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独り言のための独り言 [独言]

ブログがなにかを報告する義務があるのなら、報告する  

何物もないことを報告することで、義務を果たせるといった  

ことを考える人はいないだろう。 義務という堅苦しい務めを  

背負っているようなのが、ブログであるはずもない。  

皆、気楽にやっているのだから、それで十分だ。  

そういう社会の制約を取り払ってみると、ブログは書かれていない  

原稿用紙のように、白い空間画面だ。 文字を適当に打っていく  

だけで何事かが刻まれていくように感じるのも、小さな事業を  

為してゆくかのように、気持ちがいい。  

自分とは、何か。 とも考えない。  

世界は、あるのか。 とも考えない。  

昨年の10月の入院での、病院での騒ぎも、ほんとだ。  

遠い昔のことだ。 と、それは思う。  

こうして決して姿勢も楽ではなく、坐っていると、ここにいる  

のが何事かであるのを、感じる。 取り立てて言うことではないのを  

知りながら、いつもそれを感じることを言っておきたい。  

誰のためでもなく、  

誰に向かってでもなく、  

自分に向かってでさえない。  そう思う。  

そ ・・う  ・・思う。  

信じがたいが、こうして坐って来た長い年月は、こうして  

坐って来たことに、つながっている。 もとよりそれに意味があるわけ  

ではないのは承知だが、 これをなにもないと否定してしまったら  

その時には、胸がさわぐだろう、と予感してしまう。  

それだけのことが、こうして坐っていて、起こったからだ。 この  

ブログ記事の数は、それを自分に照らし合わせてみると、すぐに  

わかる。ここであったから、それを思い出すことができて、それを  

思い出している、・・のではないようだ。  

それは強制されているのではないが、意識してみると、そうされていた  

ような、・・ある感覚が ・・・・ある。  

これからは追及できない。  すぐにわかってしまうのが、(自分でも  

思うのだが)、期待外れだ。  

チェロを演奏するように、こちらがリードして自分の力をセーブして  

曲を開放してやる、といった芸当はできない。  

テニスのガットを張るように、好きな調整もできない。  

弦。  

ガット。  

少し、自分を休憩させてやると、 こんなことしていていいのだろうか、  

と楽しむのに少し、不安げだ。  

文化を、  ・・  

ああ、  文化を  発信せよ。  

― そんな言葉が  聞こえる。  

意味不明だが、  書く時に坐る、ということが  

ただ 機械の前に坐る、という 行為とは”差”を感じる。  

この差が  すべてなのだ。 いつも同じで、芸がないのだが、  

そこになにかがあって、  そのなにかが すべてだ、と  

自分に 教えるのだ。 言葉の説明に正確さは欠ける、承知している。  

でも、そこに当たり前でない、僕らが 言葉にしてこなかった  

それを  悠然と  思うのだ。  

他にどう思えばいいのか?  悠然と 思う 以外に。  

僕らは  悠然。  

僕は  悠然。  

それは茫洋のように  どこだか見当がつかない、 そんな  

ボーヨーではない。  きちんとしている。  

たぶん、音楽に似ている。  その音で、 確かな感動が  

あるにも関わらず、  音を止めれば、  なにもかも  

跡形もなく  消える。  それが わかっている。  

でも、あったのだ。  素晴らしい、  なにかが。  

むなしいのではない、  心に旋律が 残る。  

消えても、  自分には残る。  

そして、  それで  たぶん、   

僕は 坐るのだ。  それが  ・・ 忘れられなくて。  


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