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 休むひと時に、意外に時を超える時 [時]

なにかが 変わるような、 予感、  いや 

予感でなくても いい 

ハムスターの 小刻みな  口の動きに 

解放の 歌が  見える  

そういう 自在な感じが  くれば いいじゃん 

この 数える  歩幅の   リズムに 

押し寄せる ヒタヒタ、 波の  

はるかな 彼方に  国は 浮かぶのか 

海水を  煮詰めて  

はるかな 島に  塩とニガリを 生成する 

君らは  笑う  

僕は  カメラで  撮影されている  

この 紫っぽい 部屋で   雨を  眺める  

なんの つながりもない、 ここで 

なにかが  つながっているのでは ないか 

その 想いだけが  

境目のない  川のように  

流れ 続ける 


風も 

人 も 

木々や  柵も 

答えない 

夜になり 

暗い 地表も 

なにも  答えぬ 

言いたいことや  弁解が 

泡(あぶく)のように  浮かんでは  

消える  

遠くまで  聞こえるように  

声を 上げたい気も、 するが  

それは 影絵や  童話のように  

語り 聞かせる、  そんな気を  

なくす 

沁みて   沁みて   

薬が 効くようだ  

なにも  なくなって  

後悔は  いつもなく 

それも  反省さえ   なくなって  

ようやっと  気分も  おさまって  

自分を  引き取ろうと  

友の  肩を  抱くようだ  



沁みて   沁みて   

薬が 効くように  

夜が  また  

僕を  運んでゆく  



我、 

自分と ともに 

あらん  

長く 逢おうとしなかった  

君は  実験動物のように  

ハムスター だった 

自分を  愛してもいい、 と  

やっと   思えるように  

なった  

君にも  その居場所が  

そこに  あるべき  


気が つかなかった  

君も  家族だとは  

気づかなかった 

ああ 気づかなんだ 





:: 
自分を見つめる僕が主人公で、対象の自分は 

まったく観察対象という剥製にすぎず、時たまに 

自分の苦しみを知るのはぼくだけ、という意味で 

その同伴期間を哀れみから好きだと思いやる 

ことはあったが、意識というスウィッチから出したり

消したりできるピエロには違いなかった。それくらい 

にしか思っていなかったし、それは意識の外だった。 

J・クリシュナムルティは僕が通過してきた少ない師 

の一人だが、孤独を必要とする時、また原点に戻ろう 

とした時に、開く本だ。そして、なんとはなしに読んで 

いて、いつもと同じに明晰・明瞭、まったく文句がつけ 

ようがない。そして、同様に退屈な文。それは時間が 

止まっている視点から(彼の瞑想で現実の異様な世界 

を経験している)見ているからそうなのだ、といつもの 

ように思った。

そうではなかった。その感覚がこれまでよりもわかった。 

そして、それが彼の個性にあるのが感じられた。 

彼が絶対を見ているからそうなのだ、と思っていたが、 

そうではなかった。クリシュナムルティの個性なのだ、 

その視点なのだ、それは。 

なぜ退屈で、つまらないか(それは絶対の瞑想世界だから、 

否定してはならないと思っていた)、そこには社会のぬくもり 

が抜け落ちているからだ。自然の生活の美というが、それを 

表現はしない。社会も個人が虐げられる視点だけから語られ 

ていて、それが人間の営みのダイナミックさ、そういう温かさ 

を彼は述べない。彼は極端な精神の革命を求めるのだ。 

彼は明瞭に世界を見ている。それから逃れられない世界に 

自分を知ることから始めるために、既知の物事を捨てる 

ことからを推奨する。僕は彼の影響下にあった。同じことを 

言って、促していた。まさかと思った師の位置が垣間見る 

ことができた。ブッダが見え始めた時のように、彼の人間が 

見え始めた。 

彼の文が退屈なのは時間が止まっているばかりではなく、 

死にピントが合っているからだ。だから、自然の美しさに 

ついても、美だ、美しい、と言われても、何も感じない。 

事務的に言葉だけに聞こえるからだ。それだけ彼は瞑想 

の印象に着地して、少しも動かないで居られるらしい。 

聖者の動きというのは、ここから発せられているのか、 

と気づいた次第だ。その明瞭・明晰さにではなく、その 

瞑「層」の世界の匂いに誘われて、自分を取り戻そうと 

して彼の本にやって来たのだ、ということを知った。 

どうやら、父の頑固さからは脱したようだ。 父の 

不愉快は僕の晩年の不愉快にはならないだろう。



清明さ、という言葉は以前には水の清らかさのように 

イメージしていたが、この清明さはちがう。黒曜石の 

ように気品で黒光りしているが、底抜けに透明だ。 

明晰だが、透明だ。先を見通すことがいらない。 

見通すまでもなく、透過しているからだ。そういう 

空気の宝石のような、清明さがある。 

宗教や神秘好きな人は、これを奇跡の命の泉と呼んで 

しまうかもしれない。そういう僕らの既知や社会性を 

かぶせた部分が憧れや依存の広義の精神性であり、 

一概に誤解とも呼べないあいまいさなのだろう。 

そして、今の僕の精神性と呼べばいいのか、わからない 

ものであるが、また一段進んだという感覚は、勝利を 

感じさせる。勝つも負けるもないが、僕のできる方向を 

また推し進めることができた。自分では久しぶりに、 

やった、という。 

ま、それだけだが、 ・・・・・・。

Iクリシュナ.JPG

J(ジッドゥ)・クリシュナムルティ のインド国家の切手。(Wikipediaより)


誰かに似ている。皆、誰かに似ている。 

左上のINDIAの英字はインディア、だが、上のナーガリー 

文字はバッ(フ)ハラットと発音する。日本は英字でジャパン、 

日本人は自国を「にほん・ニッポン」と発音する。 

(フ)は気音で日本語にはないが、無音で息を入れる。
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