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夏はウスユキ草に会う [夏]

選曲をしながら、だんだん何もかもがわかるような、

そういう幻想な中に入る気分になる。 

なにかでありたい、または なにかになりたい、と。 

それは自分を離れてゆく、遠い、 遠い、 気になる。 

自分を忘れたいのだろう。

どうして今の自分では満足ではないのだろう? 楽しく

ないのだろう? 

特別、なにかの苦しい、悲しい時間ではなくても、その

なんでもない時間に耐えられない。それは無意識に

自分と対面してしまう時間だからか? 

なにか心に気分を盛り立てたい。心動かされるもの、

そうでありたい。 夢を語るものが多すぎる。 

僕らは夢の洪水の中にいる。溺れても、アップアップ

しないし、さらにそれを求めようとする。

そこにはなにがあるのか? もしくはなにがないのか? 

寂しさは、どこから生まれるのか。僕らをなにに誘うのか?  

一人でいたくないのは、なぜなのか? 

この日常的なことが、よくあることがなにも問題ではないか

のように、日々はそれを無視して過ぎ行く。

物もことも、それらを背景にして僕らが要求をのみ込む

ように、立ち上がり、作られ、広まる。 小さなパレードや

お祭りごと、そういう飾りやショウウィンドウが花開くように

多くの製作者が集まり、いろいろと事業を展開させてゆく。 

この一連の大騒ぎをドラマ化するのが仕事であるかの

ように、一大事であるかのように発展させようとする。

そういう一連の作業が僕らの文化であるらしい。 

そういう一連の作業が僕らの目標であり、目的であり、

今や生きがいであり、それこそがなにかであるのだ。

皆がこぞって称賛して、その価値を高める。それで

自分たちがなにかである、と思うから?それで自分は

価値があると思いたいから? 

なにかを協力して作り上げる素晴らしさが、僕らの

なにかであるから?  そこには確かに、なにかがある。 

僕らの精神や心を形にする、なにかがある。でも、

それは幸運な仕事の部類とか、運よく自分に合っていた

ツキとかに分類されると思う人は、すべてがそうではないと

知るほかはない。そこからも寂しさは生まれているのかも

しれない。

そこでは逃避の恰好で夢を見るのだろう。そういう人たちが

少ないのならば、金が稼げる風のプロのスポーツ選手や

映画俳優とか、テレビ局にCMで大金を払う企業もなかった

だろう。 

どれほど夢を見たがり、それを憧れる人がいれば、社会は

こういう風になるのか。バーチャルのキャラクターが死ぬと、

実際に葬儀をしたり、なんらかの舞台が設けられ、そこで

演じたりする。現実に存在しないものに価値を転嫁させる

のは何がそうさせているのか。それは僕らに違いない。

これは僕らがそういうものを創造すること、単に想像する

のではなく、そうしてきたことを望んで、長く長く、くり返して

いるのではないか、と考えてしまう。

僕らは心に誓うと、ほんとうにそうすると、それを創る能力

がある。インドの聖者のひとりは、ただの人だったが、古く

からの伝統の女神に会いたがった。何年も希求して、もう

これまでと、あなたが私の前に現れなければ死ぬ、と

決心した。そして、息も絶え絶えになり、気絶してゆく、

その中で女神は現れ、彼はそれを信じ、教えを説くように

なり、聖者になった。僕はインドでその聖者に縁のある

ホテルにしばし、泊まることになった。 

人が思いつめると、どうしてその現象がその人にとって

はまるで現実のように心に結晶化するのか。人は

死ぬ前にどうも自分を助けるように思えてならない。

(精神の死についてであるが)インドではそうして

生まれた神が多いように思える。その人が神という

バーチャルを固定化する。それが強いと、他の人にも

それが見えたりする。それほど、人の一念は強い。 

その人にとって、その神は真実になるだろう。

初めはバーチャルだったかもしれないし、誰もの神には

ならないが、その人にとってそれが中心を占めてしまう。 

聖者もなにかが貧しくて、そこに希求するしか自分を

救うことができないと思ったのだろう。それはその人の

人生なので、誰かが無理強いに否定することじゃない。 

でも、僕はその道を取らなかった。 

そう言えば、なぜだろう?それは僕には当然のことに

思われて、疑問には感じなかったからだ。寂しさから

神を創ることで、心を平安にしなければいけなかった

人はいるだろうけれど、僕はそうしたくなかった。

僕は人間として人間でありたかった、たぶん。神という

イメージは人間が作り上げたものだから、決まっている。

僕らを愛し、僕らを守り、僕らを平安に導いてくれる

ありがたい存在として、皆イメージしている。  

だから、だ。僕は自分に守られ、自分を壊したら死ぬと

思っていた。ある意味、それは正しい。それにはエネルギー

と柔軟な駆け引きが必要で、かたくなな心ではなく、また

肝心の処で踏ん張りきる力が内在していなければならない。

でも、そうではなく、自己を突破する者は無意識にでも

そうして来た、過去には多くの者が。

僕の場合は悲惨なほうだったのだろう。半世紀も死と

隣り合わせで生きなければならなかった。それは非常な

緊張とむなしさとを伴った。それに釣り合うエネルギーが

求められ、精神的にはタイトロープの上だった。 

だから、僕は一般的な神の概念を推奨しない。安心を

求めるのは安易さを容認してしまうことだと、思ったから。 

でも、今からはそれを解除しようと思う。そういうものが

あろうがなかろうが、僕らが人間であることには変わりない。 

蟻は蟻だ。僕らは人間以上にはなれないし、その必要が

ない。と、今は言えるからだ。

僕の前に、これだ、と言えるようなものはなにもない。 

それはそうだ、というものではなくて、僕がそうしたのだ。 

世界が理解できたら、それをすべて捨てる、それしかない

と感じたから、そうする。それだけの話なのだが、あまりに

単純なことで、理解しがたいかもしれない。 

こうしゃべることが、いかに気持ちいいものか。それは

プライドじゃない、素直さのことだ。ほんとに思っていること

を、これがそう、と言えるのは素晴らしい。なにかそれを

小難しく証明するように言ったり、言葉を工夫しなくていい。 

ただただ、それだけを言う、それだけだ。 

ひとつひとつ取り上げて、これがすべての証明だみたいな

話や論調はいらない。今まで散々言ってきた、言うことは

なにもない、というのがほんとうになってしまった。そんな

感がある。あるよ、ほんとに。 



清明さ、という  

山脈が  連なる、  

荘子は  そういう時に  巨大な 

鳳凰になり   天地を  抱きかかえた、 のだろう  

羨ましい  

まことに    まことに   

稀有壮大*、  という  

人が  世界になる、   そういうもの  

僕は  街と コラボして  

夏には  薄雪草と   会って  

電車では  駅弁を食べ、  

また  

縄文や  アイヌの人に 

逢いに  行きたい  





*
正確には、「気宇壮大」らしい。が、この書き方が

広まっている。定着することもある。
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コメント 2

kiyokiyo

ようしゅうさん
おはようございます!
なるほど、奥が深いですね^^
思っていることを素直に表現する、簡単なことをわざわざ難しくすることはないですよね。
そして、それが出来るということは素晴らしいことだと思います。
by kiyokiyo (2021-05-22 08:36) 

ようしゅう

kiyokiyoさんへ

コメント、ありがとうございます。
夏になってきました。好きな夏は昔の平均、28℃まで
ですね。
あとはクーラーに頼らないと、なにもできません。
今年の夏は30℃までを期待します。
by ようしゅう (2021-05-23 17:21) 

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