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接点としての無意識は卵を産むだろうか? [深層]

何がどうなっているのか、わからないという

のなら、そうなっているのだろうから、いいの

だが、自分を離れることに慣れてしまうと、

意外にバランスもどうでもよくなってくる、と

気づく。 

すでに目覚めからどこか知らない草原の

草枕から起き上がる自分の体を知るの 

だった。もうそれについて、どうのこうのの 

感想をつぶやくのをやめようと思う。

思想的な立場、社会的な立場、そして

自己を喪失している時の違和感さえ

失くしてみると、今はこれが僕の状態・

状況と言えるのだろう。固定された人 

たちから見ると、また感じるのは彷徨

という、さすらいものだろう。そして、そう 

なってみると僕はなにもさすらっていない 

のを知る。

彷徨(当てもなくさ迷う)するのが憧れだった

頃は、むしろ見えない世界に不安から

さ迷う感があった。その日々から比べ、

言葉にはしにくいが、透明な落ち着きと

いったものが生活を透過している気がする。

だから、「何も言えない」と沈黙する様が

よく似合っている。似合っているから、それに

近いが、そのままではない。それは姿かたち

ではなく、心情でもない、心全体を包むことが

できるなら、そういう裏返しにめくれる感覚的な

ものだろう。なので、自分でも何を言っている

のかわからない。わかるのは、そういう「わから

ないもの」があるということだ。

この感覚の傾向の色は同じだが、内容を想像

するとなると、同じとは思えない。いつも変わる

ものだろう。だからと言って、それからなにか

この世に通じる思惟や表現が直接に紡ぎ

だせるものではないようだ。

それについて僕は説明を拒まれているので、

ほぼなにもできない。

今日想うのは、それは時間感覚が失われて

いる、ということ。しかし、不思議に未来を語る 

気がする。その未来が瞬間瞬間、過去のこと 

であるという「感覚」に化けるということ。そう 

いうことが感じられる。

戻ろう、この「未来を語る気がする」と書く時に

それはその意味ではなく、僕が未来を語る 

ように或る強制が為される、ということだ。 

それを意識するので、考えてしまう。僕が

そう書こうとした時に、そう背中を押すもの、

または何かがある、という、それは何だろう。

この背後感、これが微細な隙間の感覚なの 

だが、もう一人の僕、という感覚なのだ。

無意識の自分、という。

しかし、だからと言って、僕は正気を失って

いるのではないし、殊更、わからないことを

演出しようとして(恰好をつけて)いるのでも

ない。

わかるのは、その難しさだ。これを知るために

これを尋ねてはいけないことだ。それは尋ね

たら、尋ねた疑問の形で答えを返してくる。

だから、それは常に「自分」という答え(という

投影)の姿をまとっている。それでは悠久に

堂々巡りに自分の周囲を回っているのと

変わりない。 

こういう追及の形を何と言っていいか、わから 

ないが、これも一種の戦いなのだとしたら、

僕はそういう戦いをしているのかもしれない。

また、そうでも言わないと、まさに恰好が

つかない。彷徨の触れることもできない暖簾

を探して、手を前に出しながら当てもなく 

なってしまうだろう。せめて無駄ではあっても、

暖簾を手押しするくらいの返礼はあっても

いいだろう、と思うのみだ。


ほんの少しだが、また進めたようだ。同じく、

それがわかるのも、内面のことだけに僕だけ

なのだ。それがむなしい終わりにならないのは

心の隙間がなくなったからだろう、そういう心

の転換になっているだけでも、進展があった

というものだ。   

これは思いつきだが、こういう状態は最も

小説など、物語を書くのに向いていない状態

だと考えるが、そうすると僕の偏屈な虫が

騒いで、それこそ小説を書いて、どんなもの

ができるか、試してみる絶好の機会では

ないか、と誘ってくるのだ。ストーリーとして

まとまらないだろう、そういう行き着く場も、

意味もない荒唐無稽な物語を。


::
日常生活でも、細かいことだが、いろいろと

変わろうとしている、変わってきている。数年

使い慣れた湯飲みを割ってしまうなどの、 

小さなことでも何かが変わろうとしている、

不穏さを感じる。

単純さも歴史においては感じる。西郷で

なければ明治維新はならなかっただろうが、

西郷は自身の考え(または人間さ)とは

別に、戦(いくさ)から自分を切り離すこと

ができなかった。政府を辞す前においても

征韓論を唱えていた。大久保は西南戦争

で西郷が亡き後、8ヵ月後に暗殺されて

明治政府は崩壊状態、救ったのは

渋沢栄一だった。

渋沢は西郷と同じく、私欲なく日本のために

事業を驚異的に数限りなく起こし、三菱

の岩崎とも争い、日本経済の礎を築いた。 

若い時は討幕派で、それから一橋に拾われ、

フランスへ行き、大政奉還後は幕府側

から明治政府の財政を担う。外側の私欲

のなさから反動するかのように家庭では

多くの子を産んだが、夭折が多い。

最初の妻の千代から生まれた次男は

繊細派で事業を継続できないとみて、

廃嫡とし、後妻の生んだ長男に任せた

ようだ。ブッダと同じように家督争いを

避けるために廃嫡したのだろう。

ブッダは春夏秋冬と、(多分、4人の)美女

の世話を受けたが子を設けず、正統の

妻が男を生んですぐに出家した。なので

後継者争いは起きなかった。

渋沢はまた情けをかけて妾にした

大内くににも、4人子ができて、男は

銀行など継いでいる。 

明らかに後継者を意識している。外

では私欲なく公益事業に邁進し、家庭

では情けのままに子を多く生み、もうけ 

ている。時代もまたそういう時代だった

ろう。

僕らの外と内は二重構造になっている 

かのように別々の行動・指針を取ること

が多い。それは社会生活と家庭生活 

のように明確に分かれて現れる場合も 

あれば、自意識と無意識とのように

見えない形で日常生活の上で矛盾した

行動になって現れる場合もある。

まだその理由の解明は夜明けのように、

うっすらと東の空に現れはじめた光明

に過ぎないが、 ・・・・・ 。
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