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日常の生き死に [生と死]

細かいところが気になるこの頃だ。 

韓国ドラマの女優がでかい鼻だし、好きな 

タイプではない。それは相手にしてみたら、

僕の言うことなんぞ、なんでもないのだが、

しかし、その眼は理知的で澄んだ泉を遠く 

に見ているようだ。そして、その眼も好み 

ではないのに気づくのだが、目が離せない。

惹かれるのだ。これは好悪の情を越えて 

何かを伝えている、という状況なのだろう 

けれど、それはどうでもいい。ともかく、

ドラマの役とか、よりも彼女の素はどんな

女性なのだろうか、とわかりもしない役

からは外れた、演技外の彼女がどこかに

見れるのではないか、と演技の隙間に注目 

している。

長いドラマで初めのころからは、彼女も顔が 

変わってきて、目が変わったので顔立ちさえ 

理性的に見え始めている。  

こういうのは幻想とか、夢を見ていることなの 

だろうけれど、そこに見える理知の姿はそう 

いうものでなければ言い表せない。ふつうに 

自分の好きなものにかぶせて夢を見たの 

ではない。自分の望みを幻想に投影して見た 

のだろうか?そういうものではない、透明と 

言ってもいいくらいな、すっきりした理知という 

形を感じた。どうして僕が心を止めたの

だろうか?

それがあったからではないか。好きでもない

女優に夢は見ないだろう。だから、それは 

特別なサインであったはずだ。  

そう思うと、僕はずいぶん昔から、時々 

そういう知性を見たがっていたのではないか、 

と思い出す。そして、見てきたのだ。 

それは僕が根底から記憶に残っている 

残像であるなら、それが僕が記憶に残って

いるのも覚えていられないほどの、過去の 

記憶なんだろう。そう思うのだ。 

思い出せば、そういう時に僕はそれを求めて  

いるから見ようとしているのだ、それはもう 

思い出すことができない青春の一シーンなの 

だろう。どうして僕はそれを想う以上に、信じ 

ているのか。それがわかる。

この小さな、ささやかな気づきがこの先も 

忘れられないのだろう。これで顔の部品が 

整ってきた。鼻と口は50代で会った。それに

目の感じが奥に理性を感じさせるものと

わかったわけだ。それがわかったからと 

いって、何かを思い出せるのか。そして、

思い出せたからといって、それはもう取り 

戻せない過去、という悲しみしかもたらさ

ないのかも知れない。 

僕らは短い命の燃焼を過ごす、一度。 

ほとんどがその後は記憶を追いかけて 

いるだけになる。どんな運に恵まれても、

なんらかの妥協に迫られる。たとえ、 

相手を間違えても、その人への情熱は 

愛の足跡をつかんでしまうらしい。 



風の音は 聞こえない 

風のこするものが  風の音になる 

その音の 向こうに  はるかけき 海が 

見渡せる だろうか 

青く  夏の  そのどれもが  

できごとではなく  

人の  想いの  空気圧になる  

思い出だった  

どんな過去も  こうも 透明に

なってしまう  

ものか 

なにも 記憶は  残して くれないが 

想いの  熱さも   ぶ厚さも  

そこには  漂う  

君の なまえを  呼びたい  

あなたは  風に  なるかもしれない  

が 

僕は  風に  なれない  



僕らはすべての青春を季節のせいに 

してしまう。過ぎてしまうけれど、また次の 

年に復活して、やってくるかのように願い 

をこめて。

掴まえられないものを、掴まえようとして

いるような歯車に絡めとられてしまう 

ようだ。

ああ、こうして坐っている位置を変えようとして 

腰をずらせる動作が、微小に胸を打つ。この 

動作を意識しながら、その意識がしあわせに

満たされている、その空気のようなものを。 

なぜこんな動作に感動しているのか。それは 

語れば、おかしく、笑われるだけのこと。 

こうして左の手の平を見つめるように、手を 

上に向けると、その手になにかガラスの玉が 

載っているのだ。それを確かめるように、

手の平に意識が集中する。見えている限り

では何も起きていない。そして、その意識の 

玉は見えないながらもある、と考えることが 

できる。そして、内面ではその考えを否定

して、実際はその向こうの世界で存在して

いることを確かめる。そして、確かめられない。

ただ信じる。 

・・・・、 それができる。そのことができる、

ということがすべてだとわかっている。

だから、しあわせを感じられる。 

自分を信じられない者に、なにを信じろと 

言えるのだろう。だから、自分の外にある 

宗教や科学(理論)や美術品や神社を 

信じなくてはならないのだろうか。 

それは自分が自分を頼れないことを(無意識

下で)知っていて、知には根拠がない、外から

自分の代わりをもってきて、心にそれを置く

ということなのだが。 

それを気にしろって言っても、意味がない

だろう。人生と言うと、それはこれまでの 

時間の記憶をまとめて言ってみただけで、

その便利さが気に入っているだけで、人生 

の中身を想ってみたことがない。

だから、人生を語る、という言葉に違和感を 

もつ人は多くいると思うのだが、そういう 

ことだと思うんだ。たぶん、人は自分を社会 

のなかで比べてそこでつけられた名称で 

何かであると思えるのだろうけれど、それは 

それでそう思えることで完成している。そして、 

本当に完成しているなら、それで満足する 

はずなのだ。なんの不安もなく、死を迎え 

入れることだってできる。できるのだったら、 

素晴らしいじゃないか。 

ただ、僕の見た媒体・文献などではそうは 

いかない記事が多かったように見受けられる 

だけだ。

紙(や概念)の上に人生はない。どんな 

データにされてもそこにあるのは、自分の

抜け殻だろう。自分(というもの)が思う限り、

自分(というもの)は自分の思い通りになら

ない。もう知っているはずだ、よね。  





::

走ってる、走ってる。そんな「時」の列車に乗って、 

行きかう人が多くの人を見ている。しがらみ 

とかいう、そんなスカートに巻き付かれたり、 

無理やりな生活に縛っておいて、そこからの 

脱走を考えてばかりいる。前向きという言葉を 

使って、その場で足踏みをしているか、澱みに 

浮かぶ泡の歩みのように、くるくる回って、 

仕事やなにかの目的をこなしているような気に 

なっている、なりたい。 

リラックスって、全部捨てちゃう。愛も知り 

たいって、それも全部捨てちゃう。知りたい 

って、必要がない。それは知るものじゃなくて 

自分を捨てた時でないと現れないもの。

自分が意識されなければ、自分をどうのこう 

のも考えられない。僕らは自分を避けて自分を 

見ないが、楽しさのなかでも自分を見失わない 

ことはできない。楽しいことを求めるのは、自分

を忘れることだから。楽しさに罪はないが、 

なにかを避けるために楽しさを求めるのが日常 

ならば、僕らは本当に望んでいることをして 

いない。

根底として自分(というもの)は自分を知りたく 

ない。向き合うのを避けようとする。そこで僕ら 

は一人になると、目的もないのに、なにかに

かこつけて、ぶらぶらと外に、なにかありそう

な街へと出かけてゆくのだ。 


人と会うのは生きるためだ。一人になるのは

精神的に死ぬことだ。生きると死ぬを一日の 

うちに何度もできるが、その人の経済や生活 

次第でそれは限られる。その細かい生き死に 

のくり返しで僕らの人生は成り立っている。 

そして、これはほぼ誰も意識していないし、 

できない。非日常というのは僕らの日常で

言われる幻想世界をいうのではなく、精神的 

な死をいう。

三段階ぐらい究極的に思える死を超えると、

ある人はそう考えたのだろうと想像するが、

それは悟りを段階ごとに三回繰り返した 

ことだ。そうなると生き死にの区別は感じ 

ないだろう、と僕は想像するし、想定している。

こうなると線香臭い話でしかないのが残念 

だが、今はアバターになって、何度死んでも

復活できるという考えが習慣になる、そう 

いう時代だ。誰も精神の死に目を向けない 

だろう。 





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ただ、ただ、・・・ [詩]

ただ、 ・・ただ、 ただ こうしていたいだけ 

なのだ 

目的とか、仕事の結果というものも なく 

夜の高速を机にして  そこに 

片肘をついて  この世を眺める  

自分とか いうものが  何者であるかのような 

そんな 空虚になった 夢を  紡いでいる 

怠惰とか、  だるさが 感じられ 

眠さに ズボンのポケットを  掴ませている 

地球の裏側の  地帯では  

太陽が  沈んでゆく  

沈んで ゆ く 

僕は  それを  追いかけてしまう 

山を越え  谷を越えて  

また 太陽が 沈んでゆく  

偉大な パノラマが  くりかえされる  

沈んで ゆ く  

夜は  大理石のように  黒い   堅い  

平らな表面が  艶に  光っている  

直方体の ビルディングが  板のように 

彼方の 暗さのなかに  伸びてゆく  

はるか彼方では   太陽が  昇り ゆ く   

いつから  夜は  溶けだしたのか  

透明に  青い  空気に  

包まれている  

今日も  なにを  したと 

いうんだろう ?  

僕らの 生活は  まるで  

夜を 迎えるための   儀式のようだ  

暗くなるのを  待って  い  る  

ころがる  石鹸の 匂いが 

なにか  わからなくて  

遠い記憶に  尋ねようと   

空を  見上げる人が  いなくなってしまった 

神話の 罫線や   神社の 緯度を  

書いていた 頃 

もう  終わるしかないようだ と  

ばかり、  考えていた  



太陽が  沈んでゆく  

沈んで ゆ く   

Sun  goes down ・  ・  ・  


この  気持ちいい  怠惰  

あの  小さな女の子だった  ○○ちゃん 

新1年生で  ランドセル  買ったそうだ  

その校門が  黄色い 大砂丘の 

向こうに  立っている  


眠さが  隣の 部屋にまで  

押し寄せて  来たようだ よ 

Sun  goes down ・  ・  ・ 

けだるい  太陽の  炎  

おう 

僕が  沈んでゆく 

沈んで ゆ く  



ゴミの収集車に  ビニ袋を  

放り込んでいる 若者の  背なかが 

ロングホールに  響いている  

その青い煙が  坂を  昇っている  

オーバーリン  オー バー  



夜は  君は  どこを  歩くのか  

オーバーリン  Ov ・  er  

一日は  シングルなのだろうか  

シングルマザーのように  

夜の 不安は  

子供だけ  だろうか  

けれど  安心する  

夜は  死の パラダイス  

自分の  安息する 宇宙  

Sun  goes down ・  ・  ・ 



Sun  goes down ・  ・  ・ 

太陽が  沈んでゆく  

あなたが  安楽に  沈んで  

沈んで ゆ く  

望みは   ない   

その   気持ち よさ  

オーバーリン  Ov ・  er 

オーバーリン  Ov ・  er 



なにも  できない   

なにも  かなえない  

なにも  してこない  

Sun  goes down ・  ・  ・ 
  

オーバーリン  Ov ・  er 


宇宙は   このまま  

永遠は  遠すぎる  

あなたは  いなかった  

川の  流れに   

葉の   そよぎに   

風が  寄せる  

信じるものがないという  知恵が 働くなら  

すべてが  信じられるときのことを  

想像してみれば  いいのでは?  

信じるものがないと 考えるなら  

信じられるものがあると  思っている  

すべてを  信じてみて。 

信じられないものが  無くなってしまったら  

それは  なにかをもう  信じる必要が  

なくなる  あらためて なにかを 

信じることはない   

それは 信じるものも  信じられないものも  

なくなる、という状態  

オーバーリン  Ov ・  er 

過ぎ去ってしまった 状態しか なくなってしまう  

自分というものは  歪んで  偏向な選択を 

するから   救われた気になれる、  という   

奇妙な 真理  

僕らは  公平な 自由な選択を  

したつもりでも   それはすべて 

なにかを信じて  それ以外を 信じない  

その争いの因は  もう  そこにある  

ぼくらが  そこから  離れられないのなら  

オーバーリン  Ov ・  er

もう 終わるしかないようだ と 

考える  

けれど  安心する  

考えない   選択しない   



ただ、 ・・ただ、 ただ こうしていたいだけ 

なのだ 

目的とか、仕事の結果というものも なく 

夜の高速を机にして  そこに 

片肘をついて  この世を眺める  

自分とか いうものが  何者であるかのような 

そんな 空虚になった 夢を  紡いでいる 

怠惰とか、  だるさが 感じられ 

眠さに ズボンのポケットを  掴ませている 

地球の裏側の  地帯では  

太陽が  沈んでゆく  

沈んで ゆ く 

僕は  それを  追いかけてしまう 

山を越え  谷を越えて  

また 太陽が 沈んでゆく  

偉大な 自転が  くりかえされる  

沈んで ゆ く  

おう 

僕が  沈んでゆく 

沈んで ゆ く 

Sun  goes down ・  ・  ・ 



 Sun  goes down ・  ・  ・ 



  太陽が  沈んで   ・ ・ ・ 

 


    Sun  goes down ・  ・  ・
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山形さんの話 [思い出]

山形さんは統合失調症だ。古い領収書や

レシートを裁断処分していて、葉書が出て

来た。それが山形さんからの、最初で 

最後の葉書だ。山形さんはその葉書から

まもなく入院先で亡くなったから。たしか、 

癌だったと思う。 

その頃、統合失調症のクリニックで、病棟

があって、軽症患者はそこに寮のように 

主に生活保護者だったが、障害者手帳を 

もらって食堂で食事付きのリハビリ生活を

していた。 

そこで夕方から翌朝までの管理世話人と 

して、14年前になる、2年半ほど働いた。 

夜勤なので、一日おきの勤務だった。 

山形さんはその病棟に住む障害者の一人 

で、還暦はとうに越えていただろう。 

統合失調症の人というから、世話人の仕事 

として話しもできるか、できない時はどうし

たらいいのか、という不安も最初はあった 

が、仕事を始めるとそれは杞憂だとわかった。

普通の人と変わりない。どこが違うのだろう、

と思ったくらいだったが、やがて事情が呑み 

込めてくる。

双極性障害(躁うつ病)とかてんかんの 

患者もいたので、一概に統合失調症では

片付かないが、大部の人には特徴が見られ 

て、それは話が一方通行になるのである。

頭の思考回路の話なのだが、ある質問や 

疑問を考えて、普通の人は信号のあるような 

四つ角に来ると、どこに行くのか迷うのだが、 

彼らは迷えない。そこで折れ曲がって他の 

方向を考えてもいい処で、まったく曲がれず、

同じ質問のたびに同じ回答をくり返すのだ。 

思考回路が一方通行になってしまっている

処があるらしい。

僕は話しながら、それが回路の形だとなぜか

はっきり感じられたので、よく覚えている。 

山形さんも似たような人だった。そこでこの 

クリニックのスタッフは同じ話をするのにつき 

合う無駄な時間を避けるために、いろいろと

理由を挙げて、会話を打ち切る作法を発達 

させて、心得ていた。 

僕はこのクリニックの仕事を見つける3年

ほど前まで大うつに陥っていた。見つけた 

時も喘息の治療中だった。が、うつの危機は

とうに越えていた。体もすこぶる元気になって

いた。気力も十分だった。 

スタッフが患者との会話を逃げるのとは反対

に、僕は時間もあり、(実際は仕事は15分

ごとに小刻みにあったので、のちに自分流 

に改善した)障害の人とよく話した。同じ会話 

を1時間もただただただ、くり返したことも

あった。

一方通行を行き止まりまで進むと、少し

考えて、また初めから同じ会話の進行 

をする、それを僕らはくり返すのだ。

さすがに疲れるので、話の方向を変えよう 

としたりした。そこで山形さんだが、彼は

大の巨人ファンだった。野球なら話題が

同じにはならないので、彼は管理人の 

僕のところに来ては、野球の話をした。 

それには理由がある。僕と話すと、安心 

して気を良くして部屋に戻れるから。 

なにしろ、巨人が負けると、僕は

「いいところで負けましたね。勝ち続けは

流れが変わると、負けっぱなしになるから

いい処で負けたんですよ」と言う。 

続けて連敗しても、

「いや、2敗してもまだまだ余裕ですよ。 

貯金がありますから。それより負けた

ことで選手の気合が入りますから、次 

からはまた連勝ですよ」と持ち上げる。 

勝っても負けても、巨人を持ち上げれば 

いいので、その年は山形さんは僕と野球 

の話で盛り上がった。また巨人も勢いが 

あったので、トップか2位を走り続け、

予想は当たりまくっているように見えて 

僕たちはさらに大いに盛り上がった。 

そして、とうとう巨人は優勝した。プロ 

野球を応援したこともないのに、初めて

応援して、そのままそのチームが優勝 

するというのは、これが最初で、たぶん 

最後だろう。実際、面白かった。 

そういう思い出があるから、山形さんは

入院先から?暑中見舞いを僕に寄こした

のだろう。近くだったので、見舞いに 

行った。やはり少し、やつれたような印象 

だったと、かすかに記憶する。2,3か月 

かして、病室は知っていたので、また見舞い 

に行ったが、山形さんのベッドはなかった。 

看護師にここにいた山形さんは、もう退院

したんですか、と尋ねて、その訃報を聞いた。 

そうか、亡くなっていたのか。 

1年も二人で応援し続けたせいか、なにか 

ともに戦った友を失くしたような、大げさだが、 

そんな気がして、寂しさに包まれた。 

一枚の葉書がそういう感傷を呼び覚ました 

ようだ。今更だが、言おう、 


さらば、 山形さん。
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夢のバイトでテロの濡れ衣、人類を想う [夢]

夢を見たら、朝なので起きてすぐ書く。それが 

よいのはわかっているが、別の何かをし始め 

ると、夢のことは跳んでしまう。夕刻、暗くなって 

から思い出して、さて、うまく思い出せるだろうか、 

と。

そう、題名を思い出した、洗脳の夢、とかつけ 

ようとしていた。思い出した。

僕の夢は一般的でないので、そんなものかと 

疑問は素通りさせたほうが良い。 

まず、風呂などの四角いタイルくらいの大きさ 

を思い浮かべて、それがプラスチックでできて 

いる。隣に同じ大きさの薄っぺらな透明の 

プラトレーがつながっている。そして、左は 

「〇〇会社は」という意味だ、字は書かれて 

いないが。右は「(仕事が)できる!」という、 

つなげて、〇〇会社は(仕事が)できる!

となる。僕は不安定な登場人物で、その夢

の場面を見ている眼であり、登場人物である、

というよくある設定だが、少し不安定なのだ。 

長いので、途中から話すが、実際、その前

のストーリーは忘れている。 

アルバイトの責任者らしい若い、30代だろう、 

男から指示され、僕らバイトは出かけるの

だが、建物のような四角いコンクリの一部屋

なのだが、そこから北京オリンピックの

スノーボードのスロープみたいな坂を下り

てゆくのだが、寸法が合っていない。1m

ちょっとしかないのだ。それで遠近が

おかしい。数mなのに、他の数人のバイト 

は遠くに見える。 

ともかく、僕も最後に追うのだ。入口(それ

も入口らしくない)を閉めようとするが、銀紙

を貼った板が棒状で邪魔をしている。土台、

スロープをたたむことはできないだろう。

で、責任者が、かまわない、と言ってくれる

ので、そのままにして後を追う。 

そこは広い一本の舗装の通りなのだが、

やたら暗い。そのうち真っ暗になる。それ

がいつのまにか地下の防空壕のような

トンネルになっている。


夢に見るいつものような地獄(想定するなら)

洞窟ではなく、雰囲気は似ているが、コンクリ

の四角い広い真っ暗な通路だ。仕事は掃除

らしい。

途中にいた人に尋ねるが、その向こうだ、

とか言われたらしい。少し明るくなって

地下のどこかの部屋にいるらしい。しきり 

がないので次の部屋にそのままつながって 

いる。左に皆と曲がると、奥のほうに直径 

80cmほどの円柱形の白いプラの容器が 

三つ並んでいたが、モップもないし、水も 

ない。

この仕事の指令は楽だった。「〇〇会社は

できる」と声をあげて宣伝さえすれば、何でも 

好きなことをしていいというもので、原則 

掃除だというだけだった。

水とモップはどこだ?とその左に折れ 

曲がった部屋を見ると、そこは講義室 

ということだったが、床に椅子が三々五々、

7,8脚ばらばらにあり、そこにマネキン 

がいろんな格好で坐ったり、立っていた

りしていた。マネキンの頭は卵型で薄い

布が貼られていて、ソフトな手触りを 

感じさせた。その向こうに白いレースを 

かぶったような、着たような小さい人がいて、 

人なのかマネキンなのかわからなかったが、 

小刻みに震えるように動いていた。なにか 

機械的で人間ではない気がした。 

その横の通路を通りながら、久しぶりに 

演説をしてやろうと思う。何をしてもいいの 

だから、講義をしてもいいだろう。

だが、口がうまく回らず、マネキン相手に 

なにを話しているのかわからない、自分でも。 

そして、その時なぜか責任者の処に戻る時 

のことを考えた。その思いつきはその未来 

の時間に責任者がもういないことだった。 

それももう絶対に現れないことだった。 

そこからこのバイトの謎が大団円(Q.E.D.

 =証明終了)を迎えた。

これは罠だ、と。 

ある組織のテロ部隊がそれを実行する日なの 

だ。そして、実行後に逃げるのだが、声明を

〇〇会社にしていたので、すぐに逮捕される 

のは、〇〇会社の(バイトの)僕らだった! 

僕らはお互いに名前も知らない。警察で 

何を聴かれても知らないと答えるより他 

にない。それでも毎日尋問は続くだろう。 

怒鳴られたり、机を蹴られたりはするだろう。 

10日もして解放されるのだろうか。それでも 

一定期間は監視がついて、日常で尾行され 

たりするのだろう。とんでもないバイトだ! 

それで「〇〇会社はできる」とシュプレヒコール

のように叫ぶ意味が分かった。それが本当の 

仕事なのだ。ただ、それだと、犯人たちが 

逃げる時間稼ぎになるだけなので、なにか 

現実味がない気がした。(夢だよ、夢)

ここからはもう半ば目覚めていたのだろう。 

思考になってくる。 

この夢の全体が見えた気がした。これは 

日本人が洗脳にかけられているという

夢なのだ、と。僕らバイトが知らずにテロ 

の片棒を担がされていたように、気が

つかずに僕らは、日本人は戦後という

洗脳にかけられている。慰安婦はまったく 

のデタラメでそれを韓国で広めたのは

田中ナントカという日本人だった。泣いて、

申し訳ないと韓国で謝罪して、そういうこと 

があったと韓国人を信じさせた。しかし、

それが明らかになっても反日の韓国は 

すでに世界的に各国政府のロビイストを 

回って慰安婦の宣伝をしていた。アメリカ 

やドイツの大学教授が愚かで、それを信じ

てまともな教授が慰安婦の真実を論文に 

したら、猛烈なバッシングを与えるという 

信じがたいことが起こっていた。日本人

は何人がそれを知っていたのか。南京 

大虐殺も似たり寄ったりで、中国が30万

虐殺されたと主張したが、大虐殺に見せる 

ためで、南京の人口を10万人も超えていた

から、ありえない、話を大きくし過ぎ、と

いうことだ。


南京への日本軍の侵攻は歴史の事実で

ある。そして、これは戦争だ。虐殺じみた

ことが起こらないはずがない。たとえ1万、

2万人でも虐殺かもしれないが、1日も

して裏切り者の中国人が日本軍に情報

を売りに来たというから、それはいつもの

ことだが、皆殺しほどの虐殺だったら、

中国人もさすがにすぐには日本軍に 

近づいてこないだろう。中国の昔でも、

項羽と劉邦の戦いでは、項羽は2万人

の敵の捕虜を同じ中国人だったが、

谷を通らせて、全員を崖の上からの石

を落として生き埋めにしたという。 

毛沢東の文化大革命では各地の内乱

で大量の殺戮が行われ、500万人とも

2000万人とも言われている。その後

の政策の明らかな失政で大飢饉を起こし、

3800万人が飢えで死んでいった。この

5000万人の死の責任は毛沢東にあり、

世界史上でこれ以上の犠牲者を出した者

はいない。スターリンもヒトラーも及ばない。

そして、この毛沢東を尊敬して手本にして

いるのが、今の習金平糖だ。 

その頭の古さ! 大時代の侵略を描いて

いる。しかし、まだオーストラリアはかなり

内部が侵食された時点で気づいて、中国

と手を切った。

いま日本は似た状況にあるが、ある埼玉

の団地の住民の50%が中国人になったり、

北海道や長野県のリゾート地の住民の

数%がすでに中国人で、その土地の 

所有者としてなっている。そして、東京、 

横浜、大阪、神戸では?すでに中国系

学校が進出している、と。あちこちに

増やす計画だろう。で、彼らの親の 

中国人が日本の学校はゆるいから、 

将来が心配でそういう中国系の学校 

に入れたいそうだ。14億人で競争 

社会になっていて、人民は平均給与

がまだ月8万円くらい。どの大学を出る 

かは親子にとって重要だ。日本の企業でも 

中国人を採用するのは、彼らが実際に

優秀だからだ。これは中国共産党とは

直接は関係ないが、 ・・。 



脱線すると、尽きない。まったく言い足り 

ていないが、キリがない。 

夢に戻そう。 

夢のバイトは騙された物語だが、洗脳では 

ない。半無意識で朝に考えた問題は戦後の 

洗脳がまだ終わっていないどころか、進行中

だという問題で、これは二つの比較は間違え

ている、ことになる。

それは大したことではない。僕らが現状に目を

向けないのは、当たり前のことだからだ。 

僕にしてからが、自分から自由になるまでの

長い期間をアメリカに洗脳された戦後の夢 

からは覚めなかった。その前にはオウムから 

の洗脳と自分を切り離す必要があって、それ 

が前提として必要だったのかもしれない。

無意識にまで携わってからも長い年月だった。

それでやっと日本の現状が世界と共に

見え始めた。その意識改革を思うと、ブログ

の一つや二つ読んでも、なにがわかろうか、

というのが正直な心情だ。こんなことは予想も 

していなかったから。

前向きに生きる、という言葉があるが、自分が

どこにいるのか、自分の場所がどんな状況に

あるのかという、目の前の現実を知らずに 

どうして前向きに生きる、とか言えるのだろう。

長い物語だから2,3年かけて、一つ一つ 

自分で確かめる必要があるだろう。間に合う 

とか、間に合わないとか、考える必要はない。

始めたら、自分の歩調で歩むしかないからだ。



始めるしかないことでも、始める意義や意味が

まったくピンとこない人のほうが圧倒的に多い 

だろう。僕が見ると、アメリカも中国もロシアも

イギリスもヨーロッパのある国々も中東も、 

その政府や金融資本家やグローバル起業家

などの富豪にはクソが多い。が、そこに暮らす

全人民を見てみれば素晴らしい。

僕らができるのは、この世を善の世界にする 

ことではない。それは急転直下で悪の世界に

なり替わってしまう。その法則の一つにマルサス

の人口論があるが、これは非人道的に人口を 

削減しても構わない、というものではない。 

もちろん、悪の世界を目指すとかは、論外だが、

悪を滅ぼすことは、善を滅ぼすことに通じると

知るべきだ。究極の悪でも究極の善でもない

世界の幅広い中間地帯で、人類は善悪に 

拘泥しない(こだわらない)ため、どうバランス

を取ればいいのか、が僕らの世代ごとの課題 

になる。なにもしなくても世界は変化に襲われ 

続けるからだ。そこには夢も一番大切だが、

現実的な悪の知恵(の応用)も科学技術も 

必要になる。 

人類が生き延びるためには総動員の知恵の

集中が必要になる世紀が、必ず来る。これ 

までもそうだったように、これからもそうなのだ。

今がそうだ。 

これまでのように目の前の問題を機械的に、

また、一時的にやっつける短視的思考では 

なく、自分という知的思考から担ぎ出された

単に鏡に過ぎない未来ではなく、人間の側 

から視た人間らしい工夫や心情に寄せた

長い目で見た改良・改善がテーマになる

はずだ。  


まだまだ書かなくてはいけないのは知って 

いるが、一時に一遍にしゃべっても、頭に 

残らないだろう、小さな切り口は開けたつもり 

だから、この辺で。 


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春雷とか、ロマンとか [ロマン]

(自分という共通項の世間から離れる境遇?姿態?)

近代に現れたロマンという概念は 

滅び去ったはずだ、という過去の 

いきさつがあったのだが、恋愛 

という遺伝子が思春期にそれを 

思い出させるので、生まれてくる人 

ごとにその知識から認識を改める 

ための経験を必要とするので、 

簡単に滅び去ったとは言えなくなって、 

今もロマンは人に夢を与えている。 

僕らはそういう遺物とともに日常を 

暮らし、送っている。それは知れば 

納得するシステムなので、教育で 

どうこうするとか、数的論理や政策 

などの施行で解決すべき問題でない 

のはわかっているが、にきびの跡ぐらい 

のことで終わってくれればいいのだが、 

愛にかかわっているので、不倫や 

ストーカーという端末の問題になって 

いる。そして、その動機・経過に気が 

つかないから、複雑な気持ちの問題に 

見ている。そういう古さが竹の子か、

つくしのようにニョキニョキ生えている 

畑で僕らはいつのまにか、息苦しさを 

覚えるのだろうか。  

それが正しい認識が必要なことだと思う 

のだが、それらが長いあいだ文化や伝統 

という人民の歴史の主人公になっている 

のを観れば、納得もするし、諦めもつく。

ただそういうような考えに行きつくことは 

あまりないらしく、ロマンを批判して、それ 

からその人がロマンをどう扱うか、どう対処 

するようになったかを、書かれたもの、表現 

した映像はあまりに少ない。

僕らは古さには相変わらず流され続け、

思考文化である、ITや物質文明の管理機構 

の進化のスピードに追いつけず、少なくとも 

半分の人口はそのギャップに悩まされる。 

悩まない人もそのギャップにいずれ失って 

しまうものに気づかないで数字の中を彷徨う。 

彷徨うという意識もないだろう。  

僕の問題提起はゆるやかなものだ。どうしても 

そこに解決を求めるものではないし、批判的な 

ものも一面で語っても通じないほど感性の 

異なるものがあるので、一概にこれはこうだ、

これが正しいではどこにも行き着かない。 

 僕はロマンが好きだ。それは一昔前は 

ロマンの理想的な虚構の匂いに、背徳の 

方向に嫌悪を覚えたけれども、それが自分 

からロマンを消すことにはならなかったこと 

を思うと、僕にとっての必要を見直すように 

なった。運命とか個性とかの要素は、一概に 

正しさは持たない。区切ってなんぼのもの 

ではないからだ。区切らないことに意義がある、

意味がある、ということに気がつく。そうして 

正しいと誤りという一面でのものごとの判定  

をする間違いから逃れられる。

だからベタで雑味のあるロマンを見ると 

少し、吐き気をもよおす。別に上品を 

気取るんじゃなくてロマンの健全な面を 

活かす演出に気を使ってほしいと思う。 

それがほんものなのかどうかという 

のは、また一面の判定の問題に戻って 

しまう。 それを経験の篩(ふるい)に掛けた 

ものは、ある程度洗練されるし、間違いなく 

その人にとってはほんものなのだ。それは 

現実のことではなく、その完成形を目指して 

いる進行形のようなものかもしれないが、 

一般的にも本物に近づいているはずだから。 


この街のどんなもの、どんなことにもそれ 

自体の今の古さから、新しさからどう脱皮 

するか、どう閉じてしまうのか、どう進化 

するかという震えが感じられる。それが 

どうその方向性を伸ばすかは、それをどう 

引き継ぐかにまかされる。それは自然な  

責任で、実は僕らは人間の未来をその意味 

ではその責任を担う、無意識的な義務を 

負っている。それが自分に合っている、また 

は自分の運命だと動機に感じる人は、そこ 

に使命感を感じて一気にのめり込むのかも 

しれない。 

だから、どんな過去の遺物に見えるものでも 

絶対批判のようなことをしては、なにかを 

見過ごしてしまうことになるだろう。 

同じように一冊の本や論・論法・理論や 

誰か他人の指摘に意を同じくして、それに 

賛同してしまっても、同じように隠れた真理 

の多様性というものを見逃すミスを犯して 

しまうことになるのだ。真実はひとつ、は 

法廷劇だけにして、ほんとうを見つめるなら、 

例えば、事実はその場面を見る人の数だけある、 

というのも真実の一つと認めざるを得ない。 

僕らは嫌いなものは初めから、瞬間的に 

拒否して見ない、という芸当を思春期前後から 

くり返してきている。それが習慣になるから 

数十年もして老化という頑固さを抱えなければ 

ならなくなる。それも自然な人間の衰退・成長の 

過程のひとつだ。 



ロマンには愛を腐らせる部分と愛を輝かせる

部分、そういう二つの面が愛のいくつもの面の

中にある。僕にはそれを活かす要素のような

特徴が備わっているだろうか、自分に尋ねる。

という、暇なことをしている。どうだっていい 

じゃないか、というのは知っているのだが、

そう尋ねる自分を意識するのは楽しいこと 

なのだ。  

思考の意識が断片として、いくつも流れる。 

時間を忘れてしまう ・・・・・  ・・。 

こんなことを考える、 ・・  

人間は形容動詞として見たらどうなるだろう? 

動き続けるが、形容の形しか取れないから、 

なにかであろうという判定や表現をするが、 

それで行動できないし、できないから目的も 

持てない。何事もなさない。なにも残せない。

爪痕さえなく、呼吸もしないかもしれない。

そう思ってみたとしたら。 ? 

そう、真剣に思いを致したら、なにか心がざわ 

つかないだろうか?「それではなにもならない、 

無価値ではないか」と嘆きの感情をちょっと 

でも感じはしなかっただろうか。 

ドストエフスキーも言っていたな。―僕らは 

ヘアピンみたいにつまらないものじゃない 

んです、人間なんです、価値のある人間 

なんです。―

猫に小判、という諺もある。 

価値は絶対だろうか?思い出の品は 

その人にとって価値はあるだろうが、他人 

にはただのゴミかもしれない。子供の頃の 

ぬいぐるみを大人になってもボロボロの 

縫い直しをしながら、まだ持っている人も 

いる。誰もそれを欲しがらない。

ならば価値は絶対のものではない。 

僕らの自分・プライドはどうして絶対を求め 

たがるのか。 

自分は、この形容動詞に似ている。自己 

実現とかをして、それをくり返すのだ、それが 

人生なら自己実現が夢なのだろう。夢を 

果たそうとする人生があるなら、夢を現(うつつ)

に見る人生があってもいいのだろう。夢に 

拘泥しないで処世ではなく、現実に従う人生も

あるのだろう。なにが何を支えて、それが 

人生の何を成り立たしているのか、僕らは 

知っているのだろうか。僕らはほぼ体の 

無意識な遺伝子やらの欲求やなんやらで 

動かされている。0,00数ミリグラムで 

致死量になる毒もこの世には存在する。 

たった一言で、そこにたどり着こうとして 

いる人には目の前が開かれることになり、

喜びの涙が眼に、ということもある。 

 


浅い夢を見ながら、朝を迎えることがある。 

夢うつつで1時間は経ったらしい、という感覚 

が何度もあるが、いつそう思ったのかも、 

記憶のない時が流れている。朝起きること 

が、苦しみでさえあった日々はあったのに、 

この頃は起きるのは体の世話をしなくては 

ならない、という軽い労働があるだけだ。

窓の外には詩的感情が漂い、広がっている 

はずだ。それに期待はしないだろう。生活の 

手順をいつも考えている。同じことをしている 

のに、体調は毎日変わる。足の調子、胃の 

調子、老眼の遠近の調子、外に出ると、 

近隣の散歩というのに出る。最近、決めた 

コースだが、その1回目で2000歩になる。 

なにか感情を入れないと、生活は平坦で 

素っ気なく感じられるのは、冬の季節の 

影響でもあるのだろうか。季節を探す人 

は見かけない。駅へ行く人はいる。バスに 

乗る人はいる。駅もバス停もただ通過する 

だけの名前や町だったら、僕らはそこに 

なにかを見ようとするだろうか。車窓や

窓から知っている人を探してみようとする 

だろうか。

床を見ると、世界の歴史の本が置いてあり、 

ぽっかりと闇への口を開いているのが、僕 

の空想をよぎった。これは通常の感覚じゃ 

ない、という状態・状況を外から観察する 

ような半意識をやっと捉えることができた。 

ここにはいないという状態の自分を、ピサの 

斜塔を見る不安な感覚で、心の不安定に

達するようだ。 

僕は    自分    じゃない。 

空想に酔っているという、芝居を演じる 

そういう劇場感覚にあるさま。  

君は僕だ。なぜ、こんなことを言うのかね。 

君は伸びる。伸び止まないゴムの横断面。 

法則とは何か。信号機が一時、休憩をする 

公園のベンチだ。伸びやかに自転車の 

ペダルを漕いで、夢遊病者のように 

海底を渡ってゆくようだ。

理性は強い気持ちの防波堤にはなれない。

でも、暴走を食い止めているじゃないか、と 

振り返りながら、君が言う。 

それは島の景色を背景にして、突然、現れた。 

港から流れ込む川の一筋が、目の前にあった。 

かすかに音がした。それは空から。 

緑の追い風。 草のなびき。 葉先の光の 

反射。  絵の具のような影の家々。 

潮の匂う川面。  また、 音が。

それは 空から。


春雷だった。 

ここまで 来い。 


いい響きだ。 


ここまで 来い、 

春雷

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にぎやかな本籍地 日記:メモ [日記]

ちょっとした偶然である。が、それはそれで 

面白いからメモしておこうと、書く気になった。 

最近、「靖国の精神史」(小堀桂一郎著)と 

いう本が届いた。「はじめに」で、今上天皇が 

退位した、と書かれていて、靖国神社が建立 

されたのは、九段坂上だと。ここで気になった。 

気になるはずである、九段は僕の本籍地で、 

僕は九段北で生まれたから。非常に近い 

はずだ。それで地図を出してきて、調べたら

驚いた。生まれた九段北から靖国神社は

所謂、目と鼻の先というやつで、200mくらい 

だった。ご近所なのだ。皇居も900mくらい 

だろうか、まぁご近所さんだ。本当に両親は 

戦後、ここらに住んでいたのだろうか。父も 

母も本籍地は同じだから、疑いも比較も 

しようがないのだが ・・ 。 

そして、次に驚いたのは、自分が本に

変身しそうになっている夢で発した  

言葉、「二松学舎に殺される」が、その 

二松学舎の大学がこれまたすぐ近くで、

調べて分かったが、夏目漱石(14歳)も

一年だけ入学して中退(転校)している。 

最後に縁のあるすごいのが出てきた、 

三島由紀夫である。外堀からすぐ 

向こう側が防衛省本省で三島の時は 

駐屯地だった。つまり、三島が切腹・ 

自害した場所だ。 (因みに三島とは

遠いインドで招待された家のソファに

坐ったところ、それが三島が最初に

坐った場所だと言われた、ことと、

偶然ネットで見つけて、知らずに通って 

いた馬込の医院の300m先に三島の 

家があった。6年くらいして三島の年譜  

から気づいた)

四谷の次が市谷だくらいの認識だった 

から、九段にこんな近いとは知らず、 

驚くはずだ。第一、九段北の場所を 

調べたのは今日が初めてだ。本籍地は 

どこにしてもいいらしいから、気にもして 

いなかった。 

これら4ヶ所が僕の本籍地から円にして、

半径900mに集中していようとは、三島 

以上に縁というものを感じてしまう。 

「なーに、ただそれだけのことだ。」と、 

勝小吉(勝海舟の親父、江戸の本所に 

住んでいたから今の墨田区だろうか、 

町の相談役みたいなことをしていたので 

やくざの親分風だった)みたいに捨て 

台詞して、終わりにしよう。


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アイデンティティを失う意味 [自分]

突然、書くために、ここへ来た。いつもの 

坐る場所。なにがかわったわけでもないが、 

書くような指令を感じたわけでもないが、 

ある焦燥がある、そうじゃないかという 

気がした。

言葉がどんどん意識に上がってくる。なにが 

言いたいか、わかる気もする。そうであり 

ながら、書くのはためらう。  

この小さな焦燥がそのまま静かに消えて 

いってもいいのではないかと、無視しようと 

している。書くためのどんな義務も責任も 

ない。

と、・・・だ、そんなこと考えても、思っていても 

なにもならない。そのほうが問題だろう。 

感覚は正直だ。考えなくていいから、そう 

いう時は衝動で行動せよ、と。 

普段から優柔不断で悩む人は、そう言われても 

何の準備もない。大して羽目を外す行動は 

できないのだ。ともかく、実社会では直感的 

行動は大切になる。後先考えないから、それ 

までにどこまで行くか、どこで止まるか、と 

いう準備が心になされていないと、不安で 

直感で行動なんてできはしない。 

どうする?僕ちゃん?書く?書かない? 

焦燥を燃やしてみる?消えるのを待つ? 

どうする?僕ちゃん?どうするのよ!  

そう僕を笑わせないで、おかしいだろ。 

グラディションとか、フェードアウトとか、 

周囲を回ってばかりで、踏み込まない 

つもりなのか。時間稼ぎさんよ。 

はちきれたいのか、ぴしゃっと言って 

やりたいのか、わかってないな、お前は。 

舞台に上がる呼吸を忘れちまったのか、 

シレっと出る、スッと出る。だから、なに 

もない、足で歩くだけ。心でも同じ、 

シレっと決める、決心。 

自分に逃げ込むと、考える考える、 

ルーチンで同じ処を回り続けるから、 

同じ作業をしてなにかをしているつもり 

になって本命から目を反らせる、という 

わけだ。そうやって、自分ではわかった 

つもりや考えても無駄という言い訳の 

習慣を重ねるのに手を貸す。それが 

自分という裏の手なのだから、見抜き 

たくもないから、まんまとその手に乗る 

のだ。 

憂愁というだけでノスタルジックになるのは、 

どういうわけか。郷愁が感じられるように 

自分がそこで休憩できると思うのは、どういう 

いきさつなのか。 

クリエイションという単語が気にかかる。風に 

吹かれて、好きにして、あとは知らない、という 

処までセットだという台詞だと思うんだが、 ・・。 

愛について、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

決めてみたい。 ・・・と思うのだが、 

知っているところから、新しい類推を試して 

みたい、と ・・。 

その着想は悲劇にたどり着く。すると、書く意味 

がなくなる。悲劇になる可能性なり、確率が 

少しでもあれば、その事実を受け入れがたい。 

― そう思った瞬間、 そういった心の全体が 

ヒントになった。 

問題はここにある。どうして愛は悲劇ではいけ 

ないのか、どうしてそう思うのか、その動機は? 

なにか? どうして愛は死に囲まれているのか? 

それは死が愛を守っているということなのか? 

だとしたら、愛はなぜ守られる必要があるのか。 

もう死んでいるのに。それは死んでいないのだろう。 

死なないために境界を設けたが、死でなければ 

守れなかった理由が存在する ・・はずだ。 

それは 

それは  

それは  ・・   

愛がなければ生きられないのに、愛はなぜ自由 

ではないのか? 

僕らは愛をた易く感じるが、持続させるのは 

不得意だ。それは愛を知らないためであるが、  

愛には知ってはならない理由があるのだろうか? 

と、僕の都合で考えは進んだが、根拠は僕の 

内面体験でのそれぞれの素因というそれしか 

ない、という不利な証拠だ。 

僕らは自分を知るのを恐れる。ほぼ無意識だが、 

待つ身になっても、自分を意識するのをつらく 

感じる。自分と対面しなくてはならないから。 

どうして退屈を恐れるのか。それは自分に 

有機的な永続な根拠がないのを知るのを 

避けようとするからなのか? 

僕らは歴史に自分を植え付けようとする。 

高い地位ならば、自分の名前が通りに 

つけられたりするのを喜ぶ、名士と言われ 

たい。それは自分というものに、ほんとうは 

名前がないからではないのか、その存在 

証明(アイデンティティ)に後ろ盾もなんの 

保証もないからではないのか? 

保証を求めるから、歴史に名を刻み存在を 

ただ保証したいという、危機的な欲求が  

あるからだけではないのか?  

愛には記憶がない。僕らは初め愛して、それを 

記憶にする。愛が消えても気づかず、愛の 

記憶を呼び覚まして、それをくり返そうとする。 

もうそれは今ではない。今しか、愛はトドマラ 

ナイ。だから、また初心から始めなくてはなら 

ないのだが、愛したという記憶が邪魔して、 

愛している=それがある、と錯覚させる。 

それが惨めになる理由だ。取り残された錯覚 

はしかし、厄介だ。情熱の分量だけ執着しよう 

とするからだ。そして、うまくいかないから、 

悔しさの根になる。 それがはびこったものを 

僕らは憎しみと呼ぶ。憎さは愛ではない。 

そう呼びたいくらいの執着はわかるが、それは 

醜態と呼ぶべきものだ。すべてそれらが自分 

というプライドに沁みつく。

だから、この世の面白さがあるとも言える。 

対人面の人生経験でわけがわからずとも、 

我慢を学ぶ人は多い。必要な妥協をする 

ことを覚える人も多い。そうして事件が発生 

するだけの悲劇ではなく、美しいストーリー 

も生まれたりする。 

そういう世のバランスはいつでもあるが、僕 

には本質的なことも、細かいことも依然として、

謎として残る。愛の脅威的な力はどうして 

地球の万物に作用するのか?

無関係で初対面の野生の鳥は、なぜそこに 

通りかかった見知らぬ人に挨拶しようとする 

のか? 

僕の記憶は確かに、いくらかの疎漏はある 

だろうけれども、ほんとうにそれは僕の記憶、 

なのだろうか?それは信じようとしても、最近 

になればなるほど、怪しく、危なくなる。 

同じ文章を1年後にでも再び読むと、感想が 

ガラリと変わってしまうのを見つける。同じ 

音楽を3日後に聴くと、聴いてもいなかった 

ような感興に見舞われる。新しさは矢継ぎ早 

に来る。いつが過去なのか、変わってしまった 

現在とはなんなのか? 

僕は現代で、未開の世界にリフレッシュされる 

体験をさせられているような錯覚にも似た 

日常を送る。少しでも思考すれば、同じ一日だ 

と見えるのだが、 ・・。 

毎日が新しいと、なにもかも新しさはなくなる 

だろう。逆に自分がそれを裏づけさせてくれる 

杭のような過去を演出してくれる。自分は 

常に過去と共に登場する。それで自分は 

常に過去のものだとわからせてくれる。 

これがその状態だ:::― 

言える、この感興がそうだと、 

僕はどこから来たのか。どこへ行くのか。 

この言葉の形だけがある。これは僕の 

感興という答えなのだ。疑問の方向の 

意味合い・感情が混ざった答え、答え 

そのものなのだ。 

人は自分を完全に失くした瞬間をくり返して、 

やがて、数十年もして、それが新しい自分と 

知る。   ・・ 新しい自分を見つける。 





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本に変身する夢 :普段の認知とは [認知症]

本になる(変身)と願ったり、思ったりした 

ことはない。突飛な空想で思いつきもし 

なかったが、朝、目覚めて考えると 

夢で僕は本になったらしい。 

なにかから逃げていたようだ。そこでギリシャ 

の神殿のような建築の前で、上半身が 

見えているが、下半身はページがペラペラ 

めくれるようで、そこを僕は上へ上へと 

ズリ上がるようだった。思えば、あれは 

本だったのだろう。セリフがある。 

「二松学舎さん(出版元?)に殺されるとは 

思っていなかった」と言っているが、なんの 

ことか意味不明。

この夢を見たのは蔵書を500冊放出する 

ことを自分に約束したのだが、なにしろ 

20年くらい約束を破っている、今度は 

6か月の計算予測でゆっくりやっていたが、 

意外に早く、1か月で達成したのが昨日。

今日の夕方に引き取りに宅配業者が来る。 

しかし、減らない。しかたがない、もう500冊 

を放出することに決めたが、そこまで達せ 

られないかもしれない。 

それと、昨日は10冊くらい交代で小刻みに 

読書をしたので、本の夢を見ても当然なくらい 

なのだが、自分が本になるという発想が 

なかったので、人間の認識に不思議な 

面白さを感じた。確かに僕の認識には 

不思議な認識作用があると、思うのだが。 


認知症の父が話したことも突飛な空想だと 

思っていたが、この関連でその話を分析 

推理してみたら、意外と平凡なことが分かった。 

その話というのは、認知症の患者が集まって 

いる病棟なので、習字なども練習させている。 

認知回復や現状維持の習い事?の一環なの 

だろうが、父はそれを全部自分が書いた、と 

言っていた。そう、大変だね、とか僕も認知症 

に慣れたのでなんでも否定しないで頷いてしまう 

対応を覚えていた。家族は初め、どうしても 

他人ではないので、その誤りを指摘してしまう。 

これは本人を委縮させて、不快にし、嘘をつく 

ようにさせてしまうので、言葉では否定しないで 

行為では本人の意向とは反対のことをする。 

そうした技術が必要。 

習字を全部自分が書いたというのは、たぶん、 

父も誘われたが、自信がなかったのだろう。 

しかし習字ができないと自分に認めるのは 

プライドが許さない。そこでいつの間にか、 

自分が書いたことにすれば、プライドが保てる 

と気づいたのだろう。 

それは簡単だが、次の話は面白かった、自分 

でも。それは「ここは2階だが、ほんとうは3階 

なんだ」と言っていたことだ。認知症はずいぶん 

面白い発想をするものだ、と話を聞いていたが、 

今それを推察すると、認知の機能が透けて 

見える。 

認知症は初めはまだらボケと言って、認知が 

回復する時間が長い時がある。次第に長くなり、 

いつも認知症となるのだが、父も入院中に 

わずかに回復した短い時間があったのだろう。 

そこで2階だと思っていたここは中庭が見える 

ので1階だと気づいたのだろう。そこで修正 

しなくてはと考えて、記憶に残った。しばらくして 

また認知症になり、話すときは現実認識ができ 

ないから、2階じゃない、と記憶にあっても1階に 

修正できない。そこで2階じゃないなら3階だろう 

くらいの認識しかできなかったのだろう。 

短い修正がされると、認知症ではない発想が 

紛れ込むので、それが突飛で面白く感じられた 

のだ。 

そこでは必ず自意識が主人公になって妄想が 

構成されている。それはプライドであり、自意識 

という認識(知性)なのだ。 

僕の夢はどうだろう?ここで気づかされるのは、 

僕は夢を見ながら、自分が本になりつつある 

状態だと目の前に見ながら、知らなかったことだ。 

自分の夢なのだから、奇妙なものを想像しても、 

それが奇妙だとは夢の中で認識している。だが、 

僕は何の夢を見ているのか、認識できていな 

かった。 

それはただ夢の中だから、ということではなくて、 

自意識が夢では弱められるが、それ以上に 

十分に働いていなかったことを意味する。 

僕は、僕の夢を自分(自意識)から見ている 

のではなく、多分に無意識から見ている。 

そうすると以前書いたように、言葉の層や 

色感覚の層や映像の層がすりガラスの 

ように重なって、なんの夢だかがまったく 

わからない夢を見た、というのは無意識の 

表象を表層的に見たということなのだろう。 

すると、結論が現れる。僕は普段は自意識 

を、自分を持たない、ということを。 

夢がそれを証明していた、ということだと思う。 


僕らは夢も自分からしか見れない、という 

ことだ。それは当然のことだが、僕の夢を 

まな板に上げる時、それはまた違う解釈 

を生む。僕らが自分に囚われているのを 

夢でも(自身の中=自分という囚人から) 

解放されることはない、ということだ。 

「日本が世界一貧しい国 である件に 

ついて(谷本真由美:著)」 2013
   谷本真由美@May̠Roma 

という本を読むと、「自分が日本でかかって 

いた洗脳。競争しなくてはいけない、家族や 

友より仕事、進歩は偉い。田舎はださい、

自販機とコンビニは重要、電車とバスは 

定時でなければいけない、痩せていなけれ 

ばいけない、群れていなければいけない、

流行は追わないといけない。どれも自分を 

不幸にしていた。」 とつぶやいたツイッター 

でなぜか40万回の閲覧があったと。 

ネット右翼は「朝鮮人は出ていけ!」「竹島 

を返せ!」と言っているのに、彼女への 

投稿は相談が多いらしく、「仕事がつらい 

んです。悩んでいます」と来ているとなると 

彼女も「なんとも情けないものです」と書いて 

いる。ネットでストレス解消をしても生活の 

現実という自分からは解放されない見本の 

ようなものだ。

夢はその日の現実を仮追体験してストレス 

を開放するためのものなのだろうが、自分 

を解放することは永遠にない、ということだ。 

僕が一日の多くの隙間時間を使って、沈思 

黙考しているのはポーズであって、考えは 

勝手に流れてゆくし、本当は自意識を解放 

するためのこころの工夫に苦労?している 

のだ、ただ坐って。そうして、今を、今日を 

新しい世界として迎えるのだ。 

なるほど。長年のモヤモヤが少し、吹っ切れ 

たぞ。

ともかく、無意識層に少しでも踏み込むことを 

覚えると、新しい対応を迫られることが多い。 

新しい対応だから、全部自分で解決していか 

なくてはいけない。そういうことをしている人 

は世界国家には多くいるのだろうが、それを 

分析して言葉にして書いたり、本にしたりする 

人はいないのだろう。わずかな部分で出会う 

ことはあっても、それは黙座と生活の中で消化 

されるものだから、なにも残らないものだ。 

基礎研究でもそうだが、時間と金がかかるので 

企業はやりたがらない。どこかの企業が開発・ 

発見したものを横取り・提携して、新製品にして 

儲けようというのが今の経営の本流だ。 

僕はもうここまで来てしまっているので、それで 

諦めているし、諦められる。先頭を走っている 

気分は悪いものじゃない。マラソンでも風よけに 

前を走る選手のすぐ後ろについて、体力を 

保つというのは走行途中での作戦ではよく 

使われている。ここまで走って、先頭を探した 

こともあるが、まだ見つからない。その可能性も 

なさそうだ(笑)。
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すべてのブログを書く人へ [書くという]

ブログを書く意味がわかってきた。 

ブログを書いてきた 

ブログを書いてきたことだよ 

ブログを書くのだ 

・・・・・  という処、だろうか。 

ふざけてはいない。意味などないのだから。 

書くという行為、そこになにかがある。 

なにがしか、作るということ。  

意味はやはり、ない。書く行為だけが 

続く。素晴らしくもないかもしれないが、 

それはそれでなにがしか、である。 

あなたが幸福なら、それが伝わる。 

書きたくないなら、書かない。それが 

空白で伝わる。 

書けば、その時の考える空気が、 

その時の些細な、あるいは激情が 

言葉になる。なにかを隠して、それを 

自分でも探しているのかもしれない。 

あまり、こう書いたら、こう思われるという 

ほんとうに無駄にしかならない想像は 

捨てたほうがいい。感情的なストレートな 

反応しか書けないと、恥じているなら、 

しばらく日記に内緒で、思い切り 

書きなぐるといい。それは自分の中の 

自分というもの、それが満足するまで。 

3か月以上なら、だれかに相談するくらい、 

病気になる手前。たいてい、その前に 

落ち着いてしまう。それから、どういう 

反応が落ち着いた言葉になるか、

書けるようになる。1年?それはあなた 

次第だ。 

考えや気持ちを制限してはだめだ。 

それは公表できないだろうけれど、 

自分には眼にもの見せるべきだ。 

格好つけてばかりでは、いつまでも 

自分に騙され続ける。 あなたのことを 

知という自分、自我という自分は 

よく知っていて、意識の裏に隠れ、 

あなたをコントロールしている。 

だから、内緒であなたの悪事を書き連ねる 

ことだ。三島も言うように、創作では 

なにをしてもいい。殴りたいやつを  

死ぬまで殴るがいい。ちゃんと書いて、 

それをあとから読んでみること。 

満足するまで書きなぐること。 

これはあなたに推奨することである 

だろうか、気の弱い人はしないだろう、 

と知っている。昔、僕のした方法だ。 

何人殺したかわからない。そして、 

悲しみが残った。3人目くらいで 

先に後悔するようになる。 

しかし、やってみないと、後悔は 

先に立たない。 

仏教ではそれを禁じることを言っている。 

僕はその戒律を破ったわけだ。少しも 

後悔はない。そういう自分を自分に 

納得させたからだ。その手前でうろうろ 

していたほうが、将来犯罪をおこして 

しまうかもしれない、とそう思うように 

なった。なにが正解か、この世では 

わからない。現実的な想像で、血を 

見て、あえぐ息を感じて、人が死ぬのを 

見る。だんだん嫌になる。自己嫌悪、

それでいい。では、そうならないためには 

どうしたらいいのか。 

昔、そうやって考えていた。もう数十年が 

経って、僕は大昔、人を殺したことがある 

のじゃないか、と変な確信を抱いている。 

普通人は、そうじゃない人が多いのだ。 

だから、思い切った想像も、思い切った 

自分からの飛躍もしたことがないのだ。 

そのために随分、悩んだのだろうな。 

それは罪を犯しても同じだったろう。 

そういうことは意外に経験すると、 

納得するものだ。

どちらにしても感情の制御が必要になる。 

考えたって、自分の衝動は止められない。 

少しずつ、刺激を強くして、激情の結果が 

どうなるか、想像する。泣いたり、怒ったり  

し始めたら、少し慣れてきている、もう 

ちょっとだ。 

けだるい時も来る。そういう中間点では、 

好きなものに遊ぶ。けだるい音楽とか、 

あるでしょ、そんなものが。 

どうにかしたいと、気づいて、その意識を 

手離さなければ、ひとつは脱出口が開く。 

継続していれば、2つ3つと数が増えて、 

そのうち世界が晴れる時が来る。 

そういうモチベイションを持つのに、 

どうしたら?ない人はそもそもそんな 

ことに悩んでいないだろう。何度も 

ころんでうまくなるスケートのようなもの。 

失敗を恐れて、臆病になり、さらに 

自己卑下になって失敗の悪循環を 

くり返す。失敗をすることが成功の  

条件のようなもの。それでも給料に 

しがみついて不幸な徘徊をする人は 

多いだろう。 

遊ぶものって、多いね。多くの方法は 

ストレスと闘う口実で、あふれた慰労 

の灯りに誘われて徘徊するんだろうね。 

そういうのは心の中間地帯になるん 

だろうけれど、いつまでもぬるま湯に 

浸かっていて、タブから出たら、冷えが 

速く来る。年齢だね。温まっているうちに、 

出たほうがいいよ。 

復讐も遊びだよって、誰が言ったのかね。 

なにもかも、自分から逃げてするものは 

それが勉強だろうが、福祉活動だろうが、 

それは自分の想いから逃げるための 

代償行為という遊びになりそうだよ。 

愛に生きるのだってそうだ、でも、真似 

しているうちに本物に変わるということ 

もあるだろう。まれに、運がいい、と言うか。 

エモい、か。 

そんなこと言ったら、この生活は 

やり方次第で何もなくてもエモい 

のだけれど、つい、この話になって 

しまう。  話のタネがない。 



すべてが ほどけてゆく 

こう言いたいと 思っても 

これは言いたくない という 

思いがないと 

すべて 古い風が  吹いて  

通り過ぎた  あと  

残るものは  ない  

そのうちに  人は  

ロボットや  アンドロイドに なりたいと  

もうすでに  思っているだろう  

1・ 2・ 3・ ・・と続いてゆく  思考が 

その要因を コントロールしているとは  

夢にも  思わないだろう  

つながっているとは  

やがて  

あたらしい風が  吹いて  

残されたものに  皆  がっかり 

するだろう  

僕は  ここにいて  

L  ん  さ  Mu ・  ・ 、

ナントイウ 

なんという、  

何を 

書いているのだろう  

なんという   しあわせと  

なんという  

拒絶したくない  気持ち 

こんなに  しあわせで 

いいのだろうか、  と  

こんなに  透明で  

いいのだろうか、   と  

ああ  

死ぬことさえ  できないのに  

こんなに  

あふれている   

すべてが   

祝福 されているのに  

それが  

僕という  エポック、  

時代 なのだろう 



さらば  



あなたも  

僕も  



なにも かも 





さらば  




僕ら 













::

ドラマを観ていたら、セリフが坊さんの 

説教のように辛気臭かった。でも、 

仏壇に今までの感謝に花を捧げましたか、 

というようなセリフはよかった。 

この10年で無関心だった仏壇、数える 

ほどしか線香をあげていなかったが、 

その煙をくゆらせた。この人たちから 

生まれたのだ、と改めて感謝した。

ただ、仏壇には来なくていいよ、と 

言ってやりたい。死んだ人と喧嘩する 

のは一度だけでいい(亡くなって早い 

時期だった)。死んだらもう喧嘩もできない、 

と言われるが、それをしたのは僕ぐらい 

なのだろう。

もう十分時間は経ったから、成仏した 

だろうが、・・。



さらば   両親  


あなたたち 




すべてが  溶けてゆく なぁ 


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