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ひとり舞台はひとり事情がやってくる [自分と知]

さて、ひとりに なってみよう。

それだけで 僕は完成して しまう、と

いった 印象をこの夜に  思う。

完成って、どんな意味でも 現実には

ありえない世界 のことなのに  

そう思うのは  どうしてだろう。

それを保証しそうな 言葉がある。

それは 僕は どこに いるか、と 

感じて、 また感じて 

感じまくって いることだ。  

どんな疑問  もない。

ここに      いる。 

それが  宇宙の果てから 祝福され

讃えられて  ここに  いる。

ということであり、 観照されている、

ということ。

その 充実感。   やや 誇らしくもある。

その確実感から  心の裏で  

反語になって  

僕は  どこに いるか、となって  

その言葉が  自分のその位置を 

また 確かなものに  するのだ。  

その ロンドは 完成して、

僕の周りを  巡り、  

ここにいる  どこにいる  

その循環が  そのまま  僕になる。

自分で  確かな自分を  確かめられるのは

純粋に  しあわせの 一形式だと  

はっきり  感じる。 

だから  僕は  夜になる  

この暗い 空気を  腹いっぱい  

吸い込む 。

透明な 遠くを求める  感触に  

全身を  浸す、  泳がせる 。



事情が  やってくる、

複雑で  困難な、  信じられない、

疑惑に満ちた  様々な事情が  

黒い 執事のような格好で  

報告に  現れる。  

もう、  君には  見慣れた。 

僕には  君は 

ただの  骸骨だ  

聖骸布で  顔を  拭こうとはしない、 

誰も

誰も、  涙を  ぬぐえない  

事情が  やってくる。 

ああ  いつも  

そして   また  

この  苦しみ  この  悲しみ  

もだえて  あがいて  のたうちまわって  

そんな日が   あったとは  

それが  なぜか  美しい光に よって  

照らされた  舞台になっている。 

こうやって  台詞になり、  

こうやって  演じられ、  

僕の  血と  肉は  はぎ取られ 

高く  天へと  屠(ほふ)られる。

いくつもの  演劇だった。

事情が  ため息とともに  

やってくる。

僕を  納得させるまで  

影法師のように  現れては  

忘却の 扉を  何度も  

開け閉め しては  

眠りと 共に  消えてしまう  

儚い  影 。



これは  なに?  

これは  なにちゃん?

幼い子が  わかっているように  

聞いてくる。  

これは  なに?って  

なにを  指して  いうのか。

春よ  

鯨の  歌う 宴よ 。

島々 の空を  円を描く  空の

生き物 よ 。

さあ、  学校へ 行く時間、

いってらっしゃいと  

ハッピーと 言いたそうな  

人たちが  寝不足で  

大あくびを  する  スルー、 

なにかを  スルーした  運命の

順番を 。 



運命の順番は  覚悟の  通り名。

隔絶と 受胎の  別の名。 

それは 見られていることに  拠る。

不思議なのは  誰も彼もが  

そこに  神を 見ようとすること 

あるいは  ご先祖様とか  

守護霊? 幽霊??

知は  鏡の反作用を  よくする。

僕が  見る時、  僕は  見られる。 

見るということが  見られるを 補完する。

意識を  透過してごらんなさい、 あなた 

闇に想像してしまう  そこは  

反射鏡のある、 知という、 また  

自分という、 底のない場所にあるのは  

意識の 反りかえる  処。

残念、 それは 見えないのだから、 

突き抜けては  まずい。

抜ければ、知の ボロが出て  

鏡に映った  見えない自分を 

感じるのみ。 

ああ  この半世紀  神を感じたことが 

一度でも あれば  それを

探したろうに!  

その安心・安全・愛の満足と  契約が 

交わせたろうに!  

見たのは  何千・何万・何億という 

その憧れと  希求ばかり。 

知りもしない、わかりもしない  

怪奇・神秘現象やら 錯覚の物象に  

人間特有の 自己保存の、 超現実の、 

想像物を  追加してみせただけ。

知性は  自らの影であるから 

そこに  いませて  自らを  裏返す。

僕らは  自然な状態の なかで 

自らの背中を  見ることには  

気づけないし、  また 見ても  その

背中を  知らない。



僕がこう語るのも  そこから 

紡ぎだされた  目視現象で  あるから

して  これが 語ることの  なにかは  

僕の真実の  一部ではあろうが、 

その中身を  書けはしないので  

僕は  その 外面を  書くだけで  

満足と  しなければならない。

真実は  人によってその  見せる面が  

違うのが  本質である。 

だから、知において、  まったく何も  

まったく 何も、である  ( これが

理解されれば、楽なのだが ) 

信じるものが  排除されたときに 

つまり、善も 悪もなく、  右も 左もなく、

考え得る愛も 神もなく、  1も 2も なく、 

ゼロも 無限もなく、  運も 導きもなく、

希望も 絶望もなく、  悟りも 無知もなく、

夢も 現実もなく、  恥も 上品もなく、 

教養も 歴史もなく、  唯心も 唯物もなく、

科学も 数学もなく、  仁も 義もなく、

・・・・ ・・・・もなく、  ・・・・・・・、


どうして 僕は  こうも  挑戦的 

なのだろう。  種を  明かすべきか。

(ここで胃痛のため、 中断。 胸も

神経らしき 痛み。) 

もう書いてきたことなのだが、あなたが

感じてもいないことを理解しろ、という

のはそもそも無理なのだ、とは知って

いる。



無意識は知にとって、無限であるし、

そこには知の性質を逆手に取った

知的な反世界も存在している。

だから、そこではすべての知の産物

が見事に否定されている。それは

そうだろう、知の介入は不可能なの

だから、知の産物の言葉や数式など

は受け付ける筈もない。ひとえに

無関係だから、それだけのこと、―と

言える。

例えば、この世の人は闇といっても、

相対的に生活で捉える。それはそれ

を解釈するのがその人の知による

ものだから、比較するのだ、光と。

だから、光が闇に差せば、明るくなる

と勘違いする。そこが真に闇であれば、

(僕は闇を体験している)光は差せ

ないし、明るくもならない。それは僕ら

が人間だからだ。僕らの眼の構造

では、光が何かに当たって反射して

返って来なければ、光は見えず、

したがって、明るさもない。真の闇に

差す光は、そのまま闇に吸い込まれる

のか、返ってくることはない、ないのだ。

闇の中を、それが例えあなたの横を

通過したとしても、その闇は空気ではない。

真空でもないし、空間でさえない。だから、

走る光の姿は空気・空間に反射しない。

あなたが見ることも、その暇もなく、その

まま闇に突入して、・・・・・・そのままだ。

その後のことは誰にもわからない。

無意識はそういう闇の性質をもっている。


僕らの言葉で概念や精神的な言葉の

ほとんどは無意識の側からは裸にされて

意味を失う。それはただの事実で、だから

どう僕らの現実世界と関わっているのか、

わからないことだらけだ。

そう、だから、わからないことだらけと

わかるくらいなら、その残りが少しは

わかってきている。それも無限分の1

だろうが、(・・・未来永劫)。

そうして、僕は感じてもらえない、理解に

苦しむことばかりを書いてきた。

僕のように初めてのことが好きで、誰も

挑戦したことのないことへのチャレンジが

大好きな人間だからこそできたのだろう。

これがたったひとりの精神の冒険になる

のは、わかりきっていた、と思ったが、

そうでもなかった。

そういうそれを孤独と思っているようでは

とてもやってこれないむなしさの極限の

試練があって、それを慰撫する熱波が

僕を補った。

そういう激情を挑発されることから離れ

ようと自分が思うとは思わなかった。

寂しさとか苦しさとか、絶望とか孤独とか

そういうものがひ弱に感じられる状態が

やはりあった。それは人間ゆえに強制

された状況だったが、そういう状況に

耐える精神性というものは、僕には

発見できなかった。

ではどうしてそういう試練に耐えられて、

負けなかったのか、それは慰撫されて、

助けられたからに他ならない。誰に?

そう、それがわからない。

それは小さな、細い感覚の針先からの

想像に任せるしかない。僕はそれは

これまでに亡くなった死者のエネルギー

によるもの(僕との共感)を感じたと

考えるよりなかった。

::以下、(想像)たぶん、のこと。



それが無意識の愛のテリトリーに

集まっていた。それが僕が落ち込もう

とすると、反応するようで、僕をあたた

かく静かに伝えて、強力な情熱を吹き

込み、生かした。それに2年間も翻弄

されたのだから、そこから離れるのは、

僕としては一大決心だった。(上記の

「離れようと自分が思うとは思わ

なかった」のくり返し)

つまり、僕は人間に関われる、愛と死

という無意識について学んだけれども、

それ以外のその世界については

これからも永劫に無知のままだと

理解しているし、理解させられても

いる。(知の反動・反射として)

だから、天才科学者・発明家にして

霊視者のスェデンボルグにしてもその

別な側面を見たのだろうと、あまりに

リアルな霊界報告をちら読みして、

そういう理解しがたい世界を思う。が、

彼が対話した神にしても天使にしても

信じがたい。わからない世界のことで、

自分が体験もしていないし、どこまで

が錯覚か区分できないことについて、

たとえ似たような体験があったとしても

(それ次第だが)、一概に信じるという

のは、うかつなことだと思う。

で、僕はカントと、たぶん同じ見解か、

近い見解で、スェデンボルグを夢見る者

とみなし、考えている。

知を’否定すること’と、知を’根本的に

見ることで批判的になる’とは、まったく

違うことだが、知の中にいて、それは

見えない。



僕らの生活が99%以上が人間が人間

のために作った物質という生活製品で

取り囲まれている。見まわして、人間に

よって生産されたのではないものを

見つける方が大変。サボテンや花でも

品種改良されたものかもしれない。

僕らは知によって生み出された自分

だらけのものに囲まれているのに、

ふだんは意識もしない。健康が乱れて、

おかしくなりすぎると、田舎や自然へと

逃げて、体調や気分を回復しようとする。

休日には観光地や公園などの準自然

に近い土地に出かけてみたりする。

それは気持ちや感覚になんとなく

従って、皆がそうしている。

体はわかっているからだ。健康ならまだ

しも、知の疲れはほぼ、神経疲れだ。

現代の精神障害は、すべて神経障害

からきている。

薬をどこまで使い、どこから使わないか、

またはどういう時使うか、使わないか、

誰も、医者でも確実には知らない。

精神の不調には神経のストレス・衰弱

が関わっているから、治療の確立して

いる病気とは違い、向精神薬では僕ら

の神経は朦朧とさせられている。(精神

科クリニック・知的障害者のホームの

仕事を通して、その症例を幾つも見て

来た。)



仮想空間は実在している、と最近は

以前より考える。それはデジタルの

仮想空間のようにゲームの世界ではない。

小さな空間だが、おそらく世界に多く

散在・点在しているのだろう。それは

地球上での話だ。全部併せても小さな

亜空間・あの世だろう。

僕らの過去の累々たる死者が残して

いった、現代で工場製造できる目に見え

ないくらいのICチップよりもさらに小さな

脳波チップのようなもので、それを感知

してしまう人は、電波?脳波?障害を

起こす人が増えて、そこに霊とか死者

だと勘違いして、会話さえする人もいる

のだろう。巷の霊能者といわれる類似

の仲間だ。

量子コンピュータはそういうチップに

障害されるのかもしれない。そういう時に

微妙な誤作動を起こすトラブルはそれ

を扱う技師の神経から?脳波から?

影響されてかもしれない。

と、想像ばかりだと、根拠のない話が

続くばかりだ。とまぁ、考えると、それほど

に他愛もない、となる。

その知に僕らは頼り切っているし、それ

が唯一「わかる」ということだと思っている。

でも、わかるというのはいつでも「分かつ」、

ということだ。分けてみて、分けたものを

比較して見るだけ。物事の物には名前を

認識して、ことは出来事を概念で組み立て

て、また、科学ではその時の物象・事象の

性質を実験・分析してその時の法則を

数式にする。

それは500年続くものもあるかもしれ

ないが、地球を単位にしたら、秒単位

で消えてゆく運命を課せられた法則に

過ぎない。

僕らはその時代の人類や地球に合わせた

法則を発見して、交換し続けたり、棲み分け

しなくてはならない。天動説は地動説に

取って代わられたが、自分(地球)が太陽

の周りを回っているか、太陽が自分を

回っているか、それはただの事実だ。

法則とも呼べない。

事実は太陽系の惑星間の関係が変化

すれば、僕らが考えた理科系の熱や

密度とか、質量とか理科年表の数字は

すべて変化して、法則も数式が変わって

しまう。それが因果という奴だ。その表情

のことを大まかな心情で無常という。



いつしか、胃痛も胸の痛みも忘れた。



自由というのは、説明できない。という

のは、今は心情も心境も自由だからだ。

自由になりたいと、知りもしない状態に

憧れる筈もない。これこそ、ほんとうに

今がよければ、それでいい、なにも

望まない、ということだろう。刹那的?

いやそんな切羽詰まったものはガラス

の細かい欠片ほどもないよ。



音楽があれば、それは音とともにある。

言葉があれば、それは中身への想像

と共にある。絵があれば、それは色調

やタッチの感覚とともにある。その時

には自分はない。が、思いつけば、すぐ

に僕は存在する。在るものは、あるの

ではないし、ないのでもない。無いものは、

ないのではなく、在るのでもない。

点は・・・・・、 ユークリッドでは、・・・・、

酸化は、・・・・・、ビタミンでは、・・・・・、

参政権は民主主義の、・・・・・・、山登り、

・・・・・・、ウサギ狩り、 ・・・・・・・・・・・、

マークシート、 ・・・・・・、ヘブライ語の、

・・・・・・、つまらないものを、・・・・・・・、

書いた、  ・・ あとは、よろしく。





迷いの追記 ::

宇宙には涯があるという説があるから、

そこまで行き着いた重力は撥ね返って

くる。この瞬間的にして果てしない

重力波の無差別な影響を僕らは個人

で気がついたり、気がつかなかったり

しているが、それを証明してさらに

その意味を感じ取ってもいい日は 

それほど遠くに見据えなくてもいい

のではないだろうか。

 ポカン・アレ (ポアンカレ

        数学者ではない。笑)


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