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選ぶつもりで選ばされ、世界は閉じる 2 [世界]

愛も時には退屈なものです、と言った

のはゲーテだが、どんな情熱も僕らには

小休止を必要とするから、在庫の薪が

燃え尽きることもある。また薪がたまる

まで待てばいいし、そうなることなのだが、

その間には、いつもの散歩道を逍遥する。

熱があり、だるくて仕事ができない時も

似たような小康状態が訪れる。

(発熱は)無理できないと宣言されたの

だから、公明正大に休養できるので、

かえってさっぱりするのだが、僕は肩

の荷を下ろして、楽になる。晴れて

好きなことだけをすればいいと、許さ

れたようなものと考える。

それでも倦怠感はあるから、できる

ことは限られる。すると、僕らができる

ことはこんなように限られたことをして

いるだけなのかもしれないと、弱く考え

てみる。

少し休んでみるつもりの時の音楽も

そのような音楽になる。弱っていれば、

それに合わせた調子の音楽がチョイス

される。僕らがそう選ぶからだ。僕らは

外の運とか言う癖があるが、それを

選んでいるのは僕らの(体や心の)

ほうだろう。

蛇口から水を出しても、勢いよく出す

時は、力があまって、暴れたい時だ。

弱ってしまうと、水の勢いさえ恐れて、

少なめに出し加減をする。

僕らは自分の状態に合わせて、社会や

その時の状況に合わせる。なにかに

強制される時は、思ったよりも少ない。

だから、反対に極度に注意力を強制

される生活というものを想像できない。

または、自分とは違う生活の刻苦の

与えられる場所やその苦しみは日常

の外になる。そういう時、世界は閉じ

られていると感じるだろうか?

感じるようなら、多少の熱ぐらいでは

倦怠感も感じないかもしれない。感じ

る暇がないのかもしれない。

世界が開かれるのは、僕らの心が

開かれなくては、そういう扉は開かれ

ない。あまり刺激の強さで疲れてしまわ

ないように、僕らは通常、心は閉じ加減

にしている。

そして、仕事の必要などで範囲を決めて、

そこから弾けてしまわないように、小刻み

に開け閉めをするが、次第にわかった

ことにして閉じていても、気を配らなく

なる。それはどうしても窒息感があるので、

開放感を求めるのが、体の自然だ。それ

がルーチンワークになってしまうと、僕ら

は自分のいつもの生活からの逸脱を

恐れるようになる。馴染んだ生活が一番

になると、それは惰性の快楽に生活の

運動を任せるようになるから。

足りないとか、トラブルなどには他の手を

借りようとする。社会は公共でそういう

補完をする機構を備えている。それを

利用しようとするのは、常識な感覚に

なっている。そして、それがそのまま

ありのままから離れて、砂でこさえた

我城という世界だとは見えないでいる

ことだ。さまざまな物事があるから、

一概に言えないが、世界がなにがしか

であるのは、僕らがなにがしかである

からだが、閉じたものには、そのなにが

しかは見えない。目の前にあっても、

それはいつもの風景に溶け込むかの

ように、その人の生活のなかの当たり前

に名前のあるものになっていて、それが

あるべき位置や情感を放っていない。

子供と大人の見るもの聞くものが違うか

のようにその微妙さは、決定的に世界を

変えてしまう。

流されるまま眺めるのと、興味があって

注意深く見るのとでは見るものが同じ

ではない、というように世界は固定化

されたり、拡がりを見せたり、とその

運動が異なる。

この世に美というものはない。その美を

見出す眼や耳があるだけだ。世界が

美しくないのは、まずあり得ない。だから、

それは見えるし、聴けるはずなのだが、

そう感じないとしたら、不思議だが、それ

はまだ見たことがない、聴いたことがない、

ということなのだ。見る、ということをした

ことがない、そのわけを知らない。聴く、

ということをしたことがない、またその

わけを知らない。

初めは知らないものにつき合うのは、

退屈だったり、嫌気がさすものだ。慣れ

ないことだから、さらにそうなのだが、

この慣れの意味が問題だろう。

好きなものを見たりするのは、制限がなく、

見飽きない。どこも見たことがあるのに、

また同じ処に帰っていき見ても飽きない。

そこにあるものはなんだろう?

子供が赤い消防車に夢中になると、

なんでも消防車を欲しがり、遊んで、

また他の消防車も欲しがる。親が持って

いるじゃない、と言っても、聞かない。

際限なく、消防車を集める。この時、

子供は消防車を見ているが、大人は

それが「消防車」であるのを見ている

だけで、子供のようには見えていない。

子供はまだそれを証言できないが、

消防車という認識を見ているのではない

ことだけは確かだ。色も艶も、そのサイレン

も走る姿も見ている。全部好きだからだ。

それが子供の生きる活動だから、僕ら

は知らずに感動させられ、さしてそれに

気づかず、子供だなぁ、と思うが、それ

がわかっていないことを告白している。

子供だなぁ、だから何?無知だというの

だろうけれど、それを愛するのは僕らの

自分ではないのか。

僕らの大半はそうして心を閉じて固定化

の道を邁進する。その中ではよくても、

言うことは人と生きること、隣人愛だが、

実際は行動は自分の狭いルールで許容

できることで親切であるだけで、心は人

を信じてはいない。誰かが心に踏み込ん

で来れば、怒って、追い出すだろう。それ

が実際の行動になる。そして、本人は

それに気づいていないかもしれない。

そうなってみて、反省もしないし、相手

を責めるのだろう。だから、それは

通常の不可解な行動の範囲だと、

(がんこ)老人相手にはそう思っていて

いいだろう。

流されるように教育されて、自分の

納得する基準を持ち、それが相手を

寄せ付けなくなったのだから、自分も

例外ではないくらいに思っていて、

丁度いいのではないか。

それは社会的に円満な人間だと周囲

から思われている人でも、まったく例外

ではないということが重要な点だ。なぜ

なら、僕らはまさにそういう世界の真ん中

にいるからだ。認識は美や愛からは離れ

ざるを得ない。

寛容な精神や言葉を繕うことはできても、

教養や真似事では、心は開けない。

だからと言って、仏門に入会して、山で

千日修業がいいのかと言えば、それは

いいだろう。

ただし、それは一時しのぎでのことだ。


環境を変えて自然の中でサバイバル

をすると、精神はなるほど浄化されるが、

それは泥の中で生きるより、きれいな水

のほうがいいだろう、というのと同じで、

僕らは社会で生きなければならない。

山で何十年もひとりで生きてしまった人

もいるが、心はさっぱりするだろう。だが、

それは人生や人間関係、また生活全般

の解決策になるだろうか?

相撲取りになる人は、マラソン選手には

向いていないだろう、くらいのことは言える。

その意味で、山の生活もしてみないよりも、

してみたほうがなにがしか悟ることはある

のだろう、とは思う。

あなたのことはあなたが一番知らなければ

いけないことだ、と感じ入るような行動と

経験を積み重ねるうちに、気づくこともある

のだろう、くらいのことは言える。 7..24



僕の話に結論はない。結論を求めるのは

教育や会社・社会の慣習・事情による

ものだ。

どうして結論を求めるのか、結果が現実を

支配するから?どうだろう?ほんとうに

そう言えるだろうか。怪しい。

そういう社会の結論を急かす動機は、現実

自体にある。今、決断して実行しないと、

現実の環境や条件は変わってしまい、今の

結論さえ役に立たなくなることが、起こる

からだ。現実に対応するのに、僕らは(人間

が独自に発明して設定した)時間に追いつく

必要があったのだ。

だから、今はできないだろうが、時間を

取っ払ってしまうと、不思議だ、時計を

示す針も数字もなくなるから、この世の

時刻表がすべてなくなる。これは大変な

ことだ、一つの基準でも生活の大きな

ものである場合、僕らの生活は崩壊して

しまう。見かけは。

しかし、今まで通り、物はあるし、機構は

ある、エネルギーもある、インフラもある。

時間がない。

適当な時に適当な手段を使って、目的地

に行ったり、目的のための行動を推し

量りながら生活するだろう。

請求書もなくなるから、供給企業は別な

考え方に拠る請求を政府に決めてもらう

ように求めるようになるだろう。それが

決まるまで、電気もガスも水道も使い放題、

となれば過剰な需要から、供給不足になり、

公共機関といえども、一時ストップせざる

を得ない。

しかし、想像できるだろうか。時間で組み

立てられた社会であれば、僕らは生活を

時間に拠っている。依存しているから、

その仕組みが壊れた以上、多くの不具合

が生じて、それ以上の膨大化した不安が

すでに不安を抱えた人たちを襲うだろう。

世界では暴徒化するのは早いだろう。

日本のほうが遅れるし、銃社会ではない

から、地域的な暴徒しか起こらないかも

しれない。 

その原因は時間がなくなったから。そう

だろうか?その直接の因はそうかもしれ

ないが、例え時間が無くなったとしても、

それに対策してこなかった責任はどこに

あるのか?

それこそ、福島の原発が津波に襲われた

ときに、堤防の高さに万が一の不安は

あった。それでも無視されたから、被害が

大きかった。

時間は津波ではない。世界標準時で決まって

止まることもない。急に暴走して、混乱する

こともない。そういうことで、信頼して安心し、

時間がない状態には無関心でいい。そう

いうことだろう。だが、そうでもない。

世界標準時であってみれば、それは電波

配信されている。ということは、コンピュータ

がなければ機能しない。正常な時間の運動

は実はコンピュータ次第なのだ。だから、

コンピュータが壊れれば、時間は止まる。

そんなことがあるのか? ある。

すぐ、3年先に太陽の巨大フレアが予測

されている。2025年には、その強力な

電磁嵐のために、全世界の電子機器が

バグを起こして、正常な機能を失うことが

すでに見えている。

僕らの政府はこの事態になんら対策チーム

を立ち上げることができるだろうか。常識

に囚われた古い頭で、この時間のない世界

を、生活を捉えられるのだろうか。デジタル庁

の情けないホームページを見ると、かなり

心配になってくる。

ずいぶん、外れた一つの道を辿ってしまった

が、その根本の原因をもう一度考えてみる

なら、僕らの心の閉鎖状態が関わることが

わかる。常識や時間に囚われた生活の

慣習に意識が曇らされていることが、その

第1原因だと。

僕らは用意された生活から自分の生活を

選んでいるだけで、それが社会の恩恵でも

あるが、それに依存した場合、僕らが知らず、

すでに心を閉ざし始めたことを知らない。

人間関係は問題じゃないのかもしれない。

そういう人間関係についての知識が、もう

それに悩む要因になっているのであれば、

その常識を疑う他ないのだが、そんなことを

する人を、たぶん、見たことがないだろう。


僕の話は、どこでも終わる。放っておくと、

次第につぎのことに移ってしまう。世界は

循環している、特にこの世は、だから、

すべての問題はどこかで、ちいさなどこか

につながっている。

すべてを疑うしかないではないか、と考えた

人は正解。そこからが重要な課題。そんな

膨大なことは考えられない、と諦めるか、

少しずつやるか、と思う人。

僕らの人類は初めからその積み重ねに

あるのだし、一部の結果しか出ないで、

それでもその発見からさらに膨大な

世界を見出す。キリがない。つまり、

このことで何かを見出すためには

初めから際限のない、半無限な世界

を受け止めるしかない。過去の人たち

がそうして来たように。

初めは皆、同じ。無とか、無常とか、

際限のない問題、世界を受け止める

しかなかった。これは底の底から

事態を受け止めて、そこからそれを

感覚で精査して、全体が見えてから、

考察を加えて図式化する、という先人

たちの伝統の話だ。

それは今でも変わらない。


::

これでブログを始めて7年、今まで

技術不足や深層にたどり着かず、それ

で書けなかった本音の2つ目か、3つ

目かを書くことができた。 

よかった、よかった。

                                  7. 26
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