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算数は数学になっても、言葉は人による [言葉]

スピノザは17世紀の近世合理主義哲学に

位置づけられている、始め数学で哲学を

書くつもりだった人だ。デカルトやライプ

ニッツの時代の人だ。数学が好きだった

のだろう、若い14歳の時には数秘術に

はまって研究したらしいが、少しも合理的

ではなく、真理の追及には向かないのに

気づいて、荒唐無稽と毒づいて捨て

ている。

スピノザも読みたいが、読むだろうとは

予想もしていない。現在、僕の読書漂流

はアガサクリスティーから小説に入ると

いうイレギュラーをやらかして、パトリシア・

ハイスミスのリプリーに及んでから、また

離れて、’ギュンター・グラス’の手紙やら、

’最新の世界史解釈’や’ナショナリズム’

を横目にして、’太陽系の謎’とか’量子

力学’の復習やらして、また小説の作家

ゴーゴリに入っていった。まともに1冊でも

読んでいればいいのだが、先日も旧約

聖書の新共同訳で略解を購入したが、

1500頁も解釈文だ。略でなくて詳解

だったら、3000頁以上になるのか、と

意欲がめげていた。

細かい精解はどうでもいいことにしたい

のだが、いざそこで引っかかったら

と思うと、つい買ってしまうのである。

ロシアのドラマで匂いで犯人がわかって

しまう「スニッファー」というのを再度見て、

ウクライナのドラマと知った。ロシアの

ウクライナ侵攻からそれに会う。次に

ゴーゴリに会ったのが、映画の

「魔界探偵ゴーゴリ」だった。

短編集の「ディカーニカ近郷夜話」

が原作で、珍しく神秘・怪奇が

面白くて、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと続けて観て

しまった。合理性と神秘性が両方

ともに物語に据え置かれていて、

片方に偏っていないのが、公平で、

それが印象的。

ウクライナは当時ソ連邦の1国だった。

ゴーゴリはウクライナ生まれだった。

ただ単にロシア人だと思っていたが、

キーウはロシアの中心だったことも

あったらしい。



占いというものも律儀に考える人は多い

のだろうが、韓国ドラマに刺激されて、

も一度遊んでみることにしたのだ。

節入り間近に生まれた場合、その前年

や前月の干支を使用するというのが、

伝統らしいが、僕の直感でそうしない

ほうで、どうなるのかが気になった。

英国人の占師では折衷して干支を

用いているので、僕もそれとは少し違う

形でずらして、図式を作ってみたら、

かなり自身に合うようになった。

たったそれだけで判断は随分違って、

異なるものになってしまうので、占い

もまたいい加減なものだと、再確認した。

そのずらし方は直感によるものだが、

それでなるほどと思う判断も出てくる

のは驚きだ。が、人間の内部心理を

知れば、占いで語るのはその傾向の

ようなことばかり言うので、大体6割は

当たる、というか合うように(その人が

思い当たるように)なっているので、

改めて驚くにはあたらないのだ。

むしろ、当たると思い込まされるほど、

僕らの知る自分がそれほど矛盾に

満ちて、また拡大解釈ができるほど

融通無碍(自由に考えられる)なのが

驚きである。

占いはもっと幸福的に、人に夢を与える

ぐらいいい加減さを増した、所謂インチキ

になった方が良い、と僕は思う。当たる

かどうか非常に怪しいと天才哲学者が

思ったくらいだから、心が開けない人には

安心のために夢を大いに与えればいい。

また、自我が強い人には逆に思い通りに

行動する迷惑さについて、厳しい指摘を

したほうがいい。現代なら、よほど権力

のある者でも占断するのでなければ、

昔みたいに殺されることもないだろう。

大体、庶民相手なのだから、希望を

もたせて、生きる方向にデタラメでも

いいから教えたほうが、本人には役立つ。

気分がよくなって、それが潜在意識に

うまく入り込めば、本人の運勢も確実に

変わるはずだ。問題は占いが当たるか

どうかではなくて、本人がどういう自覚を

’潜在的に’持つか、が重要なのだ。



僕は、だから、自分の直感で占いを修正

してしまうのだろう。はなから占いは信用

していない証左だ。占いでさえ、自分で

コントロールするものだ、という、それが

僕の人生観だ。 なので、 ・・楽しい。

人生は自分で創る。それができる、今は。

思えば、変な奴なのだ、我は。貧乏くじを

わざわざ引くような選択肢ばかりを選んだ。

当然、苦節に出会う。そこから学ぶ、と

いった根性曲がりの生活だ。半世紀も

それで過ごすと、この世の外からの

生活になる。それは死の中の生活だろう。

と言っても、わかるはずがない、皆が

敬遠する方向だからだ。誰も経験しそうも

ないことばかりが起こる。自然とこの世を

越えた世界の片鱗にばかり、会い、初めは

翻弄されるが、なぜかそういう放浪の旅を

しなければならない。生きるとは何かを

究極に求めようとすると、ふつうにそうなる。

特別なことではない。そういう動機に出会う

人は少数派だということで、無理やりに

そういう生き方にならざるを得ない。

しかも、無意識に社会から絶縁しないように

結婚までして保険をかけている。不思議な

要領のよさだ。当時、そんなことは考えも

しなかった。



勝手にずらして占断を変えてしまった占い

だが、僕は高齢になって死ぬ時期を3つ

ほど予想しているが、その占断の大運で

その1つに死にそうに決定的な時期が

出てくる。なるほど、ここが死に時かぁ、

などと喜んでいる。希望と予想は、よくよく

考えてみると、その占断の時期が相応

しいので、まるで当たったみたいなのだ。

実際に病に倒れたり、死んでみなければ

わかるまいに、本人はそれで喜んでいる

のだから、人は自分が思っていることを

誰か第三者に言われたいものらしい。

それくらいの人生への甘えはいいんじゃ

ない?と思うくらいには、占いが廃れない

のも世の習いなのだろう。いい加減でも

安心は必要なのだろう。

スピノザは自身の哲学に満足したの

だろうか、(読むまでいかないかも知れ

ないが)聞いてはみたい。スピノザ伝?

スピノザの日記? スピノザの生涯?

近くの図書館にはないので、調べると、

AMAZONに「スピノザの秋」*に紹介が

あった。::

「スピノザは、いくつもの多面的な姿で

現われ、奇妙な法則で動く世界を遍歴

する。寓意と論理に構築された、狂気

と幻想の世界。」=魔界探偵ゴーゴリ

のような奴らしい。なんでもかんでも

シンクロするんだなぁ。どうもしあわせな

死に方はしなかったろうと思わせる。

ゴーゴリはシモーヌ・ヴェイユのように

食事も医者も拒否して、自ら衰弱して

死んだ。狂死という言い方もしたのが

あったが、それはちと違うように思う。

天才たちの死は、天才の病気・狂気・

神経障害という体の不思議に関わって

いるだろう、と彼らを見てきてそう思う。

天才でなくて、よかった。(笑)

*

「スピノザの秋」は小説だそうだ。本人

とも哲学とも直接関係はなさそうだ。

ますます、世界の名著の解説くらいしか

頼りにならないのか。と思ったら、すぐに

講談社のBOOK倶楽部に「スピノザ 人間

の自由の哲学」がこの2月に出版されて

いて、読みやすいとamazon書評。生涯と

思想がヒントで読めそうだ。

興味があれば、検討を。


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あれもこれも過去の未来絵、ルオー [ルオー]

トランプを切る時にカードをスライド

させる、そのカードがどんどん過去に

捨てられてしまうようなら、カードは

どこへゆくんだろう?と考えたことは

なかっただろうか?

生活は一枚一枚のカードをスライド

させているような気がして、そう書いて

みた。過去は消えない。僕らが気持ち

を切り離すだけだ。それがないと、

進めない。が、過去はいつでも現れる。

過去にスライドされたものは、未来の

出番に復帰するために、小さな結晶

として心に貼りついているようだ。

そんなことを思った。

それがルオーに出会ったことだ。

図書館では古本市で1冊10円で

廃棄処分にする古書を売る時がある。

それが3月だったが、コロナのため人

が集まるのを避けて、今年は開かれ

ていない。その代わりに、少しずつ

持ち帰り自由のコーナーに並べら

れて、早い者勝ちになっている。

いつそれが置かれるかわからない

ので、行った時に、入口に近いので

覗く。

「古代地中海美術」が眼についてすぐ

に抜き取った。「日本の天然記念物」

の動物Ⅰと地質・鉱物も取り出したが、

どれも大型本で重くて、持つのも限界。

そこに「ルオー」もあった。額縁に入った

絵を描いたような絵を描く画家だ。

今まで興味に上がったことがなかった

が、妙にちらっと気になって、それも

取り出すと、ほんとうに限界の重量。


まるで泥をなすりつけたような絵だ。

輪郭線と腕などの線を太く描いている

だけじゃないのか、と大雑把な描法だ

と思った、第一印象。しかし、すぐに

その孤独が絵からにじみ出ているのが

見えた。何とも言えない苦みがある。

それに惹かれるように、ページを繰って

いると、全部見通してしまった。

この力は?気になった。ネットでルオー

を検索して驚く。キリストの題材が多い、

この画家、第2次大戦の終了の頃で、

74歳ですでに世界的に有名な画家に

なっていた。中世の頃の画家では

なかった。現代のちょっと前の画家だ。

結婚して、娘が三人いる。内面と社会的

にはまったく別に生活しているのが

伺えた。


この話はこれで終わってしまう。ルオー

について、その孤独の正体を探りたかった

が、適当な文献がない。彼の書いたもの

も邦訳されたものはない。お手上げだ。

だからこそ、150頁のほぼ図版が多い

とはいえ、一気に見てしまったその理由が

わからない。そして、抽象的と思われた

画風が紹介の、小さな画面(モノクロ)で

見ると、実に明暗から顔の表情まで写実

のようによく描けている。技法がない、デタラメ

にかきなぐったのではない、確かな腕の

持ち主だった。郊外のキリストの憂愁ったら

ない。並みの技量ではこうは描けない。

(当然だが)

ルオーの印象は僕の頭では記憶になかった

が、いまにそれが蘇ったような気がする。

ルオー1.JPG

ルオー:本の表紙。中にこの絵の解説が

     ない。多分「聖顔」か「受難」のシリーズ。

    <現代世界美術全集12 より>


シンクロについて書いて終わろうと思ったが、

画集にルオーの略伝と言葉が載せてあった。

見落としだ。それくらい、図版に見入った。


芸術について::

「形態創造の神秘は、ある種の方法を必要と

するものです。即興的にはしないものです。

感情だけで即興的にできるものではありま

せん。深い感性をもってしても。 ・・・・・・・

それよりも、生涯をかけての努力が必要

なのです。」

孤独者の苦悩 ::

「この世の終りともいうべき災禍は、愛する

ことを恐れることです。人は愛することを

恐れる。社会の階級の上から下まで、誰

でも幸福でありたいと願い、楽しみたいと

願いながら、苦しむことはしない。何という

哀れな愚か者だろう。何という不幸者だろう。

いやそれよりも何という不具者だろう・・・・・。

解き放たれた野獣人間のほうが、感情・・・

を去勢されたこれらの哀れな連中の集団より、

まだ遥かに意味があります(・・・・・)。強い

ものはすべてそういう連中をどぎまぎさせ

不安にさせるのです(・・・・)。

 私は少しずつ孤独に生きることに慣れて

きました。・・・・近頃の人々が鑑識の眼を

養うための時間をほとんどもたないのだ

ということを思うとき、自分が理解されない

という事実を静かに受け入れながら生き

ようと思います。世間の人は、とくに「評判

を得たもの」を何も理解しないまま讃える

のです。」

自然の教え ::

「 散歩に出て、私は雪のすばらしいある

効果を見ました。変化に富む空は、経験

したこともないものでした。緑と灰とを基調

にした硫黄色、さらに、花びらのように

優しい一連のばら色、ばら色と灰色の

ぼかし ― 、想像を絶した繊細な空でした

・・・・。 」 


ルオーは無意識が作品を生きたものにも、

死んだものにもするという言及までしている。

友人になった作家アンドレ・シュアレスへの

手紙にそれらが書き記されている。

ルオーは画家には珍しく、高邁な思惟を

ふつうに直截で言える。批判的で、分析

の結果を述べたような文章は直感による

ものだったのだろう。分析家にならなかった

のは、「議論や分析や饒舌によってでは

なく、」苦悩を通して、生活を通して、と

いうその中身にあったのだが、ルオーさん、

あなたからそう言って110年が経ったが、

今もなにも変わらない、と。

芸術を理解するのに苦悩しようという

ことには誰も振り返りません、と言う

より他ない。

ルオーがそう書いた当時は第一次大戦

が始まる3年くらい前で、彼はそれに

巻き込まれ、次の第二次大戦も経験

しなくてはならない。その戦争が終わって

十数年後、彼は亡くなるが、その晩年

の話である。::

「1917年、画家アンブロワーズ・ヴォラールは
ルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の
所有権はヴォラールにあるものとされたが、
この契約が後に裁判沙汰の種になる。ルオー
は、いったん仕上がった自作に何年にも
亘って加筆を続け、納得のいかない作品を
決して世に出さない画家であった。晩年、
ルオーは「未完成で、自分の死までに完成
する見込みのない作品は、世に出さず、
焼却する」と言い出した。ヴォラール側は
「未完成作品も含めて自分の所有である」
と主張したが、「未完成作の所有権は画家
にある」とするルオーの主張が1947年に
認められ、ルオーは300点以上の未完成作
をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラー
の火にくべたのである。それが彼の芸術家
としての良心の表明だった。」

― Wikipedia より引用。


この時、76歳だった。300枚以上、作品を

燃やしたとは。写真があるが、娘?と一緒に

焚火を楽しんでいるようにしか見えない。(笑)      
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色弱と世界の関係 [色弱]

伝えることはすべて伝えた。ポイントで必要

になることでだが、・・・ 。コロナになるまで

8年間はあったろうか。最後の処では、演技

を学ぶように言ったが、その真意は伝わら

なかっただろう。自分で考えさせないと、自分

で考えてみて納得した答えを咀嚼して、実行

(演技とか)してものになる。それまでは解釈

であって、解決にはならないから。

神経に障害のある者は、まず傷ついた心

から脱出させないと、次に一般的な社会

行動を学ぶことができない。方法をいくら

本で読んでも「自分をごきげんにする方法」

とかも役に立たない。心を開かなければ、

それは自分(傷ついた心)から見た方向

や考えを当て嵌めてしまう。それから外れ

たものには抵抗・反発が勝つので、実行は

疎かになるし、まずしない。



久しぶりに会った彼は脱出する方向に

歩いていた。・・ 驚き。引っ越ししたとは

聞いていたが、彼のほうから詳しく話す

までは、その動機も聞こうとは思わ

なかった。

会ったので聞いてみると、なんとつきあう

女性がいて、少し前に喧嘩したとのこと

だった。引っ越しで出た古着を処分する

ことに(カビたのもあったらしい)彼が

同意したが、捨てなくてもいい服もあった

ので、翌日やはり、捨てないほうが、とか

言ったのだろう、彼女は一度わかったと

言ったのに、それを翻すの?、という

ことでぶつかったらしい。

大いに笑った。男と女はそうやって妥協

して行く点を見つけてゆくんだよ、それ

が人間の関係というもので、そういう

やりとりが男女では続いてゆく、と

そこまでできた目出度さに、笑いが

止まらない。心の狭さから脱出させる

のはどれほど困難か、それが女性

とのつきあいでできてしまう。まったく、

なにを心配していたんだか、という話だ。

彼にはこの世がどういうものかを経験

させなくては、そこから安心させなく

ては、と考えていたので、今はそれ

よりも一歩も二歩も進んでいる。

それの例題として話そうと思っていた

のが色弱の人が初めて色を見た話だ。

以前にブログに書いたが、それをもう少し

深く進めてみたい。

YOUTUBEで「色弱」や「初めて色を見た」

とか検索すると出てくる。

ここからは、その動画を見たものとして、

そこから話す。なので、見ていなければ、

今見ることを勧めるし、この先の文章は

今はまだ読まなくて、中断してもいい、

となる。



彼らが色弱の泥色の世界から色の世界

に飛び込んで見たものは、僕らが見て

いる世界ではない。まともに同じ世界だが、

僕らの見る世界はすでに物心ついた頃

からデフォルメされ続けてきて、認識が

優先され続けた、曇らされた世界だ。

くり返す、認識はものそのものを言葉に

換える。それが「何」ということがわかれ

ばいいから、それで見るのは終わりだ。

僕らはほとんど、色も形も表情もタッチ

もいい加減にすまして、見ない。それが

何か(=名前)インプットされれば、

あとは無視されるのが、この世界へ

の僕らの対し方だからだ。

なぜ、色を初めて見た彼らに、もらい

泣きするのか。わかっていても、また

見ると泣けてしまう。彼らの「言葉に

ならない感動」が言葉ではなく、そのまま

伝わるからだ。見ただけで、それがわかる

とは、実際どういうことなのか、それを

知ろうとはしない。”言葉にならない感動

があった”という=言葉を認識して、それ

で終わっていることにも気づかない。

その言葉を動画を見ないで、聞かされた

だけの人は、決して泣いたりはしない。

<言葉ではわからなかった>、からでは

ないのか。

美しい色というものは、「美しい」という音声

でも、言葉でもない。小林*なら「色の美など

ない、美しい色があるだけだ」という言い方

をするだろう。(*小林秀雄) 

僕らは感動をもらって、彼らを見てもらい

泣きはできても彼らのように、この世界の

色を見て、泣くことはしない。何という相違

だろうか!

そう思わないのだ、彼らが見ている世界と

僕らが見ている世界が同じように、眼の

前にあるのに!

つまり、僕らは目の前の世界を頭の空想に

通過させて、そのものを見てはいない、

そのことに気がつけない。だから、僕らが

相手にしているのは半ば空想じみた

世界だ。

それを刺激的に加工して、仮想空間や

芸術っぽいものに表現を見出して、文化

だと言う。

これは進歩でも発展でもない。感受性を

失うための自己的世界を構築することだ。

それが自己そのままではなく、自己的な

空間に耽溺しようとしている。そして、

いまその中途にある。すでにその迷妄

から始まって、長い歴史の百年の時間を

歩み終わっている、それを知らない。

僕らの眼はもうそこにあるものが何か

がわかれば、もののなんたるかは、何も

見ないという処まで、退化し始めている。

ちゃんと言えば、すでに退化を始めて

いるということだ。これが科学からの

文明や言葉からの文化の払うべき代償

だとすれば、少しの反省で、時代のペース

を全体でバランスを取れるように、人間の

全体の教育自体から考え直して、すべて

変えてみてもいいのではないか、と僕は

考える。


そうではないか、ご同輩。いるかな、そこに、

誰か? お~い!


雲海の上の旅人1..jpg

カスパー・D・フリードリヒ 作 ::

フリードリヒは18-19世紀のドイツ画家。
ドイツ・ロマン派で重要と。
描いた絵に名前をつけなかった。絵に
後世の人が名前をつけたが、それを
紹介しなくてもいいだろう。本人は、絵を
見てくれ、と言いたかっただろうから。

僕は「誰か、お~い!」と命名するが、(笑)

 ###
前回の「出る杭は打たれる前に~」に続く。
が、どちらが先でも、互いに補完するはずだ。
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ナツメヤシの謎?と漱石の謎々 [謎]

僕は魯迅に興味がある。それは若い時

に彼の作品「阿Q正伝」を読んで、ショック

を受けたからである。どこにでもいそうな

人和見主義の西洋かぶれ、中身のない

議論、という偽善ばかりの人物、阿Qが

僕らと等身大に描かれていた。



地方の地主?かなにかの息子であった

魯迅は元服すると、それまで親友で

あった近所の子が親に連れられて、

これからは「坊ちゃま?」とかなんとか、

尊敬の呼び方をしなさいと、息子に頭を

下げさせるのに出会う。もう彼とは対等

に遊べない仲になってしまう。その

悲しみと習俗への反発が描かれていて、

印象に残った。

魯迅は日本に医学生志望で留学して

いる。が、中国人留学生は日本文学

に傾倒する者が多く、その中に魯迅も

いて、彼は医者にならずに、作家に

なってしまう。

ライシャワー日本研究所のカレン・L・

ソーンバー教授は比較文学で、夏目

漱石の「吾輩は猫である」が「阿Q正伝」

に影響があるとして、主人公の設定が

似ていることを挙げている。それが3点

で、ともに名前がないこと、社会を批判的

に眺めていること、最後に死んでしまうこと、

と。そして、エピソードが似ているとして、

阿Qが大根を盗む場面は、猫がお椀の

雑煮をつまみ食いする場面で、魯迅は

絶望的に、漱石はユーモラスに、と

魯迅がその場面を再解釈して、絶望の

場面に脚色して描いた、という。

まず、「吾輩は・・」が「阿Q・・」に似ている

という時点で、驚きだった。「吾輩は・・」

は一応読んだが、流し読みでも、魯迅の

「阿Q・・」は全く感じられなかった。

彼女は本当に「比較」だけをしている。

似た場面がそれが皮相(=うわっつら)

でも影響と考える、または触発された

と考えるおおらかさというか、間抜けさと

いうか、勘違いというか、それは想像し

なかった。

ただ、夏目の小説が彼に影響を与えた

可能性は大いにあると思う。僕は福岡

に行った折に、県立図書館をサザエさん

通りを歩いて、訪ねたことがある。その時

に新刊の「漱石のこころ」という新書を

知った。中に「坊ちゃん」は陸軍省の

公金横領で自殺した元老(山城屋)と、

陸軍中将だった山縣有朋への風刺が

煉りこまれている、とあって、普通に

正義感により、悪玉教頭らが懲らしめ

られる物語として「坊ちゃん」を読んで

いた僕は、毒気を抜かれてしまった。

日露戦争でいつ検閲が始まるやも、と

いう情勢の中で漱石は、検閲にあっても

言い抜けできるように文章を綴ったの

だった。山城屋が宿も質屋も同じ号は

おかしいと、気づきもしなかった。

魯迅は中国人の眼で、他国からの比較

で客観的に自国の文化を背景に、文学

に警告発揚の道を見たのかもしれ

なかった。 

ソーンバー教授は驚くべき、皮相な論理

で比較する人で、それはそれなりに発見

もあるだろう方法だが、僕にはその著者

の動機や目的という心情に触れない、

見かけの文学比較はその影響という

重要さを考えると、主流には用いることが

できない、と一歩引いてしまう。



漱石は単に判官びいきの作家だったとは

考えにくい。心情はそうだったろうが、もっと

複雑な思考も反映させた、時代を見る眼を

持っていたし、西洋文明の受け売りの文明

開化に批判的だった。なにせ、東大の講義

でLOVEを訳すのに、愛してるとは日本で

訳さない、月がきれいですね、と訳すとか

言ったか言わないか、そう教えたとか、

ナゾナゾが好きだったようだ。

これから読むにしても、よほどからめてから

読んだ方がよさそうだと、ちょっと反省した、

ソーンバー教授の一部の文からの刺激

だった。「ハーバードの日本人論」(意見

を述べた10人の一人)

::


ナツメヤシ?当然、月はきれいです流の

夏目漱石のことだ。彼には謎が多いから

これからも評論の本が出てくるだろう、

すでに百冊も出ているだろう、のに、

うざったいことだ、そんなに多くは読めない。
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ウクライナ、うっくさいな [バカさかげん]

この記事、ウクライナとはなんの関係も

あり得ません。誹謗中傷ともなんの縁も

ありませんセデス2錠? (笑?)

頭痛薬の宣伝でも、もちろん、ない、と

強調すべきか?  まぁ、いい。

ジャスミンの花がこの処、咲き始め、

今日はほぼ満開だ。

じゃすみん1-1.JPG


隣りからはみ出している。これが匂う。

いや、臭い。ウッとなるほど、むせ返り

そうに、くさい。近くで嗅ぐ匂いではない。

うっ、臭いな、 と。

ジャスミン茶はいい香りなのに、現物

はこうもくさいのは、解せない。が、それ

が普通かもしれない。小学校だったか、

明治のチョコレート工場見学の時もそう

だったし、オランダの風車観光に行った

時も、チョコの工場が近くにあって、むせ

そうな匂いが通りにも漂っていた。

現物はきついのだ。適度な距離と、拡散

されて弱められた匂いだから、いい香り

に感じるのだ。そう言えば、化粧品の

香水も似たようなものだ。どこまで

薄めるかも、必要な生産工程のひとつ

なのだろう。

強情さ、意地っ張り、頑固さは人間の

現物のひとつなのだろう、と考えが飛躍

する。本人は気づかなくても、現物は

きつい。

本人が気づかないのは、自分がそうだ

とは認めたくないからだ。だから、そう

指摘されたことがあるのだろうが、その

指摘さえ無視する。

ジャスミンに戻るが、今日気がついた

ことがある。普段は見ていないものだと

思う。それは蕾が細長いのが、赤い

ことだ。蕾のまま、赤から白に変化して、

白い花を咲かせる。

じゃすみん2-2.JPG

なるほど、今まではただなんとなく、咲いて

いるのを見ていただけだ。日常の注意とは

こんなもので、言ってしまえば、僕らは不注意

なのだ。うっ、くさいな、も忘れていたくらいで、

思えば1,2年前もそう思ったのだ。記憶に

さえとどめていない。

昨日もうちのが形がオレンジに似た、

オレンジかなにか?蜜柑を、しなびたので

もう食べなければ、と少し苦労して剥いて

いたが、食べると甘くておいしい。生きの

いい頃より、酸味がうすれ、甘いのだ。

うう、~ん、長生きは甘味が増す?

人間には一般的には適用できない特徴

だろうが、それで島で思い出したことが

ある。

少し、家から登ったところにレモンの木

があって、下にしなびかけたレモンが1個

落ちていた。もうしなびかけているし、いい

だろうと拾ってきた。期待しないで包丁を

入れると、すかさずレモンのいい香りが

した。まだ、生きている、となにかにかけて

食べたが、フレッシュだった。しなびても

馬鹿にできなかった。つい、これスーパー

で買うと、いくらぐらいと金額を思い浮か

べてしまった。ヨーロッパの一般的な主婦

なみだった。欧州ではレストランの会計で

必ず、計算して金額が合っているか確か

めるのが習慣だそうだ。暗算は日本式

の数字のほうがた易いが、日本では

しないだろう、計算違いはそれほど多く

ないからだ。英語やフランス語で計算を

考えるのは、ひと手間らしい。

それと値段をごまかす文化がない。ひと

それぞれで、ごまかす人はいるだろうが、

文化と言えるほど定着していない。

どの国でも定着している文化は、嘘を言う

ことだ。これはあいまいにしていいことが

生活では多いし、プライドが主流の人間

だからこその、社会文化だ。嘘でもちょっと

褒めておくとか、あるある。子供に嘘を

つかなかった親はいないだろう。それは

ほぼ子供のためだし、言ってもわからない

からだ。

では、読者のためにブログで嘘を言っても

いい、という命題は正しいだろうか。

ここで二者択一の考えに陥ると、答えは

迷うだろう。なーに、設問が正しくないのだ。

正しいかどうかを聞かれたら、これは嘘は

正しい行いではない。が、嘘はありかどうか

を聞かれたら、あり、だ。残酷なシーンが

頭にあっても、それをリアルに細かい描写

をするのは社会通念にそぐわない。

そういう見えない常識は、その人もその

社会も縛っている縄だ。で、海外に行くと

驚くことが多い。

僕がオランダに行って、驚いたのは、駅に

改札口はあるが、改札はしていないことだ。

自由に切符も見せずに素通りできる。もう

電車に乗る人のモラルに任せてしまって

いる。時々、列車内で切符拝見の車掌が

回ってくるらしいが、僕は1回も見かけた

ことはない。そういえば、ホームにある

バーガー店で、どうやって英語で注文

しようか、看板メニューを見ながら、迷って

いた自分を思い出して、可笑しい。3回

は看板を見に、うろうろした。(笑)

アムステルダムの駅前は、今は日本と

同じに見えるが、あの頃は緊張していた。

人形のピノキオが初めて人間になって、

どう話したら人間らしいのか、悩んだと

したら、そういう異質な環境を感じて

しまう緊張感があった。


なぜ日本で精神的に煮詰まって、息苦し

くなると、海外へ飛び出したのか、それ

は野生の勘と持ち前の反抗精神だろう。

煮詰まると、人は自然に死にたくなる。

それは衝動に過ぎない。自殺したいの

ではない。自分から解放されたいのだ。

それでさらに緊張を呼ぶ海外へ行って、

不慣れな環境に身を置こうとするのが、

僕の一般的ではない特徴ある行動だ。

信頼できる人がひとりとしていない、

まだ知らない環境へ、というのは死に

相当する場面を求めてのことだ。

死にたいと無意識にも感じると、では

死にましょう、と素直にそれに向かって

行くのが、その行動様式だ。めちゃくちゃ

とかバカと、呼ばれることをするのが、

第一の衝動にして、面白いのだ。

だんだん冒険心として、無理はしない

方向性が出てくるが、基本は冒険好きだ。

死にたい、というのは、自分は絶対死な

ないと思っているから、言うような言葉だ。

その確信を当てにして、それを実際に

確かめて、自分に証明するために、

日本を出るのだ。今までの海外は

すべてそうだった。

その癖、被(こうむ)りそうな危険や事件

や、などなどは避けるつもりで、時期

とか場所・国などは慎重に選んでいた。

東南アジアは宿の予約なしで、陸路、

国境もその場で決めて通過する

つもりだった。慣れ始めた海外ひとり

旅、帰国後に五島列島の離島の家を手に

入れ、次はエジプトだ、とか思って

いたら、コロナ旋風に見舞われ、で

足止めされ、今に至る。

例え、解禁されても、もういろいろな

意味・条件で海外渡航は難しくなって

いる。

家でジャスミンを楽しんでる、わけだ。


大学での20代の頃の日記を読んで

みた。小林(秀雄)との出会いを確認

するためだったが、わからなかった。

だが、その紙面には文学青年だった

絶望好きな自分がいた。これだけ

時間も空間も離れても、そこにいる

のは同じ自分に思えた。ただ、今の

ようにはしあわせではない、嵐の中に

出航する、頭デッカチで傷心な青春を

空費する贅沢な自分だったが、・・・。

リプリー(パトリシア・ハイスミス著)*の

境遇に遊びたいのは、今でもその自分

の影が死なないからだろう。



*「リプリー」はルネ・クレマン監督で

アラン・ドロンの主演で映画「太陽が

いっぱい」は大ヒットした。(原作とは

少し設定が違い、結末も変えて

いる。)

 ・・・・・・ いつの話だ?


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ああ、豈図(あにはか)らんや、中枢神経か [世界]

<5月、GW直前の記事になる>


GW、ゴールデンワーカー=黄金の働く人、

・・ ではない。(笑)

黒っぽい旅客機なみの軍用機が、300m

ほど離れた家の屋根に隠れて、それほど

低く飛んで、いずれ着陸しようとする。

米軍の厚木基地に着陸するのだ。

それは厚木にはない、名前だけだ。

何事もない、それでいて不穏な空気は

個人的なものだ。

大晦日のようなものだろう。世間は

夜通しで電車が動いていて、特別な

遠足のような楽しい雰囲気があるが、

個人的には何もない。元旦の0時が

来ても、何も起こらない。

昨日も近隣に買い物に出かけたが、

車が多い。いつもとは違い、片側車線

だけ渋滞で、その反対車線は車が

いないという有様だ。それで地元住民と

しては抜け道ばかりを選んで、渋滞に

巻き込まれずに帰ってくる。

GW,ゴールデンウィークかぁ、いつも

同じで車を利用して、遠出はしない。

車でなくても、まず出かけない。

東名も21km渋滞とか、うちのも笑って

いたが、出かけなければ笑っていられる。

僕が極度に渋滞が嫌いなので、出かけ

ないのだが、これは僕の生理作用による。

運転するのは自分なので、車で走るべき

時は適当に休憩・仮眠して、2日間ぶっ通し

で運転したこともある。まだコロナ前の4年

前?の話だ。

なので、運転している時に運転をさせない

渋滞は絶対悪なのだ。(笑)  ともかく、

そういうのは時間の無駄を感じさせて、かと

言って、読書ができるわけでなく、渋滞は

缶詰状態ではなく、監獄状態なのだ、僕に

とっては。読書にしてもDVDを観るにしても

それはそれほど楽しくなく、黙考して自由を

楽しんでいたほうがいい。運転中は何が

起こるかわからないから、それが一番でき

ない。

旅行で最も好むのはひとり旅。次に気の合う

人と少人数でする旅。楽しいのは少人数

の旅だが、その欠点を補っておつりがくる

のが一人旅だ。寂しさというのも、ふとすると

なかなか風情なのだ。それを思うと、いかに

自分が贅沢な時間の中にいるかがわかる。

寂しさがそのまましあわせになる。そして、

充実した時を過ごしていると、満足する。

移動して、留まり、留まっても2,3日だ。

調査とかなら別だが、移動してゆく、その

無常さが快い緊張を生んでくれて、飽き

させない。旅情はなにも観光の物象が

外にあるばかりではない。自分の内側に

なければ、旅はただのむなしい移動に

なってしまう。これは楽しかるべき旅が

むなしくなった離島への3年目くらいの

旅で味わった。同じ場所なのに、夢が

なくなってしまった。島の探検に行こう

という意欲がまったくなくなってしまった。

それは予兆でもあるかのように、岩場

から落ちて大けがをする羽目になった。

それは救急車を呼んでストレッチャーで

運ばれる初体験で、その楽しさがあった

のだが、夢は取り戻せなかった。

この夢には「気」が必ず付いていて、

気分を高揚とさせる。気といっても、

見えず、聴こえず、なものなのでそう

言っているだけで、ある種の感覚には

なるだろう。これは思い出してわかるが、

人間の脳に備わった適度な脳内麻薬と

呼ばれるものだと思う。これは自力で

発生させることもできるが、マラソンとか

で苦しくなると自然発生するし、日常で

微量に放出されている。これが僕らの

前提としての楽観主義になる気分要素だ。

生まれてから通常であるから、僕らは

幼少期に虐待やスパルタなどで妨害され

ない限り、楽天的な考え・気分を日常で

持つ生物だ。

神経障害者が現代では大幅に人口に

比例してだろうが、増えているので、この

楽観性が阻害されているように見える。

何度も書いたが、学校の先生はその

半分が神経科に通った経験を持つし

(精神不安定)、癌になる人は人口の

40%(古い資料で)だが、それと同じに

神経・精神科クリニックにお世話になる

人も同じように羅患するという。ロシア

の作家ドフトエフスキーもてんかんだった。

有名人で神経障害者だったと想像される

人は多い。天才がそもそも障害者のなか

の社会適合が可能な特殊な者を示すの

だから、そこに落ち着くのかもしれない。

特に最近では自閉症に積極的な診断

をする傾向で、社会との適合を持つまで

閉じこもって(ひきこもり)自分を守るの

が自閉症だという解釈がアメリカでは

広がっている。レモンの楽曲でヒットした

米津玄師は自閉症だったというから、

そこそこ信憑性はあるのだろう。



この頃はどうなのだろう、薬害といって

年寄りの入院患者に薬を大量に飲ませる

傾向が、どの病院にもあったらしいが、

下火になったのだろうか。病院の経営は

厳しいらしいから、今は薬よりも、検査、

検査なのだろう。ただ、それがどういう

検査なのか、必要を自分で決めるのは

簡単ではないだろう。

僕は健康おたくなので、「家庭の医学」の

本で調べてから医者に行く。自分である

程度の知識と見識を持たないと、医者が

何を言おうとして、何を言わないのかが

わからない。が、医学はまだ好まないので、

医学事典は読みこなせていない。

自分の持病についても、長いつきあいだが、

著名な医師とその弟子にあたる医師とに

別な時期にそれぞれの医院で診断して

もらったが、意見が異なっていた。弟子は

師匠の医師を批判するようなことを言って

いた。専門家で意見が異なるのだから、

自分で決めるしかないとなってしまう。

それでも疲労限界から発病して、入院も

したが、それは失敗だった。医者の

誤診を指摘して、自分で検査数値を

(結果としてだが)調整して7日で退院

したが、一時的だったので、またぶり返し

が何回もやってきた。

体の一時的な調整は、なぜかできるよう

になった。現在、持病での飲み続けていた

医院の薬は(勝手に)やめて、市販薬の

ものを飲み続けていた。それも今は

時々に抑えている。今は持病よりも、

体がすでに衰えて、疲労しやすい体質

になっているから、それとの調整で暮らし

てゆくのが、正解な日常だと観念して

いる、この頃だ。これを称して、ふつうに

人間をやっている、と。そう思っている。(笑)

もうできることは限られている、とは

思っていないが、そう考えた方が気楽だ。

限られれば、その範囲内でできることが

大容量になるからだ。つまり、自由になれる。

これ以外の自由のあり方への解釈は妄想

になる。突き詰めて考えてみればわかる。

僕らは限界があるから、そして、事実と

しての限界はないから、そこで自由に

なれる。若い考えは無制限の自由を想う

が、そうしたら、社会も法律も、男も女も、

理想の体型とかルックス、精力、すべて

の勝ち負けもすべてが思い通りになる。

これはうまい中華料理を毎日三度三度

食べ続けるようなもので、始めはいいが、

子供の頃から食べつけないものは、

飽きてしまい、しまいには苦痛になる。

中華料理は見たくもなくなる。それは

すべてが思い通りになるということも

同じで、その全能力にうんざりしてしまう。



女でも男でも友人でも、自分の考えるの

ではない人間を神として造るしかなくなって

しまう。それも抵抗されたりのトラブルが

あるだろうから、すぐに消してしまうだろう。

最後は銀河系と銀河系とをぶつけて、

自分も宇宙もろとも滅ぼしてしまおうと

いうのが、1年後か、百年後か、千年後

か知らないが、それくらい孤独になるの

が落ちだ。それが人間の孤独という運命

だからだ。



人間が孤独になるのは、自分が不適応

(理解できない、納得できない)を起こす

からだ。つまり、すべてが理解できて、

そのあらゆる関係への対応をそれなり

に納得して生きるのならば、孤独とは

無縁になる。そうならざるを得ない。

苦しい時はそれを少しずつ緩和して、

楽しい時はそこにはまらないように節制

して、その上で楽しみや悲しみ・苦しみ

に情緒する。それは単なる感傷ではなく、

諦めでもなく、信じられないだろうが、

喜びである。

僕らはすでに世界に在る。それは

それ自体がそういうことだと、日常

で感じることにある。

なんか、仏教の説教じみてきたな。

が、そういうことなので、法華経とかを

写し読みしたのではない。ほとんど

読んでいないし。

どうしてそんな予測ができたか、いや

できない。<=豈図(あにはか)らんや。>



::
最近、自分の言っていることがすべて

ではないのがわかってきたので、(前から

それはわかっていたが、その知っていた

部分とは異なる、それを包み込む事柄で)

自分臭さを出しづらくなってきた。僕らは

自分臭さに惚れているので、これを出さ

ないでは快感を、それが微量でも、得られ

ない。書くということも、どんな芸術もそれを

避けられず、逃れられない。それがまた、

自分と共通項のある、気が合う人間との

接点になっている。だから、僕は聖人も

神様も好きではないのだろう。尊敬する

人は多い、死んだ人でもう自分が変わら

ない、で多すぎるくらい。自分を尊敬でき

ないのは、残念でもあるが、 ・・。

利口だし、要領がいいし、時に賢くもある、

そういう人は、自分もだが、尊敬はできない。


そばに行くと、胸があたたかくジーンとなる人

がいる。それは僕にとって尊敬を越えて

しまう。

たぶん、有識な社会人や少数の犯罪者の

中にもいるに違いない。「生きざま」という。

過去の映像とかで見るだけで、まだ会った

ことはない。これが男女の場合は遺伝子

の誘惑という危険の徴候なので、誤解

のないように。



ああ、豈図らんや、僕らの世界。
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欲望が止まらない無限システムについての一試論 [欲望]

昨日は休日だったので、なにもしないで

溜めた疲労を体に出すことで終始した。

今朝のうちは、それでだるかった。

昼も過ぎて、少し外に出る気になって、

ふと着想することがあった。それは本を

買い続けることへの疑問なのだが、

ただの強い知識欲・好奇心の発露くらい

にしか思わなかったが、無と無限について

誤解があると気づいた。

駐車場に出て、一回りする間に答え

は出ていた。そういうこともあり得そう

だ、と。


もっともっとと言って、際限のないのが欲

の特徴だと言われて、またよく耳にして

育ったが、そのシステムは解明された

とは言えない。わかりきったことならば、

僕らの欲望はもっとコントロールされて

いいはずだからだ。実際には手痛い

失敗をくり返してその経験を基にしな

ければ、僕らは我慢を実行しようとは

しない。

ひどい例としては、ある作家が肉が

好きで肉ばかりの食事を10年か、20年

か続けて、大病を患い入院して、とうとう

肉食ばかりはやめたそうで、またある

漫才師の相棒はヘビースモーカーで、

とうとう咽喉癌で声帯を切り取る手術を

する羽目に陥った。それからのリハビリで

僕らにはわからないが、家族にはわかる

程度に言葉らしき発音ができるように

なったが、強く喫煙を非難していた。

自業自得だが、自分からは止められ

なかったのだろう。

欲望にはどうして、ここでストッパーの

ようなものが働かないのか?考えて

みれば、それは疑問だろう。

単純に感情の要素は知的計算の結果

よりも行動に及ぼす影響力は強い。

もう食べ過ぎになるな、と思ってもそこに

好物なものが出てきたら、大抵、食べて

しまう。そのあと下痢をした経験があって

も、今回は大丈夫かもしれない。100%

下痢するわけではないから、自分を騙し

て食べてしまう、そんなこんな、だ。

この誘導はなにによって起こるのか、

それがゼロと∞(無限)に結びついた。

0と∞は別な抽象概念だ。それは数学

の世界の話だが、0や∞を基本にして

仮の数学体系を作ることは、多分可能

だろう。しかし、それを現実にその内容の

定義を考えると、0は心では「無」になる

だろうし、∞は「宇宙」に比較するくらいの

広大なものになるだろう。それを僕らは

想像することは現実的にできない。

物があったのに、無くなったというのは

超神秘なことだ。それは物を失くした、

だから無い、ということとは違うからだ。

有機的無機的な物象としての存在が、

まったく消失して、この宇宙から存在を

消してしまったことだ。

それは想像の外へ出てしまった。想像しよう

がない、その方法がない、ということになる。

それは無限においても同じで、終わりの

ない状態なので、どこまで行ってもという

想像自体が誤っている、考え方を誤解して

いることになる。

この時、∞を1としても、心でそれは矛盾

だと思う。言葉の∞は=無限だが、概念化

するにはどこかで区切って、名前をつける

必要がある。例えば、刃が一枚のものは

ナイフだが、二枚(組み合わせた)のもの

はハサミだというように。 

どこかで区切れるのならば、それはすでに

無限ではなくなってしまう。心はその果て

なきを知っているので、具体的に想像は

できなくても、あいまいに済ますことは

できるから、無限というのはあいまいな

もので、言葉としてでなければ、成立しない。

要は中身が決まらないことだ。それは無

でも同じことで、抽象でも「有」の中でなけ

れば、それを具体的に頭に思い浮かべる

ことはできない。

つまり、僕らの心の中で、「無」と「∞」は

似たような共通の特徴を持っていて、誰の

頭にもその全体像を結んだことはない。

有史以来、数万年も。

今もその事情は変わらない。だから、僕ら

の欲望が限界に達すると、理性ではこれ

以上は諦めるべき、結果が伴わず、無駄

に終わるから、という判断が示される。

しかし、その人がある欲望に執着して

いたり、それの生き甲斐で生きている時

には、そこで飽和してしまう。もう手段が

残されていない。それを捨てると生きら

れない、という場所に追い込まれると、

もう思考が停止、または侵蝕されてしまう。


限界というのは、そういう人に簡単に

あいまいな概念の交換をさせることが

できるし、それをするのだろう。

それが「無限・限界突破」を「無」に変換

することだ。欲望の限界は突破されると、

そのまま無限に変換され、さらに「無」へ

とあいまいな中で変身する。

似た者同士で、しかも思考は停止して、と

なれば誤解が生じるのも仕方ない。

(ここで限界突破はよく思考停止と言われ

るが、実際は思考機能は停止しない。それ

がそう見えるのは、思考の結果が行動の

規制に向かう動機を失っているからだ。

頭では、それはよくない、と考えた概念が

知識として浮かんではいるが、だから、止め

なければという動機に結びつかない。心は

限界突破の結果、無か無限の闇に放たれて

しまって、もうなにかを区別して行動に結び

つけるという足場を失ってしまっている。

だから、思考は浮遊するばかりで、いずれ

消えゆくのだ。)

僕らは飽和すると、考えもなしに、無限

(または底なしの無)に1を足す。2を足す。

それはいくつ大きな数を加えても、無限

より大きくはならない。

かくして、そこに違和感を感じることなく、

僕らはもう飽和していっぱいいっぱいの

欲望にさらに欲望を重ねて、膨らませて

いく。無限プラス、いくら足しても無限

だから、それは尽きることがない。

心と精神に重大な欠陥がなくても、睡眠欲・

食欲・性欲・運動欲・知識欲・などは生きて

ゆく上で欠かせない。心が不適応によって

欠陥が生じていると、喫煙・ギャンブル・酒・

女遊び・禁制の薬などがやめられない、

ほぼ病気、依存症となる。

僕の場合は好奇心・知識欲の一部で、

もう本を買っても読み切れないほど、溜め

込んでいるにもかかわらず、本の購入を

止めることはできない。そして、知識もそう

だが、それよりも書物という厚さ・形態・重さ

装丁というもののほうに惹かれる。なので、

読めればいい、ではなく、書き込みがある

のを大変嫌い、できれば味わいのある装丁

を好む。



理性のある人は必ずしも、すべて100%

理性的な行動をするわけではない。が、

理性的に現実的な判断をする者でも、

自我を強調させやすくなるその国や分野

のトップや権力者になると、飽和しやすく

なるので、独裁になって、権力を集中させ、

トップになっても、どこまでも管理できない、

無駄な権力でさえも手に入れようとする

だろう。

チンギスハーンやアレキサンダー大王は

精力が人並ではないので、長く続いた戦い

に部下が疲れていて、故郷に帰りたいと

思っても、まだ戦うことがしたい、戦い続け

たいという意欲は衰えない。もうその

ストッパーが壊れていたのだろう。若ければ、

それだけゲーム感覚も強いから、現実の

感覚も失っていたのだろう。

ヒトラーはそこまでの精力はなかったらしく、

気力が低下すると、そばに置いていた

主治医から興奮剤の注射を打ってもらって

いた。1945年の敗戦の頃にはそれも効か

ないほどで、精神にも悪い影響が出て、

味方のドイツ将校や将軍を解任したり、

粛清したりして、自分の墓穴を掘っていた。


自我の飽和は、自分が壊れたに等しい。

宝くじとか当たって、自滅する人は

金額がいつも使用している生活費や年収

の金額を大幅に超えてしまうと、自我が

飽和(この場合は有頂天)して、思考が

停止しているから、自分がどんな状態か、

自覚することができない。僕らも心に

富裕な金額がしっかり刻まれないで、

偶然大金でも手に入れたら、すぐに飽和

してしまうだろうから、宝くじとか買い

続けている人は、大金をいかに安全に

分散して管理するか、対策しておいた方

がいい。当たったら、すぐにぶっ飛んで

しまうから、その瞬間からの対策である。

10年、もしくは20年買い続けると、1等や

高額賞金が当たる、と確率は教えている。

時には苦しい生活でそれを継続するのも、

理性的な行為であるから、その努力を

したくなくて買う人の一獲千金狙いの心情

とは矛盾しているのかもしれない。


0と∞、それが心にどう定義できるかで

そういう欲望に巻き込まれる喜悲劇に

遭遇しなくてすむかもしれない。たぶん、

九死に一生を得た人がその不思議で

強烈なショックから、その強い動機も

得て、無とか無限に接近しようと無意識

に瞑想など始めるのだろう。もちろん、

現実にどういう状況が自分に当て嵌まる

ヴィジョンなのか、その多様性から選択

するというのもあるだろうし、その場合

そこからそのシミュレーションに接する

応用も大事だ。



心や精神は’言葉’の無常でもあり、その

宇宙でもあるから。


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ブリが来た [ブリ]

島からブリが届いた。(4. 27)

島の家は手放すことになった、たぶん。

冷蔵庫を残しているので、それを使う

代わりに、お礼にブリを送るということ

だった。40cmのサイズだとハマチ、

80cmでブリということだ。

ぶり1-1.JPG

ちょうど80cmのブリ。

うちのキッチンは狭いので、娘の家まで

行って、広いスペースを借りて、解体した。

背と腹が切れ込みが入れられて、腹は

内臓も出してくれていて助かったが、想像

するより大変だった。出刃包丁で始めたが、

首のあたりのカマが骨があり、硬くて刃が

通らない。3枚におろすのだが、1枚目が

四苦八苦する。

やはり、カマの処で切り離せない。いったん

2-3cm手前で切り落とすことにした。

こいつの骨は人差し指の太さほどあるが、

硬くて刃が立たない。そうしたら、骨は

折り曲げる箇所があって、そこからおじぎ

させればいいと娘がスマホを見ながら、

教えてくれたが、横向きにお辞儀させると、

骨が割れて、無事に頭を離せた。(これで

よかったのだろうか?)

それから頭を二つに割るのだが、動画では

ハンマーを使っていた。人間力だけで割れ

そうもない。そのまま置いてきた。娘が

やってみたが、5cm刃が入った程度だった。

ぶり2-1.JPG

この頭だが、プラスチックでできているか

のように、つるつるで石のように固い。

これをかみ砕くのがサメならば、その歯の

力は想像をはるかに超えているだろう。


網から引き揚げたのを、氷漬けで、冷凍は

しないで送ってきたから、着いた頃は食べ

時だと言っていた。もともと漁師だった人

だから、魚やイカのおいしい漁期はよく

知っている。島に行った時には一度は

必ず魚を差し入れてくれたので、

刺身はうまいのを食べていた。

ぶり3-1.JPG

手前に映った身が一枚分である。刺身で

4-5人前ある。もう一枚は切り身にしたが、

刺身にしたならこの一匹だけで8-10人前も

ある。その分量をさばくのに1時間かかって

しまった。ともかく、大きいので、疲れた。

しかし、夕食は刺身で食べたので、やはり、

味がしっかりしているからだろう、冷凍もの

は刺身も飽きるが、これは3人前?の分量

でも二人で食べきった。美味かった。



この解体は非日常的な楽しみで、興奮も

味わった。数日前までの高揚した気分は

これの予兆だったのだろうか、知らん。


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孤独を思い出しかけた時の心象 [孤独]

<4月下旬は雨が多かったのだろうか。

個々が転換期の前兆になるとは、思い

もよらなかった。 6. 2 >


孤独を郷愁する心がわからない。

これは自然に生起する感情なのだろうか、

と考えてみる。今少し前に、孤独を思い

出した気がした。そう思った瞬間にまた

失ってしまった。いつかの自分に戻った

気がした短い瞬間だった。

孤独はまず自分を気負うという姿勢が

あるのではないか。そこに自分が投射

されて、切り離されて回復しない自分を

感じる。それが今それを見る自分に

反射されて返ってくる。自分がひとつに

なって、切迫した息苦しさも感じる。

この透徹した閉塞感。自分は閉じ込め

られて、もはや行く場所がない。それが

余情に感じられて、哀切に感じる。

これは確かに、文学になる。僕が

憧れる要素はこれなのだろう、文学に

内包される孤独感。・・ ということなの

かもしれない。

こんにちわ、文学。こんにちわ、孤独感。

その屹立感の、届いているのは人間らしさ、

という場所なのだろうか。

Bachとukuraina.png

ウクライナとバッハ  陽秋:画 


::
孤独は寂しい要素に見られているし、

そういう心の様相を示すけれど、どうも

心の養分を含んでいるという感触から

逃れられない。孤独感により、侵食される

のは、なにか欠陥があるせいで、僕らは

健康な状態なら、侵食されずに、孤独感

とは違う形で心に、なにかを受け入れて

いるのではないか、と思考が繋がれて

ゆく。ふつうにそれを支えるものがあって、

それに照射される心の光線の違いに

よって、或る時はそれが孤独に、また

或る時は、何になるのだろう?それが

わからないが、わかればこのシステム

の存在が公になるのではないか、と

ここまででたどり着いた。

若いと、老い、時間がそれを陶冶する

ように自意識に配置されなければ、

・・・・・・ それは突然、背中が見えて

他に何もないのを悟ってしまう、といった

黒い画面に小さな白い点を見つける。

時間感覚が崩れて、感触が時間では

ないものが現れる。それを世界と仮に

位置づけよう。世界が現れて、それが

真であるように(実際は真でも、偽でも

ないのか、どちらでもいいのか、わから

ないが)、振る舞い、それを認めようと

すると、その固定が固定化されようと

する瞬間に自分自身が壊れる、のを

感じる。その世界ではなんでも自分

独りで何もかもしなくてはならない。

なにもかも、できるわけがない、と

考えさせるために出されたのが、背後

が見えない暗闇からのサーチライトの

ようなものだ。彼は一人だけ照らされて

絶望の淵に立たされたように感じる、

まだ見ていないから、それは暗闇だと

感じさせられて。

その痛み。そのつらさが、自分を知り

たくないという潜在的な思惟だ。自己

防衛だ。その痛みで止めようとする。

そこで止まるために、せつなさが押し

寄せる。これが僕のうちで起こる、また

は過去に起こったことのある”孤独”と

いうやつだ。

ここまで思考のスピードにほぼ合わせて

通過したが、詳しくは何を言っているの

か、検証してみる、あとで。


ぶり1-1.JPG

次のブログは ブリ。 になるかも・・。


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