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ああ、豈図(あにはか)らんや、中枢神経か [世界]

<5月、GW直前の記事になる>


GW、ゴールデンワーカー=黄金の働く人、

・・ ではない。(笑)

黒っぽい旅客機なみの軍用機が、300m

ほど離れた家の屋根に隠れて、それほど

低く飛んで、いずれ着陸しようとする。

米軍の厚木基地に着陸するのだ。

それは厚木にはない、名前だけだ。

何事もない、それでいて不穏な空気は

個人的なものだ。

大晦日のようなものだろう。世間は

夜通しで電車が動いていて、特別な

遠足のような楽しい雰囲気があるが、

個人的には何もない。元旦の0時が

来ても、何も起こらない。

昨日も近隣に買い物に出かけたが、

車が多い。いつもとは違い、片側車線

だけ渋滞で、その反対車線は車が

いないという有様だ。それで地元住民と

しては抜け道ばかりを選んで、渋滞に

巻き込まれずに帰ってくる。

GW,ゴールデンウィークかぁ、いつも

同じで車を利用して、遠出はしない。

車でなくても、まず出かけない。

東名も21km渋滞とか、うちのも笑って

いたが、出かけなければ笑っていられる。

僕が極度に渋滞が嫌いなので、出かけ

ないのだが、これは僕の生理作用による。

運転するのは自分なので、車で走るべき

時は適当に休憩・仮眠して、2日間ぶっ通し

で運転したこともある。まだコロナ前の4年

前?の話だ。

なので、運転している時に運転をさせない

渋滞は絶対悪なのだ。(笑)  ともかく、

そういうのは時間の無駄を感じさせて、かと

言って、読書ができるわけでなく、渋滞は

缶詰状態ではなく、監獄状態なのだ、僕に

とっては。読書にしてもDVDを観るにしても

それはそれほど楽しくなく、黙考して自由を

楽しんでいたほうがいい。運転中は何が

起こるかわからないから、それが一番でき

ない。

旅行で最も好むのはひとり旅。次に気の合う

人と少人数でする旅。楽しいのは少人数

の旅だが、その欠点を補っておつりがくる

のが一人旅だ。寂しさというのも、ふとすると

なかなか風情なのだ。それを思うと、いかに

自分が贅沢な時間の中にいるかがわかる。

寂しさがそのまましあわせになる。そして、

充実した時を過ごしていると、満足する。

移動して、留まり、留まっても2,3日だ。

調査とかなら別だが、移動してゆく、その

無常さが快い緊張を生んでくれて、飽き

させない。旅情はなにも観光の物象が

外にあるばかりではない。自分の内側に

なければ、旅はただのむなしい移動に

なってしまう。これは楽しかるべき旅が

むなしくなった離島への3年目くらいの

旅で味わった。同じ場所なのに、夢が

なくなってしまった。島の探検に行こう

という意欲がまったくなくなってしまった。

それは予兆でもあるかのように、岩場

から落ちて大けがをする羽目になった。

それは救急車を呼んでストレッチャーで

運ばれる初体験で、その楽しさがあった

のだが、夢は取り戻せなかった。

この夢には「気」が必ず付いていて、

気分を高揚とさせる。気といっても、

見えず、聴こえず、なものなのでそう

言っているだけで、ある種の感覚には

なるだろう。これは思い出してわかるが、

人間の脳に備わった適度な脳内麻薬と

呼ばれるものだと思う。これは自力で

発生させることもできるが、マラソンとか

で苦しくなると自然発生するし、日常で

微量に放出されている。これが僕らの

前提としての楽観主義になる気分要素だ。

生まれてから通常であるから、僕らは

幼少期に虐待やスパルタなどで妨害され

ない限り、楽天的な考え・気分を日常で

持つ生物だ。

神経障害者が現代では大幅に人口に

比例してだろうが、増えているので、この

楽観性が阻害されているように見える。

何度も書いたが、学校の先生はその

半分が神経科に通った経験を持つし

(精神不安定)、癌になる人は人口の

40%(古い資料で)だが、それと同じに

神経・精神科クリニックにお世話になる

人も同じように羅患するという。ロシア

の作家ドフトエフスキーもてんかんだった。

有名人で神経障害者だったと想像される

人は多い。天才がそもそも障害者のなか

の社会適合が可能な特殊な者を示すの

だから、そこに落ち着くのかもしれない。

特に最近では自閉症に積極的な診断

をする傾向で、社会との適合を持つまで

閉じこもって(ひきこもり)自分を守るの

が自閉症だという解釈がアメリカでは

広がっている。レモンの楽曲でヒットした

米津玄師は自閉症だったというから、

そこそこ信憑性はあるのだろう。



この頃はどうなのだろう、薬害といって

年寄りの入院患者に薬を大量に飲ませる

傾向が、どの病院にもあったらしいが、

下火になったのだろうか。病院の経営は

厳しいらしいから、今は薬よりも、検査、

検査なのだろう。ただ、それがどういう

検査なのか、必要を自分で決めるのは

簡単ではないだろう。

僕は健康おたくなので、「家庭の医学」の

本で調べてから医者に行く。自分である

程度の知識と見識を持たないと、医者が

何を言おうとして、何を言わないのかが

わからない。が、医学はまだ好まないので、

医学事典は読みこなせていない。

自分の持病についても、長いつきあいだが、

著名な医師とその弟子にあたる医師とに

別な時期にそれぞれの医院で診断して

もらったが、意見が異なっていた。弟子は

師匠の医師を批判するようなことを言って

いた。専門家で意見が異なるのだから、

自分で決めるしかないとなってしまう。

それでも疲労限界から発病して、入院も

したが、それは失敗だった。医者の

誤診を指摘して、自分で検査数値を

(結果としてだが)調整して7日で退院

したが、一時的だったので、またぶり返し

が何回もやってきた。

体の一時的な調整は、なぜかできるよう

になった。現在、持病での飲み続けていた

医院の薬は(勝手に)やめて、市販薬の

ものを飲み続けていた。それも今は

時々に抑えている。今は持病よりも、

体がすでに衰えて、疲労しやすい体質

になっているから、それとの調整で暮らし

てゆくのが、正解な日常だと観念して

いる、この頃だ。これを称して、ふつうに

人間をやっている、と。そう思っている。(笑)

もうできることは限られている、とは

思っていないが、そう考えた方が気楽だ。

限られれば、その範囲内でできることが

大容量になるからだ。つまり、自由になれる。

これ以外の自由のあり方への解釈は妄想

になる。突き詰めて考えてみればわかる。

僕らは限界があるから、そして、事実と

しての限界はないから、そこで自由に

なれる。若い考えは無制限の自由を想う

が、そうしたら、社会も法律も、男も女も、

理想の体型とかルックス、精力、すべて

の勝ち負けもすべてが思い通りになる。

これはうまい中華料理を毎日三度三度

食べ続けるようなもので、始めはいいが、

子供の頃から食べつけないものは、

飽きてしまい、しまいには苦痛になる。

中華料理は見たくもなくなる。それは

すべてが思い通りになるということも

同じで、その全能力にうんざりしてしまう。



女でも男でも友人でも、自分の考えるの

ではない人間を神として造るしかなくなって

しまう。それも抵抗されたりのトラブルが

あるだろうから、すぐに消してしまうだろう。

最後は銀河系と銀河系とをぶつけて、

自分も宇宙もろとも滅ぼしてしまおうと

いうのが、1年後か、百年後か、千年後

か知らないが、それくらい孤独になるの

が落ちだ。それが人間の孤独という運命

だからだ。



人間が孤独になるのは、自分が不適応

(理解できない、納得できない)を起こす

からだ。つまり、すべてが理解できて、

そのあらゆる関係への対応をそれなり

に納得して生きるのならば、孤独とは

無縁になる。そうならざるを得ない。

苦しい時はそれを少しずつ緩和して、

楽しい時はそこにはまらないように節制

して、その上で楽しみや悲しみ・苦しみ

に情緒する。それは単なる感傷ではなく、

諦めでもなく、信じられないだろうが、

喜びである。

僕らはすでに世界に在る。それは

それ自体がそういうことだと、日常

で感じることにある。

なんか、仏教の説教じみてきたな。

が、そういうことなので、法華経とかを

写し読みしたのではない。ほとんど

読んでいないし。

どうしてそんな予測ができたか、いや

できない。<=豈図(あにはか)らんや。>



::
最近、自分の言っていることがすべて

ではないのがわかってきたので、(前から

それはわかっていたが、その知っていた

部分とは異なる、それを包み込む事柄で)

自分臭さを出しづらくなってきた。僕らは

自分臭さに惚れているので、これを出さ

ないでは快感を、それが微量でも、得られ

ない。書くということも、どんな芸術もそれを

避けられず、逃れられない。それがまた、

自分と共通項のある、気が合う人間との

接点になっている。だから、僕は聖人も

神様も好きではないのだろう。尊敬する

人は多い、死んだ人でもう自分が変わら

ない、で多すぎるくらい。自分を尊敬でき

ないのは、残念でもあるが、 ・・。

利口だし、要領がいいし、時に賢くもある、

そういう人は、自分もだが、尊敬はできない。


そばに行くと、胸があたたかくジーンとなる人

がいる。それは僕にとって尊敬を越えて

しまう。

たぶん、有識な社会人や少数の犯罪者の

中にもいるに違いない。「生きざま」という。

過去の映像とかで見るだけで、まだ会った

ことはない。これが男女の場合は遺伝子

の誘惑という危険の徴候なので、誤解

のないように。



ああ、豈図らんや、僕らの世界。
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