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朝陽を待つ [日本]

バッハの曲をチェロで演奏していた。

それを見ながら、思った。

流れる曲をその音色から聴く人は

チェロを想像して見ながら聴くの

ではないかと。そこにはクラシック

と歴史が醸し出されている気がする。

僕は精神的で、若い時から、クラシック

でもポピュラーでも、それがどういう人

が演奏して、どんな楽器が使われて、

とか気にしなかった。

聴いたのは飽くまでも、曲の精神性

で、なにが表現されているか、が中心

だった。演奏者や指揮者によって曲が

変ってしまうことを理解したのは、

1980代以降だったように思う。

子供の頃はそのためか、曲は頭に

創作お話をする、その飾りだった。

聴きながら、想像で物語を織りなし

てゆくのが楽しかった。

それがやがて、音楽の精神を聴く

ようになり、音楽を演奏でも聴き

分けるようになっていった。

音楽だけでも、その人によって、

同じ音が鳴っていても、同じ曲想や

音色を聴いているわけではないのだ。

音でさえ、だ。

だから、僕らは解釈や意味が少しずつ

違う言葉の組み合わせを聴きながら、

だいぶお互いに異なった解釈をする

のが一般的なことなのだ。

孔子が六十にして?だったか、耳従う、

と言ったのだから、六十に達して

いない人が人の言葉を聞き間違える

のは、大変ふつうで一般的なことなのだ。

だから、メールでも手紙でも、何回も

読み直すのは無駄なことではない。


それは僕らの脳が狭小で独りよがりで

自分と異なるものを排除しようとする

排他性があるからだ。それはもともと

あるもので、経験や教育によって軽減

されていくし、公平な見解に部分で

達する人もいるが、その狭小さが

なくなるというものではない。

チェロでもバイオリンでも、見た目

ではない。弾ける人が当たり前に

見えるのはいざ僕らが弾いてみたこと

がないからだ。

まず、きれいに音が出ない。それで

この楽器でよくあの美しい音がだせるな、

というのが初体験の感想になる。


 この処、しあわせではない。しあわせ

という恒常な状態や境地とか、ある

わけではないので、これは単にしあわせ

から遠ざかっているのを示している。

そうすると、頭が翻る。

ではその質問を、しあわせ感を寄せ

ない自分はどういう状態なのだろうか、

が向き合う姿勢になるだろう、と。

しあわせである必要を感じないの

ならば、これは少なくとも、不幸せ

だとか、苦しい、だから楽になりたい、

しあわせになりたい、とは思っていない

のだから、不幸でも苦しい状況でもない

ことが伺える。

そこを深く読んでも、意外だが、プラ

イベイトを出さないという信号が送ら

れてくる。そんなものあったのか、と

思うが、そのプライべ~はなんだろう?

答えは早くも出たようだ。

どうもその時が来たようだ。もう独り言

しか出てこない、テーマを変えるべきだ

と今この時の自分はぼんやりした僕に

、逆か、今この時の僕はぼんやりした

自分に指示する。書いてもつまらない

ことなので、1か月か、その後に(事後)

報告にしよう。


つひにゆく  道とはかねて

 聞きしかど 

きのふ今日とは  思はざりしを  

       ::-菅原 道真 


道真が晩年に病気になって、これ

から死ぬ心境を謳ったもの::

<まさか、今日明日に死ぬとは思わ

なかったよ>

ここにはどこか覚悟のようなものが

感じられて、ふと思い出した。

今までやろうとして先延ばしにして

きたことを、いざやろうという時も

そんな覚悟を知るものだと。


新しきは 常に もがもな

 朝の日に 長閑けし

  沁みる温気 かなしも

          :陽秋

元歌

世の中は常にもがもな渚漕ぐ

   海人の小舟の綱手かなしも

     :源実朝(小倉百人一首)


こういう歌が記憶に残るのは

やはり、日本人だからなのだろう、

と思うのだが、それも還暦を回って

から日本に目覚めたからだろうか。


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