瞬速で輝くもの [人生]
人生という言葉を使っても
おかしくはない年齢に達したが、
人生の厚みは感じるのみ、一向に
なにが人生なのか、ピンと来ない
生活の中にいる。
僕が属したり、その一部だと思う
もの、僕が人間なのだという、
そういう当然な見解さえ、遠い
ものに包まれている。
現実感のない雰囲気に惹かれる
ような、あいまいな自分の心質を
思う。
さらば MY LIFE
(いい響きだと思う。
その響きをバックにして、僕の
生活は冴えようとしている。)
さらば MY LIFE
それが 僕への 贈り物
この1秒を 捨てて
新しい 命を 育てたい
そうすると 僕らは
翼を 見るのだろうか
まぶしくて 輝きが
見えないように
さらば という 闇に立てば
光の世界が よく 見える
祝福は 神でも 宗教でもない
僕らの 命だと
輝きが 教える
さらば 昨日の 自分
さらば 昨日という 人生
どう考えても
永遠が あるのだとしたら
昨日からも
明日からも
今という 在り方から
離れて 存在するのは
できない 不可能だ
嘘を言えば
僕らは 生きるたびに 死ぬ
僕らは 死ぬことで 生き続ける
それが おかしく 聴こえるのは
嘘だから
それら 全体が
生きることで 死ぬことだから
区別しなくて いいことまで
区別して 考えなくて いいのだ
それは 原則というもの
例えば、ルーシー・トーマス
彼女の歌声も、歌も素晴らしい。
18歳というから、こういう人はよく
生まれる。これでシンガーソング
ライターだったら、天才級だろう。
しかし、顔は大人びていて、美人だが、
歌を聴いていて、歌は素晴らしいのに、
顔を見ていても、しあわせな気分に
なれない。そう感じる。不幸はまだ
来ていないようだが、となぜか影を
感じて。
18歳で人生を感じさせるというのは、
芸能人などでは特別ではない。そこに
きっちり運命が彩られるのは、劇的
だからだろう。そうでなければ、
永遠の居場所もない、となる。
僕らは信じるのも、信じないのも、なく、
すべて管理できるのだったら、選択は
見た目であり、もしそうだったら、そも
そも選択とかいう余裕など持たされて
いないだろう。初めからないからだ。
選択の自由というのは、僕らの知的な
架空世界の間での約束事と同じことだ。
それは現実を想像するのに役立つから
あるようなもので、僕らの基準を
変えてしまうと、動物のような
概念基準のない世界に生きることに
なる。でも、動物たちはそれで混乱
しているようには見えない。別な
基準があるからだ。
つまり、僕らの基準は人間としての
基準で、決してこの世で絶対のとか、
正しいとかのものではなく、多くの
あり得るものの、ほんの一部なのだ。
それでこそ、僕らは世界の永遠を
讃えることができる。それでこそ、
それは僕らを終わらせないだろう
からだ。
僕らは 終わらない
その中にいるから
存在という 命のなかに
永遠は 灯でも
輝きでも ないかもしれない
想像を 超えて
宇宙を 想定するような
シーズンが あるだろう
それだけで
ああ
それだけで
パラノイア・ガーデン でも
銀河の花を 添えたくなる
僕らの 精神は
爆発して しまうだろう
原子という 微小な粒子が
原子爆弾の 威力に
なり変わるようなもの
それを
僕らは 見ない
そりゃ そうだ
想像を超える という
まさに “それ“ を
実体の自分の 体で
味わってみないと
何も 言えない
それは 僕らが 楽に
昨日の自分を 超えてゆく
ということだろう
越えても 超えても
遅くて じれったいのが わかる
何百年走っても 線路の先が
続くのが 見えている
そんな 列車に乗っていると
したら?
そうなりたく はない
そうかも
そうだろうね
だから 夜の星の 明かりで
珈琲を 飲んだり
パイプを 吹かすというのは
極上の
しあわせ なんだ
それを 演出し 最終結果だが
いつでも 最終なのだ
そして 終わらない
僕は つぶやいた
さらば 僕
人生は しあわせで
できていた
人生 なんて
考えるだけ 無駄だ
僕は
動物に なったのだろうか
火星の 動物学者(女性)
のように
おかしくはない年齢に達したが、
人生の厚みは感じるのみ、一向に
なにが人生なのか、ピンと来ない
生活の中にいる。
僕が属したり、その一部だと思う
もの、僕が人間なのだという、
そういう当然な見解さえ、遠い
ものに包まれている。
現実感のない雰囲気に惹かれる
ような、あいまいな自分の心質を
思う。
さらば MY LIFE
(いい響きだと思う。
その響きをバックにして、僕の
生活は冴えようとしている。)
さらば MY LIFE
それが 僕への 贈り物
この1秒を 捨てて
新しい 命を 育てたい
そうすると 僕らは
翼を 見るのだろうか
まぶしくて 輝きが
見えないように
さらば という 闇に立てば
光の世界が よく 見える
祝福は 神でも 宗教でもない
僕らの 命だと
輝きが 教える
さらば 昨日の 自分
さらば 昨日という 人生
どう考えても
永遠が あるのだとしたら
昨日からも
明日からも
今という 在り方から
離れて 存在するのは
できない 不可能だ
嘘を言えば
僕らは 生きるたびに 死ぬ
僕らは 死ぬことで 生き続ける
それが おかしく 聴こえるのは
嘘だから
それら 全体が
生きることで 死ぬことだから
区別しなくて いいことまで
区別して 考えなくて いいのだ
それは 原則というもの
例えば、ルーシー・トーマス
彼女の歌声も、歌も素晴らしい。
18歳というから、こういう人はよく
生まれる。これでシンガーソング
ライターだったら、天才級だろう。
しかし、顔は大人びていて、美人だが、
歌を聴いていて、歌は素晴らしいのに、
顔を見ていても、しあわせな気分に
なれない。そう感じる。不幸はまだ
来ていないようだが、となぜか影を
感じて。
18歳で人生を感じさせるというのは、
芸能人などでは特別ではない。そこに
きっちり運命が彩られるのは、劇的
だからだろう。そうでなければ、
永遠の居場所もない、となる。
僕らは信じるのも、信じないのも、なく、
すべて管理できるのだったら、選択は
見た目であり、もしそうだったら、そも
そも選択とかいう余裕など持たされて
いないだろう。初めからないからだ。
選択の自由というのは、僕らの知的な
架空世界の間での約束事と同じことだ。
それは現実を想像するのに役立つから
あるようなもので、僕らの基準を
変えてしまうと、動物のような
概念基準のない世界に生きることに
なる。でも、動物たちはそれで混乱
しているようには見えない。別な
基準があるからだ。
つまり、僕らの基準は人間としての
基準で、決してこの世で絶対のとか、
正しいとかのものではなく、多くの
あり得るものの、ほんの一部なのだ。
それでこそ、僕らは世界の永遠を
讃えることができる。それでこそ、
それは僕らを終わらせないだろう
からだ。
僕らは 終わらない
その中にいるから
存在という 命のなかに
永遠は 灯でも
輝きでも ないかもしれない
想像を 超えて
宇宙を 想定するような
シーズンが あるだろう
それだけで
ああ
それだけで
パラノイア・ガーデン でも
銀河の花を 添えたくなる
僕らの 精神は
爆発して しまうだろう
原子という 微小な粒子が
原子爆弾の 威力に
なり変わるようなもの
それを
僕らは 見ない
そりゃ そうだ
想像を超える という
まさに “それ“ を
実体の自分の 体で
味わってみないと
何も 言えない
それは 僕らが 楽に
昨日の自分を 超えてゆく
ということだろう
越えても 超えても
遅くて じれったいのが わかる
何百年走っても 線路の先が
続くのが 見えている
そんな 列車に乗っていると
したら?
そうなりたく はない
そうかも
そうだろうね
だから 夜の星の 明かりで
珈琲を 飲んだり
パイプを 吹かすというのは
極上の
しあわせ なんだ
それを 演出し 最終結果だが
いつでも 最終なのだ
そして 終わらない
僕は つぶやいた
さらば 僕
人生は しあわせで
できていた
人生 なんて
考えるだけ 無駄だ
僕は
動物に なったのだろうか
火星の 動物学者(女性)
のように