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意識の革命はコロンブス卵 [意識]

ひとりになって、坐ったからといって、

それでいつも書くからといって、いつも

書かねばならないことはない。

それは書く価値もない、他愛もない

ことのように思える。ふつうのことだと。

今は書かなくていいのだと、自分に

言い聞かせようとしている。そうする

ことで、内側になにかあるなら、そこが

自然に反発して、表現を押し出して

くる。

だから、僕らは本来、書くことは何も

ない、とは言えない。書いてみなければ、

それはどうだかわからないのが、僕ら

であってみれば、・・・・・・・・・・・・・

ということならばと、思ってみるが、気が

定まらない。どこへ行ってしまうか、

わからない。そういう時はなかなかない。

うとましいほどに、意識がしっかりと

邪魔するように自分を導くからだ。

今夜はそうではないらしい。だからと

言って、それが書かせる動機になったり、

集中するほどの意欲になったりするの

ではないから、ただ、このように

だらだら書く。

ああだこうだと書くのも楽しいが、それ

はああでもない、こうでもないと書くのと

同じだから、僕らはそこに何が言いたい

のかを見て取って、安心する。何が言い

たいのか、わからないまま引っ張りまわ

されると、途中で退屈して、もう読むのを

やめた、となってしまう。

僕らはそこではいつでも結論を求めて

いるのがわかる。何が言いたいのかは、

この結論じみたものが出てくれば

わかるので、何が論点なのか、いつも

促すのだ。それが早すぎることも多い。

早すぎなくても、それなりの展開が

あれば、それについて行くのは、小説

などの楽しみを求めている場合だろう。

音楽について行くのも、その音楽的

展開がうまくて、乗りやすく、退屈しない

場合に限られる。

だから言葉を読む場合も、なんらかの

楽しみを求めていることが多く、ほとんど

だろう。

マニュアルを読むのはなにかを楽しむ

のではなく、その機器かなにかの使い方

や整理・調整を知るためで、文学的な

マニュアルとか、音楽的なマニュアル

というのは、ふつうの分野ではないだろう。

地図というのは好きな人が読むと、とても

楽しいらしい。半分は想像力で、その地形

や駅の名前、街の名前でそこを空想で

歩いたり、飛んだりするのだろうけれど、

それを地図の全体から読み取る楽しさに

移入する。そして、いくつもそういう場所

を訪ねたことがあるので、その発見も

多いのだろう。そうなると、地図では見え

ない場所にまだ未知の発見という刺激が

読み取れる。その興奮をまだ訪れない

前から読み取る。それができてしまうように

なった人も必ず、いる。それがほんとうの

僕らの隠れた力だからだ。

それが特別ではなく、なんということも

ない力だよ、感覚だよ、という世界が僕の

世界なのかもしれない。

何もないと言えるのに、恐ろしく退屈させない

力がある、言い表せない世界。

ここにあるのだが、他人も少しはいる

のがわかるが、まったく見えないので。

僕の貸し切り状態が続く。

これは結論とか、生き甲斐とか、誇りとか、

伝統とかの名誉というプライドに関わるもの

とは別なものだ。動物が人間に暴動を起こ

さないのも、生き甲斐にこだわらず、それ

に関わっていないからだ。地球の所有や

利権に関わらなければ、当たり前にある

ものだが、人間社会にはこれが許せなく

なる。それは自己実現とかの幻想と

関わるから、それを夢の位置に置いて

しまうと、夢は堕ちて現実になってしまう。

かくてその小世界を支配するように行動

するのは一部の偶然を必然に変え、

その後はそれしかなくなってしまう。

それらは本質は狂気と呼ばれるもの

だが、その多くは成功と呼ばれている。

成功者が(その成功の度合いに応じて)

なにを、またどれほどの命を犠牲にして

きたかは、少し、どの歴史でも調べて

みればわかるので、ここで説明する

までもない。



ここが静の世界とするなら、反射で動

の社会が見えるだけである。

ここが書けない世界なら、動の世界は

当然、書ける世界であるだろう。

山の一軒家で住む一家族はその一日

くらいしか小説らしい面白さはないが、

街に出れば商売と経済・政治・性・

技術カテゴリのトラブルや犯罪で、利

を争うので、資本や流通のために

仕事があり、どこを見ても書ける世界

になる。大衆小説はいつも花盛りである。



誰も山の一軒家の生活に感心するが、

また憧れる人もいたりするが、興味に

とどまり、実行する人はあまりいない。

それを僕は面白いのだが、面白いと

思う人はいるだろうか?それは僕が

考えた通りのことが起こっている、と

いうことでこの世はそういうものだと

いう証左を芝居のように見せられて

いる。

こうなればいいとか、そうなるのがいい

のだと言いたい人は、言わせておけば

いい。皆が皆で決めない限り、なにごと

も大事は変わらない。

僕は複雑だ。

こうなればいいと皆が思うことを知って

いるが、それをそのまま信用はして

いない。こうなっては欲しくないという

のもわかるが、そうなった場合のこと、

その先を誰も考えていないのも知って

いる。

どうあればいいとか言うのは、そういう

他人の意見ばかりの場所からはなにも

生まれない。あなたに必至の動機がない

と、物事は実を結ばない。今はこの意見

が必要だということを判断できること、

世渡りには大局・小局、また戦略・戦術

の読みが必要になる。それには他人の

意見や古典の教養な哲学意見だけでは

間に合わない。現実は待ってくれない、

他人は待ってくれない場面のほうが多い。

また、誰かの適当な意見を待って賛同

する人も多い。

今日も老夫婦の死があった。ふたりとも

80.90歳くらいだった。認知症の妻を

介護していた夫が、熱中症で亡くなり、

その3日後に妻もたぶん、衰弱死したの

だろう。身寄りがいないだけで、こうして

万が一の工夫もできずに亡くなり、気が

つくのが遅くなり、国も自治体にも責任は

問えないのだろう。では、自然死だった

のか?事故死だろうか?

しかし、いいだろう。答えは出ているが、

それからの逃避する文化ばかりが進んで

いるから、それを補佐する機能が働か

ない。それが悪いというなら、僕らが悪い

ことになる。僕らは当事者だからだ。

そして、当事者ではない、と言うからだ。

その責任が問題なのかどうかも、誰も

問わないだろう。皆が内々でつぶやく

だけだ。

気のつく人でさえ、自分の家が燃えて

いるのを外に避難して、眺めている

だけだ。靴に泥がついて汚れている

から、火事は消せないけれど、靴は

洗ってきれいにしよう、と言っている

ようなもので、皆はそれでよし、として

いる。何も変わらない、と。

その考えこそ、植え付けられた考え

なのだが、そう言われても、まったく

自覚できないのが僕らだし、また、

声を荒げて意見を述べようという

のが僕らでもある。これが批判や

非難でないのは、僕はよく知って

いるが、そう受け取られてしまう

のも知っている。僕らが自分のことを

実感するまで、生の誤解を解かずに

生活する限り、僕らはこの透明で

濁った空気の沼からは出られない。

今までの歴史上の革命の暴力を

いかに否定できるかまでにそれら

をよく読み。調べ、熟知して、本質

までも捉えうるなら、革命の提案

もいいだろう。

だが、それは必ず、おかしな新しい

革命になるはずだ。例えば、その

おかしさはガンジーが行った非抵抗

運動のような、殴られたら、引っ込んで

次の人に交代するという、非暴力を

象徴した、またそれとは違う形での

その国での、その時代での革命の

形を採るはずだ。未知のことは確定

できない。どうして、その理不尽に

見える抵抗運動に人々はついて行った

のだろうか?ガンジーは満州国日本

の結末も見ていた。ガンジーは何者

だろう?

インドに、カルカッタに行ってみると

いい。今でも見えないカースト制が

う機能しているのか、聴いてみる

といい。          7. 7



今日の昼に安倍元首相が参院選の

街頭応援演説中に銃撃された。

昼だったので、昼番組で出演した

コメンテイターは準備もなかった

とはいえ、ひどいコメントだった。

通行人のボディチェックはされて

なかったのか?散弾銃を持って

いたのなら、近づく前にわかった

はずだとか、信じられない。

中国なら通行人のボディチェック

もするだろうが、ここは日本だ。

散弾銃を持っているものが、それを

うまく隠さずに見せびらかすように

持ち運んでいたとは、考えられない。

僕にはそれが常識に思えるが、

コメンテイターには最初には、いくら

突然とはいえ、そんな低レベルのこと

しか言えないとは。

これはショックが広がるだろう、とは

思ったが、僕には何のショックもない。

これはこれで4点セットが出そろって

しまったな、という考えを思い出した

だけだ。

まだニュースはないが、ご冥福を、と

なるだろう。(17:03に訃報が速報で)


昨年のコロナ禍で今年がどんなに

ひどい年になるかが感じられた。

具体的に何かがあったのではないが、

考えたのは4つだ。コロナ禍はもう来て

いるが、まだ続くこと。次に自然の

大災害だ。今年も気象庁史上初の

オンパレードで、6月に40℃越え、

福島県沖、石川県の震度6強弱の

地震の頻発。そして、世界の戦争勃発。

ロシアとウクライナ。最後に、日本で

テロが起きること。元首相の銃撃は

正確にはテロではないかもしれない

が、日本で起きるまでは、国内での

日本人の要人襲撃事件は誰も実感

はなかっただろう。

僕は実は、これよりも昨日の英首相

ジョンソンの辞任に先行きの不安を

感じている方だ。岸田首相は欧米に

尻尾を振る方に決めているだけで

これまでのように何もしないだろう。

欧米と露中との先行きの見えない

これからのほうが、どれだけ注目

すべきか、ということを考えている。

プーチンの頭はナチスに戦勝した

一時代前の地図と考え方の様式の

ままのようだし、金平糖に至っては、

毛沢東になってチンギスハーンの

領土を再興しようとしているらしいし、

二の句が継げないという呆れた様は、

これを言うのだろう。しかし、現実は

その過去が権力者の頭で優勢らしい

のだ。


空は晴れている。心も似せているの

だろう、明日はついに陶土をねりに、

窯のある陶房まで行く。外は今日の

明日、まだ騒がしいのだろう。
      
          7 . 8  p.m. 2:34


::
この記事は安倍銃撃事件の当日に

書かれた。亡くなったと思ったが、投稿

は早いと思ったので控えた。訃報は

その2時間半過ぎ、早かった。

          7 . 10

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