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土曜日の、因果で陰鬱な晩 [黄昏]

土曜日の晩だった。

黄昏(たそがれ)は僕が捕まえ

ようとして逃げられた空気袋

だった。

なにも入っていないかのように

膨らんだ姿は、それでも古い

古語の辞書のように意味が詰まっ

ているかのようだった。

それを確かめるチェックがいつも

自分を確保する一つの方法である

と思っていた、いや、そう思い込も

うとしていたのかもしれない。

そうして逃げられたのだが、それで

もそれなりに気持ちのいい晩だった。

どうも感情を動かされることを人は

密かに求めているのかもしれぬ、と

思い始めたようだ。

黄昏とか郷愁という言葉はそういう

雰囲気を保証する言葉だと、額縁に

飾られた絵画を見るように、立って

眺めていたようだ。


自分で自分を見ることはない。でき

ないこともあるが、それを人から

反射されないからだ。それがその晩

は人から自分の孤独を反射された。

それだけなら大した意味も感情も

ない。

ところが、彼の感情は僕の感情だっ

た。それで結果、僕は僕を通して

僕の孤独をみてしまうという、意外

なことになってしまった。

君は孤独になるな。君の悲しみには

なぜか耐えられないようで、耐えた

くない、それは不思議な感情だった。

それは自分のことでもあったからだ。


僕の気持ちも、その悲しみも未知の

もので未来のものであるような気が

するにも関わらず、現実の壁を触っ

ているというリアルなことがあった。

そういう時に僕は君への気持ちが

ありありとわかる。これが人を

しあわせにするから、そのために

失う悲しみの予感は激しいものに

なる、と。

愛というより、愛情だとわかる。


それだけだ。それがわかるだけで

それがなんだ、ということでは

ないし、なにか衒学な意味があると

いうのでもない。深く切り裂かれた

崖のようなクレパスに手を突っ込ん

で、とても耐えられない冷気を感じ

ているのだ。

君に会いたいのでもあるし、会いた

くもないほどにこの悲しみが定着す

るのを恐れているようでもある。

若い君にはこれは未来の物語に属す

るはずだ。なにもこのことには思い

出すこともないのだろう。

そうであれば、これは僕の内心の

独り芝居になるのだが、その方が

僕には安心できる。

僕が誰かにあこがれを持つという

ことは、僕が否定してきた自己の

アイデンティティというものを、

それ与えるということなのだろう。

それは僕が概念に拘束されること

を意味するから、その意味での自由

を取られることになる。満足を求め

て、自在感を捨てることになるのだ

ろう。

これが奪おうとすることで与えられ

てしまうことであり、与えられてし

まうことで惨めになる、という循環

なのだろう。それがそのまま自分を

実現させようとしてプライドを発揚

させようとする、心のシステムなの

だろう。


さて、僕はどうするのだろう?それが

わかった処で、そのことが直接、僕に

進む途を照らすのでもないし、重要な

人生の指針になるのでもない。

のだから:- 

ふつうはここで落ち込んでゆくのだ

ろう、と予測するが、僕にはできな

いし、またこの状況を自分から他人

から、自分のために他人のために

判断するのに時間がかかるのだろう。

アイデンティティ、僕が?

笑ってしまいそうだが、そうはさせ

ない真剣な悲しみがある。


::

日曜の晩になっている。

歴史に時計という、残りとか増加する

という刻みは存在していない。

僕らはすべては無意味だというニヒル

な思想と、いやそれは考え過ぎだと

いう理性の常識の、どちらも平板と

いう思考に陥っている。その概念の

遊びが真剣な状況になった時は、僕ら

はほんとうに「ひとり」とか「孤独」

というものの激烈な焼ける鏝(コテ)

を感じるのだろう。それがどんな

ものか、僕も知らないにしても。



(無意識下の自分が感じているだ

ろうことを予測しても、形も影も

ないので、それを知っているという

ことはあり得ない。だから、知って

いるとは言えない):ーというやや

こしい状況が、要するに僕を取り

巻いているということだと思って

いる。

常々(日常)のことだが、・・・。


:::

例えばだが、上皇さん夫妻は天皇

時代から皇居の散歩で少し歩いたら、

少し軽いランニングに切り替えて、

300mくらいでまた歩く、をくり返し

ているとニュースの解説で聴いた。

足の筋肉に刺激を与えるのが、筋肉

が衰えないようにする目的なので、

これはよい方法だろう。

それと似て、哀愁ならまだしも、

自分を落ち込ませるためにその

陰鬱な原因と底を求める(書く)

のも生きる刺激を回復させる

(反動の)方法でもある、と予測

するのだが、

・・・どうだろう。

習慣化したかもしれない:::


もう少し言うと、しあわせは死ぬ

ほど気持ちいい。そして、死ぬほど

の孤独と思われている「人の孤独」

を、僕は闇から自分を守る砦くら

いにしか感じない。

砦に帰りたくなるのは、帰巣本能

と変わらないのではないか。

アゲハ羽1.jpg

散歩に出ようとして駐車場の入り口

当たりで立ち留まってて、ふと下を

見ると下草にアゲハ蝶が止まっている。

珍しいな、こんな近くで、とすぐに

動かないので死んだ蝶だと。

拾ってみると、やはりそうだった。

羽を広げようとすると、折れて半羽が

落ちてしまった。画像だけ残した。
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