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休むについて思うこと [休日]

< 8月16日まで、ブログ、 休載する予定 >


家の中で木の階段だが、直射日光は当たらない。 

素足で歩くが、その階段が熱くなっている。これはかなり 

ヤバいことになっている。去年、現在のコロナの死者よりも 

多い1200人以上が熱中症で亡くなるのもわかる。一昨年は 

一番多い死者数で1500人が亡くなっている。

高齢者は家の中で熱中症になるのだろう。 

家では僕がコロナの予想をまくしたてるので、妻には 

嫌がられている(笑)。大まかにはすべて当たるが、その 

時期はすべて外している。だから、予想は当てにならない。 

6月下旬といった、日本の場合のコロナ第1波終わりと2波の 

始まりは1か月以上ズレたし、東京400-500人と予想した 

6日前も4日先にズレた。

ところが、コロナウィルスはともかく変異しやすく、14,15日で 

新型に変異するとか(怪)。今、東京で感染が広がっている  

ウィルスは欧州型ではなく、変異したものが流行していて、その 

時期は6月中旬だったという発表がされているが、つまりは  

よくわかっていない、ということだ。わかるのは、多少毒性が  

弱まった代わりに、感染力が増した、ということだろう。  

夏になってもウィルスは収まらないとなった以上、コロナにも  

熱中症にも十分な対策を継続して臨まなければならないだろう。 

熱中症も発見が遅いと嚥下(飲み込む動作)ができなくなる、 

言葉がしっかり発音できなくなる、などする。それが僕の  

まだ熱中症が今ほど有名ではなかったころ、母が起こした  

症状だった。リハビリもむなしく、2年で亡くなった。  76歳 

だった、やはり高齢者は危険な30度を越える夏だ。



ふつうなら、お盆だが、今年は帰省もままならず、僕らの 

行事も変異を余儀なくされている。夜も暑くて、深い睡眠が 

得られず、不快だ。 

僕は帰省するところもなく、その考えもないが、休みだけ  

取ろうと思う。8月の16日までブログを休載にしようと思う。 

と思ってはいるのだが、今までの経験では、まず書いている。 

そして、溜まってしまうのだ。今度は無理にでも書かないようにと  

考えても、自分に関してはあまりにも僕は頼りない。  

それはこちらの都合なので、気にする必要もない。  


できることするのは楽しい。ちょっと前までは、数年前?、できること 

は自分でわかっていると思っていた。しかし、できると思ったことが 

意外にうまくいかない。すべての方向に経験を積んでいるのではない 

ので、自分でわかったつもりになっていて、思ったようにはならない 

のだ。それを学ぶと、知人の障害とも兼ねて考え併せて、結果を 

出して、物事をなすのに、微妙な恐れも抱くことはなくなった。 

今できないことを知ったら、少し後戻りして、それをもっと確実に 

自分のできることを始めればいいのだ。なにかやりながらでも、 

ともかくできなかったことに結びつく方向にある、「自分に(真に) 

できること」を片手間でも、何かと一緒でもいいのだ。小局や戦術、  

技術が得意ならそれをやりながら、大局、戦略、大いなる直感に  

たどり着くように、小さいことを大切にする。自分には無理なんだ、 

と思ったことも、いつかは崩れる時が、自然にわかる。 

百あるなら、一個ずつ潰していけばいいだけの話だ。 

今までやれたのなら、技術でいい、戦術でいい、知だけでいい、 

それをやりながら遠巻きに学んでゆく。 僕は今でも結局 

できるのにできないという、神経的におかしなことに苦しめられる 

よりも、今の歩みがそこをいつか突破するはずだ、というほうに賭ける。 

それはそうだろうかと、検討することじゃない、今、やっているか、 

いないか、だけに収まる。だから、僕は始めて、開始して、もう 

それを考えない。 

障害のある人は99%、50年も100年もかかるかもしれない。 

それに比べて、僕らはどんぐりの背比べとはいえ、まともだ。 

彼らよりも200%、1000%(10倍)、楽だ。それをあきらめるのは、  

贅沢の極みだ。

また、逆に毎日続けていることがあって、それを1日でも止めてしまう 

のは、そこで挫折して続けられないとかで不安を抱くなら、それは 

毎日続けている新鮮な力を失っている。それはもう、すでに不自由な  

ことだ。自分の中に不自由さを囲っている。こだわりになっている。  

見直した方がいいのでは? 生活はリズムだから。酒だって、

休肝日といって、体を休ませるのがいい、と。 心も同じ、よ。



僕はただ、休みが増えるという幻想を抱くだけかもしれないが、 

それは不快ではないので、一応、その予定でよし、としよう。 

僕がこんなにも自分の予定が下手で自信がないのは、たぶん、 

自分を越えてより多くのことを感じやすいからなのだと、・・

それは無意識についての意見になり、長くなるので今は、・・  

ということで。                                                         8 . 8


*自分でできると思っていたことができなかったのを経験するのは、  

誰でもあるだろう。僕も昔と言えるくらいに経験したが、この年に  

なってもやはり、これは絶望的だ、と自分の判断でそれは無理だと 

思った。でも、2週間くらい突きつめてみると、と言ってもその間 

考えたのではなくて、その無理だという判断(自分)に向き合った 

のだ、黙したまま。 

そうしてやっとのことで、それを見つけた。答えは、その判断がやはり 

想定内だということだ。今でも気持ちは「無理だ」と思っている。が、 

突破口を見つける可能性がない、と決定できるほどには不可能という 

ことではない、ことだ。まだあきらめないでいい範疇だ、という。 

たぶん、それを想定外と認めることが必要になる。ここで自分の 

判断に逆らうという芸当が必要になる。これは気持ちも含めて、 

精神的にプライドが関わるので、難しい。まだ実行段階にまでは  

進んでいないが、夏の終わりにはその糸口をつかもうと、思う。 

なんにしても、いつでも自分は正しい判断をする、という誤謬は 

心に忍び込み、棲みついているものだ。ほんのわずかに「違うの 

ではないか」という自分もいるのに気づく。無視してもいいくらいだが、  

時にはそれが正しい少数意見になる。歳を重ねるほど、次第に 

自分のパターンが出来上がり、それが心を固執化してゆく。  

これはこの妖怪に気がつくことをいつも学ぶのが、心身の老化から  

少し遠ざかることなのだろう。 



**僕はよく寝る。夜暑くてクーラーをタイムセットして寝るが、寒くて 

切ってしまう。うつうつとして満足しないのだろう、昼間でも、夕方でも、 

ちょっと考えをしよう、と思ったら、もう寝ている。深夜は寝られなくても、 

2時間は横になっている。 

睡眠というのは夢に入ってなにか自分を満足させる深さにたどり着く 

ことじゃないか、と思う時がある。眠くて昼寝なり、夕寝なりした後は 

食後のように、満足感があるからだ。
                                   8 . 9
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