのに何を言ってるんだ、という意見が 

あるが、その意見がもうおかしい、ということ 

に気づくのが最初だろう。君はなにを経験 

していないのか?そうすればわかる、という 

のは、いつも後からやってくる。経験の 

自然に湧き出す反省から。考えるのは

それからだ。反省をまとめて、そうすれば

次になにをすべきかが、考えられる。 

ただ頭の教科書・教養になっている他人様

の意見をあちこち組みあわせるんじゃなくて、

自分で考えられる。 

そうすると、自分の言葉が新しくなる。それで 

わかる。新しく言葉を紡ぎだしている、と自分

でも感じる。それが第一歩を踏み出したこと。

そのうちに新しいものに挑戦してみたくなる。 



僕はまだ、止まらないようだ。ほんとうに今 

自分が前を向いている、と感じるのはこう

いう時だ。




:::
これは先月、3月1日に書かれた。

今、4月13日。書かれた2週間前後の後

には、旧約の神が人間を痛めつけた動機に

ついては気がついていた。人間の考えが

わからないからかもしれないし、またわかって

いたとしても、同じように試練として人間を

痛めつけただろう。

それはたぶん、人間から愛を生むためだと

想像するが、その検証はまだできていない。

するまでにはまだ時間が必要なので、先走り

してその考えがあったことだけをメモして

置きたかったので、ここに書いた。

愛というのは西洋的なもので、その重要さが

わかりながら、使うとなにか違和感を感じて

いるものだった。僕が日本人で、仏教や儒教の

影響を受けているためだろう。仏教も儒教も

正しく受け継がれた事例は局部的で、むしろ

中国にも朝鮮半島にも肌合いが悪かったようだ。

景教として日本に入ってきたキリスト教は、

宣教師も日本人の奴隷を確保するのが目当て

だった節もある。

それでも神を日ノ本の太陽神になぞらえて

(謂わば聖書を脚色して)愛の布教には成功

し始めていたのだから、それは僕らの心の

中心を捉えるものを備えていた。歴史は紐

解かれていない。
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今も続く歴史の歪曲とは [教科書]

この世のなにもかもがあてにならない、という

信じがたい、受け入れがたいテーゼを少し

以前のブログで立てて、書いたが、半信半疑の

読まれ方ではなかっただろうか、と思う。

最近では日本は腐りかけている、ということを

言ったが、これも詳しくはなにも具体的に 

挙げてこなかった。大局での問題も多く、小局 

の大事な部分とは知っていたが、なかなか 

回ってこれなかった。頭が山手線を回っている 

ようなもので同じ駅(テーマ)に戻ってくるのも 

また小一時間(それなりに日数が)かかる、と

いった具合だ。 

中学校の歴史教科書を買ったが、それに 

ついて急に話題が増えて、まとめてもいい

くらいなのでこの機を捉えることにした。


アマゾンの書評(カスタマーレビュー)があるが、

これを読むとこの本については大体わかる。

最低な評価は☆がひとつ、最高は☆が五つと 

なる。内容の結果は☆ひとつが8人、☆五つ 

が2人。ちょうど二つに割れている。それで 

数えやすい。☆一つに共感する人の人数が

597人、☆五つには31人。この履歴を見ると

事情が見えてくる。初めの評が☆一つで「反日

の教科書」とポイントを当てている。その次に

☆五つで、「歴史とは人類の生きた証。それを 

みんなで考えるための教科書と感じました。」

と題されているが、最後に「この本のレビューの

多く執筆者は、この本が文部科学省の検定を

通っていることをご存知ない? それとも、この

教科書を御読みになっておられない?」と皮肉

交じりに言っている。たしかに、読まないで反対

する人もいるから、そういう批判もあるかもしれ

ない。 

でも、書評の流れからは、ひどい、という書評に 

反発・対抗として最高の☆五つを挙げたのだろう、

というのはわかる。なぜなら、☆四つでも、三つ 

でもないから。最低と最高の二つに割れることが

そもそも異常なことだ。

この書評からは確実な判断をするのは難しい。 

書き込みたい人がすでに右翼と左翼の争いにも

見える。 

それで遠巻きにしながら、この問題を見てみると

やはり、この教科書は偏向しているのが、はっきり 

見て取れる。他の教科書では取り上げなかった

従軍慰安婦の問題を唯一載せていること。河野

洋平官房長官の韓国への謝罪まで載せている。

これは印象付けになるだろう。そして、その後で

日本政府は強制連行の直接の資料はないとの

報告をしている、と。おかしい。つまり、いい加減な

証拠不十分なこととわかっていて、実際には捏造 

だとわかり、朝日新聞も謝罪している、それを

教科書に載せるのは、これを作った小・中学教職員

の人たちの常識を疑う。 子供たちに印象付ける 

理由はなにか?と疑ってしまう。 

そして、決定的だと思えるのは、日本の文化で

寺院や仏教徒などは写真で出てくるが、神社・

神道は全く出てこない。魏志倭人伝の内容の

怪しい古文書は載っているが、古事記も日本書紀

も載っていない。出雲大社も伊勢神宮(その関係 

の面白いおかげ参り)も熊野古道もまったく載って

いない。つまり、戦後GHQが封じた神道関係の

ものは無視されている。神社は僕らの大事な

精神文化のひとつではないのか?なので明治 

に神仏分離令が出て、廃仏毀釈の民衆の暴走 

があったことも、つまりそれまでは神も仏も一緒

に寺や神社にご本尊として祭られていたことなど

も、なにも書かれていない。

意図的に、としか言えない。

教育委員会は左翼化しているそうだが、戦後

70年、それを示すのはいじめの増加だろう。 

いじめの対策は教育委員会が真っ先に考え

そうなことだが、学校側はいじめを隠そうとする

ニュースが流れるほどで、いじめを認めさせる 

のさえ年々難しくなっているのだろう。そして、

中学から小学校に侵食し始めている。その 

増加が毎年で、一度も減ったことがないのを 

見ても、まともに取り組む気がないのが示さ

れているだろう。 

日本は内部から蝕まれている。教育現場で

少ないまともな教師たちでは改革ができない 

ところまで進んでいるのだろう。ともかく、 

彼らが自分たちの非を認めず、開き直って 

いるのは、僕も子供(小学生時)が理科実験

でけがをしたことで学校に文句を言いに

行った経験からわかる。あまりにひどいの

に、呆れてものも言えなかった。 

どうぞ訴えてください、と学校側は言いは

しなかったが、まったく校長も担任女性教師

もその態度の一点で、何の反省もないのだ。

それでも教師か、と思った。ふつう、初めは

謝罪だろう。

韓国の歴史の教科書はもっと自国の歴史を

ねじっているのだろうが、日本もその例に漏れ

ているのではないのだ。 

僕の立場はいつものように同じで、右翼でも

ないし、左翼でもない。また、反右翼でもないし、

反左翼でもない。その時に必要な判断は

その時にする。細かいことはいろいろあって

それだけで一テーマになってしまう。 



一言いうなら、僕らも、世界も、民主主義を

知らない。ロスチャイルドの本家、スイスが

その方式を備えているが、そもそも民主

主義は僕らの政治参加の理想であって、

いつも隠れた権力に操られている。それは

民主の根本が主権在民を実行・設定して

いる国家はまだないからだ。それは少し

複雑なシステムを採用するようになるだろう。

まだ朧げな絵しか見えていないが、 ・・・・。



::

この中学教科書を採択したのは国立5校、

私立30校以上。国立は筑波大付属駒場中

のほか、東京学芸大付属世田谷中

▽同国際中等教育学校▽東大付属中等

教育学校▽奈良教育大付属中。

私立では灘中、麻布中など30校を越える。

灘中って受験の名門校ではなかったか。
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おおブレネリ、あなたのお家はどこ? [ウクライナ]

<この記事は 2.24 に書いて、投稿した。ロシアが

ウクライナに軍事侵攻した日の日本時間では夜だ。

友人へのメールで「プーチンは妥協しないだろう。

ウクライナ側がどう妥協するかが停戦のカギだ。」と

送ってから、未だにそれより進んでいない。>



おお ブレネリ、 ブレネリ、 あなたの 

おうちは   どこ?  

と歌うのは、幾度もあったが、ブレネリって 

なんだ?と思う。そう思ったこと、疑問に 

思ったことがなかった。ブレネリは人の 

名前だろうと想像がついたから、今更 

なんで疑問に思うのか。そのほうが 

奇妙ではないか。 

これもこじつけではないのが不思議、奇妙 

ではあるのだが、この歌には戦争の歴史 

があって、歌詞が抽象的なので、3番4番 

においては、シリアスな解釈もされている。 

私のおうちはスイッツランドよ、とスイス 

民謡ということだが、スイス人はほぼ知ら 

ないそうだ。日本で流行したのは、それを 

推進したのが戦後下のGHQだったらしい。 

1番2番は可愛らしい歌詞だが、これが 

アメリカの訳らしい。それを日本人が邦訳 

した、と。 

ちなみに、ブレネリはスイスでの名前で 

フレニ。りは愛称で読む場合でフレニちゃん、 

くらいの意味だと。フの「V」が英語読みで

ブになったらしい。 

戦時下で兵隊などで流行って、歌われ、 

いろいろな環境を渡り歩いて、日本まで 

来たと、いうことだろう。



今、書き始めようとして、ふとブレネリの 

歌が頭に聞こえて、ふとした流れに逆らわ 

ないのが身上なので、調べるとこうなった。

ロシアの兵隊が歌っているのだろうか。 


ウクライナは僕のなかでもう一つの言葉を

形成している。大昔から、シャレで、例えば

明るい場所から、急に真っ暗なところに 

入った時、「うっ、暗いな」とひるむ。それ 

は僕のなかでいつもその国が出てくる度に

頭のなかで浮かび上がるフレーズなのだ。

うっ、暗いな。ウッ、クライナ。=ウクライナ。 

そこが今日、注目を浴びる国になるとは、 

思ってもみなかった。 

1週間前まで、双方に全面戦争の意図は 

ないとその言動から見えていた。しかし、

クリミアに電光石火で侵攻したプーチンで 

ある。このまま部隊を撤収はできないだろう、 

ということも見えていた。欧米も、3000人

とか300人とか400人とか兵隊を終結させ

たが、そんな人数ならはじめから戦争に突入

できないのはわかる。アメリカは原子力、

プーチンは天然ガス、EU諸国もエネルギーの

40%がロシアの天然ガスに依存している。

本格的に戦争はできない。 

で、どうなるのだろう?と見ていたら、戦略 

のプーチンらしくウクライナの東の地方の

新ロシア派の主張する独立国を認めて、彼ら 

を守るための「軍事行動」ときた。

北大西洋条約機構(NATO)は主要各国ともに 

軍事力を減少させ、地上兵力に至っては

大部隊を集結するなど無理な話で、プーチン

はそれも知っているだろう。冷戦後もNATO

のように軍事力の戦車などを売り払ったり

しなかった。



プーチンの狙いがまだよくわからない。それ

が気になる。NATOやアメリカの出方で軍事

バランスは見ることができるだろうが、経済 

制裁は今の国力では痛いはずなのだが、 

それでも決行した。もしかすると、彼には

今の世界のコロナ禍が茶番に見えている 

のかもしれない。中国や北朝鮮もアメリカ 

の動きの本気度に注目しているだろう。 

中国とロシアに密約がなければいいのだが、

将来アメリカが助からないとしたら、トランプ 

は間に合わないことになる。そのもしもの 

想像図を一枚二枚加えたとしても、よく 

わかるのは理解させるに十分な地図が 

すでにいくつも出版されているが、それ 

だけの知識量に僕の目は届いていない

ことだ。これでは現実の進行に判断が 

追いつかない32年前の第1次湾岸戦争

の時と似たようなパターンになりそうだ。 

さて、ディープステートとかは何をどう描いて

潤沢な資金をどこにどう回すのか。

たしか日露戦争の時はロスチャイルドから

資金を借りたような記事を読んだと思ったが

・・・・・・・。(いつ、確認するつもりなのか)

カチューシャよ  いや、 ブレネリ

冬の夜景に空想の息が、酒の息にも似て、

とりとめがない。

ブレネリ、  ブレネリ、 あなたの  

おうちは どこ~ ?


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去り行く桜、君は帰ってこない [詩]

君は  去ってゆくんだね  

僕は  まだ  残っている 

遠くなるね、  この曲 

腐ってしまいたい と  

この心を  投げつけてみるが  

僕は  そっと  動かない  

悲しみが  もどってこない 

君への  気持ちに  誘われない  

チョコのように  

ボロボロに  かじりたいが 

僕は  人を  人と  思わない  

僕を  寝かしつけて くれ  

文学の イメージが  夜の 

路地の街灯を  抱かせたように 

僕も  なにかであっても  

いいのではないか 

僕も  人間であっても  

いいのじゃないか  

君は   まだ  

そこに  いるのだろうか  

僕との 約束を  見届ける  ために  

僕が  生きられるように  

僕が  君を越えるのを  

まだ  願っているの か 

やがて  

現れる  

新しい  劇場で  僕らは  

なにが できるだろうか  

僕と  君との あいだには 

無為の  嵐が来る  

君を  想うことで  

痛む  心の ここを  

踏みにじる  心の強さを  

教えてくれ  



すべてのことは  帰らない 

簡単なことだと  

知らなかった  

思い悩んでいた  あの頃  

今も  心に  残る  

京成電鉄の  踏切  

奇跡は  その奇跡は  一度だけ  

なにも  用意は  

いらなかった  

それが  なにか 知らなかった  

なつかしい  その光 

心を  開かなかったのは  

僕だった 

その あまりに  短い日々  

僕が  それを   閉じた  

閉じて しまった 

それが  愛だとは  

気づかなかった  



すべてのことは   新しい  

僕は  僕の願いが  かなうさまを 

取りこぼして  

君を  失うことに  

臆病になって  

なにも  なにも   できなかった  

ただ 未来を 求めていたとは  

気づかず  



桜は  舞い散る  

君は  帰らない  

桜が 舞い散るように  

君が  去ってゆく 

ここまで来て   わかった  

ここへ 来るまで  

わからなかった  

 君が  

 知らない  君だと  

舞い散る  

桜が  

 君が   もう  

 帰らない  



それが  すべて   なんだ  

走ってる  

走ってる  

心が  ああ 

どこまでも  

走ってる  

どこへ行くのか  

どこに 向かってるのか  



君の  ところへ  

もう  届かない  

君の  ところへ  

君の  声が  する  

ところへ  



なぜ 

君を  探すのか  

 なぜ  

 君を  愛すのか 

なぜ  

君を  愛したの か  

   まだ  

   君を  愛したい  

 まだ  

 君に 

 逢いたい  



君に 


 君を ・・



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