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人生を選ぶ前から始まっているもの [人生]

時に 悲しみは  重く 

のしかかる 

別れるまで 自分の 気持ちに

気づかない


自分の夢に  囚われた 

正しさを 求めようとして 

自分の 優位さ  楽な加減に 

しかない 甘えを  求めて  

選択しようとして 


今まで  つきあったのは 

自分なのに  

目の前にしていた  彼女なのに 

結婚と  彼女との  両天秤に 

どちらかを 選ぼうとする 

誰かに 相談した  ことは 

どういうこと だったのか 


君の 抱いたその人を 

彼は 会ったことがあるのだろうか 

知っている人だった  のだろうか 

その人の意見が  

どれほど 正しく聞こえても 

その人は  彼女を知らない 

君は  言葉ではない  彼女を 

知らないのだろうか と  そう 

考えたことは? 


君の 想いは 別れには 

心が 苦しくて  胸が 

痛むことを 訴えて

自分の 楽さ加減が 優位に立つことを

誰かの  意見に  求めていない

だろうか? 



見かけの 結婚と彼女と の 

どちらかの 選択ではなくて 

自分と  彼女との生活との 

どちらかが 楽しめる生活か 

という選択 


それは  いつでも どこでも ある 

選択肢なの だろう 


君は 自分を選ぼうとして 

彼女の 中に入った 自分の心を

知らない  

そこから 考えることができない 

そこが 苦しい  痛む  

それは  何だったのか? 

今も  あるものだろう 


君がプロポーズした時 

君の中には 彼女がいた 

やめたくなった時には 結婚への

希望という 自分がいる 


なるようになる というのは 

よく言われた 言葉だが 

こういう時は よく

当てはまる 


プロポーズした後に 考え直すでは 

彼女も これ以上  話せなければ

同じように  考え直すだろう 

どうなるのか 

それは わからないことに

思えるが  

決まったように  進んでしまうのだろう

あとで  わかることだ 


悲しみが  来るのなら  

日ごとに  自分が  なにをしようとして 

なにを したのかが  

わかってくる  

傷ついたのが  自分ではないことにも 

失ったものが  なんだったのか 

日ごとに 

わかってくる  



それが  悲しみであるのは  

いくつも あるのだろう 


まるで 散らかった 衣服のように

僕が 知っているのは それが 

選択をしたことに 拠る、と

いうものではないこと  

どちらに 転ぶかというのは 

もう選択の前に 決められている 

そして  それを  拒否するには 

とてつもない  気持ちの悪いことや 

到底 出来そうもない 暴挙とも 

勇気とも言える  蛮勇を 

振るわなければ  ならないから 

僕らは  おとなしい 選択を  

する  


また どんな選択をしても 

それは 砂地獄に 足を 

入れたのなら  もう 

そこに  吸い込まれてゆく  

それは やり直しても 同じ

選択をする  というくり返し 

それは どれか選ばなければならない

時が 至ったかのようだ 


選んだ人生は ひとつで 

二人分の  人生の時間は ない 

百もの 人生を選べても 

いつ どの人生で  どんなことを 

したのか  なにを決めたのかなんて

誰も  覚えちゃいない 

そのひとつを 選んだということが  

決まっている  

どれを選んだかというのは 

微妙なことで  小さなことだと

人は  思わない 

選んだらどうなるか わかるような 

決断に  人は 迷わない 

どちらかわからないのは  はじめから 

その違いが 微妙だから 

だから  選んだものを 大事にできれば 

それは それだけのもの 

うまくいかなければ  それは 

それだけのもの  

新しい決断の 時が  きたこと  

それは 新しい事態であって  

前から知る由もなかった  

だから  うまくいかないのであって

その前の選択を 誤ったからという

のは   身勝手な 意見なのだ



もう十年もすれば 

その答えも  わかるかもしれない 

だが  それまでは  待てない  


その時  

その時の なにかを 

決めなければならない だろう


僕らの 自由というのは  

その程度の 自由を  示している 

それは 君が 自由だったら  

それが わかるから 

自由な人間は  選ばない 

選択肢に  迷わずに  

どちらでも 構わないと

知っている 

その時の 自分を 信じるしかないと

知っている 

だから  その時に 相応しいものを

自在に  選ぶのだ 


友のために  死んでも構わなければ

死ぬ選択をする だろうし 

生きなければならない 理由があるのなら

友と  別れるだろう 

自由ならば 



そういう時でも  

どういう時でも  

別れには  悲しみが  あるだろう 

好きで  選択 できるわけじゃない 

そういう 人生の選択ならば 


生きるのか  死ぬのか  

僕らは  

なにを  生かすのか 

死なすのか 


その時に  人生の 一瞬が  

訪れる  

誰も 気づくことのできない 

一瞬が  入る 


だから  

何を 選ぶか よりも  

選ぶ立場に  つらい立場に 

身を置くことが  

大事になる 




:::

説明が要るのは、結婚か彼女かの

選択、というどちらでも同じに

結婚するのではないか、ということで、

彼女の計算では彼が選んだ転職先を

全国転勤を前提にしたから。

彼女には産休でひとりで子供を育てる

覚悟があって、生活費は協力できない

というもので(なにかあっても金銭の

保護は譲らない)、彼は単身赴任の

結婚生活にメリットがなく、疑問に

感じたもの。それもプロポーズして

から迷い始めたもので結婚と彼女と

のどちらかの選択はそういった意味

でのこと。

僕は彼女に会ったこともないし、

話したこともないので、あまり僕の

彼女の意向については信じないほう

がいい、直接尋ねて自分で確かめる

ように、と言った。

僕は点数表をつくって、数字でどう

するか決めてしまう方法があると

言った。その代わり、その数字の

決定でYESかNOを決めなくては

ならない。決断の方法だから。

今、ここでそう決めるなら、教え

てもいい、細かい条件の立て方も

併せて。

そこで彼の体は震えてしまった。

彼の迷いは迷いそのものよりは

決断が恐怖だったのだ。その恐怖

は何に拠るのか、それはそのまま

彼の課題だった。その他の楽な

ことなら手伝ったが、これは彼の

人生の決断だったから、彼が自分

で決める必要がある。(彼は決断

の方法を選べなかった。1日か、

数日かまだ考える余裕が欲しいの

だろう。)



「 時に 悲しみは  重く 

  のしかかる 

  別れるまで 相手への 気持ちに

  気づかない  」


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瞬速で輝くもの [人生]

人生という言葉を使っても

おかしくはない年齢に達したが、

人生の厚みは感じるのみ、一向に

なにが人生なのか、ピンと来ない

生活の中にいる。

僕が属したり、その一部だと思う

もの、僕が人間なのだという、

そういう当然な見解さえ、遠い

ものに包まれている。

現実感のない雰囲気に惹かれる

ような、あいまいな自分の心質を

思う。


さらば  MY  LIFE  

(いい響きだと思う。

その響きをバックにして、僕の

生活は冴えようとしている。)


さらば  MY  LIFE  

それが 僕への  贈り物

この1秒を 捨てて

新しい 命を 育てたい

そうすると  僕らは 

翼を  見るのだろうか  

まぶしくて  輝きが

見えないように 


さらば という  闇に立てば 

光の世界が  よく 見える

祝福は  神でも  宗教でもない

僕らの  命だと  

輝きが  教える 


さらば  昨日の 自分  

さらば  昨日という  人生 

どう考えても

永遠が  あるのだとしたら  

昨日からも  

明日からも

今という 在り方から  

離れて 存在するのは  

できない  不可能だ 



嘘を言えば 

僕らは  生きるたびに  死ぬ

僕らは  死ぬことで  生き続ける 

それが  おかしく  聴こえるのは 

嘘だから 

それら  全体が  

生きることで  死ぬことだから 

区別しなくて  いいことまで  

区別して  考えなくて  いいのだ 



それは  原則というもの 

例えば、ルーシー・トーマス 

彼女の歌声も、歌も素晴らしい。

18歳というから、こういう人はよく

生まれる。これでシンガーソング

ライターだったら、天才級だろう。

しかし、顔は大人びていて、美人だが、

歌を聴いていて、歌は素晴らしいのに、

顔を見ていても、しあわせな気分に

なれない。そう感じる。不幸はまだ

来ていないようだが、となぜか影を

感じて。

18歳で人生を感じさせるというのは、

芸能人などでは特別ではない。そこに

きっちり運命が彩られるのは、劇的

だからだろう。そうでなければ、

永遠の居場所もない、となる。



僕らは信じるのも、信じないのも、なく、

すべて管理できるのだったら、選択は

見た目であり、もしそうだったら、そも

そも選択とかいう余裕など持たされて

いないだろう。初めからないからだ。

選択の自由というのは、僕らの知的な

架空世界の間での約束事と同じことだ。

それは現実を想像するのに役立つから

あるようなもので、僕らの基準を

変えてしまうと、動物のような

概念基準のない世界に生きることに

なる。でも、動物たちはそれで混乱

しているようには見えない。別な

基準があるからだ。

つまり、僕らの基準は人間としての

基準で、決してこの世で絶対のとか、

正しいとかのものではなく、多くの

あり得るものの、ほんの一部なのだ。

それでこそ、僕らは世界の永遠を

讃えることができる。それでこそ、

それは僕らを終わらせないだろう

からだ。



僕らは 終わらない

その中にいるから

存在という  命のなかに

永遠は  灯でも 

輝きでも  ないかもしれない 

想像を  超えて 

宇宙を  想定するような 

シーズンが あるだろう 

それだけで 

ああ

それだけで 

パラノイア・ガーデン でも 

銀河の花を  添えたくなる 

僕らの 精神は  

爆発して しまうだろう 

原子という  微小な粒子が 

原子爆弾の  威力に 

なり変わるようなもの 

それを  

僕らは  見ない  

そりゃ そうだ 

想像を超える という  

まさに “それ“ を

実体の自分の 体で 

味わってみないと  

何も  言えない  

それは  僕らが  楽に

昨日の自分を  超えてゆく 

ということだろう  

越えても  超えても

遅くて じれったいのが  わかる  

何百年走っても 線路の先が

続くのが 見えている 

そんな 列車に乗っていると 

したら?

そうなりたく はない  

そうかも  

そうだろうね  



だから  夜の星の 明かりで 

珈琲を 飲んだり 

パイプを  吹かすというのは

極上の 

しあわせ なんだ  

それを  演出し 最終結果だが 

いつでも  最終なのだ

そして  終わらない


僕は  つぶやいた  


さらば   僕 

人生は しあわせで 

できていた 

人生 なんて  

考えるだけ  無駄だ 

僕は 

動物に  なったのだろうか 

火星の 動物学者(女性)

のように








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人生は翻訳できない [人生]

ドストエフスキーの小説の一部であると覚えて  

いるが、確かな記憶ではない。探したことが  

1回あったが、見つからなかった。 (「地下  

生活者の手記」か?) 

暗い空、暗い海に風が吹いている。そこに 

人がようやっと一人立てる岩礁があって、私は  

そこに立っている。どこへも行けずにただ立って  

いて、落ちないように耐えているだけ。いつまで  

こうしていられるかわからない。それでもこの 

暗い、寒い海に一人立ち続けなければならない、  

という孤独と絶望の形容だったと思う。ここに  

感心して、この文章の形容だけは記憶に  

しっかり残った。  

人はそういう自分への未来を、それは自分  

でも予想しない未来を希望して歩む道なのだが、  

なぜかそれを予知するかのように、その都度、  

その時に出会うことがある。  

まだ中学か高校生だったろう。もうひとつ、鮮明  

なのはテレビで映画の予告編かなにかで、冬山  

だった。吹雪の中にテントが張ってあって、男が  

中にいて絶望していた。どうも死ぬようだ。覚悟の  

キャンプらしい。男は作家で売れなくて絶望して  

いるのだった。それだけなのだが、僕は感心した。 

何に感心したのか。人生、負けて死ぬ、それも  

ひとつの生き方なんだと納得させられた気がした  

からだ。それは「それでもいいんだ」という生き方  

だった。成功に逆らってもいいんだ、という点に  

感心したらしい。反抗心が共鳴したのだろう。  

なので宮本武蔵もそういうスピリットの人間だ  

とわかった。武蔵の場合は絵だ。武蔵は  

絵を描く。江戸の瓦版が残っていて、江戸の  

絵師の番付が横綱から番付されていて、武蔵  

は3番目だから東か西の大関だっただろう。 

それほど、絵だけでも食っていけるだけの腕が  

あった。しかし、武蔵にとっては趣味以上の  

ものではなかった。その絵の中で有名なのが、  

枯木鳴鵙図(枯れ木に百舌が鳴く図)だが、 

細い枯木の立枝に、ちょんと百舌が止まって 

いるという水墨だろう、そこには背景が何もない。 

それが孤独な心象風景を感じさせ、非常な  

緊迫感を出している。これもドストエフスキーの  

文章と同じだと言っていいだろう。

その時僕は自分の運命を予感していたのだろう。  

そういうものが前もってわかるのは、どうしてかと、 

考えようとしている。まだ19歳になるには早すぎる  

年齢だ。それでもその体験の前のことだった。  

そして、無への落下を施行する直前に、統合失調症  

の女性に少女の頃から好きだったという本を贈った  

のだが、それは「アンネの日記」だった。ナチスから  

逃れて家族でアムステルダムの人の家の隠し部屋  

に隠れて住んでいた。 誰かの密告で逮捕され、 

姉と共に腸チフスで亡くなった。 

隠れ家ではないが、その彼女もクリニックの病棟で 

暮らすことになった。その頃は例え発症していたと  

しても精神分裂症と呼ばれていて、病気がまだ理解  

されていない頃だ。今でも原因は不明のままだが。  

彼女は何から運命をアンネの日記に感じたのだろう。  

僕がその本を彼女に贈ったのには訳がある。  

そこを辞める前にオランダへ行ったのだ。それも 

アムステルダムに。アンネ・フランクの家にも観光  

訪問するはずだったが、2回トライしても人が大勢  

並んでいて、諦めた。ところが、その近くの公園に  

アンネ・フランクの銅像があって、僕は偶然、そこを  

通った。何の気なしにその前に立った時に、悲しみ  

が押し寄せてきた。この前に立った人たちが寄せた  

アンネへの同情の悲しみだったのだろう。僕自身が  

悲しんだわけではないので、自分のものではない  

のはすぐわかる。これを話したことが、彼女に本  

を贈るきっかけになった。もうひとつ、3万人の  

ホロコーストの犠牲者に押しかけられたと思って  

相模川に(広い河原が適当だと)元の場所に帰る  

よう説得したと、前に書いたが、そのきっかけと  

したら、このことだろう。  

僕の中の意識がそういう記憶からホロコーストだと  

選んだのだ。僕らはこうして錯覚して、誤解する。  

なにかがあった。それは否定しない。その重さは  

説明できない、なにかだ。  また、簡単に霊とか  

魂とか、わかってもいない言葉で簡単に肯定して  

いいことではないことも、感じるのだ。安易な考え  

で決めつけて僕らは光の点をUFOに見たり、白い  

洗濯物を夜の幽霊に仕立て上げてきた。面倒  

なのは誰か少女が見たものを、一緒にいた数人   

の少女たちも(見ていないのに)見てしまうことだ。  

あそこに誰かいる、とでも言えば、誰もいなくても  

僕らの脳は一瞬で記憶からそれらしい映像を  

仮に見させるから。そして、そのあいまいさは  

当人にとっては視た、というしっかりした記憶に  

なってしまう。かくして、一人しか見た確信はない  

のに数人が同じものを見たとなってしまう。  

その錯覚の心理劇を除いたら、僕らの誤解も  

少しは減らせるのだろう。  

そのクリニックを辞めることはその彼女がきっかけ  

になった。それで無の闇に全身で落下する決意を  

固めたからだ。3日しか悩まなかった。悩むという  

よりもそれでいいか、と自分に決行を促すという  

3日だった。

決行して、その時も脳は壊れず、死にもしなかった。  

運命は劇的にはっきりしたものになった。変わった  

のかどうかではなく、そのことが一番わかった。  

そして、それからはあいまいな霊的なことはなにも  

起きていない。僕は知性を捨てることを考えていた。  

自己と知との双児関係は、まだ先に気がつくこと  

だった。  


孤独と絶望が舞台だと思っていた時代は、確かに  

去った。それらは当然の自然の対応だった。僕ら  

はそれに慣れない。それに慣れることは真のもの

に触れることの一部だからだ。それで’自分’は 

自己防御のために、そこに死のイメージを与え、  

避けさせる。真のものに触れさせては、’自分’が  

からっぽの存在だと、いずればれてしまう。

それを空虚な精神である、自分自身がよく知って  

いるからだろう、潜在的に。だから、潜在的に  

僕らに気づかれないように操作して、瞑想から  

遠ざけたりする。僕らの自分はそういう意味では  

二重の存在である。それも、こことあそこという  

わかりやすい区分ではない。現空間にこの世と  

あの世(この世の小さな部分)とが同じ空間に  

存在するように、潜在と自意識在は区別できない。  

僕らが死なない(生きたままで死ぬ)と見えない、  

感じない、というそういう様相をしている。瞑想は  

頭をよくする体操やゲームではない。決して真似  

することのできないもの、だから、区別も定義も  

され得ない。飛び込んでみたら、気持ちが  

吹っ切れた、ということはある、それにやや似て  

いる。行動の後の結果でしかないし、予想が  

つかない、ということも。  

自意識はそこに死を植え付けようとする、怖い  

ことはしてはいけない、家(この世)でおとなしく  

していなさい、自分が傷つかないように暴れ  

なさい、と。もう、5,6000年も言われ続けて。  

ゴリラやオランウータンと通じれば、自分が  

人間だとわかる。そこに私の自分も知性も  

どういうようにあるのかも見つけるだろう。  


悲しみは根を張りやすい。そして、人は憧れ  

たいし、尊敬するものや人を求める。相手が  

なんでも、木や石でもそれを崇拝して、それに  

対して祈ってしまう。信仰と宗教ははっきり  

違うのだが、それは個人と団体の違いだと  

いうのも正解に近いだろう。 その、信じる  

ことができずに他のものに依存しようとする  

性向を拒むのは難しい。  

僕は自分を信じるようにさせられるかのよう  

だった。危機的な状況を超えた時に、自分  

だけではできなかったという感情が沸き起こる。  

それで人々のお陰と言う。それはでも、半分だ。 

残りはすべて、自分ではない。では何が?  

それは怪しいものでもない。それはその人  

本人が自分で確かめてくる他はない、と  

言えるものだろう。僕には僕の信じるものが  

ある。

”死ぬときはどんなことをしても、それは避けられ  

ない。そして、生きる時はどんなに絶望的状況  

でも、必ず助かってしまう。” この教訓は、それ 

をある程度翻訳したものだ。山で学んだ。  

そして、僕らはいつが死んでしまう時か、生かされる  

時か、それを知らない。だから、上の言葉は、それ 

がわかる人にしか役に立たない。言葉が人を  

活かすのではなく、誰が言ったか、誰に言わ  

れたか、何が言った(よう)か、何に言われた  

(よう)かが大事だ。僕らはほんとうのことは  

「わからないこと」を通して経験しなければ、  

わかるようにならない。生きることだけでは、  

半端な経験になる。

伊藤博文は女好きだったので明治天皇も  

嘆いたそうだが、彼が初めて洋行した時、  

(当時、飛行機もなく、船旅は命がけだった)

ふんどしと中途な辞書しか持って行かなかった  

という。無論、英語なんか喋れなかった。  

ふつうはお先真っ暗、という。 

  

 皆、自分の人間しかもっていない。それ  

で十分だということを知らなさすぎる。そう  

いうことを知らないように生きざるを得ない  

世の中だということも見えない。そして、潜在  

では感じている。  

言葉にできなくても、それだけは疑えない。  

だから、小説などではそれが書かれているが、  

それは一部の状況・人生・生活というものに  

それぞれの人の頭の中で、ストーリーという  

遊びに翻訳されてしまう。  

自分なら、この状況の時、どうするか。そう  

思い悩むほど考えてみるのも、なにかの練習  

になるかも知れない。 


  
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