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コップ一杯のキャパとは [果ての話]

飛行場へ向かう時はなにか心地よい

興奮があった。希望と夢の海外への

旅行だった。というのが、ふつうの

思う旅行や思惑というものなのかも

しれない。

僕もそうであったら、と思わない

こともない。が、そんな明るい気持ち

で飛行場に向かったことは一度も

なかった。一度も、だ。

平均してだから、いつもではないが、

5年も日本にいると、煮詰まって来て、

外へ出なければ、どうかなりそうだ、

ということが体質・心質にあった。

精神に絡まる神経的なストレスで

同じ場所、同じ生活をしていると

耐え難くなった。体が震えてくるほど

のストレスだった。それで会社勤めも

最大で5年が限度だった。あっけなく

もあっけらかんと辞めてしまう。

明白な神経症の症状だろうが、病気

というには5年は長いし、休息を

設ければ症状は回復した。本人が耐え

がたいだけで、周囲は多少ほどにしか

気づかなかった。程度の軽い自閉症だと

も言えただろう。(神経疾患は名前ばかり

で多様な真因は解明されていない、この

百年)

それでどうして海外へ行くのか?

逆療法というやつで、もっとストレス

のかかる言葉もままならぬ、習慣も

食事も違う他国のストレスに己が身を

晒すことで、活気づけようとしたのだ。

二日酔いで迎え酒を喰らうのとそんなに

変らない。

傷心の旅行とか、愁心の旅行とか、そんな

ロマンなんか砂粒ほどもない。緊張して

カリカリの心境で飛行場に向かうのだ。

バカだね、の一言で済む。実際その

通りでひとりで行くので楽しい会話も

なく、観光地に行っても歴史の実地

見聞のためで、観光気分というものは

味わったことがない。

それは忘我というものを誘うためだった

というのが穿った見方だが、本当のとこ

ろかどうか、怪しい。

忘我というのは、緊張しすぎたためだ

とも思えて、それは帰って来てから、

気持ちや神経に余裕が持ててから、旅行

は役に立ったといつも思えるからだ。


反省して初めて気がつくことがある

ものだ。それは例えば、自分が日本人

であるために、そこでそのように考えた

のだ、ということや、無意識にそう

いう行動に出たということなど。それ

は新しい社会環境との対比がなければ

決して気がつかなかったことのようだ。

それで海外遠征は損をしたと思えた

ことはなかった。(地球上の)世界を

考えるというのは、その国の肌合いに

触れることや異質さを感じ取ることだ。

それを体にある意味、叩き込むことだ。


日本で本など読んでいたって、旅の映像

など見ていたって、まったくわからない

ことだ。観光コースを外れて、その国の

生活をしてみることだ。便利や不便、

おいしいまずいをその国民と一緒の

生活の中で体験してみることだ。


海外に留学した者がホームシックになる

と、ともかく漢字が見たくて、なんでも

いいから日本語の本を「見たくなる」

そうだ。漢字でさえ、心に習慣化し、

染み入ったものらしい。文化もまた、

恐るべきものだ。日本にいて普通のこと

が実はこうだったという言葉にならない

日本経験は逆の気づきだろう。

それはホームシックという言葉ではなく、

僕らの心の烙印のことだ。

僕らはどこまで自由かというのは、そこ

からが出発点になる、そうではないだろ

うか。

これも前に書いたことだが、また書いた。


つまり、自分を慰めるのではなく、自分

をさらに苦しめる要素を加えて、僕は

海外へ行ったのだ。これはもしかする

と、自然な自己防衛だったと思える。

なぜなら、無の体験をしたと書いた。

それは書いたことで何も伝わること

はないだろう、という経験だったから、

僕は知らずに臨戦態勢に入ったの

だろう。


無とか無限とか、そういう人を越え

たものを受け入れることはできない。

まず、人を越えたものの説明をしたい。

人のキャパシティを越えるとは、

通常の経験なら相当の恐怖を味わう

はずだ。ところが、僕は当時のその時、

恐怖に類するものはなにも感じなかっ

た。これも数年して気づいたが、どう

してなのか、どうしてもわからなかっ

たが、人が受け入れるだけの質量を

越えたものだから、僕ら人間では

客観化できない。できないから、それ

を対比してなにかの概念(言葉)にでき

ない。

だから、知を通しての感覚が働かない。

つまり、何も感じないほどだ、という

こと。

これは僕らが恐怖を感じる、というのは

人間の受け入れる範囲内にあること、

その体験は僕らはそれに対して何も

できないことを意味している。つまり、

人間に対してそれは何の意味もない

ことを語っている。

僕は抗えないほどの存在を前に恐怖に

逃げることさえできず、それと闘う

ことに人生を賭けてしまったのだ。

といっても、その強烈さから逃れ

られない以上、前を向く以外の方向

があったとは思えない。攻撃は最大

の防御なのだろう、それで否応なく

僕の追及は始まったのだ。

リアル現実はリアル夢でもある、と

いうのが、その世界だ。


今はもうため息しかないが、無意識

とは僕が相手のいないような存在を

前にして、瞑想しか手段がないことで

心に入り、心を突破することをして、

心を去り、無くして掴もうとして、

それは気味が悪く、死に損なうこと

だった。

その長い長い戦いが、無駄ではないと、

長い長い時間の後に夜明けのように

次第次第に明らかになってゆく。

まだその余波が続いている。

その期間で陶冶された僕の心が想像

外の考え方や感情、感覚の捉え方を

生んで、そこから光を発するからだ。

それは正しくなくても、確実に新しい

見方・感じ方を演じている。直接伝え

られないので、なにかこの世に託した

もので演出の方法を取らざるを得ない

のだ。故意のことも背景から完全に

故意ではないだろう。

だから必然で、人が聞きなれている

習慣化した教訓や声掛けは避けられて

いる。普段聞いているような言い方

では、その感じが残らないからだ。

この世にはその余韻のような直接では

なくても、人は毎日聴いたり、感じた

りしている不可思議なものがある。

それは間欠的で、わずかな刺激なので

すぐ忘れられてしまうが、それが増幅・

増長される経験をしたならば、生き方

も変わってしまう人もいるはずだ。


ブログを始めて1年ほどしてから、

記事が書けるようになってから、

伝える相手は2人か3人だろう、と

思ってきた。それは誤りだった

ようだ。

万人が伝わる要素を備えていると

いうのがわかったからだ。と言っ

ても人によってだから、1%から

99%までそれは多様で、こちら

の予断など許さない。これはそも

そも長い長い話なのだ。


地球から160万キロかな、そこに電波

望遠鏡が打ち上げられた。

そこから映像が、主に多くの銀河が

輝く映像が地球に送られてきた。

地上のハッブル望遠鏡だったかな、

その銀河の映像から現代の原子物理学

で予想されたものを想像していたが、

学者たちは予想外のものを見ること

になった。銀河の数が多いのだ。

その数、数千億個。ビッグバン以来

のコンピュータの計算でもつじつま

が合わない。

これはビッグバン理論で銀河も

衝突して、大きくなり、数も遠く

なるほど少なくなる、という理論から

はかけ離れている。つまり、ビッグバン

理論では説明がつかない。

しかし、映像は送られてきて、ちゃんと

ある!

たった160万キロに望遠鏡の位置を

変えただけで、僕らの先端理論・

常識にもなっているビッグバン理論

は破綻してしまった。

僕には、驚くこともなく、これが

僕らの世界で、まだ何かわかった

というには僕らの知識は脆弱なもの

だということだ。

いつまで、とかではない。これは

追いかけっこのように、リアル現実

と概念の夢とは違う、異なる、全き

別なものという認識が行き渡るまで、

いつまでも続く。

そこまででもなかなかの進歩だが、

そこではまた、その先がある。

わからないことを言ってもしかたない。

僕らは僕らのものを造っているので

あって、なにかをまったく新しく

生みだすことはできないし、それは

僕らが無限に変異することが可能な

要素(人間体)であると、いうこと

であり、またそれらは人間や生物に

特有のもので、どこかにある真実とか、

どこかの永遠とか、どこかにある

存在・実在とかではない。そういう

客観化は僕らにはできないこと、

不可能事なのだ。

人類が続けば、当然ながら、僕らは

人間とは似ても似つかないものに

なり行く。人類が気の遠くなるほど

続けば、の話だから、なにも気にする

ようなことではない。あなたはいない、

その時、確実に。

だから、例えば、AIに自分という意識

が生じるという話を信じないほうが良い。

その時はある個人学者か天才・奇人が

自らの性格性質から膨大なデータを構築

して、AIにインプットして、仮に自分

であるように見せることだろう。そのAI

が反乱とか人類に戦いを挑んだとしても、

それはある特定の人間だった個人を相手

に戦うことになるということに変わりは

ない。そのAIとは戦えない。彼は

マシンでインプットされた「特定の自分」

に従って動くだけだ。学習することは

計算の簡略化・効率化でなにをするかと

いう命令にある。感情や生理感覚の数値

は持てないから、過去のパターンをすべて

覚えることになる。それは発想の飛躍は

できないということだ。人間征服の基礎

プランというプログラムもインプットされ

なければならない。ということで、その

AIは開発者のコピー人格なのだ。僕ら

の敵はいつも僕ら人間なのだ。変わらず、

永遠に。

宇宙はアインシュタインが考えたように

重力だけではバランスが取れていない

だろう。僕らの心のように、様々な要素

があるので、バランスは常に不安定な

のだ。問題はそれが原点だと肝に命じて、

そこからこれまでの歴史のように難題に

当たって、解決できようと、解決でき

なくても、技術だけでなく、あらゆる

ことが変化する(無常)、また新しい

課題が現れる。できることを、自分に

できるだけをする。


そうすることで、生きることは何かを

心に秘めて、自分の生き方を育てて

ゆく。あなたが育てなければ、あなた

の生き方などどこにもないからだ。


また同じことを書いている。もう新し

くはなれないのだろう、キャパは

精一杯使ってしまったのかもしれない。

人を越えたというのは、そういう感覚

のことだ。感じたからと言って、人間を

越えるものではない。

そういう相手だった、 ・・・・・・。

キャパシティ.png

陽秋:画  「コップの夢」


(注):: キャパ、キャパシティのこと。

      収容能力。例えば、定員。



  : :ビッグバン理論はジョージ·ガモフら 

    によって提唱された。
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