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原因も結果もない全体世界 [世界]

第4章はもう書いた、と言った。その

通りなのだが、なぜ投稿しないのか。

それは僕の性格もあるが、終わらせ

ない、という気質からだろう。日光東照宮

のように一ヶ所をわざと間違えて、逆柱

に設置する。99%完成は、終わりでは

なくなる。その建築物の永遠を夢見て、

完成させないという俗信を逆手に取った

思想があった。

僕も似ているのだろう。最後を投稿

しなければ、終わりにならない、という

考えがあるという、どうでもいい考えだ。

しかし、それが心に一度食い入ると、

固定観念になってしまって、なかなか

抜け出せないものだ。自分の考えなら

簡単に自由になりそうなものだが、

これが意外に自分で意識を管理する

くらいでないと、相当注意を働かせない

と、この観念は先入観となって、なんと

なく継続しっ放しとなってしまう。

そして、こうして自分で自分に早く投稿

せよ、と嗾(けしか)けることになる。

それは言ったが、どうでもいい。

僕はいつも非常に早く、終末や結果を

見てしまう。予測しないで、直接感じる

かのように、まだ来ていない未来に

がっかりするのだ。その結末が望んだ

嬉しいものであっても、どうしてかそれ

が一時的なもので、その先に望みが

持てないからだろう。それはまたその

時の問題なので、問題かどうかも

わからない段階で落胆は気が早すぎる。

かと言って、終わらせるべきものは、

終わらせるのがよいのであって、無意味

に長引かせてもそれがなんだろう。


僕はこう考えるようになった。なにか

原因があるから結果があり、そうで

あるなら、すべてはなんらかの結果を

もたらさなくてはいけないものなのだ、

ということを信じなくていい、と。

どうしてか。

それが僕らの先入観であるからであり、

それに特別な理由があるわけではない。

でも、そう考える理由は必要だろう。

因というのはなにかの固定した原因と

いうことではない。因は何か。

それはそれを定点に決めることで

あって、僕らがそう決めたに過ぎない

ことだ。

これが始めの通過点だが、どう

だろうか。原因はとても強く心に食入って

いて、どうにも疑えないのではない

だろうか。あなたはあなたの親から

生まれた。だから、あなたがこの世に

いる原因は親である、と。

いろいろな原因が考えられる。例えば、

あなたの祖父と祖母がいたから、あなた

の父と母がそれぞれの祖父・祖母から

生まれた。と考えると、その祖先が候補

に上がって、それを辿ればキリがなく

なる。

または、精子と卵巣の関係でその原因

を考えると、1億の精子の競争で生ま

れたのだから、どの精子でもよかった

のでない、と考えると、他の精子だと

どう違うのか、という疑問も生まれる。

そういう視点にしてみると、体の構造

という処にも原因がありそうで、これも

辿ればキリがなくなる。

だから、原因は僕らが任意で決め

なければ、原因は何も決まらないと

わかる。決まらなければ、決めない

限り原因は存在しないし、何かの結果

から考えて、そこを直接の原因とする

場合に、その原因の候補が浮かぶ。

そこから必要な原因を特定・選択する

ということなので、物事はあらゆる原因

と結果が転換しながら、あるいは原因

が結果に、または原因が次の原因に

変異しながら、流れてゆく。

その一部を範囲を限定して拾い上げる

ことが原因と結果を決めることだ。なに

を問題とするかは僕らの個々の問題で

選択だ。初めから決定している原因

も結果もないということだ。

これは今までの概念の欠点のくり返し

の話だ。知の欠点は概念で現実を

捉える道具でありながら、概念を現実

とすり替えしてしまう脳の誤解を止めら

れないことだ。

つまり、原因も結果も概念である限り、

現実では限定的に扱うべきである

ことだ。でないと、問題の答えに誤解

という冤罪が増えてしまう。頭が切り

替わるまでは、慎重に扱わねばなら

ない。


現実を扱うのは生活でいつものこと

だが、物事は原因と結果でつなぎ

あってできているのではない、無常な

流れがあるのみで、そういう風に感じて

いるなら、それこそが錯覚だということ。

それでは錯覚の世界をいつのまにか

作り上げ、その中で暮らしてゆくことに

なる。大勢の人がそういう夢に囚われ

ている。原因結果論ーその夢は幻想

の類だ。


僕らはいろいろな夢を見ている。考え

は重要だ。その考えがないと、そういう

ようには行動しないという鍵を握って

いることが多い。逆に言えば、考えに

よって行動するパターンが多いという

ことで、何をどう考えているかは、その

本質が概念のみでしか知らない場合

は、経験を加味する必要があるが、

考えが正しければ行動も正しいと

思いがちだ。勘違いは現実と衝突

してからわかる。重要なことはそれ

では遅い時もある。そして、それを

恐れていてはなにも行動できない

ことも確かなことだ。

ある程度の知識や経験は30代まで

で済ませるのが理想かもしれない。

読書と旅行はいいだろう。あとは

あなたが実際に降りかかってくる

問題を自力で解くことだ。それは

問題に対して正しく問うことに大半

がある。正直になる時期が必要になる。

それは学校を卒業しても実社会では

用意されていない。

現実はいつも理不尽で、解決不能に

見える問題ばかりが起こるように

見える。僕らは現実の社会で働く歯車

になりながらも、どこかで、あるいは

どこからか自分の時間をもって、自分

の問題に対決する場面を作らなくては

ならない。

問題は複雑多岐にわたるように見えるし、

僕らが対決して受け止めない限り、ことは

先送りになるだけで、問題は古いゴミの

ように心の底にたまり続ける。体にも

アレルギー物質がたまる食環境の構造

では心身で僕らはストレス発散にも疲れて、

うつ症状を起こすしかなくなる。それも

自分を見直す好機かもしれない。そうで

ないと、そうでもならなければ、僕らは

何もしないかも知れないし、 ・・・・。



自分は何が得意か、何に向いてると

思うか、そういうことは重要だ。大切な

ことでそれを伸ばすにしても、褒められて

伸びる子と、叱られて伸びる子がいる。

そういう違いについては、それぞれの

人がそれぞれの自分を問題にして問う

しかないだろう。それはもう学問では

ない。学問は概念頭に改造される恐れ

がある。しかも、それに気づけない。

西洋と東洋の、またその他の地理的

環境も関係する。そんなもののすべて

を案内するのは無理な話だ。

概念は人間の体を外科的に眺める

ことだ。内科的に、または東洋医学的

に眺めれば、別なものを感じなければ

ならなくなる。知情意・そして感覚・直観

の総合でことに当たれれば、これも

理想的ではある。そして、時にはそれ

さえも越えなければならない体験も

するだろう。それが人生の醍醐味だ。

本に書いていない問題が必ず来る。

答えをネットや図書館、相談で寄せ

集めてみても、容易に解決に導かれ

ない。それが醍醐味なのだが、それは

新しい事態で、誰も当たったことは

ないし、僕らが生きるというのは、そう

いうことを意味しているからだ。

わからないことを言いだしているから、

それこそ真に近づいたことなのだが、

知に興味のある人は、知を捨てて=

考えないことで、その意味に近づく

ことになる。これ以上は経験して

その経験への考えを煮詰めてみない

と、そしてその無意識的な熟考を長く

過ごしてみないと、わからない。



これは哲学ではない。今、生活して

いる世界(地理的にも、国家的にも、

想像的にも、ガーデン的にも、昆虫

的にも、宇宙的にも、概念でも)を

見ること・聴くことであり、また全体

を感じて、時には超えてしまうことで

もある。

美しい世界は知の問題を考えなくて

いいだろう。愛したい世界は心に

足りない感情を呼び起こす自分自身に

関係しているだろう。観客になりたい

心理世界は僕らの二面性を示して、

自我の弱さに関係しているだろう。

ちょっと見回しても、僕らが放って

いてそのままにしている世界は多い。

それは原因・結果の世界ではない。

原因であり、同時に結果である切れ

目のない流れを生みだすもの全体

である。

こうして説明しようとすると、説明に

ならなくなってくる世界のことである。


この処、夜明けを迎えることが多く

なった。また、朝になった。

朝は、違う。何が違うか、まだわから

ないが、ただ地上に太陽の日差しが

戻ってくるようなことではない。まだ

涼しい頃に陽が昇り、夜が終わる

その短い間になにかが起こっている。

光を迎える、そこになにかがある、

そんな感じ。

東なんてデタラメで、太陽が昇る位置

を知っている人は知っているが、角度

にして年間60度くらい違う。ともかく、

どこが真東だかわからない。僕らは

歩く時に右から足を出すか、左からか、

自宅の階段は何段あるか、確認した

ことはあるか。シャーロック・ホームズ

になる必要はないだろうが、僕らの

それほどに日常にくり返していても、

意識しない限り、ちょっとした小さな

ことには僕らは無関心。どうしてか?

それを知っても得しない、知っても

価値を利益をもたらさない。それこそ

が僕らが無知に陥っている証左なの

だ。資本主義のベタな意味に心が

べったり浸かっているだけなのだ。

僕らはある意味、漬物人間だ。

良し悪しではなく、誤解も俗信も移り

行く正解も見分けがつかない世の中

に漬かっている。それが僕らの常識

だ、という意味でもあるが、 ・・・・。





::

戦争はくり返されてきた。ロシアの悪行

は置いておくにして、ゼレンスキーの

悪行は確定されていないが、演説に

現代の危険(プロパガンダ)を感じて

いる。どちらも戦争の悪い轍を踏んで

いるのは間違いない。情報の現場に

いなければ、何も判断が下せない。

日本のお昼のTV報道のコメントを観て

いると、漫画か冗談に思えて仕方ない。

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