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動物はやたらと人を襲わない [動物]

自分を証明しようとするのは、つまり

アイデンティティを語るということなのだろう。

その難しさは走るように速い、雲の姿を

表現しようとするようなものだろう。語ろう

とする側から、雲は姿を成長させ、変えて

しまうから。全体で、雲は雲なのだが、

そのふわふわした個性は変わらずとも、

全体はずいぶん、姿かたちを変えて

しまうものだ。 


僕は待っている、ということに突然気がつく。

そして、こうしてキーボードを打つのだ。 

これから感動するのを待っている。この

わからなかった衝動が、今は未来に感動が

来るから、それを書き留めるために、待って

いるのだ。何かが胸に迫り、それを期待

しているというのが、こういうことなのだと

初めて自覚した。感動を待つ、そういうことは

予想できない。そう思っていたから、気づかな

かった。

ただの書きたい衝動というのはこういう未来 

への架け橋を希望することなのだ、と今晩、

そう思った。  

少し、わかった。

犬や猫など人間の気持ちを察するほどの敏感な

動物たちは、未来を想う片鱗を示す。それが

どういうことか、少し、わかった。  



近所に少し行ったところの角に、高橋さんの

家があるが、小型犬を飼っている。小型犬は

弱いので、強いと感じると相手に吠える。その

小型犬とは会ったことがない。見たこともない 

ので犬種も知らない。しかし、そいつは僕が

わかるらしく、家の近くを通ると、3回に1回、

2回かもしれない、家のなかから吠えるのだ。

僕は「気」を強く出すほうらしい。

小型犬には吠えられるが、気の強い犬や

大型犬には吠えられたことはない。彼らは

自分の強さを知っているから、僕など無視 

するのだろう。

ところが、最近まったく鳴かなくなった。吠え

ないのだ。それで思うのは、そこの高橋さん 

が少し前から、僕の家を訪ねてきたことだ。 

うちのが財布を編み物のように作っている 

ので、それを知って教えてもらいに来たそうだ。

それから玄関前で何度かうちのと話している

のを見かけたが、小型犬が鳴かなくなった

のはこの後のことだった。 

これは普通に考えて、高橋さんが僕の家の気?

あるいは人間の気?を運んだからではないか。

それで僕らは高橋さんと親しい人に、犬の認識

が変わった。それで親しい人には吠えなくなった、

というのがその考えだが、その犬がいるのだったら、

もう数か月も吠えられていないから、犬の認識が

変わったとしか思えない。 

犬は100m離れていても、風下だと見えない場所 

でも見えるかのように人や物を認識するので、

鼻が利くとされるが、実際には風がなくても遠く

からの主人の帰りを家のなかで察知してしまう。

これは鼻では説明がつかない。何か別の感覚が

あるか、嗅覚に重なっているかしなければ、

察知できるはずがないのだ。

猫は人間の光背のようなオーラが見えるようだし、

犬もなんらかの波長を感じているようだ。 

そして、僕は飛躍したのだが、彼らはそれ以上に

僕らを感覚しているのではないか、と。

僕が、もしも彼らのように感覚のかけらでも備えた

のであるなら、犬が人間の癌を察知できるように

コロナウィルスさえ察知できるように、未来に 

関して、ある程度人間を察知していないだろうか?

僕は大まじめにこのテーマを語りたい。

それは僕の最近に強く思う未来感覚の獲得という

経験認識の感覚だからだ。

僕が未来感覚するように、彼ら動物たちも

そういう能力を持っているのではないか? 

そうすると、僕は強く胸を差し迫られ、喜び

の感情が湧きおこるのだ。そもそもわから

なかった、彼らからの挨拶の一因を掴んだ

ような気がするからだ。

そうするとインドの聖者が野生の動物たち

を引き連れて山になかで生活をしていた、

というバカげた話がある信憑性をもって、

僕に伝えてくるのだ、あり得る、と。

あり得る、と。

彼らは僕らを知っているのだ。僕らが感覚 

し得ない未知野の感覚で僕らの運命の

いくばくかを知っている。だから、こう言える、

彼らは僕ら人間が同じ人間について知っている

ことでは永久に知り得ない、そういう感覚で

人間の運命を見ている。

・・・・・・・、こうやって僕は僕の未来感動を

語ることができる、いや、できた。これは歴と

した事実だ。だから、この動物観感覚の仮説も

かなり可能性があるのでは、と思う次第だ。 

未来とはいっても、それは自意識の問題で、

無意識では過去の事実だ。もう出来上がった

仮説だからだ、だからこそ、前もってそれが

出されて書かれる前に感動するのだ。 


だから、提案したい。これは動物を解剖して

発見できる問題ではない。もっと動物と

寝食を共にして愛情で彼らを観察できたときに

あらためて発見できる何ものかであるに違い 

ない。僕らと動物がもっと有機的に交際

できて、有効な環境で親密さでお互いの

情報を交換できるのではないか、実験室

や実験器具で試すのではなく、と。

功利的に考えるのなら、医学では精神病の

原因究明に、身体障碍者では意思疎通など

の器具の発明など、その他にも多々ある

だろう。

それは時の余白からも、もう僕の仕事では 

ないだろう。


君に任せた。  よろしく。
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