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時間がないから美しい [時間]

僕らの人生の瞬間というのは、言われ

なければ、また指摘されなければ、

そのまま過ぎてしまう。

帰って来ない。

それは知っているつもりだが、わかる頃

には、それは夢だったとして、同じように

過ぎてしまう風物詩だ。

夏の風物詩は花火だから、それで話すと、

花火は一瞬のあでやかさで消えてしまう

から、何度も繰り返すように何発も上げる。

これが僕らの時間に引かれたジレンマだ。

時間を有効に使おうというのは、僕らの

生活を秒で区切って、その1秒に価値を

高めようとする行為になる。

価値はそれが希少で特別だから生まれ

るもので、平板なものに価値はない、という

のが僕らの発想で、もう常識だ。

常識はほぼ僕らの錯覚を集中させたもの

で、それらが僕らの規範になって、それに

知らず縛られるという意味では先入観とも

言えるものだ。

となれば、それらが喧々諤々となれば、

誤解が生じやすいのも、頷けるし、気が

つきにくいのも、よくあることだ。


少し、体調を崩すと、その常識が新聞紙を

バタバタ広げて音を立てるように、襲って

来る。こうじゃないか、ああでもあるんだぞ、

ちゃんと見識を示さなきゃだめだ、という

具合に、耳元に押し寄せてくる。

大した不調でもないのに、普段からは慣れ

ていないので、弱気な言動が気になり、そこ

に気を寄せる。

ああ、もう死ぬんじゃないか。そう考え

ると、けだるいつらさが幾分か、和らぐ

のではないか、とでも思うのだろうか。

まだ死なないとわかっているから、

気が楽になるのじゃないか、と自分を

慰めるつもりなのだろうか。

世の中を受け止められなくなると、それ

らが複雑に感じられる。その複雑さ

から来る神経への攻撃を和らげたく

なる。昨日まで感じていた世の中の

単純さというのは、何だったのだろうか。

要は僕が多少、疲弊して、寝不足から

体力を消耗、世間でいう夏バテ状態

だからだろう。元気であれば、内面の

バランスも取れていれば、僕はなんでも

単純に感じて、なんでも簡単そうだと

考えてしまう。実際の手順を何千段階

でも現実に置いていけば済むこと

だからだ。

今はそれができない。自分に構うだけで

手一杯になる。複雑さも増えたように

見えるし、原点だった面倒さ・苦しさ、

それを楽しんでしまうということができ

ない。以前は、こういう時は書けない

のがわかっているとして、書かなかった。

書かない、というそれができた。

それは自分の鉄則を守ることだったから。

でも、今は状況はずいぶんと変わった

ようだ。

僕は頭の切り替えはできるが、心全体

で切り替えるのは得意ではない。だから、

頭だけ進みがちになるのだが、体に

覚え込ませる伝統工芸のようなもの

には漸進で進むしかない。早くこの

心と体の複合連合なアンバランス状態

に慣れたいと思うが、残念ながら、

寝不足がたたって、半徹夜状態が

1週間以上は続いて、調整に苦しん

でいる。夏休みのつもりで、16日まで

体調調整休暇にしようと思う。



ベートーヴェンの田園を聴く。

優しいピアノ曲では、弱くて心を掴んで

くれないが、こういう時にベートーヴェン

を聴くと、彼のしっかりした心根が伝わる。

弱った体を補完する作用があるのだろう。

そうすると、統合失調症の人たちにドラマ

の相棒が人気があるのは、彼らに不足

する知に関わるものを、ドラマの推理が

彼らをなにか補完するのだろうか、と

考える。そう言えば、相棒は3,4回しか

見たことがないが、きれいな論理では

なく、感情的な推測に少し、論理性が

加わったという推理の構成だったように

思う。確かなことはわからないが、糸口

としては面白いかもしれない。

僕が見たくなくなるのだから、謎の推理

が際立っているのではないことは、確か

だろう。

推理小説で古今東西、世界を見回しても

完全な小説はひとつもない、と言っていい。

論理的に完全になるように仕組まれて

いるので、本格ものでもそこはしみじみ

読み込むと、現実的ではない展開などの

場面を発見する。面白いというのは奇想

天外な展開で、それがきちんとした論理性

で読み解かれることを前提としている。

それが読者の期待だからだ。そして、

それこそ矛盾のかたまりを解くことに

他ならない。だから、工夫と手品の

演出が必要で、それが筆者・作家の

腕の見せ所となる。

現実の事件はベタでそれが偶然が

重なって、奇怪な事件に見える、不思議

に動機がかくされたり、例えば完全犯罪

に見える状況を作り出す。

ドストエフスキーの「罪と罰」も読んでいて

少しも推理小説には感じないが、よく

全体を思い出すと、推理仕立てにして

推理小説にも変化させて書くことができる、

とわかる。刑務所にいたことがあるので、

推理は子供だましくらいにしか思って

いなかったのかもしれない。犯罪を扱った

小説は多い。

坂口安吾(「堕落論」で戦後名を売った

作家)が夏目漱石の小説で、出だしが

まったく推理小説だが、すぐに文学に

変る。ドストエフスキーではそういうこと

がないから、ドストのほうが格が上だ、

みたいなことを言っていたが、一理

あるが、ドストエフスキーに推理小説

は書く気がないから、そこは比較して

も比較にならないだろう。



修善寺の大患で漱石は一度死んでいる。

医者もそう言う。ドストも処刑台にまで

引っ張り出されて、死刑執行の直前で

中止を告げられて、一度は死を覚悟して

いる。

ふたりに共有したものは、はっきりしない

だろうが、彼らがはっきり意識したものは

はっきりしている。

生きてしまったことだ。ほぼ死から復活

したことだ。そこからは、自分はこれから

どう生きるかが、命題のように提示される。

漱石には正岡子規との青春のつながりが

あって、その子規の死の事情があるの

だが、横道なので、入らない。

死を目の前にすると、自然なことが起こる。

それは時間が死ぬことだ。そして、その

概念は死ぬだろうが、代わりに本物の死が

離れられなくなる。だから、頭は冷静でも、

必至な生存本能が働く。時間はそれまで

の高級な浮世離れの余暇だったと気づか

される。読書の時間も、恋人との時間も、

立身出世の時間も、それは実際は

その人の人生には直接には結びついて

いないと、無意識でもわかる。

なにかを決定的に一度選んでみると、

選ばなかったものがどういうものか、

また時には、選んだものに違和感を

覚えて、間違いな選択だったと気づく。

僕らは、しかし、人生という大局でそう

いう選択を迫られることが少ない。

だから、普通に考えて行動を起こせば

済むと思う。そのままで進めることが

いつまでもできるなら、それはそれで

構わなく、思うが、そう人生が一直線に

進んだ人いうのは、まだ人類史上いない

だろう。僕らは大なり小なり、すべての

悲惨さと苦しみにどこかで触れ合う。

そこから人生は始まるのだろうが、そこ

で諦めてしまう人も多いのだろう。

それらはいつもくり返されていることだ。

時間を失くすことには、知られない価値

がある。僕らは楽しい時だけそれを実行

しているので、そうでない時にもその価値

があるのに気づくことはない。

それは我に帰るからだ。それは人間全体

な心身ではなくて、自分という枠に嵌めて

きた今の世間に合わせようとして、固めて

きたいずれ常識から外れ、古びてしまう

もの。自分に帰る。

脳にはこの潜望鏡からしか、外の世界が

見えない気がしているから、どの計器にも

しっかり時間という記録が管理されている。



もういいのかもしれない。見えない世界と

言っても、存在とかの絵空観念ではなく、

それと今どうつきあっているのかが、生活

であって、それを構築するにはデカルトの

ように、大いなる父の遺産を受け継いだり、

キャベンディッシュのように、やはり、遺産

を受け継いだり、生活費の基盤が必要なの

かもしれない。



疲れて、締められない。風邪薬でここまで

来たのだろうが、ともかく、発熱しないうちに

夏休みにしよう。

あと1篇、書きかけがある。では、台風を

出迎えようか。

(<美しい>までは、書けなかった。それは

薬や妄想じみた想像の所為ではない)
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