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思想(知識)の転向は壁の色を塗り替えただけ [知の思考]

日本という国に何かが起きるのは

わかっている。もう30年以上前と

は思わなかったが、第1次湾岸

戦争からそれだけの年月が経って

いた。

が、それが日本なのか、僕自身の

ことなのか、よくはわからない。

なぜなら、今の日本への関心は

異常なほどで、単なる思想的関心

とか形而上の危機感とは大きく

異なるからだ。この処、日本に

関しての本が目に映り、すぐに

手に入れてしまう。自分でも変だ

なと思うくらい。僕と日本が重なり

合っているのは、意識上しかたない

ことだとしても、それで確かなこと

が不明になってしまってもいる。

こういう凖・動揺状態の時には

正確な判断は望めないが、それ

でも僕をパソコンの前に坐らせる

には十分な条件だ。



あれだけ探して見つからなかった

「善の研究」:西田幾多郎の代表作

とされている:が階段の本棚にある

のを見つけた。もう買い直して

しまったので、ダブってしまったの

だが、最近は二回目だ。初めは

自転車の鍵で、駅の駐輪場で停めて

あったのだが、鍵がない。ポケット

を何度も探してみるが、失くすはず

もないものだったので、車の鍵に

つけていた鈴を失くして以来、また

かと思った。

今度もすぐには出てこないとったので、

三日後に合鍵を作ったら、その日に

(洗濯に出した)ズボンにからまっ

て?出てきた、とうちのが言った。



それは余分な話だが、西田の「善の~」

は僕は善が感情表現なので、思想的

には評価しなかったのだが、どうも

それだけではないようだと、考えを

改めた。

それはこれまでも言ってきたことから

人が人を理解することの困難さは

感情→思考→感覚と進むほどに困難さ

は増すことを、感情的には速い理解

になるという僕らの関係性であっても、

思考と感覚への理解になると、人が常

にまだら・あいまいにしか理解しがたい、

となってゆくのは避けられない。また、

ひとつ詰め、応用すると、そこにこの

世の知識の歴史が浮かび上がるのを

見た気がした。

知識は結果のものだと思っている。

言葉の資産だと言ってもいいだろう。

僕はこの資産というよりも精神の遺産・

本・書籍というものへの出会いに恵ま

れている。

知識への批判はともかくとして、

子供の頃からの未知を探索する癖を

つけてくれたのは読みたい本を探す

ことからだった。

一定の世間やこの世の常識をその

時代のレベルでおよそ全般で備えて

いないと、まず基本の判断の基準が

定まらない。

思春期には感覚や感情を鍛える

こと、そういう経験をに出会う

ことが必要になる。しかし、人は

自分の心身の条件からどれかが

疎かになり、大人になってから

その未熟さのために苦労する。

僕は感情の未熟さがあったが、

人と全般に付き合うことはしな

かったので、また自己追及が

自分に合っていたので、ずいぶん

先まで社交性は未熟さが残った

ままだった。その代わりに、精神

の事項での発見が絶え間なく続いた

ので、面白くすぐには転向でき

なかった。

革命家北一輝と思想家大川周明は

出会って語り明かしたことがあった。

北一輝は半裸状態らしかったという

から夏の夜なのだろう。頭脳明晰な

二人がお互いを理解しようとして

一晩?だか議論したというから、

言葉の表す概念がどれほどの意味を

抱えていたかが知れる処だ。

その単語の意味がひとつで明快で

あれば、その明晰な二人がそれほど

時間をかけなくても理解はスムーズ

だったろう。話は速い。思った時に

すぐに言葉に換えられる。それが

長い議論になったのだから、意味が

複雑で錯綜していたから、相手が

それをどういう位置から捉えていた

かがはっきりしないと、なにを考え

見ていたかはわからない。

書物は考えた結果の言葉がそこに

落とし込まれるが、考え方が違うと

さっぱりわからないという、妙なこと

が起こる。それはもっと言葉よりも

明晰だと思われる数学でも同じだ。

数学もやはり幾何的に考える人も

代数的に考える人もいて、数学者は

相手が出した解答を自分の考え方で

数式を変えて考えてみないと、それ

が正しいかどうかが理解できな

かったらしい。

(答えが二つあったとして、それぞれ

の考え方が答えにあっていて、正しい

という場合と、その二つを比較して

どちらも正しい、という言い方も

できる、正しいにも意味が複合して

ある)

それほど自然は単純ではないという

ことなのだが、思想家も哲学者も

数学者もそうは考えない。飽くまでも

自分の学問分野の範囲の中でのこと

として捉えようとする。

これが真理のあり方だとしたら、その

ままだ。真理はそれを見る人の考え方や

見方の数だけその側面を見せる、という

ことだ。

僕が他人の本を読むのは無駄だと言った

過去があるが、その意味はここにある。

一人の人間を研究するなど宇宙の一部

でも半無限な範囲があるのに、無茶な

話なのだ。それがある思想を研究すると

なると、実現可能に見えてしまうらしい。

それは知識が固定された明確な概念と

して定義されたように錯覚している人

が多いからだ。 

AIの学習に関する理論が出回ってから

は特にそこに人間の知能との違いや範囲

を線引きできなくなって、ますます混迷

が深まっている。

僕らは間違えることがわからない。間違え

るのだから不正解、だからそれは正しく

ない、それは悪い、と二者択一で考えて

しまう。そのワンパターンな思考こそが

間違えていることに気づけない。

あることでは間違いも自然であり、真理

の一部なのだということは教えられて

こなかった。だから、それが常識に

なってしまったが、僕らは実に一つの

解答ではなく、多面的な解答を同時に

理解するように迫られている、常に。

ほんとうに単純な問題で、人がこさえた

算数の問題などは単一の解答がある。

といっても厳密には解答は同時に二つ

あるのも往々にしてある。例えば√4

の答えは+2と-2とで二つ正解がある。

算数でさえそうなのだから、自然界の、

また社会の機構での正解はいくつもある

のが常態だ。

僕らは正しい答えが単純にぽっと存在し

ているつもりだから、煮詰めないで、

答えをいい加減に済ましやすい。

時代を通じて変化に揺れ動いている常識

が存在している人々の意識層というの

はその程度のレベルなのだと思う。

それは世の中を賢く渡るのなら、70%

くらいは大丈夫だが、万全を求めるに

はほど遠い。

僕らは他人と会って、すぐに相性みたい

なものを感じる感性を持つ。これは長年

の経験で鍛えられたもので、一代のもの

ではない。そして、第1印象を超えて

つき合い始めても、話が通じない人だ

とか、話のわからない人とか、親しく

なりたい人だとか、その人への評価を

する。これは何を示しているかと言う

と、自分との違いがどれだけ感じる

かを示しているのだ。

端的に、この人は自分ではない、と言っ

ているのと同じだ。自分と同じ自分に

これまでに一度も出会わなかったよう

に、それほど僕らは各人ひとりひとり

感じ方が異なっている。

そういう僕らが言葉で議論して尽くせ

ない自然や思想を相手にして、それは

その人と真実との切磋琢磨という処

に発見・出会う・真理というその側面

になる。あの人の納得とこの人の理解

とはかなり異なるものを指して、言葉

にしてもその内容の意味のそれぞれ

の分量・配合が違って当たり前なのだ。



僕らが読む真理ものというのは、そう

いう妙ちきりん(へんてこ)な思想と

いう概念の知識媒体なのだ。

だから、和辻哲郎などは偉いもので、

仏教を論じても、実際に自分も瞑想を

やってみることをする。しかし、巷の

仏教学者は言葉の仏典や資料に充(あた

る)だけで肝心の芯を突かない。

そして、言っていることがわからない

と、わからないことを以てして、ウソ

ばかり述べていると批判したりする。

何をか況(いわん)や、である。

それが世の中で横行しているつまら

ない本だ。



自然に体当たりしていれば、多少の

怪我で収めて、見えるものは見える。

そこで今までは考えもしてこなかった

見えないものがなにかという感触も

掴まえられる。

実際の行動に正しい感覚で出会った

ものを受け止め、それを思い出し

(反省)、あいまいなものがはっきり

するまでは、あいまいにしておくの

が正しい。

あとは自然に任せる。その感覚や習性

も自然に学べるものだ。

川を見る。昆虫を見る。植物を見る。

見ていて、見る、見る、見る。

見るうちに学ぶものがある。それは

言葉にすれば誰にでも通じるという

ものではない。現実にこだわらず、

夢だとしたら、夢のまま捉える。

それを現実に還元してはいけない。

それでは別のものに変えてしまう。





中高年を過ぎて。難しい哲学書などは

好きな人は(楽しめるから)別にして、

ほとんど無駄に終わる。一生かけて、

その対象の人となりがわかるくらいだ。

内容は3割も理解できればいいとこだ。

7,8割も理解したと思う人がいたなら、

それは自分の見方という狭い範囲での

成果になるだろう。真のものはものごと

の芯にあり、理解した論はなにか別の

(自分の)素材で作ってしまった模型だ。

そのために自分の人生を効率の悪い

他人から学ぶのはよくないだろう、

と思う。

もっとも偉い人はいるから、ヒントは

古典からゴロゴロ拾える。そして、

それでも最初の関門は自分の命で

開けなければならない。



:::
人間を理解するのは面白い、とても

難しく、闇を手探りするくらいに

手に触れたものが見えないので、見る

ように直感的ではないので、わから

ないことが多い。その分謎が多く楽し

める、とも言える。

神経が崩れるように正常な反応が

できなくなると異常者をつくるように、

少しの異常でも生活が変わってしまう。

昨日の午後から今日の午後にかけて

神経は少し、異常だったと思う。

僕は甘いもの好きだが、あんこ派で

チョコレートも好きだが、あんこの

ほうがよく買う。

ところが昨日は疲れたと思っていたが、

チョコレートが食べたくて、珍しいと

思って食べた。ところが今日も2枚

別種類の板チョコを買って、片方を

食べていた。

昨日、これから後になにかが起こる

ような予感がして興奮して、動くの

はた易いが、なにか落ち着かなかった。

そのうちに書くことにしよう。
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