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自然の条件と言われるもの [自然]

だんだん書く気が失せるのがわかる。

投稿よりも書き終えた記事のほうが

増え続け、7つも8つも溜まって

しまうということがなくなった。

言いたいことはほぼ書いたからだが、

それでもすべてを網羅して書いたか

と言うとそんなことはないと、細か

い部分はまだまだ残っているから。

テーマ別には随分と残してしまって

いる。つまり、それを書くには下調

べが必要でやたら時間がかかるので、

ブログにはそうそう落とし込めない、

となる。



興味が毎日変わる相当な気まぐれを

有しているので、一つのまとまった

ことは自分でも自分に期待できない。

誰かがいずれ書けばいいとも思って

いるので、余計に夢中になれない。

非常な、もの好き、で好奇心旺盛と

来ているから、新しいテーマを追っ

ていたら、陽は沈まないだろう。

気づいたら、夜だったとなる。

なので、今夜もまた深くなるかも

しれない心には描かれているテーマ

を書いてみよう。


ひとは死を恐れる、という普遍なテーマ

だが、いつからだか僕には無縁のテーマ

になった。自分という偶像は生きてい

ない、そこから生きていると錯覚され

た自分が死を恐れるのは十分に自然で、

確かなことだとわかる。

自分が恐れるのは「無」という闇で

そこから無価値や無名声や無評価を

残念に思い、そういう自分にされるの

を恐れる。死はその最大のピンチだろう。

それは自分を大事にする人は誰でも

逃れられない関門だ。

何の関門だ?  人生の関門というの

に、相応しいのだろう。

仏教の難点はその修行の段階で世間と

は疎遠になるように清貧の生活(出家)

を強いられるので、そのままだと生きた

ミイラを目指すほどに、死のオーラに

取り込まれてしまう。死を恐れない

どころか、感性を失くすので、死にた

いと思い始める。自分を失くすことを

していると簡単な哲学原理や科学理論

とか、そういう確固として見える(人間

がそういう風に造ったのだから、当然

なのだが)概念や宗教を信じやすくなる。

それを避けて自分という概念を突破する

のは強い自我を必要とする。それは自分

ではなくそれが現れているためのエネ

ルギーである。

自分という概念存在を突破すると、その

後は自分を支えていた社会概念が無く

なることを示しているので、とても

精神的に不安定になる。それからが

第二の関門になる。


もどってみる。

その前の第一関門、その前には死を

恐れる状態が続く。人から評価され

なくなったり、劣っているとされたり

することがプライドを非常に傷つける

気がする。

第一関門は自分を失くすことにあるので、

そこでは自分が無価値であることが何の

こともなくなる。つまり、それについて

心が抗わなくなるので無頓着になり、

またその気になった心からは世間の社会

的評価・価値ではない命の意義について

(目を向けるようになる)経験を得る。

これ自体は自分の死への恐れに対して

効果があり、畢竟死は無であることを

受け入れることができる。


心はこの時あると言えるのか、言えない

のか、僕はその人の意識次第だと思う。

最低、自意識は超えないと、そういう

経験はできない。心が思ったよりも

頼りないと感じるのもこの時だろう。

想像力は言葉ではないから、その人の

想像力が現実に即して想像が実際に

行えるのかについては、何とも言え

ない。

ライアル・ワトソンだったか、あの人

はそれについては信用できない。彼の

知識は素晴らしいし、科学と非科学の

境界を探るというテーマはいいが、彼

自身は直接は何もできない。

焼けた炭の上を速足で歩く火渡りでは、

記憶を失くして、ホテルで我を取り

戻して、足に炭のカスがついている

ので火渡りはしたのだろう、と自分

を胡麻化している。それは殺人犯が

ドアの向こうにいるかもしれない、

という現実の場面でも、記憶を失く

して家だか、どこだかに逃げ帰って

いる。自我エネルギーが現実に耐え

られないのは、しかたない。自分で

もそれを認めるかどうかは、別として。

彼の集めた事例はテレビでも紹介さ

れたらしいが、本もそういう事例は

面白いので楽しめる。



体は死を恐れるか。恐れはしないの

だろうが、死を感触すると、すぐ

さま対応して、ハイになったり気絶

したりする。

哲人だが、インドでは聖者と呼ばれる

J・クリシュナムルティは覚醒者で

瞑想を極限?までした人だが、もの

ごとに向き合うので、簡単に気絶する

人だったらしい。体の反応は心では

制御しがたい。

僕は50mのバンジージャンプを7,8

年前にしたことがあるが、飛び出して

からすぐに意識を失った。紐が全部

伸びて、1回くらい弧を描いて揺れ

始めた時に、気が付いた。3,4秒の

気絶だった。下で待ち構える、紐を

外す職員も誰も気絶に気づかなかった。


死を恐れることについて、人は知識

では対抗できない。どんな神秘的な

体験やスピリチュアルもその後に

言葉で概念的に閉じ込めることが

できるが、それは見たものをモルタル

で自分の印象として壁に塗ったような

もので、別なものを表現してしまった

のだ。他の人にはその人の体験があり、

それは別な色や感覚が盛り込まれ、

出てくる事象も違うだろう。

現象の経験、その神秘、幽霊やUFO

などの事象を見たり聞いたりしたのは

確かな事実でも、それは心理的事実

で、見る人によって変化してしまう

事象なのだ。違うのだが、同じテーマ

を見ている。僕らは自分が確かに見た

のだから、絶対だと思い込みやすいが、

それは相対的な経験で、自然はそう

いう働きをするものなのだ。

犯人を見たという目撃証言でも随分

異なる、矛盾した証言が重なるらしい。

思い込みは自分が誤っているのでは

なく、自然な状態なのだ。だから、

裁判のように客観的な証拠が重要に

なる。

僕らは直感に頼り過ぎる傾向がある

のも事態を複雑にしている。

また逆に言えば、事態が複雑になる

のがよくある一般的な事態なので、

異なる意見が噴出して、言論が発達

する余地があった。



死を恐れないということは、考えて

みるとわかるのだが、実際にはそう

いう気持ちにならないとそう「考え

る」ということさえできない。

死を恐れずに自分の心身などの安心

を得るとはどういうことか想像できる

だろうか?

そこから違ってくるのは明確なことだ。

そうなってみないと、理解には及ばない、

だから日常の環境で人が社会から断絶

されずにその気持ちになるのはほぼ

不可能だ。

生活への不安が極端に減ってしまう、

その気分のことだけヒントに言ってお

こう。

不安自体はなくなりはしない、それは

この世のあり方からしてあり得ない。

ただ不安に応じない心はつくれるので、

時に応じて無視してしまえるほどの

不安がいつものように生じるだけで、

それに囚われない。あればあるでいい、

なければないでいい、いろんな条件

を見据えてそうだと思う時、なるよう

になるのが見えるだけだ。その時に

なってみなければ、どれだけのことが

できるか、しなければならないかが、

わからないし、またそれが見える。

あとはそれに従う。自然とはそうした

ものだ。

心が無になったり、闇になったりは

ないが、そうしたものに適応ができる

ようになる。適応しさえすれば、ほぼ

不安は寄せつけない。

中国の荘子があれだけの気宇壮大な

心をもってしても政治に参加せず、

自分は泥の中にいるほうがいい、と

言って山の中に引き籠ってしまった

のも、ただ気楽に気儘に生きたいと

いうのが彼の望みだっただけだ。

参加するもしないも、その人の

望むがままだ、社会を客観化して

見ることで、その人がどう行動す

るかは、まったくその人まかせだ。


悟得というのは、自由な生き様を

体得するので、一見社会に反する、

または対抗するような場面に見え

もするが、ただ世界は人間社会中心

を超えて広がるので、生きるには

生活のカテゴリーが広く伸長して、

その中から自分に合うものを選ぶ

ようになるということだ。

自分の国を離れて海外で暮らすこと

を選ぶのならば、その国の風習・

習慣・制度によって生き方はまた

変わるだろう。

日本人を選ぶなら、きちんと税金を

収めるだろう。 笑



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