SSブログ

アイデンティティを失う意味 [自分]

突然、書くために、ここへ来た。いつもの 

坐る場所。なにがかわったわけでもないが、 

書くような指令を感じたわけでもないが、 

ある焦燥がある、そうじゃないかという 

気がした。

言葉がどんどん意識に上がってくる。なにが 

言いたいか、わかる気もする。そうであり 

ながら、書くのはためらう。  

この小さな焦燥がそのまま静かに消えて 

いってもいいのではないかと、無視しようと 

している。書くためのどんな義務も責任も 

ない。

と、・・・だ、そんなこと考えても、思っていても 

なにもならない。そのほうが問題だろう。 

感覚は正直だ。考えなくていいから、そう 

いう時は衝動で行動せよ、と。 

普段から優柔不断で悩む人は、そう言われても 

何の準備もない。大して羽目を外す行動は 

できないのだ。ともかく、実社会では直感的 

行動は大切になる。後先考えないから、それ 

までにどこまで行くか、どこで止まるか、と 

いう準備が心になされていないと、不安で 

直感で行動なんてできはしない。 

どうする?僕ちゃん?書く?書かない? 

焦燥を燃やしてみる?消えるのを待つ? 

どうする?僕ちゃん?どうするのよ!  

そう僕を笑わせないで、おかしいだろ。 

グラディションとか、フェードアウトとか、 

周囲を回ってばかりで、踏み込まない 

つもりなのか。時間稼ぎさんよ。 

はちきれたいのか、ぴしゃっと言って 

やりたいのか、わかってないな、お前は。 

舞台に上がる呼吸を忘れちまったのか、 

シレっと出る、スッと出る。だから、なに 

もない、足で歩くだけ。心でも同じ、 

シレっと決める、決心。 

自分に逃げ込むと、考える考える、 

ルーチンで同じ処を回り続けるから、 

同じ作業をしてなにかをしているつもり 

になって本命から目を反らせる、という 

わけだ。そうやって、自分ではわかった 

つもりや考えても無駄という言い訳の 

習慣を重ねるのに手を貸す。それが 

自分という裏の手なのだから、見抜き 

たくもないから、まんまとその手に乗る 

のだ。 

憂愁というだけでノスタルジックになるのは、 

どういうわけか。郷愁が感じられるように 

自分がそこで休憩できると思うのは、どういう 

いきさつなのか。 

クリエイションという単語が気にかかる。風に 

吹かれて、好きにして、あとは知らない、という 

処までセットだという台詞だと思うんだが、 ・・。 

愛について、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

決めてみたい。 ・・・と思うのだが、 

知っているところから、新しい類推を試して 

みたい、と ・・。 

その着想は悲劇にたどり着く。すると、書く意味 

がなくなる。悲劇になる可能性なり、確率が 

少しでもあれば、その事実を受け入れがたい。 

― そう思った瞬間、 そういった心の全体が 

ヒントになった。 

問題はここにある。どうして愛は悲劇ではいけ 

ないのか、どうしてそう思うのか、その動機は? 

なにか? どうして愛は死に囲まれているのか? 

それは死が愛を守っているということなのか? 

だとしたら、愛はなぜ守られる必要があるのか。 

もう死んでいるのに。それは死んでいないのだろう。 

死なないために境界を設けたが、死でなければ 

守れなかった理由が存在する ・・はずだ。 

それは 

それは  

それは  ・・   

愛がなければ生きられないのに、愛はなぜ自由 

ではないのか? 

僕らは愛をた易く感じるが、持続させるのは 

不得意だ。それは愛を知らないためであるが、  

愛には知ってはならない理由があるのだろうか? 

と、僕の都合で考えは進んだが、根拠は僕の 

内面体験でのそれぞれの素因というそれしか 

ない、という不利な証拠だ。 

僕らは自分を知るのを恐れる。ほぼ無意識だが、 

待つ身になっても、自分を意識するのをつらく 

感じる。自分と対面しなくてはならないから。 

どうして退屈を恐れるのか。それは自分に 

有機的な永続な根拠がないのを知るのを 

避けようとするからなのか? 

僕らは歴史に自分を植え付けようとする。 

高い地位ならば、自分の名前が通りに 

つけられたりするのを喜ぶ、名士と言われ 

たい。それは自分というものに、ほんとうは 

名前がないからではないのか、その存在 

証明(アイデンティティ)に後ろ盾もなんの 

保証もないからではないのか? 

保証を求めるから、歴史に名を刻み存在を 

ただ保証したいという、危機的な欲求が  

あるからだけではないのか?  

愛には記憶がない。僕らは初め愛して、それを 

記憶にする。愛が消えても気づかず、愛の 

記憶を呼び覚まして、それをくり返そうとする。 

もうそれは今ではない。今しか、愛はトドマラ 

ナイ。だから、また初心から始めなくてはなら 

ないのだが、愛したという記憶が邪魔して、 

愛している=それがある、と錯覚させる。 

それが惨めになる理由だ。取り残された錯覚 

はしかし、厄介だ。情熱の分量だけ執着しよう 

とするからだ。そして、うまくいかないから、 

悔しさの根になる。 それがはびこったものを 

僕らは憎しみと呼ぶ。憎さは愛ではない。 

そう呼びたいくらいの執着はわかるが、それは 

醜態と呼ぶべきものだ。すべてそれらが自分 

というプライドに沁みつく。

だから、この世の面白さがあるとも言える。 

対人面の人生経験でわけがわからずとも、 

我慢を学ぶ人は多い。必要な妥協をする 

ことを覚える人も多い。そうして事件が発生 

するだけの悲劇ではなく、美しいストーリー 

も生まれたりする。 

そういう世のバランスはいつでもあるが、僕 

には本質的なことも、細かいことも依然として、

謎として残る。愛の脅威的な力はどうして 

地球の万物に作用するのか?

無関係で初対面の野生の鳥は、なぜそこに 

通りかかった見知らぬ人に挨拶しようとする 

のか? 

僕の記憶は確かに、いくらかの疎漏はある 

だろうけれども、ほんとうにそれは僕の記憶、 

なのだろうか?それは信じようとしても、最近 

になればなるほど、怪しく、危なくなる。 

同じ文章を1年後にでも再び読むと、感想が 

ガラリと変わってしまうのを見つける。同じ 

音楽を3日後に聴くと、聴いてもいなかった 

ような感興に見舞われる。新しさは矢継ぎ早 

に来る。いつが過去なのか、変わってしまった 

現在とはなんなのか? 

僕は現代で、未開の世界にリフレッシュされる 

体験をさせられているような錯覚にも似た 

日常を送る。少しでも思考すれば、同じ一日だ 

と見えるのだが、 ・・。 

毎日が新しいと、なにもかも新しさはなくなる 

だろう。逆に自分がそれを裏づけさせてくれる 

杭のような過去を演出してくれる。自分は 

常に過去と共に登場する。それで自分は 

常に過去のものだとわからせてくれる。 

これがその状態だ:::― 

言える、この感興がそうだと、 

僕はどこから来たのか。どこへ行くのか。 

この言葉の形だけがある。これは僕の 

感興という答えなのだ。疑問の方向の 

意味合い・感情が混ざった答え、答え 

そのものなのだ。 

人は自分を完全に失くした瞬間をくり返して、 

やがて、数十年もして、それが新しい自分と 

知る。   ・・ 新しい自分を見つける。 





nice!(13)  コメント(0) 

nice! 13

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。