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キラキラ星よ、新しい自分を見直して [自分]

情熱に見舞われるのは、楽しい。きついが、 

それ以上に意欲が高まる。その感触が  

たまらない。激しいリズムに体が自然に踊り  

出して動き出すように、熱いのだ。  

ゴッホでゴーギャンとの関係や影響について

書こうとして、ゴーギャンにのめり込んだが、  

ますます資料が読みたくなって、失敗した。 

今書くのには間に合わない。  

ともかく、落ち着かない。坐れば安心して  

まかせた、という気になっていたが、そうでは  

ない力を感じる。その正体もわからないが、  

高速道路で自分の車がスピンしていても、  

わからないだろうという気分。  もしくは、  

自分の新しい力を何に使っていいのか  

わからない、という感じ。

ジョンレノン(ビートルズ)の’ニューヨークシティ’を 

聴いているのが、気分がいいのだから、変われば  

変わったものだ。  

アメリカもイギリスもフランスも、第2次大戦以降に  

とんでもない化け物(信頼も裏切りもこなす精神、  

ジェンダーも猟奇殺人も日常に見出す精神雰囲気、  

正義に嘘も偽善・欺瞞も混ぜてしまう社会)を生み  

出したものだ。それはそういう空気なのだが、具体 

に人間が行動せざるを得ないから、人と人との信頼  

に立脚しないドラマが次々に生み出されている。  

それを現実のどろどろというのは簡単だが、逃げ  

の姿勢ではないか、と思う。かと言って、たちどころ  

に立ち向かえと言っても、あまり意味はないだろう。  

ジョンレノンもこの後疲れてしまったらしく、回顧 

趣味のアルバムを出した。そして、なんと  

音楽活動をドロップアウトしてしまう。5年だか、  

6年だかを息子の成長を生活にする。そして、  

一段落ついたのかまたアルバムの音楽活動を 

再開してから、暗殺されてしまう。アメリカの  

空気は臆病さがある。気の小ささがあって、  

権力中枢も多勢なのでその空気に染まって  

いる者が、どうもレノンの平和思想を、市民 

へのその多大な影響を嫌ったらしい。

動機はケネディ暗殺の時と同じように、ソ連  

との核戦争一歩手前まで進んでしまった  

ケネディの気概に相当な危険を感じたらしい。 

それがアメリカを救ったとは見えなかったのだ。  

それとは別かもしれないが、当時CIAは暗殺を  

何とも思っていなかった。  

ジェームスボンドの殺しの許可証で世間は  

驚いたが、著者は実際に現役スパイもこなし、  

大戦中は組織の監督職にもなったらしいから、  

理想の、女に強いなんでもこなせるスーパー  

スパイを創造したのだろう。彼自身が憧れたと  

思って構わないだろう。殺しは組織では常套手段  

だったのだ。許可証というのは対市民の不快を  

予想して、逆手に取ったパロディのようなものだ。  

これは戦争や政治の大局からの見方を通して  

書いていることで、市民からの小局からの人情  

や日常の信頼を無視したものではない。多くの  

者がそれを取り違えるが、 ・・・・。  

その中間になる、病気や貧困になると、また扱い  

が面倒になる。組織(政府と自治体)と個人の  

習慣、法律と生活習慣、医学と経営利益(病院・  

医院)、という双方ともが互いに十分に関わって  

いる事柄だからだ。  

それでも独自に正しい判断と察せられるものに  

たどり着く、または直感することはできる。  

しかし、僕は時間をかけ過ぎたようだ。デカルト  

の17世紀は印刷術はあったが、アリストテレスの  

全学問を底流にしたスコラ哲学は、デカルトに  

してみれば、それが一本見えれば、大局も見えた  

のだろう。だから、個々の説・学の細流である  

諸説に惑わされず、すべての本は読まれた、と  

感じたのだろう。それから20年も世間に入って  

いったことはすでに書いた。  

スコラ哲学という他人(アリストテレス)がいなく  

なればそこは見渡す限り、学問の広野だったろう。  

どこから手を着ければ、と考えた。そこでまず  

自分の考え方を反省することから始めたようだ

(方法序説)。  

デカルトは幾何学一本だった数学に代数という  

革命をもたらし、哲学から科学(当時はそう呼べ  

なかった)を切り離した張本人だ。x, y, z の  

未知数、a, b, c の定数はデカルトの発案で、  

現代まで400年そのまま使われている。  

彼には召使が一人ついていて、彼の死まで側に  

いたが、その召使が後に、数学者になったという  

から驚く。暇な時に一緒に数学を教え、解いたり  

していたのだろう。  


僕が気がついたことがどれほどの未知数で  

あったかは、その当初は気がつかなかったが、  

今は少しわかる。  

僕らは世界の人口が76億だったら、76億分 

の1で独自の新しさを備えているということだ。  

哲学も宗教を見ても、かいつまんで読んでも  

似たようなことが書いてあるのは当然で、皆が  

(所謂偉人とか、天才とか、どちらにしても 

おかしな人びとではあった)過去を頼りにそこ  

からいろいろな疑問点を研究し、考え、発展  

させたり、したが、それは先人からの疑問を  

引き継いだが、そこからは縁を切るように独自  

の論を発展させた者だけが、新しい地平を  

開いている。  

先人に追随する必要はない。ただ、どこまで  

どのように展開させたか、ある程度見切る  

必要はあるから、初めは多くの本を読む  

だろう。そこからは飛躍が待っているが、それ

は精神の死を中心に運命的に待ち構えている。

飛躍しても、自分の力量で選択しなければ  

ならないから、理解はそこまででそれ以上は、  

(概念ではないので)やはり後からやってくる。  

それはデカルトのように眼の前の世間を  

眺めてパズルを解いて、ピースを並べて  

その部分部分だけでは見えなかったものが  

眼の前で昇華して、いつかその全体で答えを  

見出すことだろう。  

それは自然に独自の見解になる。そこから  

それをどうすれば、どういう方向に舵を切れ  

るかの現実問題になる。という処で、それが  

あなたの人生になる。それが例え100億分の  

1でも新しいことを見つけてしまう。平家物語  

にもあるように、祇園精舎の鐘の声、という  

森羅万象この世のすべてはすべてが変わりゆく  

(無常)そのことである。1秒に脳神経が5万回  

スィッチをくり返すとして、それが変化なら、  

100億回はたったの200秒ですべてが変化  

してしまう全可能性を備える。僕らも少しずつ  

大人に成長するなら、3分20秒(200秒)ごとに  

新しいことに出会っている可能性が大だ。そして、  

僕らはそんなに早く認識したものをまとめたり、 

経験したり、気づいたりできない。なので、その  

周囲の未知として見過ごされたものは、膨大に  

増え続けることになる。ああ、気づけよ、って  

言いたくなるくらい、僕らは3,4分で一つ見過ごす。  

つまり、僕らが新しくなるのは当然の結果であって  

どうしてそうなっていないか、それが肝心のこと  

なのじゃね?とか。  

それにしても、そう選択肢をみてみると、僕らには  

あまりにも多くの選択肢があって、そこがネックに  

なっていて、いつも決め切れない、と思っている。  

それはそうだろう。これだけ規則にうろつかれて、  

時に文句でも言われていれば、不自由ばかりを  

感じて、ストレス解消ばかりに神経が行ってしまい、  

肝心のことを忘れる。そこに取りついている暇は  

ないだろう。そして、その膨大なルールのほんの  

一部という学校卒業や社会での資格を取るために、  

更に古さに染まって、何年という時間を消費して  

新しい自分を採り損ない、100億、1000億分、  

・・・・・分の1を生かせない。なにかを突きつめるに  

しても、なにをやっても終わりはない、というのに。

この世であてになるものは何もない、というのは 

この世が頼りになる(人生を測る意味でのことで・

大局。警察や消防が頼りにならないというのでは 

ない、それは小局)ものがないのだから、自分が  

あなたとして見定める必要があるということになる。  

新しければ、それが独自になる、と自分でも  

発言や表現してそれなりに気づくだろう。それは  

社会常識が崩れて見えなければ、見えてくるもの  

ではない。あなたの前で、社会は安泰であれば、 

それは心に必要であるが、別の見方で崩れる  

のでなければ、空ばかり眺めて歩くような、 

足元を忘れる危険でもある。   

なんか、また以前の説教調になって来たので、  

やめ、ここまで。

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