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生活はすべて人生のリアル [生活]

ブログを書くのに、昔のブログ

を書いていた頃を思い出す必要が

あるとは予想もしなかった。

過去にどんな曲を聞いていたかを

思い出すことから始めなければ

ならなかった。喋るように書くの

は変わらないが、いろいろなテーマ

を考えることはないのは相変わらず

だが、なにか新しいことが書けて

後で楽しく刺激が得られるのだろ

うな、とは最近思えなくなってきた。

夏バテが一番堪えているだろう。

表現には心の底から突き上げるもの

を拾い上げるのに、かなり集中する。

力技なのだ。

そこにはそれでも地平がある。

音楽のように流れ出るものは、確かな

何かなのだが、その確かさが失われて

ゆくのだろう。

夏バテだけではない、力の衰えを感じ

る。そこへ向かう時の意識の長い舌の

ような伸びるものが感触がうすくなり

つつあるという、それまでがわから

なかったものだから、今更、失いつつ

あるものも何かはわからない。

今の欧米のソフトロックなどを聴いて

いるので、時代の感覚はないが、

ビートルズも同じように聴いているの

は、ずいぶん時代がかっているな、と

思う。1960年代も21世紀もただ音楽

として聴いていて、他の古い曲は聴き

たくないようだ。一時期はビートルズ

にもうんざりして聴きたくなくて、

聴かなかったのだが、最近は復活した

ようだ、それにしても、物心がついて

から半世紀という長い時代の流れを

経験するとは思っていなかったので、

こういう感想をする自分を珍しい

動物でも見るように見つめる。



青春というのもわからない。生きづら

かったのが障害者の一部の反応でも

あるのだから、一般の過去の青春と

かの思い出への反応とは違うのかも

しれない。

しかし、少しずつだが、歴史の一角が

感じられてくる。逆に、人はこういう

ように思い出を自分と絡めて時代の

一角に寄り添い、一体化するのだろう、

と広がって来る。

そう、なつかしい自分というタオル

ケットにくるまれるようだ。ホテル

カルフォルニアなどこんなに明瞭な

メロディ、ギターの切れがいいとは

思わなかった。

そういう懐かしさをあふれさせて、

その中に溺れるのだろう。そうでな

くては思い出に浸るというに、なら

ないのだろう。と、いつもの癖が

出てしまう。

よくスポーツで生徒を優勝などを

目標にして、生徒をまとめ上げ、

皆の気持ちが一致することで、これ

が真の教育だとぶち上げる先生がい

て、本まで書いているが、そうだ

ろうか。

皆で練習してお互いに励まし合って、

とかそれは気持ちいいに違いない。

目標に予定調和としての気持ちの

まとまりという一体感が想定されて

いるからだ。

しかし、これは楽しみの一環では

ないか。悔しくて泣くのが、また

頑張ろうという気にさせるが、それ

はやってきたことがわかりやすい

絵を描いたからではないか。これ

は人生の一部の情熱の活かし方で

はあるが、とても人生を教えるよう

なものではない。パロディやカリカ

チュアなどであり、いいとこを抜き

出して表現した点では、歪めたとも

言える。

それは僕らの音楽の求め方にも現れ

ている。音楽は特にポピュラー音楽

は大勢で歌えて、合唱して、皆で

気分を盛り上げるようにできている。

また、そういう時に僕らは音楽を

取り上げるのだ。

そういう雑多な音に僕らの記憶が

詰め込まれ、思い出の歴史盤が頭の

中に出来上がる。

僕らはいろいろな楽しみを持つので、

音楽の果たす役目は人生において

大きい。その曲を聴いて時代の一角

を再び演出して描き出すことが

できる。

が、よく見れば、それは仮想現実だ。

僕らは夢に生きなければならない

時間が必要なので、そういうものを

夢に託すのだ。

そして、それらはくどいが、人生で

はない。善悪とか、思想とか、主義

で見ようとするが、それは視野を狭め

ていることで、木を見て森を見ない。

僕は車を運転するが、快適だと思っ

たことはない。こうして狭い箱の空間

に押し込められて、死と隣り合わせで

神経を使わなければならないのか、と

思う。車のコマーシャルでもどの車も

四角いのでたいしてデザインチェンジ

になっていないのだ。細かい処を変わ

ったように宣伝しているが、僕らは

教育されてそれでも車は格好良いと

思い込まされているだけだ。

特に航空機などは搭乗時間で待たされ、

乗っても景色は雲ばかりだし、せい

ぜい足を伸ばしてくつろぐだけで

長時間も退屈でビデオを観るか、

寝るのが関の山だ。

文明社会で便利になったと思って

いるが、僕はそう思えない。大阪

まで東京から1時間で着くように

新幹線が進化しても、そんなに急ぐ

必要があるのだろうか、と思う。

速ければ速いほど途中をぶっ飛ば

してしまうのだから、例えば、

8時間で日本を一周したからと言っ

て、日本を理解したというつもり

ではないだろうに。そんなことを

言いそうな感覚になりそうで、・・。


僕らの体の占める体積の感覚が

僕らの世界感覚を占めてしまって

いる。オリンピックでもわかる

ように体には限界がある。または

オリンピックの選手のようには

走れないし、投げられないし、

運動はできないから、特にそう

思う。

うまく説明できないが、現実と

夢という二大対立のものがある

というのは錯覚だと思う。

あるのはリアルさというもので、

それは現実にも夢にも、双方に

あるものだ。それは出会うもので、

それまではなんとなく考えてい

たり、空想していたりで、僕らは

見ようとしない。

柔ちゃん(谷亮子)のオリンピック

での戦いの後のインタビューが記憶

に残る。

彼女は上からも横からも四方から

相手を見て、隙を見つける、とい

うようなことを発言したのだが、

インタビューする側も驚いたの

だろう。理解不能だったから、

それについて何も尋ねないのだ。

それはどういうことか、聴かな

いのだ。自然にスルーしてしまう

のが、僕らが新しい、未知なこと

に出会うと反応する態度だ。

聴こえても聴かないから、スルー

してまず覚えていない。リアルさ

に対応できない、適応と言ったら

いいのだろうか、できない。

そして、可能な限り思い出を気に

入った風に記憶を染め上げる。

これがふつうに行われていること

なのだが、しかたない、と言える

ほどに習慣になったようにも見え

る。

僕らが自分を守って、弱味を見ない

し、記憶もスルーする生活はいつ

から築かれたのか知らないが、それ

は僕らがとどのつまりまでは自分を

知りたくはない、そういう弱さから

来ているように感じる。

エゴ、エゴというが、見たことは

あるのだろうか。いいエゴとか、

悪いエゴとか区別しているのでは

ないだろうか。それは構わない。

ただそこにリアルはないという

ことを認めなくなってしまって

いる自分本人には気づけないこと

がいつまでも知られないままだと

いうことだ。

これで説明になっただろうか?



たぶん、なっていないと思う。

自分から身を乗り出すように

リアルに首を突っ込む姿勢に

ならないと、ほとんどものごとは

僕らにやって来ない。僕らは道筋

を初めに考えついて、ゴールを

決めてしまう。電車に乗るのと

同じだ。行き着く場所は誰が乗って

も同じだと気づかない。それは

頭の中の駅名から駅名へたどり

着くことに他ならないのだが、・・。

僕らに必要なのは山で遭難しない

ために知識を豊富にすることでは

ない。

それはほんの一部だ。実際には

遭難したら何が起こるのか、それ

が現実的に想像できる山への

最低限の経験と、例えば冬山では

汗をかいたらどんなに面倒でも

着替えることなどだ。そういう

鉄則を身に着けることだ。ただの

知識では汗が凍って凍死してしま

うケースが実際にある。それが

リアルってものだ。

ベテランは経験が豊富だから、それ

をよく知っている、というもので

もない。常にどんな事態が起こるか

わからないのが自然なのだから、

長年の経験という自然に比べたら、

比較にならない短時間で未知の未来

を測ろうというのは、もはやベテ

ランではない。それがリアルの現実

だ。

経験で必要なのは知識(必要知識は

ふつうにある)とか時間の長さを

経たということではなく、リアルに

対しての姿勢なのだ。

僕には人生はリアルでできていて、

その現実も夢も同じように厳しく

も、美しくも見える。



(くどくなってきたから、ここらに

しよう)


2023.8.27
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