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このままではなにも進まないこと [日記]

書くことがあるのは素晴らしいと思う。まだやることが

あるからだ、というのは自分的には笑える。嬉しい。 

それは小さな印象が胸に沸き起こるのでわかる。 

さしたる内容もわからないが、それは気にすること

ではないので、(どうでも)いい。

どのみちなにか、あることを書いていないと、表に

出てこない。なるべく自分に気づかれないで、その

方向とは違うことを書いてやると、それは勝手に

方向修正して、出てきてしゃべりはじめる、という

具合だ。音楽を聴いていてもいい。ただし、思考や

感興を邪魔するような、斬新な刺激的な音楽は

お喋りを邪魔して、選曲をくりかえさせたりする。 

そこに誰かいるような感じ、 ・・だが、気づかないで

書きはじめる、ことが始まる。そうなると、止まらない。

気の合う友人と話すようなものだ。ああだ、こうだ、

となぜか話が広がる。どこかへたどり着く必要もない

ので、終わる必要もない。そうして、書きながら、

どこかへたどり着く地点が見つかったりする。

そうして、そこへと指を走らせるのだが、ちょっと

横道へ入ったりしてしまって、また回り道をする

羽目に。それが面白いわけではないが、なん

だかんだと話が伸びるのだ。

そんなことをしている、今も。そろそろ、合言葉を

だそうか。「なにも来ない」、「書くことはないらしい」、

どうだろう、スィッチは入るだろうか。

プライマリーバランスって、なんのことだか。

ゆっくり、焦らずとも、夜は長い。 

ほら、耳の下や、太ももの脇がしんみりと痺れて、

感動の予兆が現れた。まだなにも受け取って

いないのに。気が早い。  

僕らは、・・・・・・・おいおい、続かないよ、見切り

発車かい? 

僕らは、という時、とても大勢になって後続して

いる者たちを想像するのか、一人で発言するの

ではない、僕の声が野太くなるのを感じる。 

それが大勢の意見を代表して言うのだ、という

意味ではないのは感じるだろう、人間として

ということだろう。同じ人間のひとりとして、同じ

大地や記憶や希望とか、似たような背景もある

個の者、これを言う。という背負って、気負った

面もあれば、自分でこれがふつうの意見だ、と

いう正統さ、やってみればという実証さを示し

たいのもあるんだろう。

音楽を、・・アメリカンフォ-クを聴いてしまった。

書くに集中が途切れる。集中というのは、その

あいまいな書く雰囲気に身を浸すだけのことで、

なにも真剣さやムキになることはなにもない。

それでも、意識がはがされると、ふつうに音楽を

聴いてしまう。強い感興が僕を離さない、という

強制がなくなったのは、確かなようだ。

それほど今までは、これが伝えるべきことだ、と

いうのがあったようだ。そういう時、本人はそれに

夢中になれる。なにかをしているという、役目を

果たすとか、使命をまっとうするとか、自分の

仕事をしているという気になれるようだ。 

それは目的があるからだろう。前提として、僕ら

の心に焼き付くというか、染みついたと言うべきか、

伝えることが最小限でも社会的勤めなのだ。

失礼のないように、とか、笑ってもらいたい、とか

感心してもらいたい、とか、そうして自然に人が

納得できる、受けを狙ったとはいえないとしても、

露骨ではなくても、文よりも、または文も、画像も

工夫する。楽しめるように。押しつけるのでもなく、

押しつけて。そこそこでたいてい成功して、そこそこ

面白かったりする。そういうものは社交というもので、

おつき合いの延長になっている。

お互いにそうだとわかっている習慣に従っている。

そういう自分たちに気づいている人と、気がつか

ない人たちがいるのだろうか? 

それは何とも言えないだろう。これは批判でもないし、

ましてや非難でなく、また賛美でもない。 

僕らのルールは僕らが作り、納得するもの、された

ものが一応、継続することになっている。それが

習慣になり、国民の性格になり、それが運命的に

進んでしまう的なことは、数回前に書いた。  

僕らがひとりひとりどんな規範を受け入れているか

は、それぞれの内面のことだろうけれど、それは

今のふらふらな日本の精神構造に沿っている

だろう。明治維新によって、何かを失っている。

産業革命の何かを得るために、戦い続け、そして

負けた。歴史は僕に関係のないものだと思って

いた。それは半分正しかったが、半分、そのまま

では自分に気づかないのと同じように、この日本

の歪つな空気を理解はできない。それには意外

と第一次湾岸戦争以来、時間がかかって、まだそれ

をはっきりさせられない。が、それはできると、そう

いう処には来ている。あとはするか、しないか、で

難しいことはなにもない、のだが ・・・。 


それがひとつのテーマだったか、と。 ・・・・・・

僕は思う、いつも思うのだが、僕は僕になにをさせ

たいのか。自分を社会の運命の軌道に乗せてしまう

ことも含まれているのか、と。それはもう考えなくて

いい条項にしたいのだ。 それにしても、趣味の芸を

したいし、自分に合っていて、かなり天職だとも思って

いるのだが、それをしてこなかった。できることが

わかっているものはしないだろう、というのが性格

だから、それはそれで理解したとしても、やはり、

今の仕事を続けるのはやめない。以前より不利な

状況になったとはいえ、宝探しの連中と一緒なの

だろう。何十年も穴を掘って、宝石の鉱脈に一生

を費やす人たちがいる。彼らは発見すると、一気に

大金持ちになってしまう。街に戻って、ホテル暮らし

で金を湯水のように使う。しかし、続かない。3ヶ月

もすると、贅沢にギャンブルに女に飽き飽きしてくる。

何を思ってか、自分が発見した鉱脈の山に戻る。

昔の仲間がいて、そこでもう捨てられた穴を拡張

して、バーやレストランを、鉱山堀りのためだろう、

開くのだ。彼が数十年も暮らした穴倉。それが

習慣で、性格で、つまりセオリーどおりに運命に

なってしまったわけだ。穴倉が好きになってしまった

のだ。日本でも有名な金持ちが自分のビルで

自分の階の一室をまったく、木造の家屋と言って

いい部屋に改造してしまった。それは昭和の香り

のする、畳と障子の部屋だ。そこにいる時が一番

落ち着く、という。 (モダンビルなのに)

僕らは思い通りに行かない。それも多くは自分で

習慣を改良したり、変えたりしないからだ。今の

規範を受け入れて、その流れの中にいる限り、

その習慣からの発想より新しくは、なれない。

自分が”ほんとうに”なにをしたいのか、知って

いたら、実は戦略書と剣を手にしたようなものだ。

それは、恐らく自分を知ることと、それほど変わり

のないことだろう。

そこからなら、ほぼ僕らは自分の思う方へ行く。

そこからなら、見渡せる世界が違うだろう。

やり直すことじゃなく、いつでもそこから始めること

を考えるだろう。

ほら、自由が近づいてきた。



2021年、2月からいくらでもそのための準備が

できるだろう。でも、新しいもの・ことに進むのには

一歩を踏み出す動機が欲しいと思う。そこまで

来たのなら、自分でそれをつくるのもいい、と思う。

自分の背中を押すには、どういう仕掛けが要る

だろう? 僕もそれを考えてみるよ。簡単に

思いつくのもつまらないので、例えば、山で

お湯を沸かして、珈琲を入れて、それを飲み

ながらにしようか、とか、思うけど、どう?だろう。

僕の場合は自然に囲まれると、何かが変わる

のは当たり前だ、と思える。帰ってから・・・・。

その時は面白くないんだけどね、 ・・・・・・・・。

帰ってから、 ・・・・・・・・・・・・・。    1.27
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