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第二の自己の20年ぶり?の反省、日記メモV-の2 [日記]

< 結局、前回の続きを連続で書く

ことになった。それだけ重要だった

からだろう、しかたない。思い出に

ついてはその時雑念だったプライド

からの迷いなどについては省かれて

いる。今なら、その中心で起きた自己

の精神をより客観的に眺められる、

と思えるからだ。 >



振り返ってみると、それを考えて

みれば、恐ろしいことでもある。

それに気がつかなかったのならば、

そういう状態ならば、の話であるが、

ここには不気味にも自由があり、

安心させる雰囲気に包まれている。

書けるということが、僕と無意識の

関係ではなくて、僕は仮の僕で、

その僕の知らない僕から操作され

ている、というのが本当のことだった

ら、僕の自意識とは何なのだろうか?



僕が確認する自意識への感覚が

希薄になったのなら、もっと明確に

意識して気づいていただろうに。

だから、前提として、僕は今の現実の

自分を疑うことができない状態にある。

そこを疑ったら、すべての認識への

信頼が崩れてしまい、まず根底として

必要な信頼を置くところが失われて

しまうのだから、どこからどうみても

僕は今という瞬間からスポイルされて

しまうだろう。

それは起こるはずだが、起こってい

ないから、確実なこの自意識を思う。

僕の自意識は確実なのに、それへの

信頼は希薄で、ある程度損なわれて

いる。それが否定はできない。ある

のに、あるのだろうか?と疑うのは

矛盾しているが、それくらいはなん

でもない。矛盾よりも僕が架けるべき、

自己への信頼がどうにも不安定に

なってしまったことだ。



● 思い出すのはあの日のことだ。

その日、昼間だったが、突然、世界は

不確かなものになった。その時はすべて

の羅針盤を失ったと思った。どんな規範

もない、ということで、この世のすべての

ルールたるものが信頼ならないと、感じた

ことだ。思えば、これは無の体験の或る

意味、焼き直しではないか。そして漸進

ではないか。別の形でこの世が壊れた

のだ。

すべてがあてにならないし、ならないから、

それが強いショックでその時の自分を

俯瞰も何もできなかった。それは不安

だけの空間の上に立っていたのだが、

頭の描いた例えは、羅針盤のない大洋

の上だった。方向を定めることができない

という航海の例えだったのだろう。

詳しく言えば、半仮説にもなってしまうが、

今まで生きてきた生活の上での常識が

すべて剥がれてしまって、裸の世界の中

にいた、ということだ。そう思いだしても、

肝心の因果と出会った日との前後が

ますます不明になる。記憶が不鮮明に

なって、因果が先だったような気がして

いるだけなのだ。それから何年か?して

この世の概念が剝がれてしまった経験

に、となったようなのだ。

因果は見えないが、イメージはある。

どう説明するかは決まらないが、同じ

イメージになる。今回は5万本の木の

枝で説明すると、5万本は数えられる

はずはないので、八百万(やおよろず)

と同じ意味で、「あまりに多くの」という

形容だ。― 5万本の枝が絡み合って

大木のように見える、枝の流動体だ。

枝は自分でも伸びて、分かれるし、

他の枝にも、からみ、からまれて、

ますます複雑に増減しながら、どんな

規則もなく流動して、増殖、減殖して

ゆく。因果の法則というのは、人間

から見える知に沿った形での、その

ほんの一部の姿を写し取ったものだ。

全体では法則など導けるような単純な

変異や交雑ではない。それは人間が

自分の寿命を60年から100年の間

に意識するようになににしても狭い

範囲でみるので、因がからんだ本数

が見えて、そこからからんでもたいした

複雑さではないうちに、それが(結)果

となるように見えるからだ。

年数も絡みもその規模が小さいし、細い

から近似の条件で実例や実験結果を

見るので、そこからすぐには変異しない

仮初の法則を導き出すことができる。

ニュートンは数学はユークリッドで天文

の星の位置と物理の在り方を組み

合わせて、万有引力の法則の仮説を

導き出した。

それぞれ百年の歴史から記録され、

考えられたもので、材料がそろった

ので、彼はそこに達した。そして、

500年、その法則は宇宙をも説明

するだろう、と思われたが、そのあとの

科学の歴史で見るように、万有引力の

法則では説明できない宇宙的事実が

次々に発見されてしまった。

地球はまだその存在を太陽系において

根底条件をあまり変化させていないので、

まだニュートンの法則は限定的に使える。

宇宙には宇宙の見えない関所があるの

だろう。



さて、僕の不安だが、収まらなかった。が、

無理やり引っ張り出した知恵は、やはり、

過去の記憶からだった。これから離れて

僕らは知恵を出せない。

ドストエフスキーの「罪と罰」で判事が

殺人犯の主人公ラスコーリニコフに

言ったセリフが「学生さん、ねぇ、

あなただいじょうぶですよ。すべては

生活です。生活が導いてくれます。」

(記憶なので不正確)また、(因みに、

ドストエフスキーの大丈夫は、全然

だいじょうぶではなく、陰にこもって

暗い感じが否めない)と、その「生活

が導いてくれます」だった。

不安におびえる自分をどうにかなだめ

ようとする自分が、はっきりとその時、

意識できていた。その時にすでに意識

は二重な自分を投影していたが、自覚

はなかった。

僕は明日を待て、と自分に言った。明日

なら、多少はいい考えが浮かぶかもしれ

ない。だから、きょう結論を出さなくていい

んだ、と。生活が(それがなにかわから

なかったが)導く、と。それで高鳴る胸を

落ち着かせようとした。僕は胸が勝手に

高鳴るほど、その事態に適応できず、

ドキドキさせていたのだ。過呼吸には

ならなかった。

そして、翌日。確かに昨日の極度の

不安が、多少は減って、多少はよく

なった。それは自分を取り戻す、無意識

な精神作業だった。

ともかく、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と

自分に言い聞かせ続けた昨日を思った。

感動的なことに、昨日はどうしようも

なかった体に、自分が育っていた。

だから、そこから始めることができた。

これは自己を失った経験からしか話せ

ないことなのだろう、僕の考えたのは

これからの人生(生活)にこのまっさらな

世界に自分の手跡、足跡が着実に

つけられるだろう。ということだった。

今や、この世は手つかずの自然と

同じ状態になったのだった。敢えて、

すべての名前さえ僕が新たに名付けて

入れ替えることができる、その必要が

あるのでは、とさえ思えた。今までと

同じこの世があって、そのまま見えて

いるし、そう認識しているのに、なにも

かも違うのだ。それらは名前がつけ

られる以前の状態で、僕には感じられて

いるのだった。この時に、必然で僕は

新しく生まれた、と感じ、そう認めること

ができた。この新生現象があったから

こそ、僕は第二の自己という言葉が

現実に思えた。自然に、そう思えた。

しかし、この世を新しくそのネームを

付け替える時間はなかった、それは

すぐにわかるので、ただこの世のもの

に新しく名前を付け替えるのは、僕に

とってなんら社会に対して反発すると

いったことではなかった。動植物・星

や彗星など新種のものに新しく学名

をつけるといった作業と同等に思える

からだった。

つまり、世界は一旦は、僕のものに

なったという感覚が芽生えていた。

それが人生は自分で歩むもの、という

確実な自覚が生まれる元だった。

自分と共有するものは、やがて皆と

共有するものという、自然な道を辿った

のだと思う。それは自分のもの、専有

という感覚ではなく、僕の範囲で区切

られる人生という、レッテルだった。

そこでは、人の家の庭にでも足を踏み

入れれば不法侵入で、街で見えるもの、

あらゆるものすべてが誰かのもので、

そういう法律に管理されたこの世は、

ふつうにつまらない世界だった。そう

感じるよりない、理不尽な世界に感じ

られた。ここに、そのものが在るだけ

なのに!(この感覚は社会の自己

所有権が抜け落ちている感覚を示し

ているだろう。それは動物や古代人

の感覚に類している。)


だから僕が得たものは、この世界を

変えられる、そういう新しい世界の

予感にもなるものだった。この世という

この現実を陶冶(生まれついたものを

鍛えてよりよく育てる)するものだった。

その可能性は因果の流動する絵に

現れていたし、自分がどんな世界に

いるのかを新しく感じることで引き出さ

れるものだった。 ●


第二の自己にはこのような意味が生ま

れていたのだ。自分が真に新しくなれば、

僕らは過去の自分の意味さえ、新しく

捉えなおすことができる。それはまた、

新しく生きることと、同義ではないのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・



あとは(定番だが、) 言葉にならない。

僕は思う。明らかに、この世は僕らの

認識下にあって、それぞれの認識の

この世が実態だと、僕らは思っているが、

それが自分という世界観のすべてで

心はそれを映す鏡であろう。

自分や知はそれを意識と共に写す

ための装置であるだけであって、心は

無くなることもできる。その外側を

僕らの認識では捉えられないが、それ

はある。それを認識する必要がない

からそれへの感覚がマヒしたか、

育たなかったか、僕らは知の認識で

よし(無視する)としてきた。

僕らは現在、僕らが発明したもので、

その発明したものが計算する答えや

その応用が五感で捉えられなくなって

きて、僕らが造ったものありながら、

それを検算したり、その発明の提供する

思考過程が検証できないという、野放し

がやむなしという不安な世界に陥ろうと

している。

資本主義とか、発展とか、経済効果とか

進歩的な信条を、一旦置いておいて、

現状維持のまま2,3年とか人間を見直し、

人間の全体像を固めて、そこから人間

に沿う形の社会をまた時をかけて描き、

整備してゆくのが、僕ら人類の転換の

ための最初にすることではないのか、

と考える。それが皆で考える第一の

テーマではないか、と思うのだが。



そういう青写真はあるのだが、それを

軌道に乗せるためには、と考えては

いけないことを、つい考えてしまうのだ。

あらゆる障害と困難がスズメ蜂の大群

のように襲って来るぞ、と。

僕らがこれまでの歴史で少しずつ達成

してきたように思っている習慣が元に

なった体制・伝統・規制やらが僕らの

生活の行動指針になっていて、僕らは

あまり自覚していない。が、それを知って

いると思っている。国会議員が海外の

戦地視察に行って、実弾の音を聞いて、

天地がひっくり返ったかのように興奮

して帰ってくる、という頭(答弁・意見)

だけの認識を克服しないと、僕らは

議論も議論にならない。

僕らには何が必要なのかという問題は

今や、<「何が必要なのかという問題」とは

なにを言っているのか>、という事態に

なっているのかもしれない。

例えば、あなたの議論にはついてゆけ

ない。でも、その意見は受け入れられ

ない気がする。言葉では勝てない気が

するけれど、それはそうじゃない、と思う。

ということが言える確信を、あなたが

どういうことでどう思っているかが重要

で、問題は常に議論に勝つことではない。

こうなると次に理想という問題が浮上して、

そこをうまく修正して置き換えないと、

実際の行動にどう結び付けるかのテーマ

に入っていけない。

どちらにしても、あなたの中で考える

秩序が取り換えの効く社会秩序である

限り、また自分がその自己崩壊する危険

を恐れている限り、この問題の真の接点

には触れることはできないのではないか、

という気がする。




::
僕はこういうように生意気なことを

今までに書いてきたのだな、と感慨

するようになった。そういうもう一人

の自分とのトラウマが見えるように

なってきたのかもしれない。自我の

強い者向けの論理なのだ。

なので、僕らの知らない世界はもちろん

のこと、僕らのお互いという関係世界

も、あまりにも測り知れない。あまりにも、

・・言い足りない、 ・・あまりにも。 

あまりに、・・


見えても、ちびらないで。(笑)

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日記メモ V? 半仮説 [仮説]

ブログに載せながら、ブログ記事とは

自身思っていないのは、自身の最先端

の発見や発想、精神的進度のことである。

言ってみれば、興奮して自分では面白い

が、読者からは他人事で何が面白いか

わからない。

自分が忘れてしまわないように書くもので、

メモを残すのが目的なので、殊更面白く

ない。ので、次の機会の記事から読んだ

ほうがいいかも。

::

<第二の自己についての勘違いに

ついての、自己防御の内奥のシステム

についての半仮説(仮説であるが、経験

を含むもの)>

自己喪失の状態の時には、なにもかもが

宙に浮いた状態に感じたのだが、それが

規制の概念が崩壊し去ったことだとは、

まだショックで認識できなかった。

その内容は以前に書いた。

この数日後から固まってくる第二の自己

はそれとして疑問はないが、それが第一

の自己が消えたがためにやがて現れた

ものだったのか。第一の自己が消えたの

ではなく、知性の収納庫のような部位が

あって、そこに収納された可能性はない

のか?

それは初めの無の体験の時に空いた

穴のようなものではなかったのか?

その第一の自己がまだ生息している

のなら、第二の自己はそれなりに自然

の理で現れたものだろうけれど、仮の

自己という位置ではなかったか?

第一の自己は隠された無意識側から

これをコントロールして、結びつけたと

すれば、僕の瞑想に拠る自己の丸投げ

で無意識に従うという、その従属を受け

入れたことが、納得しやすい。

真正の自己という概念は受け入れられ

ないが、僕が第一から第二の現実を

コントロールしようという意図は、自身で

合点がいく。

ただ自意識では捉えられないからと

いって、また自己喪失の経験をふまえた

からといって、この自意識にはそれを

感じるなにものもない。無空な状況ならば、

意識の半面ですべてが夢の出来事に

感じられることが、その証左と言えなく

もない。飽くまでも状況のことだ。

このことは僕がどうして無の体験の時

に精神が崩壊という事態を招かなかった

かの説明を一つ加えることになる。

無意識下の事件だったので、虚しさの

嵐に恐怖を感じる意識の受け皿が

無かったことにつけ加わることになる

が、その二つが同時に起こったとしても、

それはイメージでその関係をあいまいに

捉えることができるだけで、第一の自己

の存在証明がない。僕自身が内奥に、

または内奥のためか、感じることができ

ないのだから、これはまたこの先の

課題ということになる。
::

読んだ方は、お退屈さま。


ホーマー1-1.jpg

ホーマー : 19世紀のアメリカの画家

 北東の風
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もっとハードボイルド風に [ハードボイルド]

なにかを自分に試してみようとする。それ

は何か?と自分で自分に聞いている。

啓蒙ではなく、啓発というやつ。

その弾を自分にぶち込んでみようという

んだろう。もう何もかも終わった気分だ。

今更、なにか余計に考えようなどと思わ

ない。これはこれですっきりする。

そうだ。隠せはしない。僕はもう冒険

なんか望んでいない。きっと、そうだ。

虚しさとの緊張とのバランスで、冒険の

死の危険の緊張下に自分を置きたかった

だけなのだ。他に、現実で釣り合いの

取れる行動が思いつかなかった。

ナンガ・パルバートに登ることだって、

どこまで本気だったか、わかりゃしない。

15年も坐り仕事で、運動をしなくて、

すっかり足腰が弱ったのも、あれだけ

悔しくて嗚咽して、泣いたが、それでも

そのほうがよかったのではなかったか。

こうなってしまうと、ベイビー、どっちが

よかったかなんて、わからなくなっちまう

もんなんだぜ。

東京が恋しい、とかバケイションから帰り

の夜の電車で、車窓から街の明かりが

増え、戻ってきてそうセンチっぽくなった。

啓発は啓蟄じゃないだろう。辞書では、

冬ごもりの虫が土の中から這い出る

季節、とある。電車の中の自分はそう

だったかもしれない。

自然の海・山をバケイションしても、

やはり、東京の街の明かりが恋しく

なるのは、商店街に生まれた刷り

込みのような子供という生物事情の

ことになるのだろう。

僕が虫だったら、人生は考えなかった

だろう。セミは7年か?土の中で育ち、

啓蟄をしてから、木に止まって2週間も

鳴き続けて、ポックリ木から落ちて

しまうそうだ。ここは算数で面白い。

というのは、7(年)という数字は素数だ

から。

それは天敵に食われてしまう。土から

出たら、ガブリ、とやられるのはたまら

ない。そりゃそうだ、いくら人生を考える

脳はないと言っても、絶滅はヤバいくらい

は心得ているものだ。

天敵は何だか知らないが、普通は大抵、

発生の周期というものがある。2年3年とか

の周期があって、奴らは時々大発生する。

7年というのは、それにぶち当たらない

ための、彼らの発生の周期にいかに

会わないでいられるか、という確率が

低いという問題なのだ。頭じゃないだろう。

何度かひどい目に会ったために、周期が

伸びて、それが素数になるのは、人間の

考えたことであって、自然はそうなる

だろうってことだ。計算なんかしない。

彼らの必死がそういう結果を生むのだ。

僕が人を殺さないのも、必死の選択が

あるからじゃない?殺しは割に合わない、

という冷たい因果があるからじゃない、

と思うわけだ。いやさ、生き続けるなら、

社会ルールの守備を考えるが、それだけ

では攻撃にならない。殺したくはないが、

時にはゴキブリも殺したりする。(笑)



ハードボイルドってのは、いつの時代の

ことを言ったのだろう。一つの型があって

それが流行りのダンスの腕の角度が格好

良く見えたように、真似したい型であって、

個性だと思っている。それはもうすでに

世間と何かを共有していることだろう。

オリジナルはそれを最初にやった奴で、

真似した有象無象(うぞうむぞう)じゃない

だろう。受けたから、自分も受けたい。

それはもう、ひとりじゃない、皆と個性を

共有して楽しんで満足していること、

だろう。なんで僕らは寂しさを寄せつけ

ないようにと勘違いして、はしゃぎたい

のだろう?

そうして僕らはすべての個性やイレギュラー

や天然・自然(じねん)を平らにして、

一般化して、無個性にしてしまおうと

する、知らずに。

これは社会化であって、個性化では

もちろんないがこの人間運動はむしろ

自然な社会化の本質であるような

気がする。

自我の弱さから群れるのが一番の

盾であり、武器であるのは、数万匹の

魚が外敵から身を守るために群れて

行動するのにも現れている。社会化

とはこのことを指してるんじゃね?

と決めてみたくなる。

これが流れとして、強いとされる人間に

群れて、それがいじめのリーダーであっても

逆らわないようにするのが、群れることの

第一命題ではないか、と。今の先生も

校長も弱い。自分の保身は恐怖からの

逃げを象徴している。社会で頭角を現す

には、プライドは強いが、内面の一定の

弱さを必要とするんじゃね。自我もやはり、

自分と同じで複層の現れ方をする。自我

が強すぎる人間は周囲に合わせられずに、

孤立化も平気という意地の生活を歩もう

とする。

バカなのだが、そのバカなのが個性なのだ。

ちょっと頭を下げれば済むのに、とか、

気にしないでスルーすれば、時間に任せ

ればいいのに、と僕らが思うことができ

ないのだ。だんだん人を信じず、お金とか

なにか発散・依存するものに託して、本人

はどんどん歳とともに意地っ張りに、剛情

に、頑固になってゆく。そこまで視野が狭く

なるということなので、驚くことに本人は

覚悟しているだろうと思いきや、まったく

自覚していない。自分が負けん気が強い

とか意地っ張りではなく、人に情を寄せる

優しい人間である、と思っていることだ。

そして、大抵の場合、それは正しい。

そういう面も、一面というようには持ち

あわせているのが、人間の性格・性質の

不思議さというもんだ。

言葉で彼はこうだと言って、それで片付い

てしまうような人間はこの世にはいない、

というのは僕の経験論だ。厄介なのは、

他人のほうが「その人の自分」を理解

していることが、その本人がこれが自分

だと思うより、はるかに多いことだ。

これに似たことは日常でよく起こっている。

例えば、鏡。僕らは鏡を見て、自分の顔

を良く知っていると思っているが、ちゃう。

人があなたの顔を見るようには見えて

いない。あなたの右半分の顔は、あなた

が自分の左半分だと思っている顔だ。

初めて大写しの写真の正面顔を見れば、

自分の顔に違和感を感じる。

あなたの声は頭骸骨に響きながら、

あなたは自分の声を聴いている。だから、

初めて録音された時の自分のやや甲高い

声を聞いて、自分の声だとは思えなかった

はずだ。

僕らは自分を知っている、と勘違いして

いる。その表面でさえ、そういう誤謬が

あるのだから、真正の内面とか、自分

とかは想像もつかない。

僕らは僕らの真正の姿にうまく嘘を

ついて、どこか理想的に考える癖がある。

だから、自信というのは最も崩れやすい

プライドの盾だ。僕らが心乱れる時、

群れたがり、逃げたがり、自分を安心

させようとして、酔いたいと思う。

酒を飲む、それもいいだろう。人助け

をする、それもいいだろう。趣味のこと

に集中する。仕事に集中する。映画を

観る。ほんとはそうしたいというよりも、

忘れて安心したい。もうその時点でなに

から逃げたり、離れたり、というその対象

を見ていない。たとえ、眼の前にあっても

眼を反らしているかのように、見ていない。

実際に心の視界には入っていないのだ。

そういうあいまいさの由来はなんだろう?

そんなものは、あるのか? ある。


蟻の社会と人間の社会は似ていない。

女王蟻は一生子供を生み続けるが、

自分のその状態を奴隷のようだとは

思わない。蟻の社会はそれぞれが

それぞれの役目を果たすようにできて

いて、誰かが命令して社会を築いて

いるのではない。都会で蟻の巣の

引っ越しは、道路向こうである時には

悲惨だ。車に轢かれても、轢かれても、

その死骸を残しながら、いくつもの

グループがその車道を横断移動する。

いつ新しい女王蟻を渡すのだろう?

たぶん、旧女王蟻が寿命になったので

引っ越しをするのだ。危険を冒して。

誰も決めていないだろうに。どうやって

それを全員が知って、同意してという

営みが行われているんだろう?

人間の社会もそこは似ているかも

しれない。僕らは思ったよりも、自分を

知らない。そして蟻のように誰も決めて

いないのに、越えねばならない時代や

自然の大波がやってくると、突然の

進化をする。遺伝子やDNAの使われて

いないように見える配列から、新しい

組みあわせを輩出するか(?)して、適応

種となる人間をつくる。使われていない

脳の部位とか、DNAを調べても無駄かも

しれない。それは準備のための予備

として、種の進化のために備えられて

いるから、という考え方を僕はする。



僕ら人間が思春期に恋をすることから、

女の子は体が女になる頃には、父親の

匂いを嫌がるようになる。それは似た

遺伝子との性結合を嫌い、多種多様な

遺伝子の形態になるように、なるべく

違う型との結合を選ぶためだ。だから、

それは種族依存の本能に拠っている。

あなたの恋の相手はある程度、範囲が

決まっているのだ。それには逆らえない。

虎とライオンが交尾しないようなものだ。



自我の強い者のほうが孤独に強く、

弱ければ群れに頼ろうとするのは、

そういう体の内部事情があるのだろう。

どの時代の転換点を見ても、その時の

天才たちの発見・発明によってその後

の世は動かされ、変移してゆく。

そういう突然変異を生むのも、数多くの

精神異常者(一部が天才)の発生という

ことにヒントがありそうだ。

僕らが個性を失えば、恐らく時代や自然

の変異に適応できなくなるのだろう。その

ために多くのDNAだか、遺伝子だかの

新しい配列が必要になるのかもしれ

ない。

今の世がこの先も続けばいいとは、

保守的な考えだが、それは大自然界

では認められていないだろう。

だから、頑固者も、意地悪な人間も、

欲深な性格も多くなっては困るが、

いなくなってはもっとまずいことなのだ。

僕らはどんな存在であっても、生きること

を許される存在なのだ。僕らの微細な

細胞でさえ、どんな考えを持っているやも

しれない。それがいつ役に立つかなどは、

いつの時代も予想したことはないし、

できなかった。

僕らの社会秩序はそのままでは腐って

しまう、ゆるやかな人工野菜だ。大きな

変換点では、相応の年齢者には受け

入れがたいことが起きる。

僕らはそれを長い歴史の上で、予測

することも、うまく受け止めることも

できていたろうか。

それがすべてではないにしろ、ほぼ

それに流されるのが、僕らの事情で

あるのなら、あんまりそれに深入り

しなくていい。僕らは僕らで個人的な

自分なりの人生を修正して楽しめば

いいことだ。そこが保守的な人々の

自由の場というものだ。

酒に強ければ、もっとハードボイルドに

ウィスキーの琥珀色に酔ってもいい

だろう。

健全というのなら、ちょっとの不健全

が夢か現実にないと、それは人生を

支えきれないだろう。それらには

自然の理のバリエイションがあって、

ほんとうに確立したり、確実なもの

(例えば、真理とか真実とか)はない、

というのが偽りのない僕の気持ち

かもしれない。

そこそこの真理や真実でとどめて

おきなさい、と、あ、誰も言っていない。

(たぶん)

誰か言っていたということにしようかと

思ってもみるが、もう書いてしまった。

引き返せない。

まぁ、いいか。人生出たとこ勝負だ。

福島の原子炉が爆発しそうな、あの時

冷やそうとしている水を止めはしなかった。

総理大臣が止めろ、と怒鳴ったが、吉田

さんはわかっていた、水を止めたら、もっと

大惨事(ひどいメルトダウン)になると。

それで、あれだけで済んだのだが、誰も

総理や東電に現実に逆らった吉田さん

に感謝はしなかった。この名誉も命も

超えた行為、これがほんとうのハード

ボイルドかもしれんな。


歴史の評価は社会の評価である限り、

持ちつ持たれつに与したものたちの

秩序であるので、必ずしも頑固な個人

への正当な評価ではない。だから、

あなたが嫌われていても、それは

正当ではない理由からであるかも

しれない。



どういう朝を迎えたいか、

どういう夜を過ごしたいか、

そういう生活のなだらかさに密着したい。

そこで、おやすみを言おう。



:― あなたの夜は誰も奪えない。




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誤謬と誤解の思い違い メモ [思い違い]

誤謬は 間違いのこと。

誤解は 間違えた理解や解釈、または

思い違いすること。

この二つを並べて、厄介だと思うのは、

思い違いをするほうだ。なぜなら、そこ

には本人が正解だと思う心理が居座って

いるから。

誤解を解くのに、正解をもってすれば

いいだろう、と考えやすいが、本人が

これが正解だと思っているから、それ

を間違いだということになる。正しさ

というのは、人間の数だけあると

思えるぐらい多いから、ほとんど

間違いは指摘できない。だから、

本人が知らない基準を、まず教えて、

それに合っていないことを、本人が

認める方向でないと、正解という

答えだけを挙げて、それは違うと

言っても、本人はまず納得しない。

これは相手が何を見えて、なにが

見えていないか、という点と、そういう

視野がどれだけ開けているか、という

点をふまえておいて、次にそれらが

融通の利く考え方で、一度本人が

熟考した経験があるかによって、

ずいぶん、説得の仕方や教え方や

議論の進め方が変わってくる。

だから、これを井戸端会議の方式で

話題がどんどん飛んで行ってしまう

おしゃべりでやろうとするのは、不適応

も甚だしい。

北一輝と大川周明は革命家と思想家だが、

ふたりが出会って、語り明かしたのも、

一晩かかったそうだ。楽しく談義した時間

も含まれるのだろうが、頭脳優秀だからと

言って、会って話せばすぐ理解して、という

わけにはいかないのが、僕らの理屈事情

らしい。 



今日は、寝ていた。暑くて汗をかくのと、

病で汗をかくのでは、事情も違うし、

かく汗の気持ちよさ・悪さもちがう。

熱は37℃以下の微熱だったが、夕方

まで寝て、パジャマが湿るくらいには

汗をかいた。ひどい下痢には昨日なった

が、疲労が濃いとは思っていなかった。

着替えて、落ち着いて、また熱を測って

みると、36℃3分に落ち着いていた。

ただの風邪ですみそうだ。三日連続で

長い文やメールを書くと、やはり体力

が消耗するのだろう。



考え方の授業というものがないのを、

僕らは不思議に思ったことはない。

考え方がすぐにいろんなパターンと

いう知識の吸収でしかないのなら、

恐らくそういうことに思いが及ば

なかったのだろう。考えればいい

ことさ、ぐらいで済ませたのだろう。

実際、考え方を教えるとなると、

まず問題になるのは、どこから考える

のか、なにから考えるのか、どういう

風に考えるのか、ということについて、

それらを直接教えることはできない

ことだ。できはするが、適当ではない。

例えば、丸いケーキを切り分けるのに、

7等分はどうするかについて、算数で

360℃を7で割って、とやってもいいが、

実際にはそんな半端な数字の角度を

どうやってケーキの上で実現するか

は、難しい。

そういうベタなことはしないように

するのが、考え方を教える、という

ことだと思う。

そのケーキにしても、僕なら従来通り、

半分にして、それをまたそれぞれ

半分にして、と切りやすい8等分に

する。それを7人で分ければいい

ことであって、残りはそれなりに

食べるなら、小さい子にとか、

じゃんけんでとか。それでも喧嘩に

なるなら、ケーキのそのひと切れ

は捨ててしまって構わないのでは

ないか。そのほうが諦めがつく。

または、捨てると見せかけて、

それなら喧嘩しているふたりに、

それとも半分ずつにして、食べる?

と聞いてもいい。それでも嫌だと

いうのなら、そのケーキがなく

なってしまうという現実を経験

させるのがいいことなのだ。それが

なくなっても皆にとって大事なこと

は起こらない。子供には迷わせ、

考えさせ、自分の気持ちをコント

ロールするほうへ向けてやった方

がいい。子供のために。

そういう訓練を積んでいくと、

さまざまなケースにおいて、なに

が重要か、どう簡単に物事を運ぶ

のか、またはここは時間をかける

場面ですぐに結論を出さない方が

いい、というように応用して自分

で考える習慣がつく。

そういう風に、そこのベタなこと

を、そのまま答えを出すのでは

ない、正しいか否か、ではない、

僕らの生活や社会のバリエイション、

それぞれの物事と人の事情をふまえ

て、それに応じた考え方をさせる

ようにした方がいい、と思う。

今の処、それは常識なのだが、それ

について誰もが身についていると

いったようには見られない、些細な

トラブルをあちこちに散見、多見

するようなのは、僕の思い過ごし

だろうか。

デカルトはどうして人にはそれぞれ、

理性が備わっていると(方法序説の

最初に)言ったのだろうか。精神の

法則についても書いているが、それ

を原本や参考にして、考え方の

教科書が作られたという話は聞いて

いないから、なかなかそういう本を

書くのは困難が多いのかもしれない。


もう肩がだるくなっている。風邪薬のせい

だろう。それでもまだ書こうかと考えるから

こういうのを何欲というのだろう?

内側から出ようとするものを表現しようと

する意欲、これはお金を欲しがる喉から

手が出る、そういう蛇のような欲求と何ら

変わることがないようだ。僕はケーキの

残りを争うことはないだろうが、あと1冊

だけくらいの分量を書ける権利が、一つ

だけ残されていたなら、それを欲しがって

争うタイプだろう。現実を生きる以上、僕ら

が何らかの欲の奴隷になるのは、自然な

ことらしい、という気がするが、 ・・・ 。



ブッダは欲を捨てろ、とは言っていない。

ここも誤解されているかもしれない。欲を

少なくして、欲にかられたり、また飢えさせ

たりしてもいけない、ことを伝えている。

欲を活性化させ過ぎてはいけない、という

ことだろうが、それは主に感情のコントロール

のことを指している。感情の抑制は心に

いろいろなその条件を用意する必要が

ありそうだ。なんか感情の抑制と開放を

巡ると、堂々巡りに陥りそうだ。

風邪で、書けば書くほど、仏門説教じみた

文章から離れられないようでも。

元気を取り戻すのが先だ。

お元気で、という挨拶の言葉があるが、

全身かったるい時に言われても、なにが

元気だ、気やすく言うな、と反発する気持

が、ちょっと起こるのは僕が変だから、

今、体が普通じゃないからだろうか?(笑っ

てもいい?) (笑)
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あなたの主人は自分ではない1と2 [主人]

1 ::

悲しい幕開けは 僕らが密かに

望んでいること。そうは思わずに

望んでいるから、気づいていないと

言っても伝わらない。それでは

僕が反感をもたれて、浮いてしまう

から、言葉にはしない習性がついて

しまった。僕らの人生はほぼ日常の

生活が支配している。

高い雲は「雲は天才である」と啄木

だったろうか?詩人にも歌われるが

低い雲は雨を降らせて、時に心を

和ませるが、長くは続いてくれるな、

とてるてる坊主に頼むのだ。

悲しい幕開けは必ず、愛の予兆だと

誰も言わなかった。今、僕が書いた

だけかもしれない。

そうしてみると、自信がなくなり、意味

もない言葉に思えてくる。

どうしてこんな言い方になるのか、因は

昨晩にあるだろう。布団に座っていて、

背を丸め、顔を両腕の中にうつ伏せる

ようにしていた。

そして、今日一日のことを考えずに、

ただ感覚しようとして、情を移していた。

そして、気がついた。そこに孤独が

あった。その瞬間、孤独に出会えた

嬉しさに、孤独はあっという間に消え

てしまった。孤独への情緒を楽しみ

たいという気持ちが取り残されて、

それが嬉しさとからんでいた。

ともかく、孤独だったのだ、今日は、

と祝福した。物事はわかってしまうと

解決してしまう。それは答えではない

からだ。

例えば寂しさは答えを必要とする

だろうか?~だから、寂しいんだよ、と

教えられて、寂しさは満足して、消えて

くれるだろうか?

寂しさはそれだけで、それだから答え

を必要としない。それが嫌なら、外へ

出かけるかもしれない、趣味のことを

始めるかもしれない。

寂しさや孤独が遠いことになると、

時にはそれを引き寄せたくなる。それは

しあわせと並べてバランスよく味わう

のが大抵のことで、条件くらいには

思っているのかもしれない。

好きな音楽を聴いたり、美しさを感じる

絵を眺めたりする。それはひとりを

大事にしたいからだろう。ひとりが

一番の条件かも。生活全体を掴むには

こちらも自分全体になって、気を散らさ

ないようにしているのだろう。

悲しみの悲劇を期待しているのではない。

高い雲も、低い雲も同じ雲だ。

悲しみを拒絶していれば、それは悲しみ

が拡大するのを許す。精神から心全体

へと広がってしまう。むしろ、自分の

考えから悲しみを解放してやって、ただ

感覚の海におぼれてみる。それは微妙な

出来事で情がからんでいるのに気づく

必要がある。情のさじ加減を少しにして?

感覚を開放する。それはあるがままを

見ること。悲しみがその中で、その方向を

つかまえるまで、いじってはいけない。

悲しみにまかせて、彼女が迷うだけ迷わせ

ておく。情に気を付けて。そこで救って

やろうなどと殊勝な考えを起こしてはいけ

ない。キリストも神もご先祖様も守護霊も

思い起こした瞬間に、忘れること。悲しみ

には自分(神も守護霊も自分のうち)から

離れれば、自然に行き着く場所がある。

それはほんとうにひとりの場所。僕らの生活

を支えながら、心の表にはめったに顔を

現さない、そういうものがある。が、それを

知る人は少ない。少ないはずだ、それが

はっきりするのは、多く、自殺しようとして

偶然、助かってしまった人たち。

西郷隆盛が月照(政治犯で死罪となった男)

と心中しようとして、ひとり息を吹き返し、

助かってしまった。空海にもなにやらそれ

らしい少年時代があったとか、ないとか。

上山春平(?)という学者になった修行者

は若い時、縄で首をくくったが、切れて

しまった。二度同じ場所で死のうとしたが、

また切れてしまった。その感動、何か

わからない力を感じてしまう、人間は

そういう時。

死を感覚で、体で、考えや情ではなく

理解する時、僕らの心は全体で直覚して、

内奥で直観している。自意識の自覚では

ないから、あいまいな自覚に思える、

自分では。

(不思議なのは、自分でこんな風に書くとは、

思ってもみないし、どうしてこれが書けたの

だろう?と感じていること。 ::点描 )

でも、続けよう。

生活から生だけを取り出して、死が残るのは

頭の概念だけで、生死は同時で同体の事象

だ。紙の裏表のように、それをうすく剥がして

2枚にして、こちらが表で、こちらが裏とは

できない。2枚になったのなら、どちらにも

裏と表がある。これは物象での話だが、

生死も事象ながら、これに似ている。

生と死を切り離して考えるのが、比較

しなければ、なにも「分かち得ない=

わからない」とするのが知の信条であり、

規約であり、性質だ。

僕らは生きる側にいるのではない、生き

て死につつある恒常な状態にある。それ

はお互いに支えつつ、お互いに離れよう

ともしている、さまざまな層や関係が

からみあった、僕らの生活の瞬間瞬間

の総括でもある。

今を生きる、という言葉はそこから生まれた

のだろう、と。

(思わぬことを書いているので、これが

どこまで行って、どうなるのか、気がつけば

なにも思えない、心もとない自分だ。

::点描2 ) 



自由の足元を見よう。これがなにかの

テーマだと思うから、そこに絡めとられる。

それが不自由の始まりだ。今書いたこと

をうまく忘れなければ、思い出すことなく

ただ感じるようにすること。

大丈夫、なにが大丈夫か、ではなく、

そこも、かしこも、全部大丈夫。

でないと、大丈夫じゃないよ。このすべて、

それは生活の、生きることも死につつ

あることも、ああ、・・それは大丈夫だよ。

それは確かななにかを言っていること

にはならないだろうけれど、何の保証

もないし、腑に落ちないだろうけれど、

でも、大丈夫。 ・・ 大丈夫。

その次の瞬間は、概念的な事柄で、

僕らの未知のみらいのこと。考えて

どうにかなる未来はない。

だから、根拠も、理屈も、理由もない

けれど、僕らは大丈夫。

わかる?それがすべてである、そう

いう心をつくること、それが大元、

そこから始まること。僕らが生活の

生きる流儀の第一条件は、未来では

なく、今の今が大丈夫だと思うこと。

それが心づもりや予定ではなくて、

花咲く庭の歩き方であったり、街の

流行を自分が選ばれるのではなくて、

どれが似合うのかよくわかって、選んで

いるのなら、仕事のどのポイントが世間

や世界のどこにつながって、どういう

トラブルにつながる可能性があるのを

知って、そうなったら倒産でもかまわない、

とその保険もしているような覚悟にあるの

なら、それらはもうすでに、大丈夫。

うまくいかないのは不適応な因子がある

からで、なにがどうなろうとも、僕らは

生活を健全に立て直す’瞬間と毎日’を

過ごさなくてはならない。

だから、大元に重要な手抜きがなければ、

ぬかるみにも、田んぼに入って田植えを

するつもりでいい、カエルに似た形の

雲が空から見ている。意味などなくていい。

すべての物象・事象に名前などなくていい。

それは考えの抵抗であればいい。気持ちは

ただただただ、そして、幾重にもあなたは

ダイジョウブ!



さて、僕らはそれでも、現実は大丈夫じゃない、

と考える。実際そうなのだから、と感じてもいる。

その考えが脳で支配となれば、感覚も情も

それに合わせる。そういう話をしている。

僕らが自由であるためには、初めから

自由でなくてはならない。自由になりたいと

いうのは、ただ自分は自由ではないと

考え、表明している。そのことを説明して、

心をそこに固めようとしていることに

他ならない。

固める?止めようよ。

脳の言うことを聞いていると、僕らは

愚かになる。世界のニュースもそれに

感情移入ばかりしていると、自分が

見境のない人になっているのに気づけ

ない。  

その話やその不適切の由来はいくらでも

書けるけれど、それはほんとうに重要では

ない。

自分がここにある、それは日本でも韓国

でもヨーロッパの諸国でもいい。それだけ

で僕らは一つのおおまかな生活を強いら

れている。物心ついた頃には、もうその中

にいる。生活とはそうした一面をもつ。

伝統や習慣やインフラによる生活状況、

長い歴史の考え方や為政者が変えた

紀記や記録・教科書は、また敵国だった

事情が歴史を変えてしまい、以前の

洗脳から、不利で、一部有利だとしても、

僕らは精神の不全に陥る。先進国ほど

教育事情が進んで、かえってそういう

状況に陥ることになる。 

村の共同体に住む時、村の掟は厳と

してあるだろう。村八分や冷や飯を

食わされるのは、眼の前で見てきた

ことだろう。そういうことが村の一部の

住民が隠れて行うのは、住みやすい

村ではないだろう。

僕らがそういう時、村に不安を抱え、

家族に不安を抱え、将来に不安を

抱えるのは、楽しい状態ではない。

僕らの不安の因は、外にある。

そして、それをそのままにしている

僕ら自身にある。僕らはその不安を

全体で受け止めることが必要だ。

そして、安易に受け入れないことが

重要だ。

短絡で考えなければ、すべての問題

には答えはすぐに見つかり、その答え

を解決に導く半無限な方法を模索する

ことが予想される。重要性と緊急性と

いう僕らの問題処理法で、それは多岐に

わたる解決への問題提起が行われる

はずだ。 

それはまた新たな歴史を作るということ

なのだが、その出発のその前にしておく

のは、目的を定めることでも、そのアプローチ

を決めておくことでもない。それはそれで、

その範囲でするにして、まずなにがあっても

理解を深め、広め、その事業のコンセンサス

(合意、ここでは情意の一致)をとっておくこと

だろう。

大丈夫、はその位置で、ここにある。資金は

どうのこうの、保証はどうのこうの、人脈は

どうのこうの、の二の次のことではない。

まず、自由であること。自由には、正確な

言い方をすれば、なれない。まず、そう

あること。自由な人からでないと、自由な

発想は生まれない。まず、そう「ある」こと。

すでに「大丈夫」はここにある。

どうしたいというのは、こうなればいいから、

そうならなければいけない、と決めつける

ことではない。結果、どうあることになるの

かは、皆で決めた次第・ことになる。現実は

瞬間に過ぎ去る未来の嵐だ。だから、

多くの決定に、すぐに改革・修正が必要

になる。

すぐ結果が出ないことは、多く、はるかに

多くある。焦ることはない。いつでもそれ

なりに進むしかない。だから、今は

大丈夫なのだ。まだまだ、結果を求める

のは早いだけかもしれない。

まだ、大丈夫(笑)だよ。

不適切な村というのは、今の日本であり、

戦時下の国であり、支援という名の基に

利益を企む世界であり、そしてなによりも

自分たちの不透明な心というものだ。 

それでも、大丈夫。そこまで心を開いて

みるには、さまざまな知識や心構えが

必要だと思うに違いない。それは一部で

そうだろうが、それを前提としなくていい

のだ。

すべてのことにおいて、前提は要らない。

そういう意味でまったく、この世でなにも

かも、すべてにおいて、あなたは大丈夫、

から始まっている。あなたがそう思う

以前から、これは始まっている。

心の外に出て、涯の、そのまた涯へと

その内奥に僕ら人間の根拠がある。

そこで、僕はこう言われた、「大丈夫」と。

僕らはそれを信じようとする。それは

計算で保身で、保険の考え方なのに。

それを言葉だと思うから。

僕は聞いてもいないし、見てもいない。

そう感じる何かが、としか伝えられない。

信じる以前に在るものを、想像したこと

があるだろうか。そういうものとして在る

ものを。 これは言葉だろうか?

僕は伝えるために使っているだけだ。

言葉ではない。

あなたは大丈夫なのだ。

大丈夫。

・・・・・・・

・・・・・・・



2  ::

あなたの主人は自分ではない。では自分

を超える何者か、と問うかもしれない。

この意味は自分を超えるというものでは

ない、そこにあるもの、と。

それはあなたにとっての、あなたという

ものだが、我を自分としてしか自覚して

いないのならば、それを何かとは考えら

れない。想像もできないだろうから、自分

ではないもの、それは何かと自分の外

に問うことになる。答えは感じるものだ。

知は現実の代替品を仮想や抽象的に

青写真で科学などによって指示する

まではできるが、そのリアルなそのもの

を造ることはできない。

冷蔵庫は初めは、その箱に入れて

おけば永久に腐らないというものだった

ろうし、掃除機は吸い取った埃・塵を

無害な空気に変えてしまう魔法の象の

鼻だったろう。そこに電気を利用したら、

どうできるかという現実化が始められ、

技術者が考え始め、さまざまな現場の

工夫で困難を乗り越えて、その完成

したものが、夢の代替品(家電製品)

だったろう。初めは皆、夢だったのだ。


それでは最後に、ソクラテスの話を

しよう。ギリシヤの哲学者と言われた

ソクラテスはなにか書いたものを

残したり、なにか特別にまとまった

ものを論じたのでもない。ここからは

推測になる。:::

ソクラテスはよく夜に戸外で、広場だろう、

そこで一晩中、空を見上げていた。

夜明けまで立っていたとか、らしいが、

彼は神の声を聴いていた、という話が

残っている。そんなに長い話ってある?

と茶化すこともできるが、ギリシヤの

都市と言っても、当時では人口10万人

がせいぜいだ。空気もきれい、音もよく

響く。僕らの感性ももっときれいに磨かれ

たように、斬新だったはずだ。

例えばアフリカの蛮民は大陸だったので、

家もビルもなく、2㎞先の動物がよく見えた。

僕らはそこでどう眼をこらしても、2㎞先に

なにがあるかのさえ見えない。環境が眼を

鍛えた。その証拠にそのアフリカのマサイ

族の青年がアメリカに渡って暮らして、

1年か2年?でその脅威の視力は失われて

しまったそうだ。順応の高い人間という動物

は、たったそれだけで自分の感覚を変えて

しまう。だから、遠い昔のギリシヤなどの

環境がソクラテスたちにどういう影響を与え

ていたのかは、測り知れない。ただ、神へ

の信仰はもっと直截な感覚で自分のもの

であっただろう、と想像される。


神の声を聴き続けたソクラテスはどうした

だろうか?その声についての内容は

ソクラテスは残さなかった。プラトンも

聞いていなかったようだ。

だが、そうだろうか?それは残さなかった

のではなくて、残せなかったから。そう

ではないか。一晩中の声で、理解できた

のなら、それを人々に知らしめるだろう。

それが彼の神への信頼になるから。

が、彼は理解できなかったのだろう。

そこでどう考えたかが、問題だ。ことは

深刻な問題だ。せっかく神様が大事な

言葉を伝えてくださっているのに、なんと

自分は愚かなのか、一言も理解できない。

彼はそれは自分だけの問題ではないと

思った。この謎をギリシヤ市民に聞いて

回っても無駄なのは考えるまでもない

ことだ。恐らく、誰も聞いた経験がない。

そうすると、人の心理では代替案はほぼ、

決まってくる、自分の誠意を尽くすことだ。

自分でできることをできる限りして、神に

尽くそう、と。

それは何か。知恵者のソクラテスのことだ。

真理の探究はすぐに思いつくだろう。

彼は神の声を理解できないほど人間が

愚かであることを共有しようとした。

我々は何か知っているようで、実はなにも

知らない、ということを共有しようと。私は

真理を知らないことを知っている=無知の

知、有名な言葉。

そして、ソクラテスの広場での公開問答

が始まった(のではないか)。

彼のそういう覚悟に注目したい。神への

絶対の服従とも言える信仰である。

言い負かされた人やその知人に、ソクラ

テスを心よく思わない者がいて、元老院?

の誰かに注進して、彼は裁判にかけられる。

青年たちがソクラテスの真似をして、大人

をやりこめるゲーム(問答)が流行って

しまったので、青年への悪い教化をもたら

したという理由だが、理由はどうでも

よかったのだろう。政治的な嫌がらせだ。

下されたのは、毒杯を仰いで死ぬという

刑だった。友人は多くいたし、政治に

有力なものもいたので、ここはひとつ

牢から脱走して、ほとぼりが冷めるか、

政治力のある協力者が刑を軽くしたり

するまで、待ってはどうかと持ち掛けた

が、ソクラテスは断った。自分は市民

のルールを守って市民として刑を受ける、

と牢内で答えた。

融通の利かない頑固さだが、ソクラテス

は自分は:神に従って、自分なりに

精一杯使命を行った:と思っていたの

だろう。

だから、これで正しいのならば、祝福

されるだろうし、誤っていればそれなりの

罰が下される。それも:すべて私の全なる

神の思し召し:なのだ。どうして嘆くことが

あろうか。彼は死を恐れていなかった。

むしろ、神に逆らうことを非としていた。

それは最後の毒杯を仰ぐ姿に現れる。

ソクラテスはなんと、毒が体に回る

実況中継を始めたのである。「今は

胸のあたりまでが、冷たくなってきた。

おお、それが首にまで、・・・・・」と。

彼の時代では、神に拠らなければ

ならなかったが、それが当時の世界の

空気だった、伝統だったから。

しかし、僕には彼が一晩中、飽きも

せず集中できたのは、絶え間ない喜び

があったからだという気がする。

彼は感じていたのかもしれない、まず、

彼の人生の大前提にして、私は大丈夫、

だと。死も何も恐れることはなかった

のだ。死後の世界も、地獄も天国も

あるだろう、だが、すべては思し召し

なのだ。その前に恐れるものは

なかった。キリスト教徒の死には

そういう覚悟の死者が多かったようだ。

自分という仮のものに拠るうちは、神を

自分の代替者に仕立て上げるしか

手段がないのが、僕らの弱点なの

だろう。神の存在・不在は副次のことで

大丈夫は同じことではない気がする、

死んでしまうと、僕らの衣服に過ぎない

自己はその中身も肉体も無になる。

そこにコンタクトを一度でも取っていれば、

・・・・・・・・ という気がする、僕としては。

それはしっかりと感じるが、だからと言って

何が言えるのだろう。死後の世界とか、

物象に比較してわかるものにしか、僕ら

は依存できない。この世しか知らないから。

またはスェデンボルグも遠足した亜空間の

ちっぽけなあの世しか。

現代までの進化に空想や知に頼るばかり

になってしまったのは偶然ではない。

プラトンとソクラテスにも幾分か

(0,000001%)の責任はある。

もうとっくに時効だが、・・

(笑えることか、笑うべきか、文在寅=

ムンジェイン!)(笑?)

それにしても僕らは知(その半身は自分)

で迷ってしまうという罠から3000年?

も逃れられないでいる。その意味では、

無知の知は正解なのだろう。なら、

ソクラテスを問題的に発展させて哲学

するのではなくて、ギリシヤを憧憬する

ようにパルテノン神殿で日向ぼっこを

したり、遺跡から見える一晩の星を、

神の声(たぶん、木星)は聴こえない

だろうが、ソクラテスを縁(よすが)に

して、数えたほうがいい。あれこれの

意味を考えるのは帰国してからだ。

Have a nice inner trip !

余白 ::

しっかり目を開けば、あなたの混乱は

自身で見える筈だ。と励ましで言ってる

つもりが余計なことだ、と思われている

ことってありありですよね。結果としては

言い方なのだろうけれど、(例えば)

あなたが神に拠る・頼るという姿勢を

批判するつもりは、ないですね。同情も

しないが、あなたがそうであるさまざまな

事情があるはず。

だから、いつものようにそれを何かの

物差しという正しさで判定はしたくない。

弱さはそれでそれなりに、社会生活での

強さの鍵になる。自我の強さは程度問題

で、強すぎれば、人の弱さもわからず、

社会では不利に働くことになる。なので、

人生では一般論ですが、強さとは単に

良いことではなく、弱さとは単に不利な

ことではなく、人との作業では有利に働く。

それで人はそれなりに自分のゆく道を

歩いていることが多いので、それなりに

前を向こうとか、努力もやむなしで、

40年も生きてきた人には、それなりの

正しさで間違いのない道ができている。

基本的に無理をしなければ、その無理

しないことがしっかりわかっていれば、

そうそう人生は狂わない。

それもこれも、すべて大丈夫だから。

あなた、この世はそうできている。そう

思いません?(笑)(笑)
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意味もなく甘いトーン [詩]

ソシアルな 太陽系の 炎

麦芽に含まれた サトウキビの 萌え

ライチ  雷味  ビロードな雷管 

川南の 緑がやさしい アプローチ  

大きな毛マリは  つぶらな眼を 隠し 

驚きの世界に  臆病に  輝く 

さすがに 京案内の  丸木橋 

しびれるほどに  酔ひ たまふ 

君の 持ってきてくれた  毒薬草  

ブランタージュの 森に  角砂糖  

ハイチを 小舟で 廻って  

ハイビスカスを  食べている  

ふくらんだ 唇  小さな鼻の 穴 

わがままな  水密の 香り  

黒い 種   赤いスイカは 

切り取られた  海の 水平線 

ああ と  予感してしまう  

君への  想いの そのしびれ  

トーテムは  ざくろの  芳醇

ちゃんと  その方  向いてる? 

だん だん  そうやって  

せりあがる 気持ち  茶のシロップ 

期待を からませ  花チューリップ 

欄干から  見える  連絡船 

午後の 望郷と  コーヒーの甘さ 

さえずり  雨に あたり 

数えることもない  和菓子の 残り 

いずれに おはします  キャラメル童子 

ストローの 夢は  戦後の カルピス 

ふてくされたのは 池の鯉の  マネ? 

お昼から 出かけましょうか  天狗の鼻

カサブランカは 給水塔の  向こうに 

あなたの  そえる手の   桃の肌

涙で ありがとうと 言えない  私の別れ  

塩の湖が  旅の 足跡を  

たどるように  (ああ この場面、デジャブ)

・・・・・・・・・・・

そこかしこに  うつろな  ほろ三味線

数学で 考えようとする 子供の  

洗い頭の  かぐわしい香り

ペタネーゼ   涼しい スズランの穂 

まさかの カットキナーゼ  リフレイン 

そろそろと  おいでなすった 

ソロソロと  聞こえる  接近の 足音  

待ちかねた  すき焼きに  

そろいも そろった  三人の振袖  

この想い  この感激  わが子の運動会 

あなたは 知っている  その  

たとえようもない  愛の ジャグジー

遠くから 耳をそばだてている  我が・きつね  

好きな食べ物は、と  しかたなく  

チョークを持つ  黒板おばさん  

我先に  走り寄る  おやつの時間  

・・・・・・・・ マイタケの 天ぷら とか

夏に止まるらん  アゲハ蝶は  

こんもり 丸い アイスクリームの上

あなたが 好きだと  言いたかっただけ

だった、  ・・ だった  

だけ    ・・ だけ 

沁みとおる  朝焼けの  旅情  

サハリン  ドニエプロ プラス 

ペテロフスク と 何度も言った 

霧と  交情  

他愛もない  キス 

その形の中に  秘められた

ものが  あるのなら  

・・・ あるのなら  

遠(とお)と 海  はぜく  網 

港に  立つ  人の姿  

歴史を めくり始めた  きな粉餅に

むせたのも  ウスバカゲロウの  宵 

もし 始めが ありきでも  

そこには  帰らない  

先達を  歩こうとする  先覚者 

まばゆけ よ 

むせかえる  花の 香りに

かろらんせ よ

まららんせ よ  

みてらそらんせ よ 



歯磨き粉を  替えました  

すこし  甘いです  

ソ ラ シ ド 

ライク ア ヴァージン  

京樽の  かすが  漬け  

ライフリー  ムハン 窓 

どこにも  落ちないように  

斜めにでも  寝かせて  

もう、いいの   私は

ひとりで 生きてゆく  フリ・をする   

ここに 

甘い 涙が  

拾って やれなかったのに 

まだ  枯れてない  

そんなものしか 

残せなかった  私は  

この先  どこへ  

そう、  ですね  

やはり   あなたの 処しか  



パンの 耳を ちぎりながら 

海岸を  歩いた  

ウミネコも  カラスも  

集まってきた  

逍遥と  逍遥と  

このように  

サクセスと  颯爽と  

このように  

サバサバと  さっぱりと  

このように  

私は ・・


このように  

・・






::

どうでもいい作文なので、すたこら投稿を

実施。休日なので、気が緩んでる。

バハッ。(咳?)


閑古鳥  どこにでも 栗ようかん 

さしずめ  身よりは  里のアオサギ  

・・・よ、

忘れられた 言葉   ・・・ よ 

いつか  思い出そう 



( 種明かし ::

半日だけダイエットで、腹、空き過ぎ。

ハハ、笑えない。 へ、 ・・へこむ。)
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意識の革命はコロンブス卵 [意識]

ひとりになって、坐ったからといって、

それでいつも書くからといって、いつも

書かねばならないことはない。

それは書く価値もない、他愛もない

ことのように思える。ふつうのことだと。

今は書かなくていいのだと、自分に

言い聞かせようとしている。そうする

ことで、内側になにかあるなら、そこが

自然に反発して、表現を押し出して

くる。

だから、僕らは本来、書くことは何も

ない、とは言えない。書いてみなければ、

それはどうだかわからないのが、僕ら

であってみれば、・・・・・・・・・・・・・

ということならばと、思ってみるが、気が

定まらない。どこへ行ってしまうか、

わからない。そういう時はなかなかない。

うとましいほどに、意識がしっかりと

邪魔するように自分を導くからだ。

今夜はそうではないらしい。だからと

言って、それが書かせる動機になったり、

集中するほどの意欲になったりするの

ではないから、ただ、このように

だらだら書く。

ああだこうだと書くのも楽しいが、それ

はああでもない、こうでもないと書くのと

同じだから、僕らはそこに何が言いたい

のかを見て取って、安心する。何が言い

たいのか、わからないまま引っ張りまわ

されると、途中で退屈して、もう読むのを

やめた、となってしまう。

僕らはそこではいつでも結論を求めて

いるのがわかる。何が言いたいのかは、

この結論じみたものが出てくれば

わかるので、何が論点なのか、いつも

促すのだ。それが早すぎることも多い。

早すぎなくても、それなりの展開が

あれば、それについて行くのは、小説

などの楽しみを求めている場合だろう。

音楽について行くのも、その音楽的

展開がうまくて、乗りやすく、退屈しない

場合に限られる。

だから言葉を読む場合も、なんらかの

楽しみを求めていることが多く、ほとんど

だろう。

マニュアルを読むのはなにかを楽しむ

のではなく、その機器かなにかの使い方

や整理・調整を知るためで、文学的な

マニュアルとか、音楽的なマニュアル

というのは、ふつうの分野ではないだろう。

地図というのは好きな人が読むと、とても

楽しいらしい。半分は想像力で、その地形

や駅の名前、街の名前でそこを空想で

歩いたり、飛んだりするのだろうけれど、

それを地図の全体から読み取る楽しさに

移入する。そして、いくつもそういう場所

を訪ねたことがあるので、その発見も

多いのだろう。そうなると、地図では見え

ない場所にまだ未知の発見という刺激が

読み取れる。その興奮をまだ訪れない

前から読み取る。それができてしまうように

なった人も必ず、いる。それがほんとうの

僕らの隠れた力だからだ。

それが特別ではなく、なんということも

ない力だよ、感覚だよ、という世界が僕の

世界なのかもしれない。

何もないと言えるのに、恐ろしく退屈させない

力がある、言い表せない世界。

ここにあるのだが、他人も少しはいる

のがわかるが、まったく見えないので。

僕の貸し切り状態が続く。

これは結論とか、生き甲斐とか、誇りとか、

伝統とかの名誉というプライドに関わるもの

とは別なものだ。動物が人間に暴動を起こ

さないのも、生き甲斐にこだわらず、それ

に関わっていないからだ。地球の所有や

利権に関わらなければ、当たり前にある

ものだが、人間社会にはこれが許せなく

なる。それは自己実現とかの幻想と

関わるから、それを夢の位置に置いて

しまうと、夢は堕ちて現実になってしまう。

かくてその小世界を支配するように行動

するのは一部の偶然を必然に変え、

その後はそれしかなくなってしまう。

それらは本質は狂気と呼ばれるもの

だが、その多くは成功と呼ばれている。

成功者が(その成功の度合いに応じて)

なにを、またどれほどの命を犠牲にして

きたかは、少し、どの歴史でも調べて

みればわかるので、ここで説明する

までもない。



ここが静の世界とするなら、反射で動

の社会が見えるだけである。

ここが書けない世界なら、動の世界は

当然、書ける世界であるだろう。

山の一軒家で住む一家族はその一日

くらいしか小説らしい面白さはないが、

街に出れば商売と経済・政治・性・

技術カテゴリのトラブルや犯罪で、利

を争うので、資本や流通のために

仕事があり、どこを見ても書ける世界

になる。大衆小説はいつも花盛りである。



誰も山の一軒家の生活に感心するが、

また憧れる人もいたりするが、興味に

とどまり、実行する人はあまりいない。

それを僕は面白いのだが、面白いと

思う人はいるだろうか?それは僕が

考えた通りのことが起こっている、と

いうことでこの世はそういうものだと

いう証左を芝居のように見せられて

いる。

こうなればいいとか、そうなるのがいい

のだと言いたい人は、言わせておけば

いい。皆が皆で決めない限り、なにごと

も大事は変わらない。

僕は複雑だ。

こうなればいいと皆が思うことを知って

いるが、それをそのまま信用はして

いない。こうなっては欲しくないという

のもわかるが、そうなった場合のこと、

その先を誰も考えていないのも知って

いる。

どうあればいいとか言うのは、そういう

他人の意見ばかりの場所からはなにも

生まれない。あなたに必至の動機がない

と、物事は実を結ばない。今はこの意見

が必要だということを判断できること、

世渡りには大局・小局、また戦略・戦術

の読みが必要になる。それには他人の

意見や古典の教養な哲学意見だけでは

間に合わない。現実は待ってくれない、

他人は待ってくれない場面のほうが多い。

また、誰かの適当な意見を待って賛同

する人も多い。

今日も老夫婦の死があった。ふたりとも

80.90歳くらいだった。認知症の妻を

介護していた夫が、熱中症で亡くなり、

その3日後に妻もたぶん、衰弱死したの

だろう。身寄りがいないだけで、こうして

万が一の工夫もできずに亡くなり、気が

つくのが遅くなり、国も自治体にも責任は

問えないのだろう。では、自然死だった

のか?事故死だろうか?

しかし、いいだろう。答えは出ているが、

それからの逃避する文化ばかりが進んで

いるから、それを補佐する機能が働か

ない。それが悪いというなら、僕らが悪い

ことになる。僕らは当事者だからだ。

そして、当事者ではない、と言うからだ。

その責任が問題なのかどうかも、誰も

問わないだろう。皆が内々でつぶやく

だけだ。

気のつく人でさえ、自分の家が燃えて

いるのを外に避難して、眺めている

だけだ。靴に泥がついて汚れている

から、火事は消せないけれど、靴は

洗ってきれいにしよう、と言っている

ようなもので、皆はそれでよし、として

いる。何も変わらない、と。

その考えこそ、植え付けられた考え

なのだが、そう言われても、まったく

自覚できないのが僕らだし、また、

声を荒げて意見を述べようという

のが僕らでもある。これが批判や

非難でないのは、僕はよく知って

いるが、そう受け取られてしまう

のも知っている。僕らが自分のことを

実感するまで、生の誤解を解かずに

生活する限り、僕らはこの透明で

濁った空気の沼からは出られない。

今までの歴史上の革命の暴力を

いかに否定できるかまでにそれら

をよく読み。調べ、熟知して、本質

までも捉えうるなら、革命の提案

もいいだろう。

だが、それは必ず、おかしな新しい

革命になるはずだ。例えば、その

おかしさはガンジーが行った非抵抗

運動のような、殴られたら、引っ込んで

次の人に交代するという、非暴力を

象徴した、またそれとは違う形での

その国での、その時代での革命の

形を採るはずだ。未知のことは確定

できない。どうして、その理不尽に

見える抵抗運動に人々はついて行った

のだろうか?ガンジーは満州国日本

の結末も見ていた。ガンジーは何者

だろう?

インドに、カルカッタに行ってみると

いい。今でも見えないカースト制が

う機能しているのか、聴いてみる

といい。          7. 7



今日の昼に安倍元首相が参院選の

街頭応援演説中に銃撃された。

昼だったので、昼番組で出演した

コメンテイターは準備もなかった

とはいえ、ひどいコメントだった。

通行人のボディチェックはされて

なかったのか?散弾銃を持って

いたのなら、近づく前にわかった

はずだとか、信じられない。

中国なら通行人のボディチェック

もするだろうが、ここは日本だ。

散弾銃を持っているものが、それを

うまく隠さずに見せびらかすように

持ち運んでいたとは、考えられない。

僕にはそれが常識に思えるが、

コメンテイターには最初には、いくら

突然とはいえ、そんな低レベルのこと

しか言えないとは。

これはショックが広がるだろう、とは

思ったが、僕には何のショックもない。

これはこれで4点セットが出そろって

しまったな、という考えを思い出した

だけだ。

まだニュースはないが、ご冥福を、と

なるだろう。(17:03に訃報が速報で)


昨年のコロナ禍で今年がどんなに

ひどい年になるかが感じられた。

具体的に何かがあったのではないが、

考えたのは4つだ。コロナ禍はもう来て

いるが、まだ続くこと。次に自然の

大災害だ。今年も気象庁史上初の

オンパレードで、6月に40℃越え、

福島県沖、石川県の震度6強弱の

地震の頻発。そして、世界の戦争勃発。

ロシアとウクライナ。最後に、日本で

テロが起きること。元首相の銃撃は

正確にはテロではないかもしれない

が、日本で起きるまでは、国内での

日本人の要人襲撃事件は誰も実感

はなかっただろう。

僕は実は、これよりも昨日の英首相

ジョンソンの辞任に先行きの不安を

感じている方だ。岸田首相は欧米に

尻尾を振る方に決めているだけで

これまでのように何もしないだろう。

欧米と露中との先行きの見えない

これからのほうが、どれだけ注目

すべきか、ということを考えている。

プーチンの頭はナチスに戦勝した

一時代前の地図と考え方の様式の

ままのようだし、金平糖に至っては、

毛沢東になってチンギスハーンの

領土を再興しようとしているらしいし、

二の句が継げないという呆れた様は、

これを言うのだろう。しかし、現実は

その過去が権力者の頭で優勢らしい

のだ。


空は晴れている。心も似せているの

だろう、明日はついに陶土をねりに、

窯のある陶房まで行く。外は今日の

明日、まだ騒がしいのだろう。
      
          7 . 8  p.m. 2:34


::
この記事は安倍銃撃事件の当日に

書かれた。亡くなったと思ったが、投稿

は早いと思ったので控えた。訃報は

その2時間半過ぎ、早かった。

          7 . 10

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日本は世界の村社会 [日本]

世界からの追悼ツイート?だろうか、

読んでいると、日本は村だなぁと思う。

プーチンが安倍晋三の政治家と人間

について述べている。キリスト教国では

本人と家族に哀悼の意を表している。

日本で聞く追悼コメントはどれも皆、

同じ。民主国家では決して許されない

行為だと、いう法を意識したもので、

秩序への信頼がよく見える。街頭でも

それは同じで、驚きましたと同時に、

法治国家で許されない、という一色。

これだけ秩序を中心に法を信じる

国民というのは、世界で日本だけ 

だろう。

同じ言葉を言っても、世界では民主

主義というのは社会での体制を形

にするための一便法だと思っている。

たまたま、今は民主主義でやって

いるだけで、それは大事な体制だが、

それがこれから先も絶対に必要な国

の方針であるかどうかはわからない、

というのが世界の常識だ。

日本国民の政府に対する態度の大半

がやはり、お上に対していた時と同じ

で憲法が変わっても、自分たちが苦酸

を舐めて、それを求めて変えたもの

ではないので、僕らはたぶん、変わって

いない。それは世界とは違う形で、僕ら

は平和の方式を内面に持っている。

それを意識せずに、与えられたものを

その日本秩序に改変して、それを

信じる点で、平気なのだ。だから、世界

がそれとは違う軸で動いているにも

関わらず、それを眺めるだけで、見ること

をしない。それでいられるという、現状が

あること自体がそれを物語っている。の

だが、この変わった意識構造が理解して

もらえるだろうか。

つまり、民主主義は世界の心の底では

いくらでも取り換えの効く体制マニュアル

に過ぎないが、日本人にとっては自分たち

の平和信条・和の信条を補完し、現すため

の重要な盾なのだ。だから、それを大事

に守ることで平和が保たれるという、世界

では信じがたい、無意識な取引がある。

秩序は外側に求められるのではなく、

はじめから日本人の内面にある。それが

民主主義だろうと、封建主義だろうと、

どうでもよくはないが、あまりかまわない、

なにか形があればそれを自分たちの秩序

の代替にして、それを法として守ろうとする、

一致した和の信条がある。これが日本の、

世界で珍しい村社会の見えない法則なのだ。

中国から漢字を輸入して、日本人はどれ

くらい多くの日本漢字を作っただろうか。

明治維新で輸入英語・オランダ語(江戸期)

をどれだけ知恵を絞って見事な翻訳単語

をこさえただろうか。

例えば、ひとつ、「神経」って考えれば、

実に見事な言葉だ。「神」の通る「近道」

である。漱石も正岡子規も若い頃、松山で

一緒に、今でも使われている日本語を

編み出している。

これはマネがうまいのではないという

通説どおり、日本は外のものを自分の

内にあるものに変化させてしまうのが

うまかった。

日本語が漢字・カタカナ・ひらかなと区分

してあるというのではなく、それぞれが

自分たちに似せて変えられた外国の

言語であり、日本語として再生させて

しまったというのが本当の処なのだ。

だから、その功罪で、日本人は世界を

理解しないのだ。自分の内面秩序に

反省がないので、それを強制的に矯正

された者でないと、日本が見えない。

見えた者はジョン万次郎・岩倉具視・

大久保利通・伊藤博文・福沢諭吉、

漱石や森鴎外・津田梅子や山川捨松

などの海外渡航の長い者、あるいは

海外留学者などなのだ。他にも多く

いる。

近代では海外旅行が盛んになり、

観光で行くので日本人のまま行って、

日本人のまま帰ってくる。そこで生活

したり、長く苦労する旅でもしない限り、

観光気分で行った気になり、海外を

知った気になっている(かも)。

絵葉書の実物を見ただけなのだ。

あとはホテルのプールで泳いでいる。

それは東京ディズニーランドや大阪

ユニバーサルジャパンへ行ったこと

なのだという自覚だけ促したい。夢を

見たい、という延長になっている。

勘違いなきよう、よけいなお世話?ま、

それもそうだ。(笑)




素晴らしさも日本、哀しきも日本。世界

でも、その一部は賞賛されているが、

それは憧れという趣味だ。日本が世界

標準になるというのは、楽観的に過ぎる

要望で、思い違いの範囲であり、僕らの

歴史は差が甚だしい。西洋も、中東も、

アジアも若い。アフリカはさらに若く、

歴史を刻みにくい気質だ。

ノーベル平和賞の第1号のシュバイツァー

が働かない土民を怒鳴っていた。彼は

宣教師の使命を感じていたのだが。

それぞれ人種的・歴史的・文化的に

要素が異なる。だが、日本の特殊性

はそれらに入らない。心の底に見え

ない宗教染みた芯がある。キリスト

教徒の芯から神が外せないように。

僕にはそう見える。
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ひとり舞台はひとり事情がやってくる [自分と知]

さて、ひとりに なってみよう。

それだけで 僕は完成して しまう、と

いった 印象をこの夜に  思う。

完成って、どんな意味でも 現実には

ありえない世界 のことなのに  

そう思うのは  どうしてだろう。

それを保証しそうな 言葉がある。

それは 僕は どこに いるか、と 

感じて、 また感じて 

感じまくって いることだ。  

どんな疑問  もない。

ここに      いる。 

それが  宇宙の果てから 祝福され

讃えられて  ここに  いる。

ということであり、 観照されている、

ということ。

その 充実感。   やや 誇らしくもある。

その確実感から  心の裏で  

反語になって  

僕は  どこに いるか、となって  

その言葉が  自分のその位置を 

また 確かなものに  するのだ。  

その ロンドは 完成して、

僕の周りを  巡り、  

ここにいる  どこにいる  

その循環が  そのまま  僕になる。

自分で  確かな自分を  確かめられるのは

純粋に  しあわせの 一形式だと  

はっきり  感じる。 

だから  僕は  夜になる  

この暗い 空気を  腹いっぱい  

吸い込む 。

透明な 遠くを求める  感触に  

全身を  浸す、  泳がせる 。



事情が  やってくる、

複雑で  困難な、  信じられない、

疑惑に満ちた  様々な事情が  

黒い 執事のような格好で  

報告に  現れる。  

もう、  君には  見慣れた。 

僕には  君は 

ただの  骸骨だ  

聖骸布で  顔を  拭こうとはしない、 

誰も

誰も、  涙を  ぬぐえない  

事情が  やってくる。 

ああ  いつも  

そして   また  

この  苦しみ  この  悲しみ  

もだえて  あがいて  のたうちまわって  

そんな日が   あったとは  

それが  なぜか  美しい光に よって  

照らされた  舞台になっている。 

こうやって  台詞になり、  

こうやって  演じられ、  

僕の  血と  肉は  はぎ取られ 

高く  天へと  屠(ほふ)られる。

いくつもの  演劇だった。

事情が  ため息とともに  

やってくる。

僕を  納得させるまで  

影法師のように  現れては  

忘却の 扉を  何度も  

開け閉め しては  

眠りと 共に  消えてしまう  

儚い  影 。



これは  なに?  

これは  なにちゃん?

幼い子が  わかっているように  

聞いてくる。  

これは  なに?って  

なにを  指して  いうのか。

春よ  

鯨の  歌う 宴よ 。

島々 の空を  円を描く  空の

生き物 よ 。

さあ、  学校へ 行く時間、

いってらっしゃいと  

ハッピーと 言いたそうな  

人たちが  寝不足で  

大あくびを  する  スルー、 

なにかを  スルーした  運命の

順番を 。 



運命の順番は  覚悟の  通り名。

隔絶と 受胎の  別の名。 

それは 見られていることに  拠る。

不思議なのは  誰も彼もが  

そこに  神を 見ようとすること 

あるいは  ご先祖様とか  

守護霊? 幽霊??

知は  鏡の反作用を  よくする。

僕が  見る時、  僕は  見られる。 

見るということが  見られるを 補完する。

意識を  透過してごらんなさい、 あなた 

闇に想像してしまう  そこは  

反射鏡のある、 知という、 また  

自分という、 底のない場所にあるのは  

意識の 反りかえる  処。

残念、 それは 見えないのだから、 

突き抜けては  まずい。

抜ければ、知の ボロが出て  

鏡に映った  見えない自分を 

感じるのみ。 

ああ  この半世紀  神を感じたことが 

一度でも あれば  それを

探したろうに!  

その安心・安全・愛の満足と  契約が 

交わせたろうに!  

見たのは  何千・何万・何億という 

その憧れと  希求ばかり。 

知りもしない、わかりもしない  

怪奇・神秘現象やら 錯覚の物象に  

人間特有の 自己保存の、 超現実の、 

想像物を  追加してみせただけ。

知性は  自らの影であるから 

そこに  いませて  自らを  裏返す。

僕らは  自然な状態の なかで 

自らの背中を  見ることには  

気づけないし、  また 見ても  その

背中を  知らない。



僕がこう語るのも  そこから 

紡ぎだされた  目視現象で  あるから

して  これが 語ることの  なにかは  

僕の真実の  一部ではあろうが、 

その中身を  書けはしないので  

僕は  その 外面を  書くだけで  

満足と  しなければならない。

真実は  人によってその  見せる面が  

違うのが  本質である。 

だから、知において、  まったく何も  

まったく 何も、である  ( これが

理解されれば、楽なのだが ) 

信じるものが  排除されたときに 

つまり、善も 悪もなく、  右も 左もなく、

考え得る愛も 神もなく、  1も 2も なく、 

ゼロも 無限もなく、  運も 導きもなく、

希望も 絶望もなく、  悟りも 無知もなく、

夢も 現実もなく、  恥も 上品もなく、 

教養も 歴史もなく、  唯心も 唯物もなく、

科学も 数学もなく、  仁も 義もなく、

・・・・ ・・・・もなく、  ・・・・・・・、


どうして 僕は  こうも  挑戦的 

なのだろう。  種を  明かすべきか。

(ここで胃痛のため、 中断。 胸も

神経らしき 痛み。) 

もう書いてきたことなのだが、あなたが

感じてもいないことを理解しろ、という

のはそもそも無理なのだ、とは知って

いる。



無意識は知にとって、無限であるし、

そこには知の性質を逆手に取った

知的な反世界も存在している。

だから、そこではすべての知の産物

が見事に否定されている。それは

そうだろう、知の介入は不可能なの

だから、知の産物の言葉や数式など

は受け付ける筈もない。ひとえに

無関係だから、それだけのこと、―と

言える。

例えば、この世の人は闇といっても、

相対的に生活で捉える。それはそれ

を解釈するのがその人の知による

ものだから、比較するのだ、光と。

だから、光が闇に差せば、明るくなる

と勘違いする。そこが真に闇であれば、

(僕は闇を体験している)光は差せ

ないし、明るくもならない。それは僕ら

が人間だからだ。僕らの眼の構造

では、光が何かに当たって反射して

返って来なければ、光は見えず、

したがって、明るさもない。真の闇に

差す光は、そのまま闇に吸い込まれる

のか、返ってくることはない、ないのだ。

闇の中を、それが例えあなたの横を

通過したとしても、その闇は空気ではない。

真空でもないし、空間でさえない。だから、

走る光の姿は空気・空間に反射しない。

あなたが見ることも、その暇もなく、その

まま闇に突入して、・・・・・・そのままだ。

その後のことは誰にもわからない。

無意識はそういう闇の性質をもっている。


僕らの言葉で概念や精神的な言葉の

ほとんどは無意識の側からは裸にされて

意味を失う。それはただの事実で、だから

どう僕らの現実世界と関わっているのか、

わからないことだらけだ。

そう、だから、わからないことだらけと

わかるくらいなら、その残りが少しは

わかってきている。それも無限分の1

だろうが、(・・・未来永劫)。

そうして、僕は感じてもらえない、理解に

苦しむことばかりを書いてきた。

僕のように初めてのことが好きで、誰も

挑戦したことのないことへのチャレンジが

大好きな人間だからこそできたのだろう。

これがたったひとりの精神の冒険になる

のは、わかりきっていた、と思ったが、

そうでもなかった。

そういうそれを孤独と思っているようでは

とてもやってこれないむなしさの極限の

試練があって、それを慰撫する熱波が

僕を補った。

そういう激情を挑発されることから離れ

ようと自分が思うとは思わなかった。

寂しさとか苦しさとか、絶望とか孤独とか

そういうものがひ弱に感じられる状態が

やはりあった。それは人間ゆえに強制

された状況だったが、そういう状況に

耐える精神性というものは、僕には

発見できなかった。

ではどうしてそういう試練に耐えられて、

負けなかったのか、それは慰撫されて、

助けられたからに他ならない。誰に?

そう、それがわからない。

それは小さな、細い感覚の針先からの

想像に任せるしかない。僕はそれは

これまでに亡くなった死者のエネルギー

によるもの(僕との共感)を感じたと

考えるよりなかった。

::以下、(想像)たぶん、のこと。



それが無意識の愛のテリトリーに

集まっていた。それが僕が落ち込もう

とすると、反応するようで、僕をあたた

かく静かに伝えて、強力な情熱を吹き

込み、生かした。それに2年間も翻弄

されたのだから、そこから離れるのは、

僕としては一大決心だった。(上記の

「離れようと自分が思うとは思わ

なかった」のくり返し)

つまり、僕は人間に関われる、愛と死

という無意識について学んだけれども、

それ以外のその世界については

これからも永劫に無知のままだと

理解しているし、理解させられても

いる。(知の反動・反射として)

だから、天才科学者・発明家にして

霊視者のスェデンボルグにしてもその

別な側面を見たのだろうと、あまりに

リアルな霊界報告をちら読みして、

そういう理解しがたい世界を思う。が、

彼が対話した神にしても天使にしても

信じがたい。わからない世界のことで、

自分が体験もしていないし、どこまで

が錯覚か区分できないことについて、

たとえ似たような体験があったとしても

(それ次第だが)、一概に信じるという

のは、うかつなことだと思う。

で、僕はカントと、たぶん同じ見解か、

近い見解で、スェデンボルグを夢見る者

とみなし、考えている。

知を’否定すること’と、知を’根本的に

見ることで批判的になる’とは、まったく

違うことだが、知の中にいて、それは

見えない。



僕らの生活が99%以上が人間が人間

のために作った物質という生活製品で

取り囲まれている。見まわして、人間に

よって生産されたのではないものを

見つける方が大変。サボテンや花でも

品種改良されたものかもしれない。

僕らは知によって生み出された自分

だらけのものに囲まれているのに、

ふだんは意識もしない。健康が乱れて、

おかしくなりすぎると、田舎や自然へと

逃げて、体調や気分を回復しようとする。

休日には観光地や公園などの準自然

に近い土地に出かけてみたりする。

それは気持ちや感覚になんとなく

従って、皆がそうしている。

体はわかっているからだ。健康ならまだ

しも、知の疲れはほぼ、神経疲れだ。

現代の精神障害は、すべて神経障害

からきている。

薬をどこまで使い、どこから使わないか、

またはどういう時使うか、使わないか、

誰も、医者でも確実には知らない。

精神の不調には神経のストレス・衰弱

が関わっているから、治療の確立して

いる病気とは違い、向精神薬では僕ら

の神経は朦朧とさせられている。(精神

科クリニック・知的障害者のホームの

仕事を通して、その症例を幾つも見て

来た。)



仮想空間は実在している、と最近は

以前より考える。それはデジタルの

仮想空間のようにゲームの世界ではない。

小さな空間だが、おそらく世界に多く

散在・点在しているのだろう。それは

地球上での話だ。全部併せても小さな

亜空間・あの世だろう。

僕らの過去の累々たる死者が残して

いった、現代で工場製造できる目に見え

ないくらいのICチップよりもさらに小さな

脳波チップのようなもので、それを感知

してしまう人は、電波?脳波?障害を

起こす人が増えて、そこに霊とか死者

だと勘違いして、会話さえする人もいる

のだろう。巷の霊能者といわれる類似

の仲間だ。

量子コンピュータはそういうチップに

障害されるのかもしれない。そういう時に

微妙な誤作動を起こすトラブルはそれ

を扱う技師の神経から?脳波から?

影響されてかもしれない。

と、想像ばかりだと、根拠のない話が

続くばかりだ。とまぁ、考えると、それほど

に他愛もない、となる。

その知に僕らは頼り切っているし、それ

が唯一「わかる」ということだと思っている。

でも、わかるというのはいつでも「分かつ」、

ということだ。分けてみて、分けたものを

比較して見るだけ。物事の物には名前を

認識して、ことは出来事を概念で組み立て

て、また、科学ではその時の物象・事象の

性質を実験・分析してその時の法則を

数式にする。

それは500年続くものもあるかもしれ

ないが、地球を単位にしたら、秒単位

で消えてゆく運命を課せられた法則に

過ぎない。

僕らはその時代の人類や地球に合わせた

法則を発見して、交換し続けたり、棲み分け

しなくてはならない。天動説は地動説に

取って代わられたが、自分(地球)が太陽

の周りを回っているか、太陽が自分を

回っているか、それはただの事実だ。

法則とも呼べない。

事実は太陽系の惑星間の関係が変化

すれば、僕らが考えた理科系の熱や

密度とか、質量とか理科年表の数字は

すべて変化して、法則も数式が変わって

しまう。それが因果という奴だ。その表情

のことを大まかな心情で無常という。



いつしか、胃痛も胸の痛みも忘れた。



自由というのは、説明できない。という

のは、今は心情も心境も自由だからだ。

自由になりたいと、知りもしない状態に

憧れる筈もない。これこそ、ほんとうに

今がよければ、それでいい、なにも

望まない、ということだろう。刹那的?

いやそんな切羽詰まったものはガラス

の細かい欠片ほどもないよ。



音楽があれば、それは音とともにある。

言葉があれば、それは中身への想像

と共にある。絵があれば、それは色調

やタッチの感覚とともにある。その時

には自分はない。が、思いつけば、すぐ

に僕は存在する。在るものは、あるの

ではないし、ないのでもない。無いものは、

ないのではなく、在るのでもない。

点は・・・・・、 ユークリッドでは、・・・・、

酸化は、・・・・・、ビタミンでは、・・・・・、

参政権は民主主義の、・・・・・・、山登り、

・・・・・・、ウサギ狩り、 ・・・・・・・・・・・、

マークシート、 ・・・・・・、ヘブライ語の、

・・・・・・、つまらないものを、・・・・・・・、

書いた、  ・・ あとは、よろしく。





迷いの追記 ::

宇宙には涯があるという説があるから、

そこまで行き着いた重力は撥ね返って

くる。この瞬間的にして果てしない

重力波の無差別な影響を僕らは個人

で気がついたり、気がつかなかったり

しているが、それを証明してさらに

その意味を感じ取ってもいい日は 

それほど遠くに見据えなくてもいい

のではないだろうか。

 ポカン・アレ (ポアンカレ

        数学者ではない。笑)


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サーモスタットのさみしさ [気持ち]

この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  待つのに  疲れてしまったの 

だろうか 

まだ  桟橋を 離れる客船の  音を  

海に  聞いている 気がする  

霞がかった 青い色が  流れてきて  

それに  包まれることも  なく  

宿の窓から  眺める  旅人のように  

今日の 別れを  越えようとする  

そうか  今夜は  

君のほうが  待っているんだ 

君を  遠ざけている  のではないのに

僕の  なにが  そう思わせるのだろう 

いつも  

わからないのは  この 僕の 気持ちだ 

捉えどころなく  休みなく  

考え続けている からだろう  

山を越え  谷を越える という 

君の想いが  あるのだろう 

サーモスタットで  温度調整するように  

君との 間隔が  測れればいいのに  

一方通行に  ならないように  

また  君との 朝を  歩きたい  

あるはずもない  雲海が  

ひたひたと  二人の足元を 

流れれば  まるで  

雲に乗ったように  ごきげんだろうね 

たまには  古いワルツでも  

聴いてみようかと  誘いたくなる  



君が来ることが ないと 

やはり  忘れる  

どれほどの 喜びが   あっただろう  

過去は 引き裂かれる ノートのように 

なにも  書きとどめは しない  

朝  眼を覚ますときに  さみしさは 

ないものだ

どうしてだろう、  君を想う 時があれば 

そのほうが  静かに  眼を つむる  

時には  自分を なにかに 捧げたいと

敬虔な気持ちが  湧き上がる 

それは じつに  ゆったりと

坐れる 空想の 椅子のようだ 

僕は  背を あずけて  

果てしなく  坐った気に  なっている 


熱情のある時は  それを手放せない

去るのは  いつも  自分から  

理由が  やがて  わかる  

わかっていたことは なくても  

わかる時は  来る  

それは  素晴らしい 瞬間であり  

自分を  知ることになる

なぜなら  その自分は  離れるから  

ああ  君よ  僕よ  

僕だった  君  

知るというのは  こういう悲しみだった 

それが  あまりに  明らかで 

僕の 魂を  持って行ってくれ 

ああ  愛の君よ  

僕は  何人の  魂から

生かされているのか  

ひとりには  もう 決して   なれない  

それが  知の 悲しみ 

情の  飽和感  

時間の矢 という列車を 目撃すること 

もう  

列車に 乗ることはない  

僕は  これからも  歩いて  

行くだろう 



この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  迎えることが  できるように  

なったのだろうか? 





僕はたぶん、誰かの寂しさを感じることで

さみしさを感じる人間だ。それが自分の

さみしさであることは、まずない。そして、

そうであってもどのみち、自分の寂しさと

区別ができないだろう。それで僕は

寂しさに対して、他人でいられるのだろう。

感情は根源では万華鏡のようなものに

思える。寂しさも、苦しみさえも、過去で

あってみれば、それはなつかしさに癒され

喜びに感じられるようになる。

現実では自分が自身に囚われるから、

執着し、執着されるが、夢の心の世界

なら、それは十分に可能なのである。
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