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時間の分析 [時間]

今まで時間はない、存在しない、と言ってきたが、本気で 

論じて来なかった。新機軸が見えたことで、時間について 

きちんと話したほうがいい、と考えた。 その分析は心理 

分析も含めて総合的に話したいと思う。 


時間は僕らが昨日から今日へ、そして今日から明日へと 

流れるような方向性を持ったものと捉えている。または、 

そう感じている。まずはこの錯覚から説明する。 

例えば、インドだが、インドではカル、という単語があるが 

これは昨日を示す。また、明日という意味もある。ヒンディ 

語など語尾変化して時制を示すので、会話でもカルが 

昨日か明日かで使われても、混乱することはない。 

しかし、僕らには奇妙だ。過去と未来は断じて性質の 

異なるものと思っているから。 

カルは今日から1日離れた、という意味で使われるらしい。 

過去に1日離れると、昨日で、未来に1日離れると、明日、 

という具合だ。これはインド人は文化的に、哲学的に 

今日だけが存在していることを知っているからだろう。 

これはヨガなどの古来からの修行で体験的に得られる実感  

で時間が今日に集約されると、体感されるのだろう。 

だから、それを確信するにはブッダのように修行しなければ 

ならないのは、ちときつい。 

それを論で説明すると、まず数字から始めよう。数字は

もちろん、この世に実在しない。表象の記号や文字がある 

だけで、これが「1」だという物質はない。数字はその種類を 

1という目安でくくるもので、1にもう1を加えると、2とした。 

これは数字として決めたものだが、もともと、2は1と1のことで 

あって、3は1と1と1の集まりのことだ。ここで数字だけを見ると、 

1,2,3,4,5,6、・・・・・と連続する。すると、僕らはその連続を

運動のように感じる。永遠に連続する、という運動を感じるのだ。 

これがどんどん先に延びるという錯覚を生む。なぜ錯覚か? 

それは前記したように、3も4も、1の集まりであって、その数字を

並べたからといって、それは連続を示すものではない。 

1があって、次に1と1の集合があって、その次に1と1と1の集合

がある、それだけだ。それを数字に簡略化して1,2,3,4・・・と 

並べるから、運動が見えるだけで、それは連続したものではない。 

連続していないのが本質だと納得してもらえれば、話は速い。 

ものごとには動きがある。リンゴが引力で落ちるのも運動だし、 

太陽が空を渡るように見えるのも運動だ。

僕らはこの運動を見ることでそこでその運動の流れに時を感じる。 

すべての運動は位置を変えることで、ここからあそこへとその間に 

「時」を想定する。これが時の感覚で、時の存在を感じることで、 

それが一定の間隔で区切れないか、と考える。そして、なるべく 

振動数に不安定さがなく、正確さがある振動を数えることで 

秒、分、時、日を特定しようとした。

昔の人は太陽が地球の周りを回っている、と錯覚した。これは 

長い間のマインドコントロールで、毎日見ていたので初めは 

誰も疑わなかった。そして、星の観測データや地球の大きさが 

測れるようになってから、太陽が地球の周りを回っているのでは

星の運行が計測に合わないことがわかった。そこで地動説が

登場してくるのだが、僕らは毎日自分の眼で見たものだから

それを信じている。

そして、それを変えることには非常にかたくなだ。 

フランスでは17世紀にリシュリューが宰相になってから弾圧が 

始まり、魔女狩りが始まった。それとともに神や聖書を否定する 

者や書物は断罪された。ガリレオは75歳になっていたが、その 

時になっていきなり地動説を糾弾され、裁判にかけられた。 

裁判といっても地動説が正しいとかの判定はなく、ただそれが 

聖書に則っているかだけが、判定され、ガリレオはしぶしぶ

天動説を認めたらしい。75歳で牢獄生活には耐えられなかった

だろう。 

さて、振動によっていつも正しい間隔を保つように基準時計が 

発明されると、世界がそれに合わせて時計の針や数字の 

電光表示を合わせた。僕らは毎日、時刻を見る。朝起きてから 

夜寝るまで何回時刻を見たか、多すぎて数えることもしない  

だろう。そこでマインドコントロールに落ちて、時間は存在する 

という錯覚を起こして、そう思い込むのだ。そう、昔の人たちが 

太陽を毎朝見て、天動説を信じていたようなものだ。 

僕らが見るのは運動という動きが与える感覚であって、時間 

ではない。時間を見たものなど今まで誰もいない。僕らは 

時計の針が動くのを見ている。デジタル数字が切り替わるのを 

見ているだけだ。時間はいまだに僕らの大いなる錯覚だ。 


もしも、時の間というように、区切りのある時間が存在するなら、 

有名な「放たれた矢は届かない」という問題は解決しない。 

それは矢を放つと、その的までの距離の半分というのは、絶えず 

あるのだから、まず半分飛んで、次にそこから的までの半分の 

距離がある。そこまで飛ぶ。という具合に半分に区切りながら 

矢が飛ぶのなら、永遠に半分は存在するのだから、矢は的の 

前で止まったように見えて、永遠に的に届かないだろう、という 

もの。時間が実在したら、これは最もな理屈で、半分まで飛ぶ

時間が常に存在して、次から次へと半分が押し寄せて、矢は 

止まったように見える、処までいく、となるだろう。 

しかし、数字と同じように、時間は決めや約束事であるなら、

あるのは運動だけだから。現実と同じく、放たれた矢は的に 

当たる(届く)のである。この他にこの問題の解決策はある 

らしいが、気になる方は調べてみるといい。 

この時間ではなく、時という感覚は大事なものである。夜空に

月を眺めて、風情を味わう時には、この時という感覚が 

ふんだんに盛り込まれている。月を見ながら、その距離感を 

無意識に時でなぞっているからだ。それは特定できない 

神秘な時というもの、情緒と感覚がコラボしたものだろう。 


また逆に時間は運動を説明するのに役に立つ。大阪まで 

新幹線で1時間だとか、距離感を消費する感覚で捉える。 

相対性理論でも光速で進むと、時間が遅れる、と。それ 

は分子運動が遅くなるというのと、一緒で変わらない。 

時間ではなく、分裂のスピードやエントロピーの増大の 

問題だ。人間なら、成長速度が遅くなるという問題だ。

つまり、時間というものはないから、機械でこさえた間隔の

均一な時計で存在しないものをそれで測ったように見せ 

かけているのが時間の実態なのだ。 


だから、宇宙の空間の質が違えば、時間の解釈が変わって

くる。それは10億分の1mmという量子の世界でも同じで、 

宇宙とミクロの世界では同じ時間が流れることはなく、別々な

運動形態があるので、別々な時間が流れるだろう。

この論は完成ではない。僕らが望むと、将来、時間の質 

というものが発生する可能性があるからだ。そうすると、 

世界はまったく様相を変えてしまう。科学は新しい時間に 

迫られて、この世の解釈を全面で変えなくてはならなく 

なる。それは政治や経済、産業から僕らの生活を一変 

させてしまうものになる。

それは夢があることでもある。僕らの錯覚ではない

時間質が僕らのタイムマシンを完成させるからだ。 

まだ無理だが、僕はその夢で気分をよくしている。

もう空想とか、妄想と言ってもよい(笑)。



*また、ここに僕がアリのコロニ―に興味を持つ理由 

がある。それは人類のコロニーを変えてしまう問題だ 

からだ。
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