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夢の継続する今・未来を発見するとは [未来]

夢(過去)は続いている。それがわかった

のは深夜になってからだが、いつもと同じ

日常でありながら、ほんのわずかな違和感

が見逃せない。

夜、ひとりになって静寂であって、初めて

それを捉えることができた。そして、できた

といっていいのか、危うげな認識。

僕はやはり過去にいる。そして、現在への

直截な認識も透明にうすい膜一枚を通して

だが、ほぼ重なり合っている。

思い出すのは奇妙なことだが、これに関係

しているかどうかはわからない。車のキー

に小さな鈴がついている。ホルダーには

別な鍵もついている。駐車場まで歩いて

その手前の歩道上でキーをポケットから

取り出そうとして、なにか引っかかり、鈴が

落ちるその鈴の音がした。歩道を少し、

転がったような。

見ると、どこにもない。駐車場は一段上に

あり、コンクリの壁で崩れるのを防いでいる。

そこの下に歩道との境目に雑草が伸びて、

数本ある。すぐに見つかるだろうから、その

雑草の根元を足でかき分けてみるが、鈴は

見当たらない。何度も見回すが、歩道の上

にはなさそう。閉館時間が迫っているので、

帰って来てから探そう、と駐車場へ

向かった。

その帰って来てからだが、きちんと探せば

見つかるだろう、と軽く考えていた。大体

失くし物は時間を置いて探すと、ほぼ出て

くるのがこれまでの大半だったから。

だが、この鈴だけは車道の端や7mも

離れた歩道のほうまで調べたが、なかった。

今までにないことで、難しい探し場所では

ない。最初に探した時も、かなり変だと

思ったが、かなり奇妙だった。

これは結論を出せない事象なので、無関係

かもしれない。

僕は、今次の矛盾を探ろうと考えた。過去

があるなら、未来はどこに行ったのか。今

が時間を超えてすべて内含するのなら、

過去を感じるだけでなく、未来も感じ

なければならない。が、それは今、見当

もつかない。

これが10年前なら、ただの日常の錯覚

で済んでしまうのだが、意識が二重交替

になると、わからない空間に触れること

になる。それはわからないから、気に

しないし、考えもしないのだが、今回は

それが1日継続している。継続する限り、

この感覚があるうちは手探りしなくては

ならない。もしかしたら、ということが

あるから。

書いているうちは呆然黙考できないが、

それにトライするもあり、だと思う。



未来。過去も未来も同じ等間隔で、’今’

から離れて同時にあるもの。未だ実在

しないのならば、それを感じることは

できない。複雑多岐な状況を少し読ん

で、直感からその光景を見るぐらいは想像可能

な領域のように思えるが。

逆に、その想像は点滅して、可能性の

あるなしは、確率でしか選択されない

のかもしれない。それほど多くはないが、

いくつかの未来が現れる。どういう形

だろう?

シンクロナイズ、デジャブ、それらに

ヒントがありそうでもあるが、はるかに

’ない可能性’のほうも思えてしまう。

考えても、日常で具体例を経験しないと

その実態を掴むことは困難だろう。

待ち、しかないか。



戻ろう。

この過去の感覚は一つは、昔から

考えてきた、どんな過去に戻っても

僕はその時に同じ判断をして、同じ

行動をして、それがあとで後悔する

ものだったら、だとしても、僕は同じ

行動をするだろう、ということだ。

その過ちを完全に解決することは

その場ではできないことで、その時

決断しなければならない状況だった

から、決断した。こういう状況には

同じ自分が出会い、同じ自分が対応

するに違いない。

それが’今’という場であるので、それ

を過去や未来に置き換えることはでき

ない。できるとしたら、皆が過去や未来

を変え始める。変えられた過去に係る

人たちは、いくつもの可変な過去を

共有するのだろうか?その都度過去を

選択して説明するのだろうか?そうなれ

ば、歴史は意味をなさなくなる。2000年

に誰が大統領になったかなどその人ごと

に違う過去があるのだから、歴史自体が

存在しなくなる。変えられるということは

過去も未来も存在しなくなる、ということと

同義になってしまう。

そこで自分の人生の過去を変えることは、

自分の人生を捨てるようなことと同義に

なってしまう。

僕は、だからそういう生き方をしない、と

決めたのだ。必要な状況にあったら、その

場その時を全力で判断し、行動することを。

(それと過去を振り返る場面がある、という

ことは違う。それは気持ちの問題で、その

過去に戻ったかのような場面に身を置いて

出来事を確かめ、味わい、なつかしさに

身を委ねることだ。発露として涙を流して

泣くのに等しい。気持ちで過去に戻る必要

があったのだ、体にも心にも) 



もう一つは ・・・・・・・・・・・・、

心が投影する問題を想起していて、勘違い

に気づいた。

時間の概念に囚われて、未来を先に

伸ばした処にある、という感覚で考える

と、理解できない。それは過去はすでに

未来だということだ。今から後ろ向きに

過去を振り返るというが、それは感情の

ことで、そこに過去はない。どこにもない。

僕らの頭のおもちゃ(概念)に過ぎない。

僕は’今’という人間や事物を存在させる

媒体を過去から投影している。だから、

実際に’今’は現在ではなく、未来に

なっている。僕の安心感は過去という

よく知ったと(思っている)媒体の装置を

’今’から照射されて、そこに自分の

思考のイメージではなく、また気持ちの

イメージでもない、ベルグソン的な

イマージュというものかもしれない、

そういう特別な媒体を創り出している。

それはかつて知ったるという懐旧なの

であるから、馴染みやすく、安住できる

のだ。

この時、過去たるものは今を未来に

捉えるので、今は今でもあり、未来に

もなる。これは時間の未来とは趣向が

いささか違うが、この媒体世界と言った

らいいのか、その中では今も未来も

過去も等間隔で同時に存在している

ことになる。この場合、’今’は過去から

今と未来で並んで見え、今と未来は

お互いが見えず、自分たちは一枚の

媒体だと感じているはずだ。もしか

すると、合わせ鏡のような世界かも

しれない。

これは新しい概念になるので、まったく

初めは誰にも受け入れがたく、理解し

がたいはずだ。

(ほんとにこの説明で合っているのか、

僕も当たり前に初めてなので自信は

ない。ただ、昨日言った「このままで

終わらず、変化があるはずだ」と言った

ことが、もう1日で来てしまったことに、

未来の先取りを感じるばかりだ。その

予測の結果には行き違いがない)




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