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言霊の妙は意識の妙 [意識]

言葉とはなんだろう?

言葉について、殊更に疑問を

思ったことはない。だから、

言葉とは何?とか言っても

それは疑問ではなく、発せられた

言葉についての、その示すところ

にある“あるもの”についての

厳粛な感傷だと思う。そして、鑑賞

だとも思う。

僕らはTVがいろいろなエンター

テイメントを映し出してくれるからと、

TVを神棚に飾ったり、素晴らしいと

拝んだりしない。それはTVが機械

だと知っているからだ。ところが、

言葉だと、それが心に影響する

刺激や思考(思想)に恋し、感動で

魂を寄せ得る、と思う。これは死の

ビデオとかと、そう変わらないと思う。

見ると死んでしまう、貞子がやって来る、

とかはない。ところが、自分の心理は

分析しにくい。感動の感情に巻き込ま

れると、その伝えてくれた道具に神秘

を見てしまう、といった短絡な気持ちに

陥るらしい。

僕はどうして、こうも言霊を否定する

ことに躍起になるのか。

ここから始めたほうが、早そうだ。

一度ならず、言霊に、その言葉の

神秘性を否定した記事は書いた。

それがなぜこうも蒸し返して、また

書こうとするのか。昔は、これは自問

自答だった。今も、それは表面で

同じことだが、僕は知らない他人と、

また(矛盾するが)よく知った他人と

同時通訳するように自分と対話する

ので、内面では自問自答ではなく、

明確に対話である。それが自画自賛

のような対話であるなら、僕は騙され

やすいだけだろう。そういう風に裏切ら

れたことがこの対話においては、過去

にないので、ふつうに書いてしまう。

書きながら、自分でもピントこない文

が出てくるが、(時折のことで、全体

に影響するのはまれだ)それは書き

切ってから、あとで読み直して考え

ればいい。

この言霊については、ある作家が

小説家だが、日本史についても

その疑問点から新説を唱え始めて、

定説はおかしなことだらけだ、と

自分の観点からの日本史を書き

始めたのだが、そこに題で言霊が

主なテーマになっているらしい

古代言霊編で、(見たら「万葉集」を

扱っていた)それが、気になっていた。

それからブログで言霊が自然に

あるものとして語られれている記事を

見るにつけ、疑問は膨らんだ。

魂の感じ方が違うのだろうか、とも

思ったが、言葉に入れ込んでいる

だけのような気がしてならない。

僕らは言葉にある種のエネルギーを

込めることは疑いないが、それは

言葉が本来持つものではなくて、

僕らの思考・志向が言葉の示す、

その向こうの実体に向けて放つ意気

のようなものだ。その代表例は祈り

の言葉だろう。

言葉は本来、空想の概念でしかないが、

その対象に執着する事情があると、

愛でも、悲しみでも、神秘でも、UFO

でもかまわないが、それを実体化

しようとする。問題はその思念は

ある程度、実際に実体化することだ。

現実にはならないが、幽霊や豆粒の

光体くらいには実体化する。それだけ

でも言霊論者には十分だろう。

と、これでは否定にならない。そう、

否定が目的ではない。それが祈り

のように信仰に類することなら、まず

議論にならない。信じるか、信じないか、

では水掛け論にしかならない。

これは僕のおせっかいなのだろう。

(前後してしまうが、「万葉集」の言霊

論は納得がいく。そう思えても仕方が

ないくらいに、万葉歌は音楽性が強い。

意味を思わずに、万葉歌を聴くといい。

たぶん、この頃は歌はその通りに、

意味が通るのはもちろんだが、それ

よりも、声で歌われた時の効果が

大事だったのではないか。その間延び

したような感じには、長閑な風情が

感じられるのは、言霊に規定しよう

とする気持ちにも同調しやすい)



言霊云々ではなくて、どうして言霊

が大事になったのか、あなたの歴史、

その時のことを知った方がいい、と

いうことを伝えたい。

言霊という実態をあなたはどうして、

どこで、どのように感じたのか?

それが重要な疑問点だ。誰かの本を

読んで、それに共感してその考えを

受け入れたというのなら、どうして

受け入れる気になったのか、その

著者の言うことになにか近い経験は

なかったのか?そういうきっかけが

なにかなければ、僕らは共感をしない。

感動もない。だから、そこを丹念に

尋ねるのが先だ。


もしも、言霊という実態を感じて、それが

あなたに語りかけたことがあるのなら、

それは言霊ではなく、他の分野で重要な

ことになるだろう。どうしてそれが言霊だ

とわかったのか、姿は見えたのか、言葉

を話すのは別なものの可能性があるの

ではないか、という問いに自分で自分の

心に答えなくてはならない。 7.10


記事は投稿しないで留めておいても

いいが、忘れてしまうと、続きを思い出す

のは望めない。まとまったかどうか、今一

わからないが、4日も経ったので区切り

にしようと思う。(以下だが、読み直しを

しないで書いたので、くり返しも多い)



自意識の内容・性質の大半は言葉にある。

が、意識全体の原点、あるいは源は言葉

にはない。社会生活がおよそ言葉に拠って

いるので、そして自分のための自分ひとり

の時間が持てないほど、その区別がつき

にくくなる。楽しいおしゃべりには時間を

感じないのと同じことだ。ひとりを、僕ら

はそのように通常は避けるから。

知的な思考はそれに功罪はあるが、人や

物事にかなり客観的に臨むので、公平に

見る。感情的な思考は、実は知的感情に

過ぎず、知的な部分的論理を展開しても、

中心は感情なので、気が変われば論は

破綻して、別な論の機構に浮気している

のに気づけない。指摘されると、プライド

に関わるのでイラついたり、怒ったり、

自我のかなり強い人は例えば自分の

負けん気の強さを指摘されたこともないし、

自覚もないのでその指摘は誤りだと

反撃されてしまうことが多い。

感情的思考は主観に中心があるので、

人や物事に対して、公平さに欠ける。

従って、言葉に言霊を感じようという

感傷を持つ人は、言葉に対しては

ある感情が強くなる経験をしている

はずだ。普通その言葉に助けられたり

して、その時の感動が基になっている。

物が動いて、日月が空を回って、経過

を感じて、その実感が時間感覚を生ん

でいるのと同じだ。

インドやアフリカでは時間の感覚の

ない人がいるし、まだ多いだろう。

食べ物が勝手に生えてくる赤道に

近く、雨の降る地方なら食べ物は

収穫時期を考えたことがない。

日本のように収穫時期に台風は

来ないのだ。

南米だったろうか。

稲作でも、穂がたわわになっても

3週間も放っておいたりする。

日本では考えられない。

日本の美しい四季、そして、多雨。

それが高い山岳があることで発生

し、達成できている恩恵がある。言葉

も自然に従って生まれた。自然の

風情に溶け込むように生まれた日本

の言葉に言霊があると思って、それ

が厳密には勘違いに過ぎなくても、

美しい勘違いには違いない。

だから、言霊は自然語ではなくて、

歴史語だと言えるだろう。歴史は

感情で、ロマンだからだ。

知的に言霊は否定されても、歴史

では生き続けるだろう。正しいことが

この世のすべてではないからだ。

ドストエフスキー(ロシア作家)は精神

(言葉)は広すぎる、もう少し縮められ

ないものですかねぇ、とどこかで書いて

いたが ・・・・・。彼はその言葉を心理で

捉えていた。



僕の心には言霊はない。が、万葉集には

ある、と感じざるを得ない。その時代を

生きた人たちはその言葉にそういう音を

込めてしまう生活がある。運命と言っても

いいのだろう。

運命もその意味で、確実ではない。が、

避けることはできない。そのなかで姿・

形をすべてにおいて、変えてゆく。体に

貼りつかない運命はない、そして、変え

られない運命も、またない。言葉が

時代で変遷してきたように。

言葉とは、大雑把な意味で自分自身の

こと、その範囲のことなのだ。あなたが

どんな言霊を演出するか、それはあなた

の生きざまや生活次第だ。



一句:


楽しさも  中くらいかな  夏の雨

               7. 14


追記:2022.10.2

昔のことだが、ロシアだろう、石川啄木の

歌が流行ったそうだ。人気が出たというが、

日本語なので、意味は分からなかったらしい。

どうも理由は胡散臭いが、意味が分からなか

ったのなら、音が美しかったからだろう、

と言われた。危ないが、そうかもしれない

と思わせた。


たはむれに 母を背負ひて そのあまり軽きに 

泣きて三歩あゆまず
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