SSブログ

無用の用、無自己の自分、曜変天目、・・ [自分]

<曜変天目茶碗は長い前置きの後に登場します>


随分以前になるが、釣りに行って

ただ釣り糸を垂らしてくるだけでいい、

と言う男がいた。それは絶対におかしい

と思ったので、なにしに釣りをしている

のだ?意味がないではないか、と反論

を考えたが、大したことではないので

敢えて言わなかった。釣りは魚を釣る

ためにするのに、餌をつけずにただ

釣りの真似をするだけでいい、と言う

のだから、その時はわからなかった。

しばらくしてから、そういうことが

あってもいいな、と多少許容すること

になったが、次第にはそれも風情が

あるか、ぐらいには理解したようだ。

今夜、考えていて、釣りをしない釣り

人になった。ブログを書こうとして、

ブログを書かなくてもいい、ただ

書こうとして、坐っているだけで

いいのではないか、と釣りをしない

釣り人の心境になった。

それは心の重力を考えていたからだ。

心は漠然としているから、僕らはそこ

で足を地につけたように立っていたい、

と思い、その方法を自分なりに確立させ

ているはずだ、という着想から始まった。

両足を揃えて立っていると、その底には

ちょうど地球の重力に引かれて立って

いることができるように、僕らは心の

中心に引かれるように立っているに違い

ない。そう思う。

心の漠然に任せてしまったら、僕らは

中心を失い、立っていても、揺られて

いるようで、フラフラしてしまう、と

考え、感じ、実際に不安になってしまう。

しかし、心にわかるような中心はあるもの

だろうか? ない。が、あるだろう。

なければそれがあるように思うのが僕ら

だからだ。知らずにそれを作っている

のだろう。まず、僕らが中心を求める

以前、すでにないものをつくるのは、

自分だろう。自分は分身の知を動員して

確固たる自分を確立させる。ないものを

知られては自己証明がなくなって、自分

が自己撞着して、不安の底に落とされる

からだ。この自己を中心として、そこに

安定のための考え(概念・観念の自己証明=

アイデンティティ)を定着させることを

試みる。

それは言葉で言えば、秩序であり、信念で

あり、信仰であり、確信であり、レベルが

下がるとあらゆる偏った主義・主張や活動・

運動といったもので、それを心の中心に

置いて支えとすると、それを信じている間

は安心できる、といった具合だ。

それは自然に犯すべからざる権威や象徴に

なるので、プライドの壁をまとうように

なる。かくして、この狭き概念の範囲が

その自己の生活になり、世界を固定して

しまうことになる。

その中心に玉乗りをしているような感情

が支配するだろうから、玉がいきなり

動かされるようなことが起これば、玉の

上でバランスを取るための動作をする

だろう。それは生活や実際の場面では、

プライドをかけたものになるので、慣れ

ない者はムキになってバランスを保とう

として、相手の攻撃的な言論・言葉を

許さないだろう。

あなたの権威や秩序と信じるものが、

否定されれば、それを停止させる感情

が即座に動いて守りを固める。

それは体の自己防衛とはかなり似て

いて、僕らの知らない反応が速く対応

する。似ているのは、僕らの脳を通さ

ずに、無意識な反応をすることだ。

異なるのは、体の場合は脳を通さずに

反応できる訓練が積まれていること、

心の場合は知と情と感覚が連携しない

で、その場合は唐突な短絡した反応

になってしまうこと。

多くは自分がわかる論理的な理屈等で

否定されて、その正しさに気づくと、

理屈で答えない、逃れるとするか、

感情的にそれを無視して、ただいい

がかりの言葉で攻撃的になる。または

それに答えない、など。


これまでにも書いてきたが、少し進もう。

自己が中心なのはわかるが、それを外し

た時、僕らは玉から落ちると思うし、

たぶん、落ちるのだ。そして、パニクる

と藁にも掴まるのだろう。

では自分の信念が崩れた時はどうすれば

いいのだろう。生き甲斐や秩序が失われる

絶対の不安が押し寄せる時、そう感じた

時、僕らはどうしたら。

僕の答えは、それこそが答えだった

のだが。

それはその不安定で、絶対の絶望的な

不安が、自然状態というものだった。

むしろ、そう信じ込んだというのも、

ありそうだ。だが、これは自己の中心

を生きてきた人には、信じることは

無論、わからないことだ。かつては

僕の最初の出来事はそうだったから。

自己を離れるということは、例えば、

急に盲目になり、世界は闇ではなく、

「見えない」という視界がない状態

になることや、これまで育てられた

両親が15,6歳になって、突然本当の

親ではないと告白されたりすること

や、腕をつかうスポーツの選手になる

ことを夢見て、その才能もある子が

突然の事故で、両腕をうしなって

しまうとか、その時の悲しみ・絶望は

あるだろうが、どれもそれなしでは

生きられないということではない。

それを克服した子の、人の記録は

多く残っている。彼らが失ったと

思ったものは、本当は自分という

自己だった。克服した人は皆、別な

自己を育てたのだろう。

秩序も善悪も法律も完全なものはない。

それが僕らを支える指針であることは

事実だが、それも変えればいい自己の

内のひとつなのだ。僕らはそれ以外

知らないので、自分というものが唯一

だと妄信・盲信している。



今夜、僕が考えていたのは、どうも

玉に乗らないでいいのではないか、

ということらしい。自己という中心

を見出さないで、この混沌のさ中で

バランスを取るのではなく、そのふり

をしているだけでもいいのではないか。

そんなことのようだ。

僕らの現実というのは、バランスの不安

から生み出された、半分が仮想現実と

いう、あいまいでいい加減な社会・

世間とそっくりなものなのではないか。


リアルな現実は、例えば、今の僕の場合

は目の前の「もの」にある。

屈人織部として、曜変天目茶碗を夢に

抱いている。

曜変天目茶碗1.JPG

曜変天目茶碗:国宝 静嘉堂文庫美術館蔵

中国の宋の時代の物であるが、日本の

国宝に指定。中国にはこの曜変天目茶碗

は、ひとつもない。偶然が生む完璧な

天目茶碗は世界に五つしかないが、

すべて日本にある。

中国の故宮美術館という膨大な皇帝の

歴代コレクションがあるが、この珍重

なまれな茶碗をひとつも手元に置か

なかった。理由がある。

焼き物は古来から政権の安定を求め

られてきた。それで同じ形・色合い

なども同じものが宮廷では求められ、

天目の模様は変化であり、凶兆と

捉えられかねなかった。それで陶工

は天目が現れると、死刑にされるの

を恐れて、全部その場で割って

しまった。中国に残るはずがなかった。

国宝の五つの内、三つが中国製と

いうのも奇妙な話であるが。






nice!(12)  コメント(0) 

nice! 12

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。