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守本奴=シュホンド・本のジプシー [本]

何か大事なことを忘れている、という感覚が  

ある。それは結構、大事なことなのに思い  

出しにくくなっている、という感覚で、なにか 

分からないが、もの忘れしたような感じ 

ではなく、忘れてはいけないものだという 

感じがつきまとっている。気持ちの悪さよりも、 

危険な兆候だという、警告の不安がある。 

読書を始めて、その想いが強まる。 

僕は読書が好きではないから、数十年前にも 

工夫したことがある。やり方はごく普通で、 

始めは6頁をともかく読む。1頁で嫌になっても 

6頁までは読む。そして、3日したら、それを

10頁にする。と、読むページ数を増やしていく 

方法だ。3ヵ月もすると、100頁くらい読めるよう 

になって、少ししたら、500頁の小説を半日で 

読もうとして、読み切った。読み切ったのは 

いいが、無理をしたらしく、頭痛が始まって 

しまった。3日くらい続いて、長編の速読みは 

もうやめようと。が、それで終わらなかった。

また不読書にもどってしまった。3,4カ月の 

ハネムーン読書期間だった。今もそれをくり返し 

始めているのだが、今の方が気持ちがゆるい 

所為か、次から次へと本を読み途中で変える 

ので、同時進行が10冊以上になり、この1週間 

でも7-8冊の中古本を購入したところで、この 

本好きは病的と言えると思う。もう人生残り時間を 

読書に充てても読み切れないが、捨てる本を整理 

している所為か、まるで捨てる分を穴埋めするかの 

ように、今まで通りに興味と好奇心にまかせて、

気になる本は決して捨て置かず、図書館に 

なければ購入するし、書店で見て気になれば購入 

するのである。1日10冊は捨て続けないと、整理 

することにならないのではないか? 

まるでジプシーのように土地を転々と旅するように 

本の中の世界を夢見て魅かれ、一応中身も見て 

だが、本を買い、溜めてしまう。守銭奴ならぬ 

守本奴だ。 

頭の中にはりっぱな読書計画が凛然と立っている 

のだが、いつも好奇心に負ける。勝ったことがない。 

全敗。少し、考えて、今は必要ない、と買い控える 

くらいで、2,3冊買うのを1冊控える程度だから、 

大したことない、昔はそれを「焼け石に水」と言った 

ものだ。ともかく、500冊は整理してしまおうと、 

努めている。 

前回の記事で気になったのは、僕の書く時の 

二重基準と前提事項となるものは、自分では 

分かっているが、読者はそうではないというの

を失念(忘れ)していることだ。 

僕は「最悪のシナリオは」と書いた時は、それ 

は「そのシナリオは起こりようがないが、方向と 

して指摘するならば」という意味合いで書く。 

しかし、人の考えは様々で、最悪の場合と 

断わったつもりでも、その言葉どおりが僕の

意見として伝わるらしく、僕の書くものは 

落とし穴が多いことがなかなか理解されないし、

また、されにくいようだ。 

他人(僕も他人)の書いたものは、その文章を 

辿る上で一部の疑いの眼の光を閉ざしては 

ならないのが、鉄則なのだが。これは習慣の 

問題なのかもしれない。

理性は知と感情要素の飽くなき融合を目指す 

ので、そういうように育てるもので、経験を

加味しないと、その土壌さえ失う。強い経験

ほど、それが受け止められれば、良い土壌 

になる。その人なりの按配があるから、自分 

がわかれば、わかるなりに育てるのが、丁度 

いい按配となる。獲得するのが目的ではない 

ので、自分の背丈に合えばいいことだ。 

それ以上を望むのは、また別のことになる。 

それは自分を変えたいと言ってることだ。


僕はこれまでを思うとおりにやってきた。だから、

後になって失敗したと思っても、遅いということ 

もあるが、そもそもその時に戻っても同じ決断 

を下しただろう、と自分でわかる。これで後悔 

しない、という約束を自分と交わして、決断して 

進む。だから、僕は後悔しないのではなく、 

後悔ができない、不可能という意味でできない 

のだ。だから、現実から眼を反らせるというのは

自分を裏切ることになってしまう。それで、<他人 

を信じない>こと、<それ>を信じる。それを 

信じることが人を信じることにつながっている 

と思う。 

’信じること’と”信じない”ということではなく、

’信じること’と’疑うこと’の双方に足を載せて、 

そのバランスを取るのが、理性の役目・効能 

だろうと思う。デカルトはそういう人だった。かの 

「方法序説」に最初にこう書かれている。:: 

「良識はこの世で最も公平に配分されているもの 

である。というのは、だれもかれもそれを十分に 

与えられていると思っていて、他のすべてのことで 

は満足させることのはなはだむずかしい人々で 

さえも、良識については、自分がもっている以上 

を望まぬのがつねだからである。そしてこの点に 

おいて、まさかすべての人が誤っているとは思われ  

ない。」::

そして我々の意見が違うのは人の考えがまちまち 

であるからであり、理性が少ないからではない、 

と言う。しかし、意見の違いから人同士の争いも 

起きるから、誰もが理性を備えているという 

デカルトの考えは矛盾する。デカルトは理性 

の人だったと、それで分かる。誰もが判断力 

をもっているとしたが、その良き判断力(=理性、

とデカルトは考えていた)は誰もが備わって 

いるのではなく、経験の質に裏打ちされている。 

人が経験の積み重ねによって、知恵もつくのは、

年の功とも矛盾しない。デカルトには生まれ 

ながらに備わっていたのだろう、天才の所以だ。 


僕はなにを失ったのか、むしろなにを失い 

つつあるのか、自分ではなんとなく分かって 

いるつもりだが、それこそがまさに失いつつ 

ある状態だということも、承知しなければなら 

ない。自己を自分で分析するという反省で、 

また、一種の技(わざ)であり芸じみたものに 

僕は感じている。  

君は「自分がどこにいるか」と気にするだろうか、 

考えたことあるだろうか。僕は思う、逍遥として 

想う。時には悩ましくも、僕はどこにいるか、と 

探しているようだ。それは答えをみつけたい 

のではなく、たまには自分を見つけてやらなけ 

れば、と思うからだ。自分があれば、アイデン 

ティティも大事になるだろう、僕には知性が 

自分だとは思えないように、感情が自分だとは

思えないように、逆に、そういうように性格やら 

生まれやら、顔つきや社会の出自やらの裏に 

自分がいるとは思っていない。僕という人間の 

一部として、知性や感情のように、一部の役目 

を果たしているとしか思えない。自分は僕の 

部分だ、という気がいつもしている。だから、 

時にはかまってやらないと、と思うのだ。 

なのに僕は他人に依存しようとは思わない、

意見が他人と同じでも違っても気にしない。 

ただその他人Aが自分Aだと全面的に認めて 

いるその自分自身の誤謬から漏れてくる

ものにとり憑かれている、その部分が気に 

食わないのだ。尊敬できる人物も、慈愛の 

人もいるだろう、でも、それぞれ人間なん 

だからそれを避けられると思っては 

いけないのだが、やはり自己尊重が邪魔 

するんだろうね。自分は違う、とどこかで 

思うんだろうね。それは僕の体で半世紀 

も経験して変わらない自分自身にうんざり 

したりするんだが、そういう自分にもどって 

くるのもまた楽しみである、という、そういう 

有情も時としてある。

そういうあれやこれやがあって、’日常’と 

いうものを過ごしてつらつらと考えると、 

余程のことでない限り、なにが悪いとか、 

善いとか言えないと思う。 







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