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僕らが旧人類でなければ新人類もいない [心の進化]

水色の小さな粒のガラス玉。それと、

青白い、ちょっとだけ濁った透明な

ガラス玉が混ざり合いながら、中空を

ゆく。片方は愛で、もう片方は悲しみで、

混ざり行くさまにそれが見える。

どちらも同じで、混ざっても同じに見えて、

それを当たり前のことと見ている。

我に気がついてみると、自分が考えて

いることを夢に見るのと、これは同じ

なんだろうな、と思う。それらが反発し

あわないのが、もうどれが愛だか、悲しみ

だか、わからないのが、そのシンメトリー

というものなのだろう。

これが何を意味するかは、尋ねる人の

興味に拠る。答えはそれぞれだろうが、

そこから反発を見出すことは、かなり

曲解しなければ出てこない答えだろう、

とは思う。

音楽を聴くと、人はメロディに気を取られ

るのだろうけれど、僕もそれを中心と

するが、やはり、全体というバランスを

聴く。音楽というものが、すべて和を警告・

啓発・啓蒙するものに聴こえるの

だが、 ・・・。

昔は、音楽はずいぶん、慰めだったが、

今はそれは伴奏に替わっている。伴奏

は必要な時にあればいいもので、いつも

要るわけではない。

人の愛は本来はコントロールできないが、

愛に飢える人は多く、その人たちは外に

それを求めるために、敵に相談を持ち

掛けていることを知らない。あなたの中に

愛がなければ、外を探してもその代わり

しか見つからない。それが代わりだと、

どうやって知るのだろうか。溺れると

知っても藁を掴むのは、このまま苦しみ

が続くより、まだ溺れたほうがまし、と

思うからだろうか。

愛を求めるのは、誰かにコントロール

されるのを求めるのと一緒だ。

僕はそういう愛を知らない。愛を求め

ないこともあるのだろうけれど、異様に

強い自身の愛情には手をこまねいた

からだ。

例えば、1億円くらいのくじが当たって、

それを少しでも人に話すと、あっという

間に知れ渡る、その早さには驚く。

お金と愛情は違うというが、強い共通点

を持っている。ともかく、お金を集める

には愛を利用するのが、一番手っ取り早い。

新興宗教は、いつでも今でも相変わらず、

その同じ手口を使う。

愛を求めるというのは、生活自体が

異常に激烈な不安に置かされていると

いうことだ。そうなると、いても立っても

いられない。安心を得るためなら、お金

には、1億だろうと、2億だろうと、構わ

なくなる。お金で愛を買おうとしているの

だが、その意味を理解しないし、そのこと

さえ気づかないのかもしれない。

ただ、なにかに依存して、安心を得たい

一心なのだ。

そういう忠告を得られても、一時しのぎで

自分が本当は何に不足していると感じて

いるのかを自覚するまでは、仮初めの

安心しか手に入らない。

その仮初めでも、また偽りでもあるの

だが、ささいな幸運なことが一時期続く

から、自分の入信は正しいと思い込み、

教団から抜けるのは難しくなる。

一文無しでもいいという気にさせられる

から、もうどこへも行く当てがなくなって

しまう。自分で選んだ罠の中で生活を

せざるを得ない。 

親も配偶者も、家族も兄弟も犠牲にする

ほど、行方不明者や自殺者を出すほど

の荒れた生活になれば、社会の中にも

留まれないだろう。

どこまでこの不幸を書いて行くのだろう?

と思っている、僕が。

そして、これは何だろう、と俯瞰しようと

する。悲しみと愛が交じり合っている。

そういうことだったはず。

これはやりきれなさだろうか。

愛を求めるのは、やりきれないことだ。

求められないのが愛であるのなら、それ

なら僕らはどうやって救いを求めたら

いいのか。ここに戻ってくる。

自分を救うのは、最後は自分しかいない。

それがわかるまで、不安は去らない。

まず、そういうものであるなら、そこから

始めるしかない。

自我を強くする方法があればいいのだが、

強くなる状況はあるが、それは望むべくも

ないことだ。ブッダは危険を顧みず、伝統

に従ったが、悟ってからは自らを導いた

方法を禁止した。

孔子は晩年には最高の弟子を早逝で

失ってしまい、生涯はほぼ弟子を連れて

の流浪の生活だった。

ソクラテスは神に召されると信じ、一市民

として政治の罠で毒杯を仰ぎ、牢中で

いさぎよく自死した。

伝記は美しく物語を語るが、それは尊敬と

崇拝の念からだろうが、精神的に解脱した

ような人は現実では夢を裏切られる目に

会っている。僕らだけではなく、彼らも避け

られないのが、この世の悲哀だ。

悟りたい人は悟ればいいだろうが、それは

その人がその選択をしなければならない

事情があった、というのがほとんどだ。

ブッダのように禁欲的で、我慢強く、修行

で考えも飛躍的に進んだだろうが、そう

いう人が、必ずしもいつもブッダの道を

進むわけではない。その人にとって、

それが必要でわかりやすかった道なの

だろう、と思うだけだ。


精神が安定したと見える人は、その人

本人に会ってみれば、なるほどそれで

しあわせで十分な道を心得ているのだ、

と納得できるのかもしれないが、もう

その人たちはいない。はた目には

とても幸福とは思えない生涯を送って

いるというのが、実情だ。

だから、僕らが何に悩み、不安を抱え

るのか、僕にはわからないが、それも

彼らの生活から比較すると、贅沢な

悩みではないか、と思うことすらある。

聖人は悩まなかったかもしれないが、

精神が安定したからといって、現実の

不可思議・不条理・理不尽さに襲われ

なかったということではなかった。

僕らとそれほど変わらない。それ

なのに、僕らだけ大騒ぎをするの

だろうか。

ブッダは自分が死んでも悲しむこと

はない、法を順守して進め、ということ

を言ったが、誰も理解しなかったの

だろう、入滅して弟子どころか、象もトラ

も泣いた(?)そうだから。(伝記)


だから、3000年以上も同じことが

くり返されている。仏典を読んで、理解

したという人も、やはり、性格が違うの

だろう、新しいブッダが現れることは

なかった。つまり、ブッダは人生の全体

を克服したのではなかった。でき

なかった。

僕らはだから、今でもひとりなのだが、

ひとりになりたくないと、救いを求め

続ける。本来的に仏教、キリスト教、

儒教、新興宗教の数多・・・・・などの

教えに拠ろうとしたりしている。誰も

それを否定してやらない。信教の自由

という憲法上の逃げ道がある。問題

はそこではないのに。

役に立たないのなら、権威でもない

だろうに、宗教法人関係の人の

話や議論や相談は無駄なのだが、

話は向こうのほうが論法を心得て、

例えの使い方もうまい。飛び込み営業

だって、相手の反論にどう答えるか

くらいは用意して、練習して各家を訪問

する。話してもどうにもならなくなって

言いくるめられるのは主婦のほうが

よく知っているだろう。


つまり、今は煮詰まっている、ということ。

それは精神的に追及の段階途中の場合

はいいことだ。あと少しでこの緊張は

破れて、新しい道が開かれる可能性

がある。いいことばかりを言う政治家や

宗教団体とは異なるのだから、僕らには

その用意が必要だろう。

それはなんだろう。まず自分という個人

事実を受け止めること。

受け入れずに、それをよく検討すること。

楽になりたいという気持ちが強いと、

見当なんかどうでもよくなる。それでは

また、時代をくり返す、旧人類と同じこと。

旧人類と決められるほど、大転換が

あるのを期待するのも違う気がするし、

・・だが、それはある。


もうこれ以上はない、と思ったその時が

開ける。その矛盾が僕らを踏みとどまら

せる。すべてはそこまでしか道案内は

できない。そこから自己犠牲とやらを

信じた、捕虜の処刑が決まってその人

の身代わりを申し出た神父などは(のちに

聖人に教会から列せられたが) 中途半端

に気づかず、道は開かれないだろう。

もっと大きな、 ・・ それを明かした者

はいないように思う。言葉も、音楽も、

絵画も中途半端だからだ。そして、

それを思わせる疑似的な世界は

数多くある。数多くの錯覚させる神秘

が、 ・・・。



・・ は、人間よ、これらの世界を

楽しみたまえ、苦しみたまえ、と

言っているようだ。僕にはそう聴こ

える。邪魔な声だ。

愛と悲しみが混ざり合う、そういう

世界なのだ、ここは。  7 . 26 




:::

新人類ということからは、ミュー

タントとかのSFじみたおとぎ話が

もてはやされるが、体が変わるの

が最もそれとわかるからだろうが、

その進化人類は希望に終わる

だろう。それはアンドロイドなどの

科学技術がそれに近い形で実現

させつつある。

体を決めるのは自然環境が大変化

して、絶滅の危機が訪れて、それを

回避する人間が、恐らく突然変異した

子供が生まれるのだろうが、そういう

時だ。

僕らは旧人類のまま、変えるべき

なのはそれではないと知っている

はずなのだ。根本的な改革が必要

だという意識が伝播しなければ、何

も起きず、何も変わらないだろう。

そういう記事も情報も仮説も、見た

ことがない。過去に拠った偽書か想像

によるものか不明な仮説を持ってきて、

そこから何を言っても、また批判しても、

それはいつの時代も繰り返されたこと

だ。そのダ・カーポ、ダ・カーポを

続けて、フィーネはどこ行った?

新しいというのは、流行のくり返しの

ことではなく、新旧の違いが如実に

見えるということだ。それを現した

言葉がまだ出現していない。だから、

自分の言葉で語り始めるしかない。

誰かが言った言説ではない。そういう

ルートを辿らなければ、なにかを言う

ことはできない。悟り、とか天とか、神

とか数千年も使い古されて、まだ当時

の意味合いが残っていると思うのなら、

平安の源氏物語の古文など、僕らは

今でもすらすら読んで、当時の意味合い

で理解できるはずだ。それほど平坦な

意味の比較で、それらのことを僕は

言っているつもりだが、 ・・・・。


            追加・推敲 7. 31



:::

旧人類と新人類が分かれるのではない

気がする。そこで二つの人類がどうの

こうのは、これまでしてきた考え方の

まったくの踏襲で、それで新しい時代の

幕が切り落とされたことはない。

何が変わるのだろう?

まったくそうだ。

何が変わるのだろう、その入り口を

見つけようとしている。それはそれを

受け入れる準備が整いつつある、と

いう前代未聞のことに聴こえる。

それは僕らが目の前にしているもの

に現れているのだが、僕らが新しくは

ないので、気づこうにも気づけない。

まったくそうだ。

何が変わるのか?

                  8. 5
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