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長すぎる 長くはない10年 [心の進化]

長すぎたのではない。

今は今。 が、それは瞬間に区切って

切り狭められたものでもない。


この10年。


長かった。言葉にならない。

意識の先端であるかのように

その緊張が生きる証であるかの

ように感じて、疑わなかった

半世紀がその10年でもあった。


無意識は世界を開いた。

かくなる確固たる見方でいられた。

しかし、半永久な精神運動は疲れ

もした。

戻そうとして3年。楽になって半年、

だろうか。



中学から大学入試まで、その頃の

千葉の海の思い出が三人にあって、

素晴らしい夏が何年も連呼した。

その夏の最も重要な人が過去になり、

そして、それから20年以上も経って

千葉にひとり出かけた。なぜかわから

なかったが、行ってみて、思い出の

磯で10分ほど坐っていたら、わかった。

海の思い出が終わるのだった。

思い出がただのセピア色の記憶に

変色していたのに気づくことだった。



「終わった」とはっきりして、立ち

上がった時、磯に波うつ光景がなんの

感激もなく、透明に寒々しくもあった。

その時にその二人の友達も失うとは

思わなかった。


それは根底から覆してしまう自己革変

だった。やがて舞台が夢から現実へと

その中心を移してしまう前触れだった。


それをはっきりと教えたこの10年は

長く、果てしないのものに感じさせた。

本棚で部屋に四角く囲った、さらに

狭い空間は机を前にして、一人用の

空間だった。そこに入るのは好きでは

なかったが、違った。そこに入ると、

今日は落ち着いた。そして、その感興

がどういうものだかがわかった。

高校の時代だった。高校生の自分がいた。

僕は高校の時の自分の感覚の中にいた。

あの頃の希望、生きにくさ、野心、なに

かわからぬうちに未来への情熱を感じ

てしまう青い匂いの汗の生命、その

生命感を感じている。


それはこう言えるのに、自分でも驚く::-

僕は過去にいる。タイムスリップして

高校生になった。しかし、これまでの

60年もの記憶がそれに屹立している

から現在を見誤ることはない。

が、タイムスリップした感覚は続く。

この世の時はそのままだ。僕が変わ

った。



夢の側が中心で生きた僕には、この

半世紀がこの10年に感じ、またその

中味は悠久の時を感じさせ、覚えて、

僕を雨の外へ連れ出そうとしていた。

玄関先でしばらく、雨を見ながら

立っていた。立ち尽くすような気持

ちで、その感興とともにあった。


因果は冷たく鉄のような立法で不変律

であるが、それを柔らかく感じる自由

さがあった。今、それは生まれたの

だろう。

五万もの変則・変化を時々刻々読み切る

のはできることではない、不可能だ。

それが自由の源なのだ。読み切れなけ

れば、僕らはわかりきった予想で確実

な道を進むという安全・安心な生を

過ごすことは適わない。だからそこに

確実に冒険・挑戦の要素が入る。

まさしく思ったようにはいかない。

そこに不安を抱かせ、いかに達成率

を高めるために努力するか、それこ

そが自由だと因果は教える。



それはまた、これまでの社会を築き

上げてきた歴史の上での男の世界だ

ろう。

僕にとっては遅きに位置するかも

しれないが、前準備を終えて、好き

な世界を構築するための後準備が

できたことだろう、とも思う。

それは私(わたくし)からではない、

私のものではない、無私からの世界

だろう。この意味はよくわかるが、

人が知るのは実行された後になる。


夢から覚めた詩人のランボーは

極端だった。彼の少ない詩がヨー

ロッパで有名になり、詩の依頼が

来る頃に彼はアフリカにいた。

商人として武器を売りに来て失敗

した。しかし、彼は詩をもう軽蔑

していて、依頼は断った。恐らく

商人としてする苦労よりも相当に

楽に稼げるのに。

商売は止めなかった。商売人として

死に、現実に生きるほうを選んで

いた。もちろん、彼の名は天才詩人

として残り、これからも朽ちること

はないだろう。アフリカの紛争地域

での商売は命がけの冒険だった。彼

も子供の頃の夢を手に入れたのかも

しれない。




::
ランボーの放蕩詩は「地獄の季節」

を読むとよい。
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